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第一章 社畜と女子高生と湾岸タワマンルームシェア

1.社畜とうずくまる女子高生

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 東京・豊洲。

 開発され尽くした大都会東京で、都心に近くそこそこ土地が余っているという理由でタワーマンションが林立する新興ベッドタウン。

 豊洲市場や東京オリンピックなどで勢いづき、新築タワーマンションの価格はいまや一億円近いという。

 年収三百万円台の俺には、関係のない話だ。

 とある大手電機メーカー勤めの俺は、毎日この豊洲に通っている。

 理由は単純、会社のオフィスが豊洲にあるからだ。

 残念ながら、豊洲にある俺の会社で働く社員たちには、上司も含めて豊洲にタワーマンションを買えるような収入はない。多くは満員電車に乗り、豊洲まで通勤している。

 得意先が都心に集中している以上、ほどよく近い豊洲にオフィスを置くのは仕方ないことだ。会社だって、俺たちに劣等感を覚えさせるため豊洲を選んだ訳じゃない。

 だが朝夕の通勤時に豊洲の少しおしゃれな、明らかに自分たちとは違う人々とすれ違うと、ああ、自分はどれだけ頑張ってもこの人たちと同じ世界にはいられないんだな、という気持ちを少なからず覚える。

 こんな気持ちになるのは、会社では俺だけらしい。

 他の社員はみんな、別世界の住人だと割り切っていて、豊洲の街の話題など一つも出ない。今日もタワーマンションの建設工事がうるさいね、と愚痴るくらいだ。

 そんな豊洲の街に、一つだけ心を落ち着けられる場所がある。

 会社のビルの近く、路地裏にある小さな公園。正式名称は知らない。

 俺は『うんこ公園』と呼んでいる。

 何故って、公園のど真ん中に巨大なうんこが鎮座しているのだ。

 もちろん、それは本物のうんこではない。巻き糞の形をした、子供が登って遊ぶためのオブジェだ。本当は巻き貝なのだろうが、表面の塗装が色あせてセメント色になっており、どう見てもうんこにしか見えない。

 夜遅くまで仕事して、どうしても電車で帰る体力がない時、俺はここに寄ってしばらく一人になる。会社から近いのに、駅までの道から外れているというだけで誰もこの公園の存在を知らない。だから会社の人に会うことがない。『うんこ公園』にいると、社畜たちが一生見つけることのないエアポケットを一人で占領できたような気がして、どこか心が落ち着く。

 そこで常磐理瀬という女子高生と出会ったのは、二月の寒い夜のことだった。

 仕事で様々なトラブルに見舞われ、定時退社日だというのに残業していたという理由で上司に怒られ、いつもどおり社畜の理不尽さを味わったその日、俺は缶コーヒーを買って『うんこ公園』に向かった。

 定位置のベンチに座ると、うんこのオブジェに誰かが座っていた。

 女子高生だった。

 若い女の子で、上はコートを着てわからないが、スカートが制服っぽいチェックの柄だから女子高生にちがいない。

 昼間は子供たちが遊び、夜は誰もいないと決まっているこの『うんこ公園』で女子高生を見たのは初めてのことだった。

 まずい。二十代後半の社畜からすれば、女子高生なんて目が合っただけで事案が発生しかねない危険な存在だ。

 缶コーヒーを飲んだらさっさと帰ろう。

 そう思って一気に缶を傾けたら、ずしゃっ、と砂のこすれる鈍い音がした。

 女子高生がうんこのオブジェから滑り落ちたのだ。

 流石に無視できず、立ち上がって服についた砂をはらう女子高生の姿を観察していると、目が合ってしまった。

 この状況、逃げたらむしろ不審者扱いされる。

 俺は立ち上がり、女子高生のところへ向かった。大丈夫、営業職として鍛えた明るい顔と物腰の低さを発揮すれば、最悪、不審者扱いされることはない。


「大丈夫ですか?」

「……大丈夫、ですけど」


 近づいてみると、女子高生はなかなかの美人で、大人っぽい雰囲気のある子だった。

 とはいえ肌のはりや、髪のつやは俺たちアラサーがすでに失った美しいもので、女子高生なのは間違いない。

 俺の存在に怯えてはいない。しかし顔色が悪い。オブジェからずり落ちたのも、調子が悪かったからかもしれない。そう思うと、少し心配になってくる。


「ちょっと顔色が悪いようですけど……家は近くですか?無理しないで、親御さんに迎えに来てもらったほうがいいよ」


 俺が中学生だった頃、授業中に熱が出て早退することになったが、親に迎えに来てもらうのが気恥ずかしくて自転車で帰った結果、風邪がめちゃくちゃ悪化したのを思い出した。十代って、なんとなく親に頼るのが恥ずかしいんだよな。俺だけかもしれんが。

 人生経験が十年違うだけで説教臭くなれる。どう考えても今の俺はただのおっさん。年月とは残酷なものだ。


「家は近くですけど、一人暮らしなので親はいません」


 女子高生の答えは、俺の予想の斜め上を行っていた。

 一人暮らし?豊洲で?

 女子高生が一人暮らしというのは、進学先が遠いという理由であり得るかもしれない。でも豊洲のほとんどは家族向けのタワーマンション。一人暮らしできる物件なんか皆無だ。

 しかし女子高生の家庭環境など、俺からすれば触れられない聖域。その事実を受け入れ、すぐに話題を変える。


「それは大変だな。歩いて帰れそう?どうしても無理なら、タクシーとか呼んだほうがいいよ。お金は俺が払ってあげるから」

「歩けなくはないです。調子が悪い理由もわかっているから、心配しないでください。私、膵臓が悪いんです」


 君の膵臓をたべたい。

 なんて小説が流行ったよね。まさかこんな近くで膵臓に病気のある女の子と出会うとは思わなかった。もっとも、この女子高生と俺の間に恋愛感情は発生しそうにないが……


「膵臓が?薬とかで治る病気じゃないの?」

「膵炎って、基本的に根治する手段がないんですよ。自分で自分の膵臓を溶かしてしまう病気で、原因がよくわかっていないから」

「一時的に痛みを和らげる薬とかは?」

「……あるのかもしれないけど、わかりません」


 女子高生があからさまに目をそむける。


「病院、行ってないんだな?そんなに調子悪いのに」

「行っても無駄でしょう。治しようのない病気だから」

「いや、病院行かないと本当に膵炎かどうかわからないぞ。どこか痛むの?」

「お腹の上のほうの、みぞおちのあたりがよく痛むんです。ネットで調べたら、慢性膵炎だって」


 で、出た~、ネット知識だけで自分の身体を診断しちゃうヤツ。

 どんなに症状がはっきりしていても、病名を診断できるのは医師だけであり、診断書をもらってから初めて、その病気が確立する。

 ネットで自己診断ダメ、ゼッタイ。


「それ、膵炎じゃなくてただの胃潰瘍じゃない?」

「いかいよう?」


 思ってもみない、という女子高生の意外な表情。

 ネット知識って、最初に行き着いた結論を信じがちなんだよね。実際には(とくに病気なんてものは)、膨大な知識量がなければ判断できないことばかりだが。


「聞いたことあるだろ。主にストレスが原因で、胃酸を出しすぎて胃に穴があく病気。胃袋には神経がないから、穴ができたところによって痛む部位は違う。みぞおちや背中が痛んでもおかしくない病気だ」


 かつて激務のストレスで胃潰瘍となり、みぞおちが痛んだ俺が言うのだから間違いない。


「そう、なの……?」

「ああ。胃潰瘍だったら薬飲めば治る。よほどひどい場合は手術になるけど。胃カメラ飲んでみたら胃潰瘍なのか膵炎なのかはっきりするよ」

「胃カメラ……?」


 女子高生の顔が青ざめている。病院が怖いらしい。

 気持ちはわかる。胃カメラなんて中年のおっさんがやらされることだ。検査時の苦痛はともかく、胃カメラで休みますなんてクラスメイトに言いたくないだろう。

 そんな女子高生の気持ちを汲んで、俺は財布から一枚の診察券を取り出した。


「これ、俺が胃潰瘍になった時通ってた病院。そこの先生適当だから、若い患者だと胃カメラ検査なんかしないで胃潰瘍の薬出してくれるよ。一回ここ行ってみな?ずっと痛いままじゃ辛いだろ?」


 診察券を見せて説明してやると、女子高生の表情が絶望から希望へと変わっていった。

 自分の診察券を渡すわけにはいかないのでメモ帳に病院名を書いていたら、「写真撮ってもいいですか」と女子高生に言われた。さすが現代っ子。いや、俺が高校生の頃にもガラケーはあったけど。何でも写真で記録するような文化はなかったんだよな。


「宮本、剛さん」


 女子高生が俺の名前を呼ぶ。診察券に書いていたものが写ったらしい。


「ああ、俺は宮本剛。近くの会社に勤めるただのサラリーマンだよ。さ、今日はもう遅いから帰ったほうがいいよ。病院に行くのがどうしても怖かったら、俺がついていってあげるから。そこにある電話番号に電話してきな」


 事案を発生させたくはない。だが一人暮らしで病院の選び方もわからない女子高生を放っておきたくはなかった。俺が見捨てたせいで死んだ、なんてことになったら後悔する。

 しかし俺から女子高生に連絡先を聞いたらアウトなので、わずかな接点を残したまま話を打ち切り、俺は去ろうとする。


「私は、常磐理瀬、です」


 別れ際、女子高生はしっかりした声で名前を俺に伝えた。

 俺自身が歳をとり、断絶された世界の住人だと思っていた女子高生が、少しだけ俺に心を許してくれた。

 辛いことばかりの社畜生活で、久々に嬉しい出来事だった。
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