10 / 129
第一章 社畜と女子高生と湾岸タワマンルームシェア
10.後輩社員とはぐらかし
しおりを挟む俺も上京するまで知らなかったのだが、千葉県は意外に広い。松戸・柏エリアや船橋・津田沼エリアは東京の一部と化しているが、千葉市から向こうはどちらかというと地方都市だ。
俺が篠田彩香を連れて向かったのは、千葉市の端っこの緑区にあるホキ美術館。
ここは閑静な住宅街で、都内のゴミゴミした雰囲気とは無縁。緑区土気町は道路と住宅が計画的に整備されており、こういう静かなところでゆっくりと住みたくなる。豊洲のタワーマンションとは対照的な存在だ。
「あの、私、美術館とか行ったことないんですけど」
都内の騒々しい雰囲気とかけ離れた街に近づくにつれ、助手席の篠田は慌て始めている。
「女子って美術館とか好きじゃないの?」
「だって絵とか見てもわかりませんもん。映画とかカラオケとかばっかりです。いま女子力低いって思いましたね?」
「いや別に。それが普通だろ。俺だって絵のことはわからない。でも今日行くところの展示は素人が見ても面白いよ」
予想以上におしゃれで格式高いデートコースを提示された篠田は最後まで戸惑っていたが、ホキ美術館の展示を見るとすぐにその美しさに惹かれていった。
ホキ美術館は、日本でも珍しい現代写実主義の絵画を専門とする美術館だ。
ルネサンス期から始まった古典的な絵画を理解するには、バックグラウンドとなる知識が相当必要になるが、ホキ美術館の展示はそういうものがなくても単純に『美しい』と感じられるものばかり。
この日は人物画の企画展示だった。どれも写真かと思うくらいのリアルな造形。いや、写真よりもリアルさというか、絵画から人間の温かみが漏れ出しているような感じがある。
「ほえー……」
篠田は俺なんかそっちのけで絵画に見入っていた。このときは俺も、篠田といることを若干忘れて作品鑑賞に集中した。
「すごいですね。絵って古いのがいいんだと思ってましたけど、今でもこんなに綺麗な絵を書く人がいるんですね」
「そうだな。人物画っていうと『モナ・リザ』みたいなのを想像してしまうけど、現代の日本人が油彩画でこんな風に美しく描かれているのを見ると、芸術っていうのは生きているものなんだって実感するよ」
「なんかすごくくさいセリフですけど、同意しちゃいますね……あっ」
二人で歩きながら鑑賞していると、篠田がある作品の前で足を止めた。
裸婦画だった。日本人の若い女性がモデルで、どこも隠していない。
ここの客はみんな達観していて(なにせ千葉の片田舎までわざわざ見に来ているのだ)、
裸婦画でも顔色一つ変えずじっくり鑑賞しているのだが、美術館初心者の篠田には刺激があったらしい。篠田は裸婦画を直視できていなかった。
「み、宮本さん、いま私の身体のこと想像しましたよね?」
篠田と裸婦画を交互に見たためか、篠田が顔を真っ赤にして言う。
俺にそういう気持ちはなかったのだが、綺麗な裸婦画と篠田を一緒に見ているとつい重ね合わせてしまう。
「いや、すまん、つい男の性で一瞬想像してしまった」
「……こんなにスタイルよくないですよ」
実物の女の子を嫉妬させるほどの美しさ。現代美術恐るべし。
一瞬ムスッとした篠田だが、足を進めるにつれ慣れてきたようで、音声ガイド付きの展示を全部聞くまで進まないほど熱中していた。
全ての展示を見終え、俺と篠田の二人はホキ美術館名物のやたら遅いエレベーターで出口まで上がる。
「どうだった?」
「すごくよかったです。私バカなのでうまく言葉にできませんけど、絵を見てこんなにいい気分になったのは初めてです」
「それはよかった。いい時間だし、ここでランチにするか」
「えっ、ここでですか?」
「実はもう予約してある。俺のおごりだから心配するな」
「えっ?えええええっ?宮本さんのおごり?」
「普段はあんまりおごれてないし、今日くらいはいいよ」
俺は後輩と女の子にはなるべく奢るようにしている。奢られて嫌なヤツはいないし、その時の恩で俺のことを優しいヤツだと錯覚してくれれば、数千円の出費など安いものだからだ。
だが篠田には出会って最初の数回以外、昼飯を奢っていない。いつも一緒に外回りをするから毎回奢っていると財布が持たないのだ。悲しいかな、同じ会社の人間だとお互いの給料がなんとなくわかるので、むしろ篠田が俺に気を使って奢らせなくしている感じすらある。
そんな訳で、俺は美術館併設のレストランのランチを予約していた。
「こ、これコース料理ですよね……お高いんじゃ……」
「気にするな。ってか、そんなにビクビクしないでいいよ」
「千円以上の食事は高級品だって親に教えられたので……牛丼屋とかでもよかったんですけど」
「二十年くらい前はそうだったけど、今は物価も上がってるし千円超える外食なんて珍しくないと思うが……」
最近の外食高いよね。特に都内の。
ラーメンとか好きなようにトッピングしたら普通に千円超えるし。
「篠田って、意外と安上がりな女なんだな」
「清貧と言ってください!節約は庶民の務めです!ぜいたくは敵だ!」
「まあ俺もめったにこんな高い食事しないし、浪費しないという点ではいい嫁さんになりそうだよな」
「そ、そう、ですか……?」
ちょっと褒めると、照れて無言になる篠田。実にわかりやすいヤツだ。
結局、篠田は最後までおどおどしていて、見ているこちらが可愛そうになるくらいだった。でもコース料理は残さず食べていた。
低年収社畜の俺としては、高い店でふんぞり返られるよりずっとマシなのだが。そういえば篠田、出先の昼食はコンビニのサラダだけみたいな日もあるし、たまにはいいもの食わせてやらないとな……
レストランを出ると、午後二時を過ぎていた。俺と篠田は愛車マークXに乗り、ホキ美術館を出る。
「明日は仕事だし、今日はこれで帰るか」
「……はい」
あとは帰るだけだというのに、なぜか篠田は緊張した顔をしている。
「都内まで車で行くのきついから、悪いけど蘇我駅まででいいか?」
「はい……えっ?」
「ん?やっぱ寮まで送った方がいいか?」
「あれ、えっと、その」
「どうした?俺に遠慮なんかするなよ」
「私、このあと先輩の家にお持ち帰りされちゃうんじゃないんですか……?」
「ぶっ」
何を心配していたのかと思ったら、そういうことか。
俺は思わず吹き出してしまった。
「わ、笑わないでくださいよ!」
「それ、他の女の子に言われたの?お持ち帰りされるかもしれないって」
「初めてだしないと思うけど、宮本さんクズいからあるかもしれないって、レイカちゃんが下着まで選んでくれたんですよ!」
「レイカちゃんの俺の評価どうなってるんだよ……今日はそんなことする気ないから安心しな」
「わ、私の身体には興味ないってことですか?」
「身体がどんなに綺麗でも、俺は初めて遊びに行く女の子を家に連れ込んだりしないよ。節操なく手を出す男だと思われても困るからなあ」
「そう、ですか……私、男の人と、その、で、デートしたことなかったので、どうすればいいか全然わからなくて」
「彼氏とかいなかったの?篠田ならそこそこモテそうだけど」
「片思いしかしたことないんです」
その言葉だけ、俺の目をまっすぐ見て言われ、少しはっとしてしまう。
四年近く一緒に仕事をしてるただの同僚とはいえ、久しぶりのデートは俺にとっても楽しいことだったが。
俺は、篠田と付き合うつもりは、今のところないのだ。
「いつか想いが実るといいな」
「なんですかそれ……」
これ以降、車中は微妙な空気になり、別れ際に「今日はありがとうございました」と言われた以外、俺と篠田は一言も話さなかった。
* * *
篠田彩香は、俺のことが好きなのだと思う。
たまたま俺が先輩として篠田の業務ペアに選ばれ、成り行きで仕事以外にもいろいろな話をしているうちに、いつの間にかそうなっていた。俺としては篠田と付き合いたいだなんて全く思わず、ただの可愛い後輩のつもりだったのだが。
俺だけでなく、会社の同僚や上司もそれを認めている。飲み会の場で俺と篠田が二人きりになるよう仕向けられた(偶然を装っていたが、やられる方はわざとだとわかる)こともある。
篠田はいい女だと思う。俺の前だと慌ててポンコツになることもあるが、仕事はよくするし、愚痴や弱音をあまり吐かない。おまけに貧乏性で財布にも優しい。
俺と篠田がもし結婚すれば、理想的な共働き社畜カップルの誕生だ。いま年収が低いとはいえ、将来の昇給を見込めば絶望的なライフプランではない。
俺は二十八、篠田は二十七。結婚適齢期であり、周りで早い友達たちが結婚しだして焦り始める年頃だ。
でも俺は、篠田と付き合おうとは思わない。
俺は――
俺のことを好きな女が、どうしても苦手なのだ。
11
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
プール終わり、自分のバッグにクラスメイトのパンツが入っていたらどうする?
九拾七
青春
プールの授業が午前中のときは水着を着こんでいく。
で、パンツを持っていくのを忘れる。
というのはよくある笑い話。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
隣に住んでいる後輩の『彼女』面がガチすぎて、オレの知ってるラブコメとはかなり違う気がする
夕姫
青春
【『白石夏帆』こいつには何を言っても無駄なようだ……】
主人公の神原秋人は、高校二年生。特別なことなど何もない、静かな一人暮らしを愛する少年だった。東京の私立高校に通い、誰とも深く関わらずただ平凡に過ごす日々。
そんな彼の日常は、ある春の日、突如現れた隣人によって塗り替えられる。後輩の白石夏帆。そしてとんでもないことを言い出したのだ。
「え?私たち、付き合ってますよね?」
なぜ?どうして?全く身に覚えのない主張に秋人は混乱し激しく否定する。だが、夏帆はまるで聞いていないかのように、秋人に猛烈に迫ってくる。何を言っても、どんな態度をとっても、その鋼のような意思は揺るがない。
「付き合っている」という謎の確信を持つ夏帆と、彼女に振り回されながらも憎めない(?)と思ってしまう秋人。これは、一人の後輩による一方的な「好き」が、平凡な先輩の日常を侵略する、予測不能な押しかけラブコメディ。
かつて僕を振った幼馴染に、お月見をしながら「月が綺麗ですね」と言われた件。それって告白?
久野真一
青春
2021年5月26日。「スーパームーン」と呼ばれる、満月としては1年で最も地球に近づく日。
同時に皆既月食が重なった稀有な日でもある。
社会人一年目の僕、荒木遊真(あらきゆうま)は、
実家のマンションの屋上で物思いにふけっていた。
それもそのはず。かつて、僕を振った、一生の親友を、お月見に誘ってみたのだ。
「せっかくの夜だし、マンションの屋上で、思い出話でもしない?」って。
僕を振った一生の親友の名前は、矢崎久遠(やざきくおん)。
亡くなった彼女のお母さんが、つけた大切な名前。
あの時の告白は応えてもらえなかったけど、今なら、あるいは。
そんな思いを抱えつつ、久遠と共に、かつての僕らについて語りあうことに。
そして、皆既月食の中で、僕は彼女から言われた。「月が綺麗だね」と。
夏目漱石が、I love youの和訳として「月が綺麗ですね」と言ったという逸話は有名だ。
とにかく、月が見えないその中で彼女は僕にそう言ったのだった。
これは、家族愛が強すぎて、恋愛を諦めざるを得なかった、「一生の親友」な久遠。
そして、彼女と一緒に生きてきた僕の一夜の物語。
キャバ嬢(ハイスペック)との同棲が、僕の高校生活を色々と変えていく。
たかなしポン太
青春
僕のアパートの前で、巨乳美人のお姉さんが倒れていた。
助けたそのお姉さんは一流大卒だが内定取り消しとなり、就職浪人中のキャバ嬢だった。
でもまさかそのお姉さんと、同棲することになるとは…。
「今日のパンツってどんなんだっけ? ああ、これか。」
「ちょっと、確認しなくていいですから!」
「これ、可愛いでしょ? 色違いでピンクもあるんだけどね。綿なんだけど生地がサラサラで、この上の部分のリボンが」
「もういいです! いいですから、パンツの説明は!」
天然高学歴キャバ嬢と、心優しいDT高校生。
異色の2人が繰り広げる、水色パンツから始まる日常系ラブコメディー!
※小説家になろうとカクヨムにも同時掲載中です。
※本作品はフィクションであり、実在の人物や団体、製品とは一切関係ありません。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる