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第二章 社畜と新しい彼女と親子仲のかたち
9.社畜と後見人
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エレンから理瀬の過去を聞いた後、俺はタワーマンションで理瀬の様子をよく観察した。
しかし、エレンが心配していたような変化は、俺にはわからなかった。
最近の理瀬はほとんど篠田と話していて、その様子は元気そうだ。俺と比べておしゃべりな篠田に気を使い、わざと合わせているのかとも思ったが、同年代のエレン相手でも容赦なく無視する理瀬がわざわざ篠田に気を使うとは思えない。
篠田がいない時、俺は理瀬と二人、リビングで話してみた。
「なあ、理瀬……俺と篠田がここに住むの、やっぱり嫌じゃないのか?」
「えっ?」
理瀬は、普通に驚いた顔をしていた。
「別に、そんなこと一度も言ってないですよ。本当に嫌なら、普通に言いますよ」
「篠田、お前と喋ってばっかりだろ。俺と二人だった頃は、お互いもっと静かにしてた」
「そんな事ないですよ。篠田さんはすごくいい人で、今まで誰にも相談できなかった事とかよく教えてくれますよ。この前も、一緒に下着とか選んでもらいました」
言ってから、理瀬はしまった、と言うふうに顔を赤らめた。
さっぱりした性格の理瀬だが、篠田と出会ってから少し、女っぽくなった気がする。やはり同性の友人は大事なのだろうか。
「い、今までお母さんと一緒に選んでたんですけど、お母さん高くて派手なやつばっかり買うから恥ずかしかったんですよ。篠田さんが知ってるお店だと安くて、地味めでかわいいのがいっぱいあって」
「わかったわかった、そこまで言わなくていいから!」
シェアハウスに慣れたとはいえ、女子高生に下着の話なんかされたら俺の理性がやばい。
「そういうの、エレンちゃんには頼まないのか?」
「エレンに? どうしてですか?」
「高校生だったら、買い物とかは親じゃなくて友達どうしで行くもんじゃないのか?」
「そうかもしれないですけど」
「エレンちゃんに冷たくしてるけど、マジで嫌いなわけじゃないだろ? そういう身近なところはもっと頼ってみてもいいんじゃないか?」
「あの子とは……あまり一緒にいたくないので」
理瀬が少し表情を変えた。エレンと理瀬の距離感は、やはり特別なものらしい。過去にあった理瀬へのいじめ事件も関連しているのだろう。
まだ気になるところはあるが、理瀬が話したくなさそうなので、これ以上は聞けない。
「……でさ、本題に戻るけど、俺と篠田、出ていったほうがいいよな」
理瀬は黙っている。何か言いたそうだが、言えないようだ。
「俺が篠田と普通に結婚することを果たす、それをお前に証明することで俺の生き様を教えてやる、っていう気持ちは今も変わらない。でも、よく考えたら、俺と篠田がここに住む理由はないだろ。どっかでアパートでも借りればいいんだ。結婚するか破局した時に報告するだけでいいだろ。なにも四六時中、俺たちの様子を見る必要ないだろうからな」
「……いいんですか? 通勤時間が長くなりますよ」
理瀬がおもむろに口にしたのは、案外しょうもない事だった。
ここは理瀬が、理瀬の財力で買った高級マンション。俺がいるのは、あくまで理瀬にとって俺という大人の存在がプラスになるから。
俺の通勤時間を短くするなんて、どうでもいいことだ。
「本当はこんなところに住めるような年収じゃないんだ。諦めてまた満員電車に乗るよ。そこは篠田だって理解してくれる」
「引っ越しにお金かかりますよ」
「それも痛いが……なあ、そういうのはお前が心配することじゃないから」
俺が少し強めに言うと、理瀬がしょぼんとする。
エレンが言っていた、学校での無表情な感じとは全然違う。
「あの、じゃあ、一つだけ、私から宮本さんにお願いしてもいいですか」
「言ってみな」
「お母さんが日本にいる間は、ここにいてください」
「お母さんが?」
初めての一人暮らしによる不安で胃潰瘍まで起こした理瀬。母親が近くにいるのなら、むしろ安心できるはず。
だが――よく考えたら、理瀬はまだ母親に会っていない。
俺は会っているというのに、理瀬も、和枝さんも、お互いに会おうとしていない。
「私、お母さんに一人でも大丈夫だよって言いましたけど、結局体壊したりして、お母さんに合わせる顔がないんですよ。本当はお母さんにここへ来てほしいんですけど、なかなか言い出せなくて」
「俺が言おうか? なんなら新橋のホテルからここまで引っ張ってくればいい」
「でも……最近、お母さん電話とか出てくれないんですよ」
理瀬が今、最も悩んでいることはそれだったのか。
だったら、俺に手助けできる。
「わかった。俺に任せな」
* * *
その後しばらく、和枝さんと連絡が取れなかった。
理瀬いわく、長期出張などでは忙しくて何も話せないことがあり、珍しいことではないという。俺みたいに低級な社畜ですら、親から来た連絡を忙しすぎて一週間くらい放置することもあるし、そういう時があってもしかたないか。
この時、理瀬は自分だけが和枝さんに無視されている訳ではないと知って、少し安心していた。ちょうどその時にエレンからLINEがあり『今日ちょっと理瀬が話してくれました! というわけでおじさん通報しますね!』ということだった。
和枝さんから連絡があったのは、ちょうど二週間くらい経ったある日のこと。
『沖縄のホテル取れました』
メールで、CCで理瀬にも送られていた。俺と篠田が泊まる予定のホテルとは違うところだったが、シルバーウーマン・トランペットのグループ会社のいいホテルらしい。
この連絡があったのをきっかけに『沖縄旅行の準備もあるので理瀬の家に来ませんか』と誘ったが、『ずっと遅くまで会合があるから当日まで無理です。それよりも大事な話をあなたとしたいのだけれど』と返事をされた。
俺はこのことを理瀬には話さず、和枝さんの待つホテルに向かった。和枝さんが、理瀬の誘いを断りながら俺と会おうとしていること、理瀬には言えなかった。
和枝さんが指定したのは、ホテルのカウンターバーではなくカフェだった。ここなら、理瀬を連れてきてもいいな、と俺は思った。
俺が着いた時、和枝さんはコーヒーだけ頼んで待っていた。以前よりもどこか痩せているように見える。修羅場をくぐった後だからだろうか。
「今日は飲まないんですか」
「……胃の調子が悪くて、そういう気分じゃないの」
「コーヒーも胃に悪いですよ」
「何か刺激になる物がほしいのよ。私、タバコは吸わないから、お酒かコーヒーくらいしか頼れるものがないの」
「いっそ全部抜いてみると身体が楽になりますよ」
これは本当だ。俺も会社員になった頃、コーヒーばかり飲んでいて慢性的に胃を悪くしていた頃があった。逆転の発想で一定期間全くコーヒーを飲まず、酒も飲まず、そのほか味付けの濃い食事もやめて体中から刺激物を取り除いてみたら、信じられないほど身体が軽くなった。恐るべしデトックス。
……デトックスなんて試している時点で、随分おっさんになったものだ。
「時間がないから、本題に入っていい?」
以前までの、気さくで明るい和枝さんと違い、今日は少し不機嫌に見える。
そんなに余裕がない話なのだろうか。
「なんですか?」
「正式に、理瀬の後見人になってほしいの」
「後見、人?」
家族の離婚や死別を経験したことのない俺にとって、後見人という言葉は別世界のものだった。
「ちょっといい方が悪かったかしら。理瀬の保護者になってほしいのよ」
「そんなこと、できるんですか?」
「できるわ。親権者が長期不在にする時は、親権の全部または一部を誰かに渡すことができるの。この場合は監護権、つまり子供の身の回りの世話をする権利ね」
「……そんな大事なことを、つい最近出会った赤の他人の俺に?」
「私が日本にいないから、誰かが理瀬の面倒を見る必要がある。正直、宮本さんには迷惑な話だわ。だからそれなりの報酬も支払うつもり」
「いや、お金の問題じゃないですけど」
「私が日本に来たの、仕事もあるけどこの話をあなたとしたかったからなのよ」
和枝さんはコーヒーカップを持ち、少し時間を置いて、口をつけずに置いた。
「……なんでそうなるのか、理由は教えてくれますよね?」
「私、理瀬は強い女だと思ってたの。なにせあの歳で仮想通貨の価値を正確に評価して、豊洲のいちばん高級なマンションを買えたんだから。才能も、運も、勝負強さも持って生まれた、強い女のはずだったのよ。でも違ったの。精神と、身体の強さが足りてなかった」
「胃潰瘍の件ですか」
「そうよ。初めて聞いた時、理瀬のことが心配でたまらなかったわ。あの子、お腹が痛かったのは全部隠して、宮本さんに助けられたところで私に言ってきたのよ。きっと親を心配させたくなかったんでしょうね。あなたみたいに優しい男が拾ってくれてよかったけど、もし悪い男に捕まっていたら、心に深い傷を負っていたかもしれない」
「それで、理瀬さんを一人で置いておくのは不安だから、俺に保護者になれと?」
「身勝手なのは承知よ」
全く、身勝手な話だった。
理瀬が身体を壊して、母親である和枝さんはひどく心配した。そのごくあたりまえの気持ちがあるだけ、まだマシなのだろうか。本当のクソ親なら、子供が病気でも心配しないのだろうか。
親になったことのない俺にはわからない話だった。少なくとも、自分の親は俺が熱を出した時、けっこう心配して、仕事を休んで病院に連れて行った。
高学歴高収入の世界の人たちは、自分の子供を他人に任せても平気なのだろうか。自分のことではない、と割り切れるものなのだろうか。
俺は、頭の中がぐちゃぐちゃになった。俺自身の問題ではないのに。
「急にこんな話をして、まだ気持ちの整理がつかないでしょう。書類は用意しておいたわ。養育費として振り込む金額も書いてある。あの子は今でも自分の財産で生きているから、全額あなたが好きなように使っていい。私は悪く言わないから」
「……これ、俺の手取りの三倍はあるんですけど?」
「もっと高いお金をとる家庭教師だっているのよ」
俺はその時、はっとした。
和枝さんのその例えは、かつて理瀬が俺の滞在のコストを料理教室の料金で表現した時と同じような口ぶりだったのだ。
どうしてこの親子は――
本来、お金になんて替えられないものを、すぐお金で表現しようとするのだろう?
「……一つだけ、教えてください」
「何?」
「どうして理瀬と会わないんですか。まず理瀬と会って話して決めるべきでしょう」
「あの子なら納得するわよ」
「そういう問題じゃないんです。なんで日本にいるのに、和枝さんは理瀬と頑なに会おうとしないんですか。普通なら、理瀬が空港まで迎えに行ってもいいくらいですよ」
「……理瀬だって、そんなに会いたがってなかったでしょう」
俺は即答できなかった。
理瀬は明確にそう言わなかったが、明らかに会いたがっている。だが忙しい和枝さんに遠慮して、そう言わない。
だから「そんなことはない」と返事をしてもいいはずなのに。
本当に、何の後ろめたさもなく親しい親子なら「会いたい」と素直に言うんじゃないか?
理瀬にも、和枝さんにも、会えない理由があるんじゃないか?
「……会いたがってる、はずです。俺が見る限りでは」
「そうねえ……宮本くんにはわかってもらえないかもしれないけど、私たち、決して模範的な親子関係じゃなかったわ。で、それは全部、私の帰りが遅いせい。飲みつぶれて子供に介抱してもらう親なんて、ほんと失格よね。理瀬はきっと、もっと普通の専業主婦みたいな母親だったら、他の子と同じような生活ができたんじゃないか、って思ってるわ」
「そんなことは言ってませんでした」
「言ってるんじゃなくて、思ってるのよ。ねえ、親子の関係って、すごく微妙な出来事が全部積み重なった結果なの。宮本くんに話せてないことも含めて、理瀬は私を信用していない。だから会いたがらない。そういうことなの。それじゃだめ?」
毅然とした言い方だった。まだ不安定な理瀬と違って、和枝さんは芯の強い意見を持っている。それを俺の話だけで捻じ曲げるようなことはない。
「……今日はもう遅いんで、帰っていいですか」
「よく考えて。ただし決めるまで、理瀬には内緒にしておいて。私も、もう寝るわ」
和枝さんは立ち上がろうとしたが、まるで酔っ払いみたいにふらつき、机に手をついた。
「大丈夫ですか? 今日は飲んでないんでしょう」
「……ちょっと興奮したかしら?」
まだふらついているので、俺は和枝さんの肩を抱いた。砂糖のように甘ったるい香りがする。
「抱いてくれる?」
「マジで笑えないから、そういうのはやめてください」
「ふふ。酔っぱらいの私を介抱する理瀬みたいに冷たい言い方だわ」
和枝さんは一人で立ち、ふらふらと歩きながらカフェの外へ消えていった。
しかし、エレンが心配していたような変化は、俺にはわからなかった。
最近の理瀬はほとんど篠田と話していて、その様子は元気そうだ。俺と比べておしゃべりな篠田に気を使い、わざと合わせているのかとも思ったが、同年代のエレン相手でも容赦なく無視する理瀬がわざわざ篠田に気を使うとは思えない。
篠田がいない時、俺は理瀬と二人、リビングで話してみた。
「なあ、理瀬……俺と篠田がここに住むの、やっぱり嫌じゃないのか?」
「えっ?」
理瀬は、普通に驚いた顔をしていた。
「別に、そんなこと一度も言ってないですよ。本当に嫌なら、普通に言いますよ」
「篠田、お前と喋ってばっかりだろ。俺と二人だった頃は、お互いもっと静かにしてた」
「そんな事ないですよ。篠田さんはすごくいい人で、今まで誰にも相談できなかった事とかよく教えてくれますよ。この前も、一緒に下着とか選んでもらいました」
言ってから、理瀬はしまった、と言うふうに顔を赤らめた。
さっぱりした性格の理瀬だが、篠田と出会ってから少し、女っぽくなった気がする。やはり同性の友人は大事なのだろうか。
「い、今までお母さんと一緒に選んでたんですけど、お母さん高くて派手なやつばっかり買うから恥ずかしかったんですよ。篠田さんが知ってるお店だと安くて、地味めでかわいいのがいっぱいあって」
「わかったわかった、そこまで言わなくていいから!」
シェアハウスに慣れたとはいえ、女子高生に下着の話なんかされたら俺の理性がやばい。
「そういうの、エレンちゃんには頼まないのか?」
「エレンに? どうしてですか?」
「高校生だったら、買い物とかは親じゃなくて友達どうしで行くもんじゃないのか?」
「そうかもしれないですけど」
「エレンちゃんに冷たくしてるけど、マジで嫌いなわけじゃないだろ? そういう身近なところはもっと頼ってみてもいいんじゃないか?」
「あの子とは……あまり一緒にいたくないので」
理瀬が少し表情を変えた。エレンと理瀬の距離感は、やはり特別なものらしい。過去にあった理瀬へのいじめ事件も関連しているのだろう。
まだ気になるところはあるが、理瀬が話したくなさそうなので、これ以上は聞けない。
「……でさ、本題に戻るけど、俺と篠田、出ていったほうがいいよな」
理瀬は黙っている。何か言いたそうだが、言えないようだ。
「俺が篠田と普通に結婚することを果たす、それをお前に証明することで俺の生き様を教えてやる、っていう気持ちは今も変わらない。でも、よく考えたら、俺と篠田がここに住む理由はないだろ。どっかでアパートでも借りればいいんだ。結婚するか破局した時に報告するだけでいいだろ。なにも四六時中、俺たちの様子を見る必要ないだろうからな」
「……いいんですか? 通勤時間が長くなりますよ」
理瀬がおもむろに口にしたのは、案外しょうもない事だった。
ここは理瀬が、理瀬の財力で買った高級マンション。俺がいるのは、あくまで理瀬にとって俺という大人の存在がプラスになるから。
俺の通勤時間を短くするなんて、どうでもいいことだ。
「本当はこんなところに住めるような年収じゃないんだ。諦めてまた満員電車に乗るよ。そこは篠田だって理解してくれる」
「引っ越しにお金かかりますよ」
「それも痛いが……なあ、そういうのはお前が心配することじゃないから」
俺が少し強めに言うと、理瀬がしょぼんとする。
エレンが言っていた、学校での無表情な感じとは全然違う。
「あの、じゃあ、一つだけ、私から宮本さんにお願いしてもいいですか」
「言ってみな」
「お母さんが日本にいる間は、ここにいてください」
「お母さんが?」
初めての一人暮らしによる不安で胃潰瘍まで起こした理瀬。母親が近くにいるのなら、むしろ安心できるはず。
だが――よく考えたら、理瀬はまだ母親に会っていない。
俺は会っているというのに、理瀬も、和枝さんも、お互いに会おうとしていない。
「私、お母さんに一人でも大丈夫だよって言いましたけど、結局体壊したりして、お母さんに合わせる顔がないんですよ。本当はお母さんにここへ来てほしいんですけど、なかなか言い出せなくて」
「俺が言おうか? なんなら新橋のホテルからここまで引っ張ってくればいい」
「でも……最近、お母さん電話とか出てくれないんですよ」
理瀬が今、最も悩んでいることはそれだったのか。
だったら、俺に手助けできる。
「わかった。俺に任せな」
* * *
その後しばらく、和枝さんと連絡が取れなかった。
理瀬いわく、長期出張などでは忙しくて何も話せないことがあり、珍しいことではないという。俺みたいに低級な社畜ですら、親から来た連絡を忙しすぎて一週間くらい放置することもあるし、そういう時があってもしかたないか。
この時、理瀬は自分だけが和枝さんに無視されている訳ではないと知って、少し安心していた。ちょうどその時にエレンからLINEがあり『今日ちょっと理瀬が話してくれました! というわけでおじさん通報しますね!』ということだった。
和枝さんから連絡があったのは、ちょうど二週間くらい経ったある日のこと。
『沖縄のホテル取れました』
メールで、CCで理瀬にも送られていた。俺と篠田が泊まる予定のホテルとは違うところだったが、シルバーウーマン・トランペットのグループ会社のいいホテルらしい。
この連絡があったのをきっかけに『沖縄旅行の準備もあるので理瀬の家に来ませんか』と誘ったが、『ずっと遅くまで会合があるから当日まで無理です。それよりも大事な話をあなたとしたいのだけれど』と返事をされた。
俺はこのことを理瀬には話さず、和枝さんの待つホテルに向かった。和枝さんが、理瀬の誘いを断りながら俺と会おうとしていること、理瀬には言えなかった。
和枝さんが指定したのは、ホテルのカウンターバーではなくカフェだった。ここなら、理瀬を連れてきてもいいな、と俺は思った。
俺が着いた時、和枝さんはコーヒーだけ頼んで待っていた。以前よりもどこか痩せているように見える。修羅場をくぐった後だからだろうか。
「今日は飲まないんですか」
「……胃の調子が悪くて、そういう気分じゃないの」
「コーヒーも胃に悪いですよ」
「何か刺激になる物がほしいのよ。私、タバコは吸わないから、お酒かコーヒーくらいしか頼れるものがないの」
「いっそ全部抜いてみると身体が楽になりますよ」
これは本当だ。俺も会社員になった頃、コーヒーばかり飲んでいて慢性的に胃を悪くしていた頃があった。逆転の発想で一定期間全くコーヒーを飲まず、酒も飲まず、そのほか味付けの濃い食事もやめて体中から刺激物を取り除いてみたら、信じられないほど身体が軽くなった。恐るべしデトックス。
……デトックスなんて試している時点で、随分おっさんになったものだ。
「時間がないから、本題に入っていい?」
以前までの、気さくで明るい和枝さんと違い、今日は少し不機嫌に見える。
そんなに余裕がない話なのだろうか。
「なんですか?」
「正式に、理瀬の後見人になってほしいの」
「後見、人?」
家族の離婚や死別を経験したことのない俺にとって、後見人という言葉は別世界のものだった。
「ちょっといい方が悪かったかしら。理瀬の保護者になってほしいのよ」
「そんなこと、できるんですか?」
「できるわ。親権者が長期不在にする時は、親権の全部または一部を誰かに渡すことができるの。この場合は監護権、つまり子供の身の回りの世話をする権利ね」
「……そんな大事なことを、つい最近出会った赤の他人の俺に?」
「私が日本にいないから、誰かが理瀬の面倒を見る必要がある。正直、宮本さんには迷惑な話だわ。だからそれなりの報酬も支払うつもり」
「いや、お金の問題じゃないですけど」
「私が日本に来たの、仕事もあるけどこの話をあなたとしたかったからなのよ」
和枝さんはコーヒーカップを持ち、少し時間を置いて、口をつけずに置いた。
「……なんでそうなるのか、理由は教えてくれますよね?」
「私、理瀬は強い女だと思ってたの。なにせあの歳で仮想通貨の価値を正確に評価して、豊洲のいちばん高級なマンションを買えたんだから。才能も、運も、勝負強さも持って生まれた、強い女のはずだったのよ。でも違ったの。精神と、身体の強さが足りてなかった」
「胃潰瘍の件ですか」
「そうよ。初めて聞いた時、理瀬のことが心配でたまらなかったわ。あの子、お腹が痛かったのは全部隠して、宮本さんに助けられたところで私に言ってきたのよ。きっと親を心配させたくなかったんでしょうね。あなたみたいに優しい男が拾ってくれてよかったけど、もし悪い男に捕まっていたら、心に深い傷を負っていたかもしれない」
「それで、理瀬さんを一人で置いておくのは不安だから、俺に保護者になれと?」
「身勝手なのは承知よ」
全く、身勝手な話だった。
理瀬が身体を壊して、母親である和枝さんはひどく心配した。そのごくあたりまえの気持ちがあるだけ、まだマシなのだろうか。本当のクソ親なら、子供が病気でも心配しないのだろうか。
親になったことのない俺にはわからない話だった。少なくとも、自分の親は俺が熱を出した時、けっこう心配して、仕事を休んで病院に連れて行った。
高学歴高収入の世界の人たちは、自分の子供を他人に任せても平気なのだろうか。自分のことではない、と割り切れるものなのだろうか。
俺は、頭の中がぐちゃぐちゃになった。俺自身の問題ではないのに。
「急にこんな話をして、まだ気持ちの整理がつかないでしょう。書類は用意しておいたわ。養育費として振り込む金額も書いてある。あの子は今でも自分の財産で生きているから、全額あなたが好きなように使っていい。私は悪く言わないから」
「……これ、俺の手取りの三倍はあるんですけど?」
「もっと高いお金をとる家庭教師だっているのよ」
俺はその時、はっとした。
和枝さんのその例えは、かつて理瀬が俺の滞在のコストを料理教室の料金で表現した時と同じような口ぶりだったのだ。
どうしてこの親子は――
本来、お金になんて替えられないものを、すぐお金で表現しようとするのだろう?
「……一つだけ、教えてください」
「何?」
「どうして理瀬と会わないんですか。まず理瀬と会って話して決めるべきでしょう」
「あの子なら納得するわよ」
「そういう問題じゃないんです。なんで日本にいるのに、和枝さんは理瀬と頑なに会おうとしないんですか。普通なら、理瀬が空港まで迎えに行ってもいいくらいですよ」
「……理瀬だって、そんなに会いたがってなかったでしょう」
俺は即答できなかった。
理瀬は明確にそう言わなかったが、明らかに会いたがっている。だが忙しい和枝さんに遠慮して、そう言わない。
だから「そんなことはない」と返事をしてもいいはずなのに。
本当に、何の後ろめたさもなく親しい親子なら「会いたい」と素直に言うんじゃないか?
理瀬にも、和枝さんにも、会えない理由があるんじゃないか?
「……会いたがってる、はずです。俺が見る限りでは」
「そうねえ……宮本くんにはわかってもらえないかもしれないけど、私たち、決して模範的な親子関係じゃなかったわ。で、それは全部、私の帰りが遅いせい。飲みつぶれて子供に介抱してもらう親なんて、ほんと失格よね。理瀬はきっと、もっと普通の専業主婦みたいな母親だったら、他の子と同じような生活ができたんじゃないか、って思ってるわ」
「そんなことは言ってませんでした」
「言ってるんじゃなくて、思ってるのよ。ねえ、親子の関係って、すごく微妙な出来事が全部積み重なった結果なの。宮本くんに話せてないことも含めて、理瀬は私を信用していない。だから会いたがらない。そういうことなの。それじゃだめ?」
毅然とした言い方だった。まだ不安定な理瀬と違って、和枝さんは芯の強い意見を持っている。それを俺の話だけで捻じ曲げるようなことはない。
「……今日はもう遅いんで、帰っていいですか」
「よく考えて。ただし決めるまで、理瀬には内緒にしておいて。私も、もう寝るわ」
和枝さんは立ち上がろうとしたが、まるで酔っ払いみたいにふらつき、机に手をついた。
「大丈夫ですか? 今日は飲んでないんでしょう」
「……ちょっと興奮したかしら?」
まだふらついているので、俺は和枝さんの肩を抱いた。砂糖のように甘ったるい香りがする。
「抱いてくれる?」
「マジで笑えないから、そういうのはやめてください」
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