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第三章 社畜と昔の彼女と素直になるということ
1.別れた彼女と心がいちばん弱い時
しおりを挟む照子は、いつの間にか六本木のマンションに引っ越していた。
細長いビルの、いかにも独身者用という1LDKのマンションだった。建物も中身も、どう考えても豊洲のタワーマンションより貧相だったが、とにかく地価の高いところなので仕方ない。そこに住んでいるというブランド力が段違いなのだ。
大学時代の終盤に照子と別れたあと、俺は照子の家に一切近づかなかった。その後も照子と会っていたのは、あくまで作曲家としての照子をサポートするため。プライベートの一線は越えないようにしていた。
そんな俺が、篠田と別れて一週間後、照子の住む六本木のマンションを訪れている。
発端は、LINEから始まった。
『剛のあほ』
唐突なメッセージだったが、篠田と理瀬の二人と離れていた俺は、誰からのメッセージでも嬉しかった。話を聞いてもらう相手が必要だった。理瀬との生活を誰にも明かせなかったから、会社の同僚には話せなかった。
『おう俺はあほやぞ』
『知っとる』
『今更何言っとんな』
今はほとんど出てこない地元の言葉が、照子とのLINEでは自然によみがえる。
『あほすぎてどうしようもないわ』
『なんや』
『なんやとはなんや』
『なんやとはなんやとはなんや』
『なんで元カノとデートしよった場所に新しい彼女連れてくるん?』
俺は固まった。
間違いなく、先週の港の見える丘公園での一件についてだ。
『なんで知っとん?』
『先週うちも港の見える丘公園におった』
『一人で?』
『うん』
『なんで一人であんなところ行くんな』
『別れた男への未練の歌考えるには最高の場所やけんな』
また俺が固まった。
このところ俺は、恋愛や結婚というものについて、ひどく混乱していた。
俺を想っていた篠田は、もう遠くまで離れてしまった。
一方で、照子は別れて五年以上経った今でも、俺のことを考えている。
どうしてそうなるのか。どうして俺の思い通りにならずに、女たちは俺を惑わせるのか。
もちろん、すべては無計画で短絡的に行動してきた俺が悪い。だとしたら、俺はもう一生女にかかわらないほうがいいんじゃないか。俺だけでなく、女たちの平和のために。
そんなことを考えながら次のメッセージを考えていると、照子からLINE通話があった。
「なんな」
『うわっ阿波弁の剛じゃ!』
「俺やってたまには阿波弁話すわ」
『ふふん。なあ剛、今からうち来ん?』
「……作曲の手伝いやったらスタジオでええんちゃうか」
『ちゃうよ。剛、今誰かに話聞いてもらいたいだろ?』
「……」
『うちが出血大サービスで話聞いたるけん』
「なんなほれ」
『うち今ゴールデンタイムのバラエティとか出よる売れっ子じょ? 話すだけでもお金とりたいくらいやけど、特別にタダでええわ』
「ふうん」
『遠慮せられん』
「……」
『うちほんまに心配なんよ。何かあったんやろ? このまま悩み抱えて剛が病んでもうたら嫌なんよ、ほんまに』
「お前……」
『なあ、うちからのお願いやけん来て。心配やけん来て』
もう二度と照子には近づくまい、と考えていた俺だが。
この時は断れなかった。
俺が傷つけたり傷つけられたりしている中で、俺のことを癒そうとしている存在がいるのは、ただただありがたいことだった。
** *
まだ引っ越したばかりの六本木の1LDKでは、リビングに電子ドラムやエレキギター、ベース、キーボード、ピアノ、電子楽器用のアンプやスピーカーが綺麗に並べられていた。
「マンションでこれはさすがに迷惑ちゃうか」
「ヘッドホン使うけんいける」
照子は、玄関で俺を出迎えた時からずっとにこにこしていた。元カノとの思い出の場所で今の彼女とのデートを見せつけた俺に、照子は怒っているはずだった。だがそんなことよりも、俺と自宅で会えたことのほうが嬉しいようだ。
俺と照子はリビングの真ん中にあるソファに座り、俺はブラックコーヒーを、照子は砂糖多めのコーヒーを飲む。
「ほんなに砂糖入れたら糖尿病になるぞ」
「……剛、ほんまに阿波弁に戻っとるでえ。大学生の時からずっと標準語やったのに」
「標準語のほうがいいか?」
「うわ、戻った!」
「俺はこれでもお前のバンドの元ボーカルだぞ。歌うのもしゃべるのも似たようなものだし、言葉の微妙なリズムを変えることくらい簡単なことなんだよ」
「ほんま、剛のボーカルの才能、捨てるにはもったないわ」
照子がため息をつく。
俺が弱っているとわかっていて、あえていきなり直接の話題には触れず、話しても辛くないような話題で気遣っている。俺には、それがわかる。
「ちょっと歌ってみん? 一応、防音ありで楽器可のとこなんよ、ここ。テレビで知り合った歌手の人が引っ越すけん譲ってもらったんよ」
照子はピアノの前に座り、さらっと指を流す。
聞き慣れた、鮮明で美しい照子のピアノタッチが耳に入り、自然と心がうずく。
「何がいい~?」
「……もしもピアノが弾けたなら」
「なんな、ほ~れ~!」
謎選曲に文句を垂れながらも、照子は『もしもピアノが弾けたなら』の伴奏を弾きはじめる。
最初は照子がハイテンションなためか、アップテンポ気味に始まったが、俺がしっとりと、静かに歌い続け、照子も合わせた。実にしみったれた演奏だった。
「あー、剛ってほんま誰にも合わさんよな」
終わったあと、照子が背伸びしながら言った。いきなり合わせたぐだぐだの演奏だったが、照子は満足そうだった。そのあと照子は俺の隣に戻ってきた。
「剛が好きなように歌うん、ひさしぶりに見たわ」
「作曲の手伝いしてただろ」
「作曲のためにいろいろ試しながら歌いよったやろ。ほんまに好きに歌いよったん、久しぶり」
「……そうかもな」
「で、どうするん? もう一曲歌う?」
「そうしてもいいな」
こうして、俺が好きな歌を照子の伴奏で何曲も歌った。俺がずっと止まらず歌い続けるので、照子のほうが先に音を上げた。
「指疲れたわ。毎日ピアノ弾っきょるわけでないし」
「すまん」
「あやまらんでええけど」
俺も、久々に何曲も歌って、疲れていた。もともと精神がマイナスまで落ち込んでいて、歌う気力などなかったのだ。
隣に座っている照子から、なつかしいシャンプーの香りがする。
高校から大学までバンドを続けていた頃、ギターアンドボーカルの俺とドラムの照子が最後まで残って練習を続け、疲れて終わると、お互いをむさぼるように求めあった。
そんな記憶がよみがえり、俺は照子の頬を軽く触った。
「……したいん?」
「……いや、すまん」
「別にええよ」
「お前はよくないだろ」
「ええって言よるでえ。今日したけんって彼氏になれとか、今日のこと『金曜日』に売り込んで剛のこと脅すとか、ほんなことせんけん」
「こわっ」
ただの社畜が『金曜日』に出てしまったら、会社生活が終わる。ガチで怖い。
「彼女と別れたばっかりで、したくてもできんくて、辛いんやろ?」
「……」
「ええでえ、別に。一回くらい。うちら、そんなにお上品な人間とちゃうやろ?」
我慢できなかった。
俺が照子を押し倒すと、照子は「んっ」と短い声をあげ、急に女の顔になった。
急に静かになり、いままで聞いてもいなかった空調の音だけが耳に入る。
** *
軽率な行動で後悔するのはいつものことだが、今回は特別に辛かった。
俺は照子を求め、久しぶりに、ほとんど変わっていない照子の裸を見て、触れ、最後までしようとした。
だが、できなかった。
俺が反応しなかったのだ。
こんなことは俺も、照子も予測していなかった。付き合っていた頃は、一度もそんなことはなかった。
「うち、魅力なくなった?」
「いや……俺の体力がなくなったんだよ」
二人とも裸のまま、ソファで天井を見ながら、最後はあきらめた。
「また元気なときにしよ」
照子が抱きついてくる。昔から、行為が終わるとしばらく俺にしがみついて離れなかった。残ったぬくもりを最後まで逃さないように。
「で、何があったん?」
この体勢になると、照子の優しさがダイレクトに俺の心身へ伝わってくる。
俺は、照子にすべてを打ち明けた。
豊洲で出会った女子高生を助け、タワーマンションで一緒に住んでいること。
俺は普通の人生を送る、とその子に宣言して篠田と付き合いはじめたが、篠田は俺が理瀬のことを好きだと勘違いして、別れたこと。
「相変わらず、面白いことしよんなあ……」
「面白くはねえよ」
「嘘やん。剛、自分で面白いと思ったことしかせんもん。高校生の時とか、他の男子みたいにカラオケやファミレスではしゃいだりせんと、ずっとバンドしよったでえ」
学生時代までの俺はそうだったかもしれない。だが社畜となった今は、仕事にほとんどの時間を奪われ、自分で選んだ「面白いこと」に手を出す余裕がない。
ただ――理瀬と暮らしていることは、自分で選んだ「面白いこと」の一つかもしれない。
俺が忘れていた好奇心と、それに対する飽くなき行動力。
理瀬は、それを思い出させてくれた。
「豊洲の女子高生ちゃんのところに帰るんが嫌やったら、ここに帰ってええよ」
「いや。しばらくここには来ない。お前にはこれ以上甘えられない」
「……まだ昔のこと気にしとん? もう許したって何回も言よるでえ」
「俺が俺を許せないんだよ」
「今さっきエッチしようとしたのに」
「……」
「弱いなあ、剛は。ほういうとこ可愛くて好きよ」
俺は照子を振りほどき、服を着直した。
「行ってまうん? ここにしばらくおってもええよ」
照子は、どうやら本気で俺をしばらくここに住まわせるつもりだったらしい。泣きそうな声が背中から聞こえた。
「どうしても耐えられそうにない時は、また来るかもしれん」
「弱いなあ。でも剛はほれでええんよ?」
「うるさい」
俺は荷物をまとめ、マンションを出た。
帰り道、俺は照子との出会いから別れまで、一通りすべてを回想していた。
俺が照子を傷つけてしまった、最低最悪の思い出まで。
なるべく考えないようにしていたのだ。
もし篠田や理瀬が知ったら、最低の男だと罵り、二度と会ってくれないかもしれない。
ああ。
だめだ。一度思い出したら、何度もリフレインしてくる。
『うちと剛のためやけん』
『仕方なかったんよ」
笑顔で、しかし涙を流しながら、別れようと言う俺にしがみつく照子の姿が。
『なんで。なんで別れなあかんの』
『ずっと一緒だったのに』
『剛は一人でも生きていけるけど、うちは剛がおらな生きていけん!』
「あああああっ!!」
六本木の町中にもかかわらず、俺は一人、大声で叫んでいた。
深夜とはいえ人通りのある大都会、何人かが周りで振り返る。
だめだ。俺はただの社畜。こんなところで目立ってはいけない。
感情を押し殺し、表情をすべて削除して、前を向き、歩き続けた。どんなに気持ちが揺れても、それが社会一般的なことでないなら、表に出すべきではない。
今の自分、社畜としては最高の顔をしているんだろうな、と思って一人あやしく笑った。
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