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第五章 社畜と本当に大切なもの
1.社畜と謎のエリート・前田さん
しおりを挟む色々なことがあった――が、個々に思い出している余裕は、俺にはなかった。
和枝さんが亡くなったあと、理瀬は実の父親である古川裕次郎に引き取られた。古川が理瀬の家を訪れてから、わずか一週間で理瀬は古川の家へ引っ越した。
理瀬は、古川の提案を拒否しなかった。どう考えても、和枝さんとのこれまでの生活をすべて忘れ、性格の不一致で離婚している元父親と新しく生活を始めるのは、強いストレスをもたらすはずだ。しかし理瀬は、
「これ以上、宮本さんに迷惑をかけるわけにはいきませんから」
と繰り返していた。
おそらく、それは理瀬の本音だった。俺は会社を無理に早上がりしていて、そのせいで帰宅後に会社から電話がかかってきたり、在宅勤務と称して持ち帰り仕事をするなど、仕事が回っていないことを理瀬に見せてしまっていた。
俺自身の負担は、どうでもよかった。俺はもう、理瀬のことを愛すると心に決めてしまったのだから、最悪、今の会社をやめることになっても、仕方ないとすら思っていた。
だが、和枝さんが亡くなったことで大きなショックを受けた理瀬は、多分そのことを忘れてしまっている。いや覚えてはいるが、うまく思い出せないのだろうか。どちらにしても、和枝さんが亡くなった手前、そのようなことを話していられる状況ではなかった。
理瀬がいなくなった豊洲のタワーマンションには、俺だけが住んでいる。
** *
理瀬がいなくなってから一週間後、俺はある人に連絡をとった。
前田竜也。
和枝さんが亡くなるまでの上司であり、葬儀を共に手配してもらった男性だ。
この前田さんという人、外資系企業シルバーウーマン・トランペットの重役なので、さぞエリート感に満ちた人だと、勝手に想像していた。
実際には、イメージと全然違っていた。とにかく体が細く、太い黒縁のメガネをかけた、九十年代のオタクのような人だった。喋り方や立ち居振る舞いもオタクそのものだった(しかも、関西弁を喋っていた)。あれで英語ペラペラ、金融市場のすべてを知り尽くしているというのだから、世の中はわからないものだ、と俺は思った。あるいは、ある程度の能力を持った人にとって、外見や立ち居振る舞いは関係ないのかもしれない。その能力だけで他人はついてくるのだから。
千代田区にある高そうなカフェで、俺は前田さんと会った。
理瀬がその後、気分を落としてはいたが学校に通っていたこと、実父である古川裕次郎のところへ移ったことを報告した。古川の話をすると、前田さんはかなり驚いていた。
「あの男が? 葬式にも来んかったのにい?」
「ええ。葬式の一週間後、突然現れて、理瀬を連れていきました」
「今更、年頃の娘と同居したいだなんて、誰も思いませんやろ」
「俺もそう思うんですが……あのひと、かなりのお偉いさんなんですよね。多分、身寄りのない娘を放置している、というスキャンダルを恐れて、理瀬さんの保護を考えたのではないかと」
「あー、まあ、あの人、財務省の事務次官やもんなあ」
「ぶっ」
俺は口にしていたコーヒーを吹き出してしまった。財務省の事務次官。テレビニュースとかでもたまに聞くポストだ。仕事ができる人だとは聞いていたが、まさかそこまでの人物だとは思わなかった。試しにスマホで古川裕次郎の名前を検索したら、普通にウィキやネットニュースが多数ヒットする。というか、先にネットで調べておけばよかった。
「もしかしたら、事務次官やめて国会議員にでもなろうとしとるかもしれんけど。まあ、私もあの人とは、常磐さんが結婚しとった頃に何回か会っただけなんで、よう知らんのですわ」
「そうですか……それで、ここからが本題なんですけど、俺、今の理瀬の状況がいいものだとは思えないんです」
俺が話題を変えると、前田さんの目つきが急に鋭くなった。優秀な人特有の、大事なものを見逃さない強烈な目だ。
「宮本さんは、具体的にどうしたいんですか」
「理瀬を古川の家から連れ出して、もとの状況に戻したいんです」
「つまり、豊洲にあるマンションでの一人暮らしに戻すということですか。しかし、なんぼ理瀬ちゃんの頭がいいとはいえ、まだ高校生や。一人では決めれんこともあるし、何より一人暮らしは寂しい。孤独は毒ですよ、毒」
「それは俺がどうにかします」
「あんたが?」
「はい。実は俺、生前の和枝さんに、何かあったときは理瀬の後見人になるようお願いされてたんです。和枝さんがまだまだ元気だから、という理由でそのときは断ったのですが、今の状況は、どう考えても和枝さんが望んだものとは違います。和枝さんは、古川のことについてほとんど言及していなかったし、親権を譲渡するというような話もありませんでした」
前田さんがふたたび目の色を変えた。大事なことを聞き逃すまい、と俺に詰め寄ってくる。
「ふうん。その話、実は私も聞いてましたんや」
「えっ?」
「常磐さんは、以前から自分になにかあった時、理瀬ちゃんの後見人になってくれ、必要な費用は全部自分の遺産でまかなえるから、と言われてましたんや。私も独身やから……というても子供ありのバツイチですけど、危険はないと思われたんでしょうなあ。葬式の時に手伝ったのは、その約束を思い出してのことです。ただ最近、新しい後見人候補ができたから私はもういい、と言われてましてな。それが宮本さんのことだったんでしょう。常磐さんが亡くなった病院で宮本さんと会って、すぐわかりましたわ。ああ、これは常磐さんの好きそうな男やな、って」
和枝さんは、俺と接触する以前にも、理瀬が一人になるリスクを考慮して動いていたのだ。リスクを的確に把握し、管理するのは和枝さんと理瀬の二人に共通する特徴で、俺はその話に納得する。
「しかしなあ、それだと話がまた面倒ですやん。私、常磐さんに言われて、もう後見人になるという約束は放棄しとるんですけど、その後宮本さんは、後見人の約束を正式にしてないんでしょ。法的には、理瀬ちゃんの保護者になるのは古川さんが一番やということになる。もちろん、片方の親が亡くなったから親権者が元夫へ自然に移るとは限りません。過去に虐待などの履歴がある親であれば、親権者にはなれません。私も自分が離婚したときにいろいろ調べて詳しいんですわ。ただ今回の場合、古川さんは財務省の事務次官になるくらいやから、素行が悪いということはないですし、常磐さんの親族はみんな亡くなってる。保護するのにふさわしいのは、血縁がある古川さんが一番強いんですわ。その古川さんの意向で理瀬ちゃんを同じ家に住まわせとるんやから、何も文句は言えませんわな」
「……どうにかする方法、なにか考えてもらえませんか」
俺が前田さんとわざわざ会って話している理由は、それだった。
俺の力だけでは、古川から理瀬を取り戻せない。どう頑張っても勝てる相手ではない、と直感していた。
自分でどうにもならないときは、周囲の力を借りるしかない。これまでの人生で学んできたことだ。もう三十手前の俺は、誰かに頼ることなんて今更、恥ずかしくはない。それよりも、何も行動を起こさず、ただ悪い方向へ物事が進んでいくのを見ているだけ、というのは嫌だった。
「……ふうん。宮本さんはそう思っとるんですか。まあ、それはええですわ。私もおおむね宮本さんの意見に同意ですし、理瀬ちゃんの状況は、正直、気になっとったんですわ。何か力になれるなら、ぜひ協力したいんですが」
前田さんはわざとらしく、半分くらい残っていたコーヒーを一気に飲み干した。それから俺のことを強く見つめながら――前田さんが、今日一番聞きたかったであろうことを口にした。
「宮本さん、理瀬ちゃんとはそもそもどういう関係なんですか」
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