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十一品目 ラムネ
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蝉の声がまだ残る夕方。
商店街の通りに赤い提灯が灯り始めるころ、矢崎家の玄関先は、ちょっとしたお祭り騒ぎになっていた。
「ちょっと澪ちゃん、動かないでね。帯、もうちょっと上……そうそう、そこ!」
母ちゃんが器用に帯を結びながら、ニコニコと笑う。
「良子の浴衣だけど、ちょうどいいわ。あんたの方が似合うわね」
澪は照れたように笑う。いつもの制服姿とは違い、白地に藍の花模様の浴衣が、彼女の落ち着いた雰囲気によく似合っていた。
廊下の端でそれを見ていた昭一が、思わず小さく息を呑む。その横で、良子が肘で突っつく。
「ねえ、昭一。黙って見てるとキモいよ?」
「な、なに言ってんだよ!」
母ちゃんは帯を締めながら笑い、最後にポンと澪の肩を叩いた。
「よし、できた! はい、鏡見てごらん」
姿見の中には、浴衣姿の自分がいた。少しだけ背筋が伸びる。
――知らない自分を、初めて見たような気がした。
「どう? いい感じじゃん?」
良子が聞くと、澪は小さくうなずいた。
「……うん。ちょっとだけ、大人になった気がする」
「はーい、出発!」
和夫が団扇を振りながら先頭に立つ。
父ちゃんは浴衣代わりの甚平姿で、すでに屋台の焼き鳥を狙う気満々だ。
「昭和はな、こういう匂いでできてるんだ」
「また始まった」
良子が呆れながら笑う。
夕暮れの空の下、五人と一人が連なって商店街を歩く。
赤い提灯、射的の音、わたあめの甘い匂い。
そのひとつひとつが、澪にはまぶしく見えた。
「わ、金魚すくいだ!」
和夫が駆け出す。
昭一も後を追うようにして、澪に声をかけた。
「やってみる? これ、意外と難しいんだぞ」
「う、うん……やってみたい」
澪はポイを受け取り、水面に目を凝らす。金魚の赤が揺れる。慎重に差し出すけれど、紙はあっけなく破れた。
「わっ……!」
思わず声を上げると、昭一が隣から手を伸ばして支える。
指先が、少しだけ触れた。
「焦ると破けるんだよ。ゆっくり、な?」
「……うん」
二人の間を、風鈴の音がすり抜けていく。次の瞬間、金魚がすくい上がった。
「やった……!」
「ほら、できたじゃん」
昭一が笑い、澪もつられるように微笑んだ。
金魚を袋に入れてもらうと、空はすっかり藍色になっていた。遠くで花火の予告のような音が鳴る。
「わーっ、あっちで綿あめ売ってる!」
和夫が叫ぶ。
「母ちゃん、行こ!」
「はいはい、落ち着きなさい!」
みんなが走り出し、昭一と澪が少し遅れてついていく。
人波の中で、肩が何度も触れた。それでも、澪はもう俯かなかった。
屋台の灯が少しずつ消えはじめるころ。昭一がラムネを2本買ってきて、一本を差し出した。
「ほら、冷たいけど、うまいぞ」
「ありがとう……」
澪は栓を押し込む。ビー玉がカランと音を立てた。
その音が、どこか懐かしく響く。
「こういう音、なんか落ち着くね」
「昭和のBGMだからな」
昭一が笑う。
その笑い声が、澪の胸に小さな光を灯した。
そのとき、スマホが震えた。ポケットの中で、短い振動が二度。画面には「母」の文字。
笑い声が一瞬、遠のく。
昭一が横目でそれを見て、静かに聞く。
「出なくていいのか?」
澪は少し迷い、そして首を振った。
「……今は、出たくない」
昭一はそれ以上何も言わず、ただ隣でラムネを傾けた。
しばらくの沈黙のあと、夜空に大きな花火が上がる。
音が胸に響く。
澪は見上げた。
花火の光に照らされた昭一の横顔が、ほんの少し大人びて見えた。
――きれいだね。
声にならない言葉が、胸の奥で弾けた。
⸻
帰り道、商店街を抜ける風が、まだ少し熱を含んでいる。
矢崎家に着くと、母ちゃんが満足そうに伸びをした。
「やっぱり夏はいいねぇ。ちゃぶ台なくても、心はひとつだわ」
その言葉に、澪はそっと頷く。
玄関の灯りの下で、袋の中の金魚がゆらゆらと揺れていた。まるで、今夜の記憶を映すように。
そして――
花火が消えたあとも、心の中ではまだ光が続いていた。
商店街の通りに赤い提灯が灯り始めるころ、矢崎家の玄関先は、ちょっとしたお祭り騒ぎになっていた。
「ちょっと澪ちゃん、動かないでね。帯、もうちょっと上……そうそう、そこ!」
母ちゃんが器用に帯を結びながら、ニコニコと笑う。
「良子の浴衣だけど、ちょうどいいわ。あんたの方が似合うわね」
澪は照れたように笑う。いつもの制服姿とは違い、白地に藍の花模様の浴衣が、彼女の落ち着いた雰囲気によく似合っていた。
廊下の端でそれを見ていた昭一が、思わず小さく息を呑む。その横で、良子が肘で突っつく。
「ねえ、昭一。黙って見てるとキモいよ?」
「な、なに言ってんだよ!」
母ちゃんは帯を締めながら笑い、最後にポンと澪の肩を叩いた。
「よし、できた! はい、鏡見てごらん」
姿見の中には、浴衣姿の自分がいた。少しだけ背筋が伸びる。
――知らない自分を、初めて見たような気がした。
「どう? いい感じじゃん?」
良子が聞くと、澪は小さくうなずいた。
「……うん。ちょっとだけ、大人になった気がする」
「はーい、出発!」
和夫が団扇を振りながら先頭に立つ。
父ちゃんは浴衣代わりの甚平姿で、すでに屋台の焼き鳥を狙う気満々だ。
「昭和はな、こういう匂いでできてるんだ」
「また始まった」
良子が呆れながら笑う。
夕暮れの空の下、五人と一人が連なって商店街を歩く。
赤い提灯、射的の音、わたあめの甘い匂い。
そのひとつひとつが、澪にはまぶしく見えた。
「わ、金魚すくいだ!」
和夫が駆け出す。
昭一も後を追うようにして、澪に声をかけた。
「やってみる? これ、意外と難しいんだぞ」
「う、うん……やってみたい」
澪はポイを受け取り、水面に目を凝らす。金魚の赤が揺れる。慎重に差し出すけれど、紙はあっけなく破れた。
「わっ……!」
思わず声を上げると、昭一が隣から手を伸ばして支える。
指先が、少しだけ触れた。
「焦ると破けるんだよ。ゆっくり、な?」
「……うん」
二人の間を、風鈴の音がすり抜けていく。次の瞬間、金魚がすくい上がった。
「やった……!」
「ほら、できたじゃん」
昭一が笑い、澪もつられるように微笑んだ。
金魚を袋に入れてもらうと、空はすっかり藍色になっていた。遠くで花火の予告のような音が鳴る。
「わーっ、あっちで綿あめ売ってる!」
和夫が叫ぶ。
「母ちゃん、行こ!」
「はいはい、落ち着きなさい!」
みんなが走り出し、昭一と澪が少し遅れてついていく。
人波の中で、肩が何度も触れた。それでも、澪はもう俯かなかった。
屋台の灯が少しずつ消えはじめるころ。昭一がラムネを2本買ってきて、一本を差し出した。
「ほら、冷たいけど、うまいぞ」
「ありがとう……」
澪は栓を押し込む。ビー玉がカランと音を立てた。
その音が、どこか懐かしく響く。
「こういう音、なんか落ち着くね」
「昭和のBGMだからな」
昭一が笑う。
その笑い声が、澪の胸に小さな光を灯した。
そのとき、スマホが震えた。ポケットの中で、短い振動が二度。画面には「母」の文字。
笑い声が一瞬、遠のく。
昭一が横目でそれを見て、静かに聞く。
「出なくていいのか?」
澪は少し迷い、そして首を振った。
「……今は、出たくない」
昭一はそれ以上何も言わず、ただ隣でラムネを傾けた。
しばらくの沈黙のあと、夜空に大きな花火が上がる。
音が胸に響く。
澪は見上げた。
花火の光に照らされた昭一の横顔が、ほんの少し大人びて見えた。
――きれいだね。
声にならない言葉が、胸の奥で弾けた。
⸻
帰り道、商店街を抜ける風が、まだ少し熱を含んでいる。
矢崎家に着くと、母ちゃんが満足そうに伸びをした。
「やっぱり夏はいいねぇ。ちゃぶ台なくても、心はひとつだわ」
その言葉に、澪はそっと頷く。
玄関の灯りの下で、袋の中の金魚がゆらゆらと揺れていた。まるで、今夜の記憶を映すように。
そして――
花火が消えたあとも、心の中ではまだ光が続いていた。
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