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小休止:とある公爵家の料理長の独白
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ううむ、困った。
俺はただ、出来立てホカホカの奥様考案の特製絶品アンパンを、最高に旨い状態で提供したいだけだったのだが。
「あんっ」
パン。
「あんっ」
パンパン。
いや、そこはパン一回でお願いします。
「ナハト様ぁ、ん、あふ、あん、ああ…っっ!」
パンパンパンと連続して体同士がぶつかり合う音と、奥様の鼻血物の艶声が、ピッタリと閉ざされた重厚な扉から何故か漏れ聞こえてしまっている。
えーっと、これは、もしかしなくてもそういう状況だよな。
いや、まぁ、当主様と奥様は相思相愛でいつでも仲睦まじくいらっしゃるとは知っているが、昼下がりの午後のサンルームでとは如何なものか。
普通、消音魔法くらい掛けるよな?
扉の外で護衛をしている奥様専属護衛のシェリーとミネルバは慣れているのか無表情で周囲を警戒しながら立っている。
「…チッ」
え?おい、今のは舌打ちか?
奥様命の専属侍女のセーラが、微笑みのポーカーフェイスを口元だけ微かに歪めて扉を睥睨している。
こ、怖っ!
俺は思わず厨房から押してきたアンパンとお茶セットが乗っているワゴン車のハンドルを強く握り締めた。
俺の名はロサン。
姓は有るが、実家とは音信不通になってもう随分と経つから、もしかしなくても貴族籍から抜かれているかもしれない。
今の俺は、このシルフィード公爵家の本邸の料理長をしているが、以前はシュテアネ侯爵邸の騎士団員だった。
実家が代々騎士を輩出し続けている武門家で、俺も問答無用で騎士の道を歩まされていた。
でも、俺は剣を持つより包丁を持つのが好きで、俺の趣味は料理と旨いもの探しだった。
騎士団に所属していた頃は、率先して野営の調理担当に立候補していたものだ。俺が作る料理は旨いと騎士団でも評判になり、その話を聞いた当主様に転職を打診されたのが人生の転機だった。
シュテアネ侯爵邸で厨房の下働きから始め、俺は当時の料理長から熱烈指導を受けて腕を上達させていった。
当時のシュテアネ侯爵邸の料理長は高齢で、どうやら当主様のご指示で、その後釜として俺は教育されていたようだ。
騎士を辞めて料理人になった俺を当初、実家は連れ戻そうとしてきたが、当主様が何かして下さったようで、うるさい声に煩わされる事も無くなって今に至る。
当主様がシュテアネ領からシルフィード領に本拠地を移す事になった時、俺は土下座をして一緒に連れて行って欲しいと懇願した。
俺が料理の道に進もうと決めた時、俺の人生も当主様に捧げようと心に決めていたのだ。
当主様が歩まれてきた道は、俺なんかとは比べられないほどに険しく、常に生命は危険にさらされておられた。
当主様の周囲は敵が多く、シルフィード公爵家当主になられた時には殆んどの使用人が解雇なり処分なりをされ、公爵邸から人の気配が無くなった時期があった。
だが、シュテアネ侯爵邸で共に働いて来た仲間達が我先にと当主様の元へ馳せ参じた結果、今のシルフィード公爵邸がある。
まだ公爵家当主になられたばかりの頃の当主様は邸におられても常に隙が無くピリピリとされていたが、奥様をお迎えしてからは随分と雰囲気が柔らかくなられたと思う。
勿論、その違いは古参の使用人しか分からないくらいの変化だが、あの当主様が声に出して笑ったりするようになったのだから、本当に奥様の存在は尊いのだ。
シュテアネ領にいた時から、婚約者であった今の奥様の噂は聞いていた。
妖精姫と謳われる程の儚い美貌のお方だが、難病を患っておられ、いつどうなるか分からない程病弱なお方だと。
だが、当主様は婚約者であった奥様を何よりも誰よりも大切にされており、奥様と共に生きるために常に努力し続けておられた。
モーント王国のプランツ侯爵邸からシルフィード公爵邸に居を移された奥様を初めて見た時、噂もたまには真実を伝えるものなのだと知った。
奥様は本当に美しい方だった。
まさか自分が女性に見惚れる日が来るとは思わなかった。それほど、奥様は俺だけでなく、人を惹き付けてしまう方だ。
当主様に忠誠を誓っているが、邸の皆は奥様に様々な形の愛を抱いている者ばかりだ。
それは敬愛だったり親愛だったり、抱いてはならない性愛だったりだ。
俺も男だから、奥様に対して良からぬ妄想はした事があるが、実際に奥様とどうこうなりたい、どうこうしたいなんて、恐れ多いし、何より当主様が恐ろしくてそんな事は抱いた事はない。
「ナハト様…、も、駄目、出ちゃ、ああ、やぁ!」
出ちゃ?出ちゃう?何が!
益々激しくなる艷事の声と音に、俺は童貞のように体を反応させて俯いて固まった。
どうすれば良いんだ。このままでは全てが冷めてしまう。
でも、今更、午後のお茶の時間なんてお二人が過ごすとは思えないし、取り敢えず今は厨房に戻った方が良さそうだ。
もうすぐリヒトお坊っちゃまと、フローライトお嬢様が戻って来られるから、奥様考案のアンパンをまだ食べた事がない当主様に試食して頂きたかったのだが、また後日だな。
「…出直します」
「…ええ、そうして下さい、ロサン」
セーラが、口元だけ引き上げた恐ろしい笑みを浮かべながら頷いた。
護衛する二人にも会釈して立ち去ろうと向きを変えようとした時、ミネルバが声を出さずに口を動かした。
ん?何だ?ぼ、つ、き、ち、ゆ、う、い?
「……っ!」
俺は全身を真っ赤に染めて急いでその場を退散した。
ああ、なんてこった。
鎮まれ俺の息子よ。不敬だぞ。不道徳だ。
ちがう、違うんです、当主様。これはあくまでも体の反応です。
奥様に対して良からぬ事など考えてもいませんから。
ああ、何てこった。
アンパンの丸みさえ目に毒だ。
当主様、頼みますから、夫婦の営みは慎みをもって励んで下さいよ。
アンパンを見る度に元気になったらどうしてくれるんですか~!
俺はただ、出来立てホカホカの奥様考案の特製絶品アンパンを、最高に旨い状態で提供したいだけだったのだが。
「あんっ」
パン。
「あんっ」
パンパン。
いや、そこはパン一回でお願いします。
「ナハト様ぁ、ん、あふ、あん、ああ…っっ!」
パンパンパンと連続して体同士がぶつかり合う音と、奥様の鼻血物の艶声が、ピッタリと閉ざされた重厚な扉から何故か漏れ聞こえてしまっている。
えーっと、これは、もしかしなくてもそういう状況だよな。
いや、まぁ、当主様と奥様は相思相愛でいつでも仲睦まじくいらっしゃるとは知っているが、昼下がりの午後のサンルームでとは如何なものか。
普通、消音魔法くらい掛けるよな?
扉の外で護衛をしている奥様専属護衛のシェリーとミネルバは慣れているのか無表情で周囲を警戒しながら立っている。
「…チッ」
え?おい、今のは舌打ちか?
奥様命の専属侍女のセーラが、微笑みのポーカーフェイスを口元だけ微かに歪めて扉を睥睨している。
こ、怖っ!
俺は思わず厨房から押してきたアンパンとお茶セットが乗っているワゴン車のハンドルを強く握り締めた。
俺の名はロサン。
姓は有るが、実家とは音信不通になってもう随分と経つから、もしかしなくても貴族籍から抜かれているかもしれない。
今の俺は、このシルフィード公爵家の本邸の料理長をしているが、以前はシュテアネ侯爵邸の騎士団員だった。
実家が代々騎士を輩出し続けている武門家で、俺も問答無用で騎士の道を歩まされていた。
でも、俺は剣を持つより包丁を持つのが好きで、俺の趣味は料理と旨いもの探しだった。
騎士団に所属していた頃は、率先して野営の調理担当に立候補していたものだ。俺が作る料理は旨いと騎士団でも評判になり、その話を聞いた当主様に転職を打診されたのが人生の転機だった。
シュテアネ侯爵邸で厨房の下働きから始め、俺は当時の料理長から熱烈指導を受けて腕を上達させていった。
当時のシュテアネ侯爵邸の料理長は高齢で、どうやら当主様のご指示で、その後釜として俺は教育されていたようだ。
騎士を辞めて料理人になった俺を当初、実家は連れ戻そうとしてきたが、当主様が何かして下さったようで、うるさい声に煩わされる事も無くなって今に至る。
当主様がシュテアネ領からシルフィード領に本拠地を移す事になった時、俺は土下座をして一緒に連れて行って欲しいと懇願した。
俺が料理の道に進もうと決めた時、俺の人生も当主様に捧げようと心に決めていたのだ。
当主様が歩まれてきた道は、俺なんかとは比べられないほどに険しく、常に生命は危険にさらされておられた。
当主様の周囲は敵が多く、シルフィード公爵家当主になられた時には殆んどの使用人が解雇なり処分なりをされ、公爵邸から人の気配が無くなった時期があった。
だが、シュテアネ侯爵邸で共に働いて来た仲間達が我先にと当主様の元へ馳せ参じた結果、今のシルフィード公爵邸がある。
まだ公爵家当主になられたばかりの頃の当主様は邸におられても常に隙が無くピリピリとされていたが、奥様をお迎えしてからは随分と雰囲気が柔らかくなられたと思う。
勿論、その違いは古参の使用人しか分からないくらいの変化だが、あの当主様が声に出して笑ったりするようになったのだから、本当に奥様の存在は尊いのだ。
シュテアネ領にいた時から、婚約者であった今の奥様の噂は聞いていた。
妖精姫と謳われる程の儚い美貌のお方だが、難病を患っておられ、いつどうなるか分からない程病弱なお方だと。
だが、当主様は婚約者であった奥様を何よりも誰よりも大切にされており、奥様と共に生きるために常に努力し続けておられた。
モーント王国のプランツ侯爵邸からシルフィード公爵邸に居を移された奥様を初めて見た時、噂もたまには真実を伝えるものなのだと知った。
奥様は本当に美しい方だった。
まさか自分が女性に見惚れる日が来るとは思わなかった。それほど、奥様は俺だけでなく、人を惹き付けてしまう方だ。
当主様に忠誠を誓っているが、邸の皆は奥様に様々な形の愛を抱いている者ばかりだ。
それは敬愛だったり親愛だったり、抱いてはならない性愛だったりだ。
俺も男だから、奥様に対して良からぬ妄想はした事があるが、実際に奥様とどうこうなりたい、どうこうしたいなんて、恐れ多いし、何より当主様が恐ろしくてそんな事は抱いた事はない。
「ナハト様…、も、駄目、出ちゃ、ああ、やぁ!」
出ちゃ?出ちゃう?何が!
益々激しくなる艷事の声と音に、俺は童貞のように体を反応させて俯いて固まった。
どうすれば良いんだ。このままでは全てが冷めてしまう。
でも、今更、午後のお茶の時間なんてお二人が過ごすとは思えないし、取り敢えず今は厨房に戻った方が良さそうだ。
もうすぐリヒトお坊っちゃまと、フローライトお嬢様が戻って来られるから、奥様考案のアンパンをまだ食べた事がない当主様に試食して頂きたかったのだが、また後日だな。
「…出直します」
「…ええ、そうして下さい、ロサン」
セーラが、口元だけ引き上げた恐ろしい笑みを浮かべながら頷いた。
護衛する二人にも会釈して立ち去ろうと向きを変えようとした時、ミネルバが声を出さずに口を動かした。
ん?何だ?ぼ、つ、き、ち、ゆ、う、い?
「……っ!」
俺は全身を真っ赤に染めて急いでその場を退散した。
ああ、なんてこった。
鎮まれ俺の息子よ。不敬だぞ。不道徳だ。
ちがう、違うんです、当主様。これはあくまでも体の反応です。
奥様に対して良からぬ事など考えてもいませんから。
ああ、何てこった。
アンパンの丸みさえ目に毒だ。
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