怨霊首 僧玄昉

Tosagin-Ueco

文字の大きさ
2 / 4

「怨霊首 僧玄昉」N.2

しおりを挟む

                 2,
 第一章、弥勒菩薩半跏思惟像

 一、「七上足」
 玄昉様は、学問僧として唐へ渡る前、義淵様がご住持なされておりました岡寺で学んでおられました。岡寺とは元の名を龍蓋寺と称し、義淵様はこの頃法相宗の第一人者、そして海龍王経にもよく通じておられ、他に龍門寺、龍王寺など龍の名の付く五ヶ龍寺を創建なされてござります。   
 義淵様のお弟子には「七上足」と呼ばれる七人のご高弟がおりました。行基様、隆尊様、良弁様、道慈様、道鏡様など、何れのお坊様も、この後、倭国仏教界を支え、その発展に大きく寄与された優れたお弟子様達ばかりにござります。その「七上足」の一人に、玄昉様も数えられてござりましたのです。
 唐に渡る前、玄昉様は、未だ十六か十七、後に大徳、菩薩と崇められ、大僧正になられる行基様がこの頃、齢三十位、この若さで「七足上」に数えられました玄昉様がいかに優れたお方であったか、ご想像頂けるかと思います。
 玄昉様は中でも非常に優しいお顔をされていて、師・義淵様に伴れられて宮城に入られますと、女御達が一斉にざわついたとお聞きしております。

 玄昉様は熱心にご講義を聴かれ、あらゆる経典、仏典を忽ちに暗記され、そして暗誦されるほど強記の方にござりました。ご出身は阿刀氏で、阿刀氏と云えば、師の義淵様も確か大和国高市郡のご出身で俗姓は阿刀氏でござりました。阿刀氏は渡来系一族で大和、河内に多くの同族がお住みでござりますれば、玄昉様は確か河内の国、同じ渡来系のご出身かと推測してござります。
 阿刀氏について今少しくお話し申し上げます。この頃倭国は既に蘇我氏全盛の時代、蘇我氏に非ざれば人に非ず、何事も蘇我氏の思うがままの政治が行われてござりました。この蘇我氏も同じく渡来系、その先祖は朝鮮半島に由来し、倭国に渡来して後、東漢氏を中心に、近畿一円は勿論、東は伊勢志摩から濃尾辺り、西は九州一帯迄を勢力下に治めておりましたが、その祖先は秦氏の一族かと云われてござります。
 その秦氏が朝鮮半島からこの倭国に齎したものは多岐に亘り、またその技術は優れてござりました。例えば農耕、養蚕、土木、治水、機織、鉱物採掘、製銅、精錬、工芸、そして酒造技術、製塩技術、更に船運技術に優れ、いわばあらゆる職種、あらゆる分野でその高い技術と能力を発揮して、倭国の一切の産業、経済、そしてその財力で倭国の政治を牛耳ってござりました。日本書記によりますと、秦氏は朝鮮半島は伽耶の国から応神帝十四年頃倭国に渡ってきたと云われておりますが、その広範囲、かつ高い技術力で忽ちに倭国に勢力を伸ばしたと伝えられてござります。
 また、高い鍛造技術は東国(濃尾辺り)での武器造りに活かされ、蘇我氏を後援し、その武器の強靭さで倭国の武装勢力を抑え込み、都ではその武力を怖れて蘇我氏に刃向かうものなど一人もおりませんでした。
 一例を挙げますと、その昔、後に聖徳太子として広く尊敬され敬われた厩戸皇子様のご嫡男、山背大兄皇子が非道にも蘇我入鹿によって自害させられた事件をご承知のことと思いますが、山背大兄皇子様が斑鳩宮から生馬山に逃れた時、山背大兄皇子様お傍付きの三輪文屋君が、一旦ここは深草の屯倉に向かい、そこから東国へ移り、そこで態勢を立て直すよう進言なされましたことがござります。山背大兄皇子様は、仰られました、
「如卿所噵、其勝必然(そなたの申す通りすれば我らは必ず勝利する)」
 そして続けて仰られました
「但吾情冀、十年不役百姓。以一身之故、豈煩勞萬民。又於後世、不欲民言由吾之故喪己父母。豈其戰勝之後、方言丈夫哉。夫損身固國、不亦丈夫者歟」
(我は我が身の為に百姓に労を患したくはない、また後の世に、我を助けたために父母を失ったと云われたくない)」
 と云って進言を拒否し、皇子は斑鳩に還り自害なされました。
「移向於深草屯倉、從茲乘馬、詣東國」
 深草の屯倉とは秦河勝様の所領のことにござります、秦河勝様ご一族を頼り、馬(軍兵)を得て、東国即ち秦河勝様ご所領の濃尾で態勢を立て直せば必ず勝つと三輪文屋君は進言したのでござります。秦氏はその昔から厩戸皇子様とは血縁強く結ばれており、また蘇我氏統領家であろうとも秦氏の一喝でそれこそ謀叛人・入鹿の首など即座に斬り落とすことなど造作のないことでござります。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

【時代小説】 黄昏夫婦

蔵屋
歴史・時代
 江戸時代、東北地方の秋田藩は貧かった。  そんな中、真面目なひとりの武士がいた。同僚からは馬鹿にされていたが真面目な男であった。俸禄は低く貧しい。娘二人と実母との4人暮らし。  秋田藩での仕事は勘定方である。  仕事が終わると真っ直ぐ帰宅する。 ただひたすら日中は城中では勘定方の仕事をまじめにして、帰宅すれば論語を読んで知識を習得する。   そんな毎日であった。彼の名前は立花清左衛門。年齢は35歳。  娘は二人いて、一人はとめ15歳。もう一人は梅、8歳。  さて|黄昏《たそがれ》は、一日のうち日没直後、雲のない西の空に夕焼けの名残りの「赤さ」が残る時間帯のことを言う。「|黄昏時《たそがれどき)」。 「黄昏れる《たそがれる》」という動詞形もある。    「たそがれ」は、江戸時代になるまでは「たそかれ」といい、「たそかれどき」の略でよく知られていた。夕暮れの人の顔の識別がつかない暗さになると誰かれとなく、「そこにいるのは誰ですか」「誰そ彼(誰ですかあなたは)」とたずねる頃合いという意味で日常会話でよく使われた。  今回の私の小説のテーマはこの黄昏である。  この風習は広く日本で行われている。  「おはようさんです」「これからですか」「お晩でございます。いまお帰りですか」と尋ねられれば相手も答えざるを得ず、互いに誰であるかチェックすることでヨソ者を排除する意図があったとされている。  「たそかれ」という言葉は『万葉集』に 誰そ彼と われをな問ひそ 九月の 露に濡れつつ 君待つわれそ」 — 『万葉集』第10巻2240番 と登場するが、これは文字通り「誰ですかあなたは」という意味である。  「平安時代には『うつほ物語』に「たそかれどき」の用例が現れ、さらに『源氏物語』に 「寄りてこそ それかとも見め たそかれに ほのぼの見つる 夕顔の花」 — 『源氏物語』「夕顔」光源氏 と、現在のように「たそかれ」で時間帯を表す用例が現れる。  なおこの歌は、帖と登場人物の名「夕顔」の由来になった夕顔の歌への返歌である。  またこの言葉の比喩として、「最盛期は過ぎたが、多少は余力があり、滅亡するにはまだ早い状態」をという語句の用い方をする。 漢語「|黄昏《コウコン》」は日没後のまだ完全に暗くなっていない時刻を指す。「初昏」とも呼んでいた。十二時辰では「戌時」(午後7時から9時)に相当する。  「たそがれ」の動詞化の用法。日暮れの薄暗くなり始めるころを指して「空が黄昏れる」や、人生の盛りを過ぎ衰えるさまを表現して「黄昏た人」などのように使用されることがある。  この物語はフィクションです。登場人物、団体等実際に同じであっても一切関係ありません。  それでは、小説「黄昏夫婦」をお楽しみ下さい。  読者の皆様の何かにお役に立てれば幸いです。  作家 蔵屋日唱    

剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末

松風勇水(松 勇)
歴史・時代
旧題:剣客居酒屋 草間の陰 第9回歴史・時代小説大賞「読めばお腹がすく江戸グルメ賞」受賞作。 本作は『剣客居酒屋 草間の陰』から『剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末』と改題いたしました。 2025年11月28書籍刊行。 なお、レンタル部分は修正した書籍と同様のものとなっておりますが、一部の描写が割愛されたため、後続の話とは繋がりが悪くなっております。ご了承ください。 酒と肴と剣と闇 江戸情緒を添えて 江戸は本所にある居酒屋『草間』。 美味い肴が食えるということで有名なこの店の主人は、絶世の色男にして、無双の剣客でもある。 自分のことをほとんど話さないこの男、冬吉には実は隠された壮絶な過去があった。 多くの江戸の人々と関わり、その舌を満足させながら、剣の腕でも人々を救う。 その慌し日々の中で、己の過去と江戸の闇に巣食う者たちとの浅からぬ因縁に気付いていく。 店の奉公人や常連客と共に江戸を救う、包丁人にして剣客、冬吉の物語。

同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。

ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。 真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。 引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。 偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。 ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。 優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。 大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

邪神の祭壇へ無垢な筋肉を生贄として捧ぐ

BL
鍛えられた肉体、高潔な魂―― それは選ばれし“供物”の条件。 山奥の男子校「平坂学園」で、新任教師・高尾雄一は静かに歪み始める。 見えない視線、執着する生徒、触れられる肉体。 誇り高き男は、何に屈し、何に縋るのか。 心と肉体が削がれていく“儀式”が、いま始まる。

無用庵隠居清左衛門

蔵屋
歴史・時代
前老中田沼意次から引き継いで老中となった松平定信は、厳しい倹約令として|寛政の改革《かんせいのかいかく》を実施した。 第8代将軍徳川吉宗によって実施された|享保の改革《きょうほうのかいかく》、|天保の改革《てんぽうのかいかく》と合わせて幕政改革の三大改革という。 松平定信は厳しい倹約令を実施したのだった。江戸幕府は町人たちを中心とした貨幣経済の発達に伴い|逼迫《ひっぱく》した幕府の財政で苦しんでいた。 幕府の財政再建を目的とした改革を実施する事は江戸幕府にとって緊急の課題であった。 この時期、各地方の諸藩に於いても藩政改革が行われていたのであった。 そんな中、徳川家直参旗本であった緒方清左衛門は、己の出世の事しか考えない同僚に嫌気がさしていた。 清左衛門は無欲の徳川家直参旗本であった。 俸禄も入らず、出世欲もなく、ただひたすら、女房の千歳と娘の弥生と、三人仲睦まじく暮らす平穏な日々であればよかったのである。 清左衛門は『あらゆる欲を捨て去り、何もこだわらぬ無の境地になって千歳と弥生の幸せだけを願い、最後は無欲で死にたい』と思っていたのだ。 ある日、清左衛門に理不尽な言いがかりが同僚立花右近からあったのだ。 清左衛門は右近の言いがかりを相手にせず、 無視したのであった。 そして、松平定信に対して、隠居願いを提出したのであった。 「おぬし、本当にそれで良いのだな」 「拙者、一向に構いません」 「分かった。好きにするがよい」 こうして、清左衛門は隠居生活に入ったのである。

四代目 豊臣秀勝

克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。 読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。 史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。 秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。 小牧長久手で秀吉は勝てるのか? 朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか? 朝鮮征伐は行われるのか? 秀頼は生まれるのか。 秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?

処理中です...