雌蜘蛛

Tosagin-Ueco

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雌蜘蛛ー2

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 第二部「屋台」
           
 藤子の住むような小さな村では贅沢さえしなければ左程のことはなかったが、都会で暮らす人には仕事は無く、物はなく、人は飢えて、街中は復員兵、傷病兵、そして物乞いの姿で溢れ、多少でも金のある者は、田舎へと逃げ出している、と聞いた、
 ほぼ死んだ状態の敗戦後の日本、そこに新たな戦争勃発のニュース、ラジオを聞いていた人たちの顔が一斉に不安に翳った、

 藤子は、積み上げた石材に腰を掛け、顔の汗を腰に下げた手拭いで拭きながら空を見上げた、腹一杯だろうが、飢えていようが、無神経に青空は広がる、
(この先、どないしたらええ…)
 藤子のすぐ近くで集まり、岩壁から滲み出る谷水を集めて水を飲む男達、誰かが云った、
「田山の息子の、重雄、知っとろうが、その重雄、この前、親の法事で帰って来とったが、えらい羽振り良さそうな話、しとったん聞いとったが、大阪で、大きな声では言えんが、闇で物売って、ええ銭儲けしとるとか云う話しとった、物がない、食い物がない、金があっても買える物がない、他所から盗んで闇に持ち込めばこっちの云い値で、今までの10倍20倍で売れる、てな、ま、半分は大法螺やろけど、せやけど、ええ靴履いて、ええ服着てた、まんざら嘘、張ったりでもなさそうやった、朝鮮で戦争始まった、それこそ物の取り合い、果てには殺し合いになるやろ、云うとった」

 男の話は藤子の心を大きく揺さぶった、
「物がない、盗んで売っても今までの10倍、20倍」
 藤子は行商で商売を覚えた、商売は仕入れて売る、必ず払いが先に立つ、今は売れば儲かる、と判っていても、仕入れに使う金が無ければ絵に描いた餅、日々減り続け、底を尽き始めた蓄えでは、この先、何か商売しようにも、人が儲けるのを指を咥えて見ているだけ、
 だが、
「盗んで売っても今までの十倍、二十倍」
 ただで仕入れができれば、儲けは更にその何倍にも膨らむ…ただで仕入れる、とは盗むと同じ意味…
「物がない」
 一から客を探し、客が何を欲しがっているのか、何を売れば一番儲かるのか、世の中に「物」が無ければ、一から商売始めるそんな七面倒な常識は一切不要、
 何でもええ、何処かの角に立ってミカン箱を置き、その上に、盗んで来た物を並べて待つだけでええんや…

 藤子は、村の住民で、「田山重雄」を知る、繋がりを持つひとを探した、子供の頃、田山と一緒に遊んだ仲間だと云う男に会った、
 聞けば、田山は、戦後すぐ、食いあぐね、借金に塗れて一家で大阪へ夜逃げした、と云う、大阪の、詳しくは知らないが、この前、法事で顔を出していたが、聞けば築港の辺りで、嘘かホンマか羽振りよく暮らしているらしいと男は教えてくれた、
 男は、
「せやけど、誰一人、あのガキから、貸した金返して貰うたて云う話はないけどな」
 青い空を見上げ、広げた鼻穴から煙草の煙を吐き出して男はそう付け加えた、

 藤子は、人の話から大阪がどんなところか想像するが、自分が生きる上で全くの無縁のところ、そこが街だ、大都会だと云う憧れもなく、物騒な街だと聞いてもどう物騒なのか、現実には全く実感するものがなかった、
 法螺話だろうと聞いても、田山重雄の話には夢がある、
「物が有れば売れる、盗んで売っても十倍二十倍で売れる」
 商売の極意を教えられているような気持になった、
 一度は大阪で行ってみたい気持ちが湧いて来た、大阪へ行けば、金儲け、商売の道がある、いや一度、とかそんな中途半端な気持ちでは駄目や、隠した銭も、このままでは近いうちに底を尽く、
 それに嫌な話もある、国が近い内に、新紙幣を発行すると決めたらしい、旧紙幣は使えなくなり、ただの紙切れになり、落とし紙にも使えない、と貧乏人共は嘆く、国は云う、銀行に預けた金は全て新券に交換される、心配するな、と、誰も信用していない、
 藤子の隠した金は、ただの紙切れになる、今更、交換してくれと銀行に持ち込めば、何処でこの金を、と訊かれて、忽ちに警察に引っ張って行かれる、
 悠長に構えている場合やない、大阪へ行く、大阪で一生、金を持って暮らすんや…


         4、
 小さな汽船は一晩中、木っ葉のように大揺れに揺れた、雑魚寝の乗客は芋を転がすように転がり、中には隣で寝転ぶ人に乗り上げる者もいた、
 藤子は一睡も出来なかった、船室に常備の大型洗面器は乗客の吐いた汚物で忽ちに溢れ、その匂いで藤子の胃は誰かに掴まれてでもいるような、激しい吐き気に悩まされた、

 朝になり、凪になり揺れが収まった、大阪湾に入った、と誰かが云う、デッキに出た藤子は、大きく息をして、胸に溜まった汚い空気を吐き出した、何か、心の底に沈殿していた嫌なものが全部吐き出されたような気分になった、
 徳田の車に乗って行商に向かっていた途中、擦れ違った機関車が吐き出した煙に徳田の車が包みこまれたことがあった、その時と同じ匂いが潮風に風に混じって藤子の鼻をつく、 
 船は波を切って進むが、その泡が、まるで油でも流したような色をして、嗅げば実際に油臭かった、藤子は却って、これが大阪の街の匂い、なんや、と感動しながら、岸壁に延々と続く工場群の景色に見惚れていた、
 船の舳先の向こうに、水平線上に大小のビルの群れが居並び、また無数の高い煙突が並び、そのてっぺんから真っ黒い煙が空に向かって吹き上がっている、大阪や、大阪へ着いたんや、訳のわからない感動が湧いてくる、その反動か、藤子は、昨日、耕三に話したことを思い出した、
「うちな、今日の夜行便で、大阪へ行く、あんた、悪いけど、留守番しとって、な」
 耕三の口に、粥を掬って飲ませながら、独り言のように藤子は云う、驚いたか、耕三の体が僅かに、痙攣した、
「あかん、もう決めたんや、あんたのことは心配せんでええ、いつものように春猪ばあには頼んどいた、明日から来てくれる、月々書留で銭送るから心配せんでええ、判れへん、せやけど、今度は長い、思う、うち、しっかり銭儲けるまで帰れへん、つもりなんや、辛抱しとってほしいんや、帰ってくるときはあんたにも土産買うてくるし、それにな、早う銭儲けて、あんたに約束したように、早う大きな病院で、ええ先生に診てもらわなあかんのや、な、せやよって、あんたも、うち居らんでも頑張ってな」
 船は速度を落とした、藤子は、思った、耕三に話しかけながら、耕三の顔を見るのもこれが最後かな、と、可哀想、にも思う、しかし、藤子は自身の心に云う、
(うちの所為やあらへん、全部あんたが悪いんやで、うちがこないなことせなあかんのは、全部あんたが悪いんやで)

 
 竹で編んだ行李を背中に背負って船を降りた藤子は、待合を抜けて通りに出て、その途端、呆気に取られた、蟻のように大勢の人が互いにぶつかり合いながらもひたすら早足でものも云わず歩き、路の真ん中を色んな大きさのトラックが荷物を満載に右に左に、真っ黒い煙を撒き散らして走り抜けて行く、
 こんな光景、見たことも無ければ想像さえしたことがなかった、女と肩がぶつかり、睨まれたが、藤子は聞いた、
「築港ってどの辺ですかね」
 女は邪魔くさそうな目をして、指で地面を指して云った、
「ここや」
「あのう、田山、田山重雄さんの家、何処か」
「知るか、そんなん、あほ、そこ退いてんか、邪魔や」
 藤子の村でも、行商に行った先でも、誰かに訊けば必ず丁寧に教えて貰えたが、街の人は不親切なんや、諦めて藤子は、人通りの少ない裏道を選んで歩きながら、自分の余りの田舎者振り、無知を、そして何も考えず勢いだけで飛び出してきたことが今になって後悔された、

 路地には、空襲の跡か、手付かずの、焼け崩れ焦げた柱だけが残る家が並んでいる、途方に暮れた様子で家の残骸を眺めているひとの姿をあちこちで見かけた、柱は今も燻っているような焦げ臭いにおいが辺りに満ち、流れる風に、人の肉を、髪を焼いたような、胃を混ぜ返すような嫌な匂いが混じっている、

 少しばかり広い空き地があった、圧し合うように、トタン板で囲った家が立ち並び、七輪で魚を焼いたり、鍋の蓋を開け閉めする女たちの姿が狭い路地に見えた、
 藤子は疲れ果てていた、とにかく体を休めたい、見つけた空き地の端に少しの隙間を見つけ、そこに行李を下ろし、それに崩れるように凭れた、

 ひとの賑わう声に藤子は目が覚めた、夕暮れていた、寝てしまっていた、藤子はモンペの下に巻いた腹巻をまさぐった、金券の包みの膨らみが確認出来て安心した、行李を縛った紐も切られていなかった、
 そんな藤子をまるで石ころのように無視して人がすぐそばを行き交う、隙っ腹に応えるような匂いが立ち込めていた、藤子はこの丸一日何も口にしていなかった、腹が減ってたまらない、行李を背負い、ひとの流れに紛れて暫く行くと、そこは焼け跡を片付けて、ちょっとした更地の広場になって、露店が犇めいて並んでいた、
 人に見られぬように、モンペ下の腹巻から一円券数枚を掴みだして、一軒の、一番強烈に食欲を煽る屋台の前に立った、うまいと評判の屋台か、前には他所の露店の倍ほど長いひとの行列、人だかりが出来ていた、
 漸く順番が回って来た、ホルモン焼きの店、しかし藤子は何をどう注文して良いか判らず、何も言わず数枚の一円券を出した、店主、暫く藤子を怪訝そうに見ていたが、鉄板の上の肉を皿に載せて渡してくれた、
 量の多さに驚いたが、藤子は屋台の裏に回り、貪るように食べた、藤子のそんな様子を店主が時に振り返って見る、その内、目が合って藤子が愛想笑いのつもりで歯を見せたが、店主は、別段表情も変えず、鉄板の上のホルモンを転がして焼いている、

                      
 腹が満たされて強い眠気に襲われた、抗し切れず藤子は行李に凭れて寝てしまった、
 水洗いする音で目が覚めた藤子、ホルモン焼き屋の店主が洗い物をしていた、辺りは真っ暗闇だった、起き上がろうとした藤子は、肩に何か毛布のようなものが被さっていることに気付いた、きょろきょろと、昼寝から覚めて親を探す子供のように辺りを見回した、
「お、起きたか、よう寝よった、のお」
 店主が洗い物する手を止めて、藤子から毛布を取った、
「おっちゃん、毛布、掛けてくれたんや、おおきに」
「この俺のどこ見て、おっちゃんて呼ぶんや、せやけど、礼、云うとる場合やない、早う家、帰って寝ろ、こんなとこ、夜中、うろうろしとったら、裸にされていてこまされるぜ」
 藤子はどう返事してよいか判らず押し黙った、
「何んや、家、無いんかいな、難儀やな、ほな、わしとこ、一晩、泊めたる、来るか?」
 悪いひとには見えない、第一、赤の他人、やのに、眠ってしまった藤子に毛布を掛けてくれた、藤子は子供のように頷いた、
「しようないのお」


              5、
 店主が屋台を曳き、藤子が後ろから押して、数十分、一帯、多少でも焼け残った家が散在する辺り、軒の連なる長屋のその内の一軒の戸口の前に屋台を停め、道具を一式、家の中に運び込み終えた、店主が云った、
「広い家や、遠慮せんと入れ、飯、用意したるよって、そこで座って待て」
 行李を狭い座敷に置き、座敷に上がって云われたまま卓袱台の前に座って、きょろきょろと家の中の様子を見ていると、店主は焼いた干物を一匹乗せた皿と、冷えた麦飯を山盛りに盛った椀を持ってきた、熱い汁が添えてあった、
「大阪で一番のご馳走や、遠慮せんと食え」
 深くかぶっていた帽子を取った店主の顔、皺枯れ声から想像していたよりはるかに若く、また鼻筋も通ったいい男、だった、藤子は暫く呆っけにとられて男の顔に見惚れてしまっていた、
「何、ひとの顔じろじろ見とるんや、さっさと飯、食え、寝るまでに洗い物んせなあかんねや」
 さっき、たらふく食ったホルモン焼きは、空きっ腹ですっかり消化されたか、藤子は焼いた干物の匂いにつられて貪り食った、
「ほんま、うまそうに食うのお、飯食うたら、裏に盥に湯入れたるから、行水して、この隣の間で、寝たらええ」
「大きに、済みません、せやけど、兄さん、うちがそこで寝たら、兄さん、何処で寝るん?寝るとこ有る?」
「ひとの家来て、寝るとこ有る、て聞くな、ぼけ、ええから、寝たらええね、せやけど、朝になったら出て行くんやで、何処へ行くつもりなんか知らんけど」
「築港の、田山重雄さんのとこへ行く」
 藤子の子供のような物言いに、
「あのな、築港のどこか知らんけど、そのひとの家、知ってんのか?」
「知らん、築港で田山重雄とひとに聞いたら判る、と思うて出て来た」
「お前、あほか、住所知ってても、そんなもん、家焼けて、柱の一本も灰の一握りも残ってないわ、ほんま、アホやな、ほんで明日、どないすんね?その人、探しに行くのか?無理やで、云うとくけど」

 盥にたっぷりの湯、裸になって藤子は湯を浴び、盥横の板上の石鹸を使って体を洗う、さっぱりと湯上りした藤子、卓袱台で湯飲みに入れた酒を飲む店主に礼を云う、
「ま、ええがな、礼云われる程のことはしてへん」
 と顔を上げて藤子を見た店主、暫く藤子の顔を凝っと見る、
「ねえさん、えらい別嬪や、そんじょそこらのパンパン、姉さんの顔見たら恥ずかしいなってどこかへ逃げて行きよる」
「ま、うまいこと、云うて、それよか、うちにもちょびっと、それ飲ませて」
「あ、これか、安物んやで、ま、飲み」
 冷たい酒が喉を心地良く通る、藤子の顔が忽ち赤く染まる、
「兄さん、名前教えて、うちな、藤子って云うね」
「あ、俺か、俺は竜次、たつの字の竜に、それに次ぐの字書いて、りゅうじ、以後お見知りおきを」
「兄さん、男前やな、見てまうわ、一人なん?」
「甲斐性ないよって、誰も寄り付かん、それより、ねえさんもえらい別嬪や」
「あんな、二人で褒め合うてどないすんね」
 二人は大笑いする、
 竜次が湯浴びしている間に藤子は洗い物を済ませ、卓袱台を除けて敷いてくれてあった布団に座って竜次を待つ、竜次がさっぱり顔で座敷に座る、
「竜次さん、うち、お願い有る、聞いてくれへんやろか」
「何んや、銭貸してくれは無理や、俺も無い、他のことやったら、何とでも聞いたる」
「銭はええね、うち、ほんまは何処も行くとこないね、さっき云うてた田山重雄のとこも用事があって来たんやない、全然会うたことも見たこともないねん、結構羽振りがええて聞いたもんやから、それ当てにして来たんやけど、大阪がこないに迄成ってるて知らなんだ、
 それで、な、お願い、や云うの、な、兄さんの店で、別に給金やら要らんから、ここで暫くの間だけ、寝かせてくれたらええね、店の手伝いさせて貰われへんやろか」
 竜次、暫く藤子の眼を真剣に見ていたが、
「俺もな、俺からあんたに、もし何処も行くとこ無いんやったら、俺の店、手伝うて貰われへんか、考えてたとこやねん、あんたみたいな別嬪、うちの店で、いらっしゃい、て云うてくれるだけで、客、一遍に増える、思うね」
「竜次さんの店、えらいいっぱいお客さん、来てたやんか、そのお客さんに逃げられんよう、精々顔、おしろい、塗りたくって店、顔出して手伝いさせて貰いますわ」
「そうか、ほな、話は決まった、前祝いや、これ、飲んでまお」

         6、
 屋台は藤子が手伝いをするようになって増々繁盛した、訪れる客は貨物運送業、雑貨商、市場の仲買人、また港に近いこともあって貨物船の船員や漁師の客も多かった、 
 その誰もが、やたらと明るかった、会話は互いに貶し合い、喧嘩腰に云い合うが互いに大声で笑い、酒を酌み交わし、ホルモン焼きを噛み千切って食う、
 客は金払いも良かった、釣り銭をわたそうとすると、
「とっとき、あんたら夫婦、家買うときの足しにしたらええ」
 と云う、正式に夫婦でもないし家を買う予定もない、意味が解らずきょとんとする藤子に竜次が袖を引く、
「こんな時はな、おおきに、云うたらあかんのやで、こんなもんで足しになるかいや、と怒ったように云うんやで」
 それでも意味が解らぬまま、
「こんなもんで家買う足しになるかいや」
 と子供が教えられた台詞を棒読みするように云った、客はそれを待っていたかのように、すかさず云う、
「誰がその銭で家買え、云うた、買う時の“足し”にせえ、て云うたんや」
 竜次が横から藤子の袖を引っ張って小声で教える通り、藤子はそれをそのまま口真似した、
「おおきに、ほな、これ、その時の足しにさせてもらいます」
 客と、藤子と竜次のやり取りを聞いていた客が待ってましたとばかりに大爆笑、ホルモン焼きの仕込んだネタが切れて店閉めるまで店は毎夜、笑いの渦、商売は大いに繁盛した、

 藤子は盥の湯で体を流し、さっぱりして一間だけの部屋に戻ると、卓袱台にはいつものように晩飯の用意が出来ていた、
 ネタの仕入れ、仕込みで、朝は早く、夜は遅い、藤子以上にくたくたに疲れているだろうに、あれしろこれしろと怒鳴りもせず、こんなに優しい気遣いをしてくれる、有難かった、思うと、ふと涙が零れた、
「何、泣いてんね、里に残して来た亭主のことでも思い出したんか」
 藤子は自分のことを何も竜次に喋っていなかった、また竜次も遠慮してか何も尋ねなかった、
「そやない、竜次があんまり優しいんで、うれしいなって、涙が出て来た、ありがとな、竜次」
「ありゃ、急に改まって、礼、云わないかんのはこっちの方や、藤ちゃんが来てくれてから屋台、大繁盛や、おおきに、な」
「うち、な、別に里に、亭主やら男やら居てないね、行かず後家やね」
「ほんま、か?男が藤ちゃん見て、放っとく訳ないやん、ほんまにな、男居てないんやったら俺と所帯持ってくれへんか、嫌や、やったら無理にとは云わへんけど、どないや?」
「こんなうちでもええ云うてくれるんやったら」

 小さくてもちゃんとした店を構えることを夢に、二人は寝る間も惜しんで働いた、
 或る夜、露天を囲む客を押しのけて、四人の、全身入れ墨だらけの男達が現れた、竜次の顔が引き攣っている、
「おう、ようやっと見つけたぜ、竜次、こんなとこで商売しとったとはな、お前、逃げてから、ワイら、お前探して組連れ戻すまで帰って来んな、て云われて、大阪中、毎晩、飯も食わんと、こないして探しまくってたんや、
 お前な、落とし前つけなあかんやろ、来い、一緒に来い、事務所行って、落とし前付けてもらわなあかんのや」
 竜次は、ホルモンを焼いていたコテを男達に投げつけると身を翻して、他の屋台の隙間を縫って逃げた、男達は兔を追う野良犬のように追った、

 人が一塊に群れて騒いでいた、藤子は胸騒ぎがして今にもその場に座り込んでしまいそうだった、だが気を持ち直して、人だかりの中を押し退けて一番前に出た、真ん中に囲まれて、俯せに倒れた男の背中、その背中に一本のナイフが突き刺さっていた、男の背中は血に塗れて痙攣している、
 藤子は駆け寄り、抱き起こした、男の口から血が吐き出された、
「竜次、竜次」
 竜次は顔を起こし、何か云い掛けたが溢れる血に口を塞がれ、そして体をばね仕掛けのように反り返ると、その体は硬直して、動かなくなった、
「あいつら、谷川組の奴らやで、一人、顔知ってる奴がいた」
「谷川組に狙われたら終りや、この前も、イクタマの方で出入りがあって、4、5人死んだらしい」
「進駐軍の物資横流しで儲けてるらしい、ま、今は触らぬ神に祟りなしや」

          
 何処ででも喧嘩沙汰が起こり、何処ででも人が刺され、撃たれ、そして殺されていた、人は流れた、昨日の夜はあそこが栄えた、今夜はここが、しかし明日は何処に人が群れるか分からない、
 藤子は毎夜、同じ場所に、竜次が殺された翌日も屋台の店を出した、鉄板でホルモンを焼いて客を待った、ひとはこの空き地に寄り付かなくなった、人が殺されたことを怖れたのではない、人の死を忌むのでもない、ただ、あれだけの人が理由もなく何処かへ流れて行ってしまったのだ、藤子は都会のひとの気移りの速さを身をもって知った、工員風の男た数人が、港湾関係の男ら数人が、仕事から帰る道すがらに立ち寄り、一杯飲んで、一口ホルモン咬んで、僅かな金を払って帰るだけだった、それでも屋台の不景気を案じてくれる客の一人が云って呉れた、
「…の焼け跡が今、よう客来とる、みたいやで、こんなとこ、もう諦めて、そこへ行ったらええね、姉さん、あんたみたいな器量やったら、客、なんぼでも付きよんで」

 そんなしけた客を相手にしていて、藤子は或る夜、ふと一人の男の姿に気が付いた、確か昨日の夜も、いや、その前の夜も…そう云えば、竜次が殺されて、次の夜から、同じ姿があった…
 閑散とした空き地、歯が抜けたように一軒、二軒と屋台が消えて、その空いた狭い所にその男の影が見えていた、ここは客の殆どが肉体労働者、そこにカッターシャツ姿の会社員ふう、気付いてしまえば、つい、その姿を捜してしまう、
 その男が、時々藤子の方にちらっと視線を向けてくる、それは素人のものとは違う、刺すような目つき、竜次を殺したやくざ者の一人かと思ったが、そんな粗暴な様子はない、藤子は思った、もう何でもええ、殺すなら早よ殺せ、死んだ方がよっぽどましや、と無視した、

 藤子は、客の、他の場所なら客、仰山来とる、あんたやったら、客なんぼでも付くわ、の一言につられ、露店が繁盛しているらしいその空き地を見に行った、だが、開店準備中の女たちが、藤子の姿を目敏く見つけて、中には手に包丁をぶら下げた女もいて藤子を囲んで云った、
「姐さん、わてらな、ここで商売させて貰う迄、何日掛けたと思うてんね、タダやないんやで、一日二日の話やないんや、それをな、いきなり、今のとこ、商売ならへんよって、こっちで商売したい、て勝手に、いきなり店出されたらわてら困るねんや、殺された竜次かて、わてら竜次、よう知ってんね、その竜次が、あそこで商売出来るようなるまでどない苦労したか、あんた聞いてないんか?あんなに苦労して、皆に筋通して商売しても、あないに、義理欠いたて殺されてまうんや、
 ええか、この辺り、物欲しそうにうろちょろせんといてくれるか、今度見掛けたら、承知せえへんぞ、その折角の別嬪の顔、割れたガラスで、ギザギザに切り刻んでまうで、このどスベタが」

 やはり店を続ける気力が次第と萎え、それに気力があっても商売を続けるにも金が乏しくなった、隠し持った金も、数度の新券発行と朝鮮戦争の影響で物が高騰して、忽ちに底をついてしまった、仕入れにも事欠き、一日、何もしないで過ごす日が多くなった、 
 あの日、大阪に着いて以来、藤子はこの築港界隈から離れたことがなかった、歩いてみた、この大都会に土地勘はまるでない、角々の家の、黒焦げた表札で今、何んという名の町に居るのか知ったが、果たしてそれが、焼け跡だらけのこの大都会の、どの辺りなのか判らなかった、

 大きな門構えの家、寺が大きな通りを挟んで並んでいた、焼けて土壁だけになった寺や半分だけ焼け残った家もある、
 門の立て札に、難しそうな漢字、何んとか山、何んとか寺と、山と寺の文字だけ藤子に読めた、通りすがりに、ここ何処ですね?と尋ねると、てらまっちや、と教えてくれた、
 暫く歩くと、通りの裏に、石造りの大きな鳥居を見つけ、鳥居のすぐそばに、藤子には読めぬが深く彫って墨で大書した慰霊碑らしきものが建っていた、藤子は慣れぬ長時間の歩きで足が痛み、丁度その石碑が座り心地が良さそうに見えて、そこにへたるように座り込んだ、


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