雌蜘蛛

Tosagin-Ueco

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雌蜘蛛ー3

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 第三部「料亭」
              7、
「あんた、何してんのや、そんなとこ座ってからに、罰が当たんぞ、戦没者の英霊に、さっさと退けや」
 いきなりどやしつけられて藤子は目が覚めた、箒を持った縮んだように小さな老女が睨んでいた、
「あ、えらい済みません、そんなん、知らんかったんで、えらい済みません…
 あのう、ここ、何て云う神様、なんですか?」
「そんなんも知らんとここ座ってたんかいな、ここは、な、イクタマ、さんや、イクタマさん」
「何の神様なんですか?」
「何の神様て、そんなん知らん、神様云うたら神様や、せやけど、ひとが云うには、な」
 老女の顔に、卑猥な笑みが浮かぶ、
「イクタマて、生む玉、生ます玉て書くんや、ええ名前やんか、やらしい思えへんか?イクタマやて、あはは、うちの爺、大分前からシニタマや、あはは」

 藤子はとぼとぼと歩く、夕暮れていた、同じところをぐるっと回ってきたのか、元の石の鳥居のところに戻って来ていた、
 昼間と違い、大きな門構えの家や寺が並ぶ表通りから、その裏の狭い路地に入ると、小料理屋の明かりの点いた提灯や暖簾が店先に並んでいて藤子は驚いた、昼間歩いた時には全くこれらの店に気が付かなかった、
 竜次のことを思い出させた、竜次はよく口にしていた、
「店、持ちたい」
 藤子には竜次の云う「店」がどんなものなのか具体的に聞いたことはない、聞く間もない程忙しく、店が終わればくたくたになり泥のように二人は眠った、
 今、初めて、知った、竜次の夢、竜次の持ちたかった店は、こんな洒落た小料理屋、だったのか、と、
 この狭い通りを、向こうから矢鱈と騒がしい一団がやってくる、色も柄も、それに胸まで開いた、丁度アメリカ映画の看板のようなど派手なシャツに、足元まで長いひらひらのスカートを履いた女達と、天井まで届きそうな背の高い進駐軍兵たち、だった、
 女たちはその恰好から「パンパン」と呼ばれる売春婦に違いない、噂には聞いていたが藤子は初めて見て圧倒され、店の隙間に体を隠して一団が通り過ぎるのを待った、
 進駐軍兵士の一人が藤子の姿を見つけ、不意に口笛を吹いた、藤子は忽ちに囲まれてしまい身動き出来なくなった、進駐軍兵士の一人がその大きな腕を伸ばし藤子の乳房を掴んだ、
「何すんね、このアメ公が」
 兵士は驚いて手をすっこめたが、女達が藤子に体を押し付けるようにして囲んだ、女たちは皆な口をくちゃくちゃ何か噛んでいる、進駐軍兵士が何か叫んだ、
「あんた、別嬪や、て兵隊さんが云うてる、あんた、ここで何してんねん?ここはな、あんたらど素人が来ていきなり商売されたらワテら困るね、さっさと消えな、今度見つけたらタダおかんよ」
 藤子は訳も分からず、頭を下げて
「すんません」
 と謝った、女と進駐軍兵士の一団は、元のように大騒ぎしながら、ふと、3階建ての、小さな、赤く塗った外灯の点いた、白い建物の中へと入って行った、
 一団を見送った藤子は、その白い建物の前に立って、外灯を見た、
 正面に英語みたいな横文字が書いてあり、横の面に、ホテルタニガワ、と書いてある、ホルモン焼き屋台で、酔った店の常連客が、藤子にしつこく言い寄ってきた、ことを思い出した、
「な、フジちゃん、ワイとホテル行こう、な、一遍でええ、金、なんぼでも出すさかい、な、頼むわ、な、一遍ワイ、ホテル行きたいね、シャレた風呂があって、外から透けて見えて、進駐軍払下げの大きなベッドがあって、ピンク色の照明がついて、フジちゃんの湯上りの肌がほんのりとピンクに染まって」
 余りのしつこさと酔って他の客に迷惑になり、竜次が空き地の暗い場所に連れ出して行って以来、この男の顔を見なくなった、
 小料理屋の提灯が並ぶ路地に、一見、そんなホテルふうに入口に改造した建物が他に何軒か見えた、
 夕暮れ、慰霊碑で眠りこけた藤子を起こした老女がにやけて云ったことを思い出した、
「イクタマや、イクタマ、生ませる玉と書いて、イクタマや」
 敗戦後、進駐軍に強制排除された遊郭、赤線地帯と呼んでいたが、この界隈は、その一帯かと藤子は思った、
 表通りに大きな門構えの寺が居並び、その裏の路地に、ひとの本能、色欲の吐き捨て場、藤子は、表と裏の様子が何んとなく納得出来て、ふと笑いそうになった、
(そうなんや、ひとは皆な、表向き、善男善女、せやけど、その裏は、ほんまの心の中は、皆な、金持ちも貧乏人も、坊主も乞食も皆一緒、なんや、あれすることだけ考えて生きてんねや)

「ホテルタニガワ」の壁に凭れるように立つ、隣の小料理屋、その入り口戸に、ナカイさん募集、と書いてある、「募集」の漢字は読めなかったが、仲居を捜している、と判る、
 藤子は気をそそられた、が、なかなか決心がつかず、その小料理屋の前を行ったり来たりを繰り返した、
 ふと戸が開いて、前掛け姿の女と、商売人風の男が出て来た、
「女将、おおきに、うまかった、ええ機嫌なった、ほんまは女将誘うて、隣のこっちに入りたいんやけど、どうせ断られて恥かくだけなんで諦めて、帰って嫁さんの機嫌でもとりますわ」
「そないしたらええ、うちも誘われても、はっきり断るし、ほな、また、寄ってや」
 酔客の肩を押して、その背中を見送った前掛け女、店に戻ろうとして、すぐ前に立つ藤子に気付き、暫く値踏みするように、視線を上下させて藤子の様子を見ていたが、振り返って店に戻ろうとした、
「あ、あの、すみません」
 藤子の意志に関係なく、気付いた時はそう、声を掛けていた、
「あの、これ、仲居さん、の?」
「そうや」
 前掛け女は、藤子の様子を、もう一度、上から下へと見直して、
「あんた、うちで働きたいんか?ま、そなら一遍、中へ入って貰うて話、聞かせて貰おうか、こっち来てんか」

             

                8、
  間口が狭く、客の3,4人も入れば満席、その程度に思って中に入って藤子は驚いた、奥に長く通路があり、片側に障子で囲った座敷部屋が並び、酔客のガサツな声に混じって女たちの嬌声が賑やかに聞こえる、どの部屋も客がいて、その前の通路を通り抜けて、奥の調理場に案内された、
 板前が忙し気に皿に料理を盛りつけ、仲居がそれを受け取って走る、板前の一人が手を休め、入って来た藤子を上から下へと、何か見惚れるふうに見る、
 調理場の奥に、更に座敷が一つ、障子が開いていて、卓袱台に、白髪の坊主頭で、寺の住職が着るような黒の薄い羽織を着た男の背中が見え、男は手酌で酒を飲んでいる、
 ふとその男が何かに気付いたように調理場を振り向き、藤子に気付き、そしてもう一度振り返って藤子を見直した、何だか驚いたふうな顔、だが、前掛け姿の、藤子を案内してきた女の視線に気付いて、目を逸らした、この動作で二人の関係が読めた、
 藤子に、この男に、何処かで見たような記憶が、しかし、初めて見る調理場や店内の様子が、藤子の記憶を惑せて、何も思い当たらなかった、

 前掛けの女は、店の女将で、里子と云った、藤子の話を特に詳しくも聞かず、すぐ雇ってくれた、こうした職を求める女の事情を心得てのことか、
「せやったら、住み込みで働いてくれたらええ、部屋用意しとくし、ここへいつでも来たらええ、住み込みやよって、飯は賄いで済ましてくれたらええ、風呂は近くの銭湯で」
 と、これから住む家の地図を書いて渡してくれた、

 何も考えずに飛び込みで入った全くの新しい世界だったが、その新しさのどれもが藤子には刺激的だった、料理の名前を仲居らから教えて貰い、その仲居らとのしゃべりも楽しく、そして何よりも、藤子は板前の包丁さばきに、自身も港で揚がった魚を三枚におろしたりして慣れている筈が、板前の捌きについつい見惚れてしまう程に、その時間が楽しくてならなかった、
 板前の、白い帽子に割烹着姿、藤子は竜次の姿をそこに重ねて思い出す、竜次は、口癖のように、いつか店を持つんや、と云っていた、
(うち、いつか、あんたの代わりにこんな店持って、うちがあんたの代わりに割烹着着て、そいで、店の名前、うちな、もう店の名前、決めてんね、何んや思う?あんた、楽しみに待っててや)

 仲居らはあけすけに色んな話をしてくれた、
 女将の里子は、旦那、谷川のお妾さんで、元はミナミ界隈でパンパンやっていたが、その男勝りの器量と客扱いのうまさを買われて、店を任されるようになった、その他にも、ありそうななさそうなことを尾鰭を付けて面白可笑しく話してくれた、
 旦那の谷川は、この寺町では、昔からの大寺の、そこの次男坊、若いころから結構やんちゃして、親から二度、三度勘当されていたが、兄が戦死して寺の跡継ぎになった、
 が、親や他の兄弟と違って、子供の頃から、やくざとも付き合いがあり、その分、世間浮世のこと、よく心得ていて、商売にも丈け、この辺りでも、真っ先に、寺の敷地に飲み屋街作って、この店の隣に、進駐軍の兵隊さん専門のホテルまで建てて、こっちでも大儲け、している、と教えてくれた、
 そんな旦那に見込まれて店を任され、大いに繁盛させていると云う女将の話を仲居らから聞きながら、そんな女将を、藤子は聞いているだけで女ながらに惚れてしまっていた、
 実際、女将の、刃傷沙汰の二つ、三つも混じる噂話をする仲居ら自身も、女将のそんな男勝りの度胸の良さに惚れているような口ぶりで話すのだった、
「すごいな、女将さん、うちなんかとてもやないけどそんな真似出来ませんわ」
 藤子のそのひとことで、仲居らに冷たい空気が流れた、
「ん?どうしたん?うち、何か要らんこと云いましたんやろか?」
 仲居の一人が小声で云った、
「うちら、誰も女将さんに云うてないけど、この前、な、あんた、店出て来る前に、男が一人、まだ店開けてないのに、入ってきて、な、いきなりな、
(ここに、藤子って女、働いてるか?)
 ていきなり尋きよんね、
(あんた、誰やね、店まだ開けてないんや、さっさと出てくれんか、うちら、忙しいね)
 て云ってやったら、その男、うちのこと、下から睨め上げるようにうちを見て、
(ぐちゃぐちゃ抜かすな、いてこますぞ、ここに藤子がおるのかおらんのかだけ訊いてんねや)
 いきなりそんなんやで、うちも負けてられへんや、
(フジちゃんに何の用事やね)
 て、かましたってん、そしたら、何も云わんと出てったんや、あんた、何か、したん?ま、云うても、うちらもそこそこのことしてここに来てんねんから、あんたが何してきてようが、ええねんけど、な、せやけど何も心配せんでええねんで、うちら、何も女将に云わへんし」
 藤子は仲居の話を聞きながら、竜次が殺された翌くる晩辺りから、藤子の方を鋭い目つきで、見張っていた男の姿を思い出した、
「どんな格好、しとった?」
 聞けば、普通の会社員ふうに、カッターシャツ着ていた、と教えてくれた、
 やっぱり、あの男、だった、
 何者なんや、あいつ、うちに何か因縁有ねんやろか?
「ま、姉さんらにも負けんように、うちも、オイタ、何回か、してきてますんで」
 茶化した口調で云うと仲居らもほっとしたように笑ってみせた、


               9、
 一人に成った時、藤子はその男のことが気になった、
(誰なんやろ、あの時と同じ、カッターシャツの男、なんやろか、うちに何の用事が有んね?もしかして、うちのこと、付け回してる?)
 藤子は、仲居が藤子に話したこと、あれで全部、だったのか、とふと疑心が湧いた、女将の刃傷沙汰の話を聞き終わって、藤子が、
(うちなんかとてもそんな真似出来へん)
 と云った時、皆な急に一瞬押し黙った、そして一人の仲居が、その冷たい沈黙を破ろうと急に、取って付けたように、不審訪問者の話を始め、そして、最後に、
(心配せんでええ、うちら女将に何も云わへん)
 と云った、ことが思い出された、
(心配せんでええ、何も云わへん)
 て、どう云う意味?
 連鎖的に、もう一つ、藤子は思い出した、
(フジちゃんに何の用事やね)
 この一言で、男は、ここに藤子がいると確信した、藤子の所在を確かめたあと、男は藤子のことを何か喋った、それで、
(心配せんでええ、何も云わへん)
 男は仲居は何か話した…
 それにしても藤子の所在を確めに来た男、いったい何者なん?この男、仲居らに、藤子がここに居るかどうかと尋ねた、とだけ仲居は云ったが、この男、他に、何か、仲居らに云った、ことは間違いない…  
(他に何か?あの男、もしかして、警察?)
 警察なら、藤子に心当たりするのは、棄てて来た漁師村、徳田の家から盗み、行商の売り上げから掠めた金の事、もしかしてあのくそ婆が、警察に今もしつこく訴えている?
 しかし、もしそうなら、とも思う、ここに藤子が居ると判れば、警官ならば問答無用に引っ張っていく、筈…
 それとも、決定的な証拠、隠した金の在り処を見つけようと、陰に陽なたに藤子を付け回して、藤子を燻り出そうとしているのか?
 仲居らのあの時の冷たい沈黙を、冷静になって思い返す藤子、男が、仲居らに、藤子の、そんな過去の盗癖をばらした…んや、
 別にええ、何を云われようが別にどうでもええ、別にひとを殺した訳やないし、たかが、その時は大金、せやけど今となっては三文の値打ちも無い紙屑、うちはただの便所の落とし紙、盗んだだけのことや…

 空襲でも受けたのか、焼け焦げた柱や板を壁板にしてに建て付けた木造長屋、ここが仲居らに宛がわれた家だった、一つの長い屋根の下、何軒かに区切られ、親子で住む者、独り身の者、皆同じ職場で働く者同士、お互いに気兼ねがない、ちょっとしたものも貸し借りし合って不自由はなかった、
 ここに住む仲居らの、子供の悪さを怒って追っかけ回す姿、ごきぶりのように家から這い出て行く亭主の背中を罵り倒す声が表に迄響き、訪ねて来た借金取りに涙流して、もうちょっと待ってと懇願する姿、女たちの店でのしゃきっとした姿と違う、それぞれの裏の一面が見えて、藤子には何となく微笑ましかった、そしてふと思う、
(うちにはこんな幸せ、もう無いんや、せやけど竜次、うち、ここなら永く働けそうや、頑張るから見てて、な)
 が、ただ一つ、難儀なのは、銭湯、ちょっと遠出しなければならなかった、
 帰りが遅くなると一人で通うにはやはりまだ世の中物騒で、仲居らの勧めで店に隣接するホテルタニガワの、その晩、客のない部屋の風呂が使えるというので、藤子は出来るだけそっちを利用するようにした、
(せやけど、気ィつけや)
 と仲居らに教えられてた、
(何に気ィ付けるん?)
 と訊いたら、仲居らはにやにやと笑うだけで何も教えてくれなかった、


                 10、
 湯舟にとっぷりと体を沈めていると、隣室から、女の恍惚とした、しかしどこかわざとらしい商売用の鼻声や、大柄の米兵らしい喘ぎがもろに聞こえてくる、竜次を失って以後の藤子には刺激がきつ過ぎた、気ィ付けや、とはこのことを云うのか、と藤子は思って、しかし特に気にはならなかった、
 或る夜、湯舟に浸かって天井を見上げていた藤子は、モルタルで塗り固めた天井の隅の方に、ひび割れて小さな穴があったことに初めて気が付いた、
 天井の穴、屋根裏の蜘蛛の巣など、そんなものに見慣れた藤子は別に気にもならなかったが、湯舟でふと体を動かした時、その小さな穴の奥から、何か灯りのようなものがちらりと光って見えた、気がして暫く様子を見た、
 そして天井裏に何か布か何かが擦れるような物音、がした、だが鼠とかそんな軽量の音ではない、わざと天井を見ない振りをしていると、その小さな穴から、ひとの息を吐くような音がはっきり聞こえた、
(ひとや、誰か覗いてるんや)
 だが、藤子は驚きはしない、仲居らが笑って教えたのはこのことだったのだ、仲居らが教えてくれた、と云うことは皆がこのこととっくに知っている、と云うこと、そこで、藤子はからかってやれ、と湯舟から腰を浮かして体を湯に浮かべた、途端に天井裏で、何かに躓いたような音がはっきり聞こえた、やっぱり誰か居る、藤子は体を転がして尻を湯から突き出した、吐く息が一気に荒くなった、

 翌くる日のこと、調理場で、忙しく働いているときに、奥の座敷の障子が開いて、そこに女将の旦那、谷川が背中を向けて座り、卓袱台に凭れて酒を飲んでいた、谷川はこうして時に店に顔を出しているようだ、
 板前から料理を盛った大きな皿を渡されて、威勢のいい声を出して受け取った藤子の声に気付いた谷川が振り向いて、藤子と目が合うなり、慌てたふうに視線を逸らした、
 藤子は毎晩の、ホテルの天井の穴から湯に入る藤子を覗き見している男は、女将の旦那、この谷川、ではないかと疑ってはいたが、そう云えば一昨日の夜も、その二日前も、谷川の姿を調理場の、こ座敷で見掛けていたし、そして、たった今の、菓子の盗み食いがばれた子供のように、藤子から慌てて視線を外したことで藤子は確信した、


        
 藤子は一気に店一番の人気者になっていた、客は云う、
「フジちゃん、あんた、こんなとこで働くの、勿体ないわ、ミナミやキタへ移ったらええね、大概そこでも客、なんぼでもつくで、あんたのこの器量やったら、もしアレやったら、ワシが、やな、パトロンになったってもええんやで」
「あかん、あかん、フジちゃん、このオッサンの云うこと本気にしたらあかん、パトロンどころかどっかでパッとドロンしよんで、このオッサン、借金塗れや」
 藤子が料理を盛り付けた皿を持って座敷に上がると、こんな戯言が飛び交って場はいっぺんに盛り上がった、

 朝鮮戦争もアメリカ軍の勢いが落ちて、もう終戦が近い、と男達が話すのを耳にする、男達は、先の戦争で家を焼かれて全てを失ったが、朝鮮¥戦争で、その何倍も大儲けした、男達に勢いがある、男達のそんなガサツなやりとりを聞くと藤子も何となく楽しくなってくる、そんな時、藤子は、ふと思った、
(うち、やっぱり、大阪来て良かったんや、あんなど田舎、一生うだつ上がれへん、耕三さん、悪いけど、うちもう帰らへんよ、うち、ここで仰山銭儲けして、ええもん食うて、ええ服着て、偶には客に連れられて、芝居見たり、この前なんか、活動も見たんや、やっぱ、うちにはこの街が一番ぴったし、なんや)

 或る夜、その日は、客に連れられてミナミでご馳走になり、帰りが遅くなった藤子は、ホテルタニガワで一部屋空きがある、そこで風呂入ったらええわ、とホテルの従業員に云って貰って、湯舟に浸かった、
 今日の夕方、調理場に女将の旦那、谷川が姿を見せていた、谷川は、藤子と目を合わさぬように、座敷に上がって、酒を飲んでいた、
 藤子は、ふと、ひとの視線を感じて、そっちに目を遣ると、そこには女将の里子が立って、前掛けで手を拭い乍ら、谷川の背中と藤子とを交互に見ていた、藤子に自分の視線を気付かれたと知ったか、女将は急くように客の座敷に上がって行った、

 湯舟に浸かって藤子は天井の穴を見上げる、いつものように小さな灯りが漏れている、やっぱり、旦那、来ている、
 藤子は挑発してみたくなった、湯に両の乳房を浮かべ艶めかしく両の手で乳房を揉み、そして秘所に手を伸ばして撫でた、激しい息遣いが小さな穴から聞こえてくる、
 藤子は天井に向かって、声を掛けた、
「そんな狭いとこにいんと、ここ、降りてきたらどないです?」
 吐く息が途端に停まった、そして天井板を踏む足音が聞こえ、暫く待つと、藤子の部屋の扉をノックする音、藤子は体をタオルで巻き、扉を開けると、ぶすっとした顔の、夕方と同じ羽織姿の谷川が立っていた、
「バレててんや」
 叱られた子供がべそをかくような顔で云う、
「ばればれ、やん、皆な知ってますよ、覗いてんの、谷川の旦那さんやて」
「ちゃうちゃう、他はもう覗いてないねん、あんな、皺くちゃなん、もう見たないねん、あんた、フジちゃんの時だけ、覗いてたんや」
「うち、女将さんにこのこと云うからね」
「あかん、それはあかん、里子はあない見えても、やきもち焼いたらめっちゃこわいね、何されるか分らへん」
「ほな、これ、どない始末させて貰うたらええんですか?」
「あんたも大概こわい云い方するねんな、ま、始末は後で話つけよ、やが、その前に、訊きたいこと、あんね、あ、その前に、あんた、上に何か着て前、隠してくれんか、タオルの隙間からあんたの観音さんの髪の毛、丸見えや、目の遣り場がない」
「何云うてんね、さんざん覗き見してた癖に、ちょっとは悪びれたらどないです?それはそうと、うちに訊きたいことて何です?」
「あんた、フジちゃん、ここ来る前、築港の方に居てたんか?店の者、何かそないなこと云うてたけど」
「ええ、居てました、ホルモン焼いてました」
「あ、やっぱし、な、儂も時々、法事であの辺りまで足延ばして、帰りに、罰当たりなんやけど、ホルモン焼き、食いに寄ってたんや、その時、あんた、見掛けたような気がしててん」
「そう云えば、うちも、旦那さん、初めて見た時、どっかで見たような気がしててんけど、やっぱり会うたことあったんや」
「えらい目に会うたらしいな、暫くして寄ったら、あの辺り、ひとおらんで、聞いたら」
「あ、それ以上、云わんといて、思い出して涙が出てくる」
「やっぱり、な、えらい目会うてたんや」


            11、
「ほな、旦那さん、どう落とし前つけてくれるんか、話しよか」
「そやな、あんた、顔も器量良しやけど、体もええ体しとる、見ててほんま惚れ惚れして、ずっと見てしもうた、
 それに、こないして、覗き魔と顔合わせても素知らん顔して、ええ度胸や、どや、儂の女になれ、いや、成ってくれ、お前に、このホテルやる、お前に権利全部やる、お前が切り盛りして、儲けはあんたが八分、儂が二分、で、どないや」
「何かええ話に聞こえるけど、はい、判りました、ほなお世話になります、て股開いたらそれでお終い、ってことやないやろな、ほな、聞くけど、店の女将さん、どないすんね?」
「里子にはもうあの店から出て行って貰う、そこそこの銭、渡したったら里子も納得しよるやろ、何やったら、店、その後、あんたに任せてもええ、条件、同じや、八分二分、や」
「女将さん、口説くときも、今と同じように、八分二分の話、したんやろ、せやけど、うちは騙されへんで」
「お前は知らんやろけど、この辺り、こんなホテル建ててパンパンに連れ込みさせてんの、儂だけやし、他、誰も未だ真似出来へん、儂、先見の明、あんね、
 この辺り、寺町、後何年もしたら、寺、皆、消えて無うなる、進駐軍が、この先、この国、占領したまま、日本に返還せえへん、儂にはそこまで見えてる、そないなったら寺なんぞ、進駐軍の一声で、明日にでも取り壊しや、何でて、進駐軍はアーメンの国やで、アーメンの国が、ナンマイダーの寺を放っとくはずがない、ジンムの神様も放っとくはずがない、
 神社仏閣、全部取り壊しや、そないなってからでは遅い、儂は、この辺り一帯、儂とこの土地や寺、さっさと取り壊して、料理屋やホテル、建てる、客はなんぼでも来よる、金持ってなんぼでも来よる、皆、朝鮮戦争で銭儲けてるんや、
 アメリカはこの先、シナとも、ソ連とも戦争する、ずっと戦争する、日本のえらい人も云うてる、日本はアメリカの防波堤になる、アメリカの巨大不沈空母になって、アメリカ合衆国の一つの衆になるて、そないなったら、いや必ずそないなる、そないなったら、日本中、進駐軍の兵隊だらけになる、
 今でも、うちのホテルにどんだけのアメリカの兵隊が来てる思う?これが、何十倍にも、何百倍にもなるんやで、銭、おもろいぐらい儲かる、せやよって、儂、寺の敷地、全部ぶっ壊して、ホテル、もっと仰山建てる、もっと何階もある高いホテルも建てるんや、儂、な、ひとに云うたらあかんぜ、進駐軍と心安うやってんね、進駐軍のエライテさんや」
 云いながら、谷川は、藤子の体に巻いたタオルを剥がそうとする、
「ちょい待ち、まだ、うちに指一本触らんといてんか、未だ何も話、決まってない、あんたの夢物語、法螺話、聞かされただけや、
 このホテル、いつうちの名義にしてくれる?その前に、女将さん、いつ店から追い出してくれるんや?」
「来月一杯、待ってくれ、何やかやと段取りもあるし、売り買いの締め日もあるよって」
「嘘こいたら承知せえへんからな、うちな、前に、うちに嘘こいた爺さんのあそこ、包丁で切り落としたことあんねんで、そいで、今でも警察に追われてんね、一本が二本切っても、罪一緒や、切ったらもう二度と生えてけえへんねやで、云うとくけど」
「コワイ話すんなや、可愛い顔して」

               
 谷川の大きな腹に敷かれて、藤子は久しぶりの快楽に恍惚としていた、ふと、何かに気を奪られ、目を開けると、天井に一匹の、小さな蜘蛛が、天井に張り付いて、蠢いている、女郎蜘蛛、だった、藤子は、徳田に連れ込まれた旅館で、徳田の頭を腹に抱えて見上げた天井に一匹の蜘蛛を見つけて暫く眺めていた時のことが思い出された、

 不意にその女郎蜘蛛が一瞬に天井一杯に大きく見えて藤子は驚いて身が強張った、藤子はその時初めて気が付いた、谷川の背中に、大きな、赤や青、黄色で彩りした女郎蜘蛛の入れ墨、その頭の八つの眼が藤子を睨み、足が今にも藤子に飛び掛からんと身構えている、天井の女郎蜘蛛は、谷川の背中の入れ墨が反射して見えたのか、
 藤子は女郎蜘蛛との奇縁を感じる、
(うちは、何んと無う、女郎蜘蛛に縁が有るんや、その縁がうちにとって、ええのやらわるいのやら…ま、どっちゃでもええ、今は、な、成るようにしか成らん、やろ)
 藤子は、この谷川と云う男、一体、何者んなんやと、ふと思う、寺の次男坊だと聞いているが、たった今、本人が喋ったように、寺の跡継ぎに未練がないようだし、ひたすら金儲け、それも男と女の乳繰り合いで銭儲けを企む、俗に云う破戒坊主、それだけやない、ウソかホンマか、進駐軍のエライ手とも繋がって、何やら商売もしているような口振り…
(ま、今は、この男の背中の、女郎蜘蛛に賭けてみよ、賭ける云うても一銭も元手無しや、うちに有るんは、うちのこの体だけや、こんなもん、なんぼの値打ちもないけど、男に欲しがられる内が華や、どっち転ぶか分らん、判らんけど、何やおもろそうや)
(竜次さん、あんた、さっきの谷川の話、聞いてくれた?うちな、店、持つんやて、あんたとうちの夢やった、小料理屋、信じられへんけど、どうやらほんまにそないなるらしい、まだ、嘘かほんまか判れへんけど、もし、うち、店持ったら、あんた、店の名前、うち、もう決めてんねんで、何んや、と思う?あは、云わん、まだ云わんとく、楽しみにしといて、な、うち、店持ったら、そんじょそこらの店より、絶対、店、めちゃ儲けて、大きな店にすんね、あ、もう一つ、云うとく、うちな、さっきあんたも聞いた思うねんけど、パンパン宿もうちの物んになんねんて、えらいツキまくってるけど…女郎蜘蛛さんとのご縁かな?)



           12、
 藤子は、長屋から、小料理屋の二階の一室に引っ越した、そこは前の女将、里子が永く居住し、つい先日、退居したばかりだった、調度など殆どは里子が住んでいたそのまま、元々藤子には持ってくるものなど殆どなく、そのまま使うことにした、嫌なら、使い勝手悪けりゃ、気に入ったものに追々買い替えて行けばよい、
 店は名を「竜次」に替えた、店の従業員らは、藤子がいきなり女将となって君臨しても、特に変わった態度、反抗的な態度や不満な様子も見せず、今まで通り、あっけらかんと、藤子と共に働いてくれた、
 客も、新しい女将と新しい店の名前にすぐ慣れてくれ、店は変わらず繁盛した、

 だが、一つ、大きな問題が解決されずに残っていた、ホテルと小料理屋の土地建物他権利書一切の名義書き換えが何一つ進んでいなかった、
 約束の一か月過ぎて問い質すと、谷川は、妻・ふみと、谷川の実弟・善行が、寺の敷地内に居並ぶ一帯の土地や店舗の権利を主張して譲らないのだと云う、脳に麻痺を起こして突然死した父親の、土地や財産、遺産の分与が未だ終えていないのが理由だと谷川は云う、
 藤子はこの期に及んで何を今頃そんなことを、と詰ったが、谷川は、
「まあ、待て、どっちみち全部儂のものになるんや、儂が、長男が戦死して、寺の跡継ぎ成る条件で、お母んは全部財産あんたに遣る、弟の義行も、俺は坊主になれへん、やりたい仕事がある、兄貴が継いでくれるんやったら、俺は財産なんぞ要らんと、お母んも弟も儂に一筆書いてるんや、それさえ儂が握っとれば、何もかも儂の言い成りよる、まあ、もうちょっと待ち、ややこしいなったら、弁護士先生、間に立てて、話付けるよって」

 だが、名義変更の話は一向に進展しなかった、谷川は同じセリフを使い回した、それを詰られると、初めの内は肩を透かすようにヘラヘラ笑っていたが、この数日は、しつこく責めると、谷川の表情は一変し、
「うるさい、黙っとれ、ボケ」
 と手加減なしに藤子を突き飛ばした、
 藤子のイライラは募る、募った苛立ちは次第と憎悪に変わる、
(やっぱ、あの男、うちを騙したんや、そんなら見とれ、くそガキ)
 或る日、藤子は、通りでも一番大きな門構えの寺の門をくぐった、広い境内に、前掛け姿で竹箒で掃除している女が居た、顔の小さな、色白の、何処か気弱そうな、藤子はこの女が、谷川の妻、ふみ、だと直感した、
「うち、藤子と云います、ご主人にはいつもお世話になっております」
(いつもお世話になって)を意味ありげに藤子は云った、
「谷川の妻、ふみ、と申します、主人が色々とお世話になっていますようで、ありがとうございます、中、上がられますか?」
 寺の本堂裏の、それでも贅沢な造りの家に案内され、暫く待つとふみがお茶を盆に載せて運んで来た、
 畳に手をつき、軽く頭を下げながら、改めて挨拶をした、ふみは落ち着き払ってその表情からは何も読めなかった、藤子とほぼ同じ年頃か、これまで藤子の周囲で見たことのない上品な顔、自分とは全く違う世界に生きる女、だと藤子はそう思った、
「いきなり訪ねて来て、奥さん、申し訳ないんですが、今日、ここへ来たんは、ご主人に、私に権利一切をくれると約束してくれた、イクタマのホテルと、隣の料理店、の権利書が、未だにうちの名義にしてくれてません、谷川に訊きましたら、寺の土地や財産の、先代さんからの分与がまだ終わってない、もうちょっとまってくれ、と同じ返事の繰り返しで、なかなか埒があきませんので、その辺り、どないなことになってんのか確めよう思うて来たんです、ご主人からそんな話、聞かれてます?」
「いいえ、そんな話、全く初耳、です」
 ふみは、その真後ろに建つ、佛像の顔のように、表情ひとつ変えずに答えた、
「やっぱり、そうですか、ほな、うちはやっぱり騙されてたんや、な、御主人に、ま、そのことはうち、あとで、本人にきっちり話しますけど、一つ、教えてくれませんか?」
 ふみは憐れむように顔をちょっと傾げて、藤子の話を待った、
「ご主人の母、それに弟の義行さんから、先代さんが亡くなられた時に、ご主人が跡を継ぐ条件で、ここの一切の財産、土地の権利をご主人に渡すと書いた一筆があると聞いていますが、この話は本当なんですか?」
 ふみは、きょとんと、藤子にはそれがわざとらしく見えたが、意味が理解出来ないような表情を見せた、
「やっぱり、大嘘、やったんや」
「谷川が藤子さんに何をどう云ったのか存じませんが、私はそんな話を一度も聞いたことがありません、ですから谷川が云ったことが本当なのか嘘なのかも私には判りません」

 二人が座って話している部屋の障子が不意に開いた、開いた障子の間に、男が立って、藤子を胡散臭そうに見る、誰であれ、初対面の人間に見せる、ひとを見下す、金を持ってるひと達に共通する目、
「義姉さん、誰?」
(義姉さん?)
 この男が、谷川の弟、義行か、顔のどこかに谷川に似た箇所があるが、その眼付は、女の風呂を覗いて喜ぶような間抜けさは微塵も無く、刺すように鋭い、堅気の世界の人間ではない、
 藤子は頭を軽く下げて会釈する、男は暫く無言で見下していたが黙って障子を閉めると廊下を過ぎて行った、
「失礼しました、谷川の弟、義行です、いつもあんな調子で、お客様も驚かれますので、ここには来ないようにお願いしているのですが」
 だが、そう云いながら、さして困っている様子でもない、藤子は、ほんま、この女、木で鼻を括った、と云うのにぴったり、ただ、言葉を口にするだけ、の女なんや、佛さんの顔と同じなんやと或る意味感心した、
「こちらでご一緒に?」
「いいえ、義行さんも色々と忙しくて、こちらに急用があっても、なかなか、すぐには」
「お仕事は、何か?」
「あんまり人様に申し上げられるようなものではありません、ま、それでも偶に谷川も手伝って、興行関係の仕事しているようですけど、私には、さっぱり」
「興行関係って、何か芝居とか?」
 進駐軍の取り締まりも緩くなってか、最近は、あちこちで芝居小屋が建ち、つい最近、藤子も客に連れられて見物に行って来たばかり、だった、素人を俄かに集めた劇団か、下手な歌と芝居、しかし客席は構わず、娯楽に飢えた人々で盛況していた、
「いえ、済みません、私も詳しくは」


            13、
 その夜、店に四人の入れ墨男が突然に乱入して来た、客の悲鳴、怒声、店内騒然とする中、藤子は問答無用に引き摺り出されて行った、その内の一人の男の顔を見るなり、藤子はあの夜の惨劇を思い出した、
(四人の男達が屋台の裏に現れ、
「竜次、お前、落とし前つけなあかんやろ、来い、一緒に来い、組行って落とし前付けろ」
 竜次は身を翻して屋台の隙間を縫って逃げた、男達は野良犬のように追った、
 人が一塊りに群れて騒いでいた、その囲みの中、竜次の背中に一本のナイフ、竜次は、血に塗れて痙攣していた…)

 生玉神社の境内、林の中、男四人に藤子は囲まれた、顔に見覚えのある男が藤子の腕をがっしりと掴んでいる、振り払ってもびくともしない、藤子はその男の顔にあごを突き出して食って掛かった、どうせ殺されるんなら、と藤子は腹をくくっていた、
「何や、あんたら、うちに何さらすねん、何の恨みがあんね、それとも誰かに頼まれたんか」
「どうせ、死ぬんや、姉さん、そんなん聞いてもしようないやん」
 そう答えた男、間違いなく、あの夜、見た男、だった、
「あんた、顔、覚えてんで、うちの竜次、殺したん、あんたや、うち、あんた、警察に訴えたんで」
「生きてたら、の話や、て云うてるやん、姉さん」
「なんぼでも生きたんが、どアホ」
 藤子は、掴んでいた男の指先が一瞬緩くなった隙に、普段から懐に入れている、調理用の小刀で男の腕を思いっ切り、振り払うように切り裂いた、男は、うっと呻き、腕を抱えてその場で立ち竦んだ、血が男の足許に滴り落ちている、
 藤子は尚も小刀を振り回し他の男達を挑発した、腕を切られた男が四人の頭だったか、四人の顔に、一瞬怯んだ表情を見た藤子は、囲む一人の男に体当たりし、よろけた男を突き飛ばして、神社の鳥居の方に向かって走った、後を追う男達の、石畳を踏みつける雪駄履きの鉄板の音が、すぐま後ろに迫った、割烹着姿では無理や、藤子は諦めた、
 その時、後ろで男達が互いに縺れてぶつかり合い、転倒する重い音が聞こえた、藤子は振り返らず必死に逃げた、鳥居の横の慰霊碑のところまで逃げてきた、その辺りは通りに並ぶ料理屋の提灯で道は明るく、多くの人が行き交っていた、
 石の慰霊碑に凭れて、激しい息使いが治まるのを待つ藤子の耳に、神社の中で、男達が激しく罵り合う怒声、殴り合い顎の潰れる音が聞こえて来た、
 闇に透けて、一人の男が、四人の男を相手に争っている様子が無音の影絵のように激しく動くのが見えた、藤子には、何でこんなことになっているのか判らなかった、判らないが、とにかくは逃げおおせたと安堵した、
 それでも慰霊碑の裏に隠れ、境内の様子を窺う、四人の男を相手にする男の姿が、時に提灯灯りに映えて見えた、普通の会社員ふうにカッターシャツ着た男?
 男は、四人を相手に、殴り、蹴り上げ、そして背中に背負って投げ飛ばす、入れ墨男ら四人は、何か恨み事を吠えて、逃げて行った、
 後に残ったカッターシャツ姿の男、四人の姿を見送って、膝に両手をつき、激しく息をする、
 礼を云わねば、と藤子は再び境内へと向かった、藤子の割烹着姿に気付いたカッターシャツの男は、境内の奥へと隠れて行った、
 諦めて藤子、漸く落ち着きを取り戻し、店へと戻る、歩きながら藤子は考える、
(あの、四人の男ら、いったい、うちに何の恨みがある?恨みが有るんはうちの方や、あの、腕を切られた男、竜次を殺し、それからもう何日も何か月も経って、何で今頃、うちを殺しに来たんや?
 それに、いきなり現れ藤子を男達から助けた、カッターシャツの男、この男、いったい誰?竜次が殺された次の夜から、歯が抜けるように一軒、二軒と屋台が消えたその空き地に隠れ見えていたカッターシャツ姿の、どこかの会社員ふうの男、あの時と同じ男?
 藤子が谷川の店で働き出して間の無い頃、店に訪れ、仲居らに藤子の所在を確めた、と同じ、男?いったい、誰、何者?)
 全てが藤子には全く予期しない、全てが突然過ぎて、何を考えても答えが出ない、混乱し切って藤子の頭はすっかり疲れてしまった、
 店に戻りながら、空を見上げて藤子は、話し掛けた、
(竜次、うち、何か判らん、判らんけど、何事もうまく行ってんのか、行ってないのんか、それも判らん、これから、何を、どないしたらええんかもさっぱり判らん…)

 
              14、
 前方に、小料理屋「竜次」の提灯灯りが見えた、隣の「ホテルタニガワ」の看板も見えた、その看板を見た藤子は、あることに気付き、衝撃を受け、開いた口に手を当てて、呆然とした、
(タニガワ?タニガワて、旦那の名前や)
 こんなことに藤子は今になって気付いたのだ、
 さっきの四人組の男、竜次が背中刺された時、駆け寄り竜次を抱きかかえた藤子の耳に、野次馬の一人が云った、
(あいつら、谷川組の奴らやで)
 確かに谷川組、と云った、野次馬は更にこうも云った、
(谷川組に狙われたら終りや、この前も、イクタマの方で出入りがあって、4,5人死んだらしい)
 イクタマ、ここイクタマや、野次馬は続けた、
(進駐軍の物資横流しで儲けてるらしい、ま、今は触らぬ神に祟りなしや)
 確かにそう云った、聞き間違いやない、

 藤子の頭は激しく混乱した、体は熱でも帯びたように震えが止まらなかった、藤子は立ち止まり、息を整えながら、なおも考える、
 藤子を襲った四人は竜次を殺したと同じ男達、この四人は谷川組の人間、そして谷川が藤子を口説くときに云ったことも思い出す、
(儂、な、ひとに云うたらあかんぜ、進駐軍と心安うやってんね、進駐軍のエライ手さんや)
 進駐軍のエライ手とコネがあると谷川ははっきりそう云った、頭の中で、これらの一つ一つの事が繋がり一本の糸になった、その先端に谷川のにやけた顔が見えて来た、そして糸の反対の端には、口から血を吐き痙攣して息絶えた竜次の顔、
 藤子はようやく結論した、
(谷川は竜次を殺した谷川組の組長)
 そして、藤子は谷川が云ったことを重ねて思い出す、
(あ、やっぱし、な、儂も時々、法事であの辺りまで足延ばして、帰りに、罰当たりなんやけど、ホルモン焼き、食いに寄ってたんや、その時、あんた、見掛けたような)
(えらい目に会うたらしいな、暫くして寄ったら、あの辺り、ひとおらんで、聞いたら、な、やっぱり、な、えらい目会うてたんや)
 ホルモン焼きの露店の近くを通りかかった谷川は、偶然に竜次を見つけた、組の者に、竜次を連れてこいと命令した、その時、露店で一緒に働く藤子のことも谷川は見て知っていた…

 今日の昼、藤子は谷川の実家の寺を訪ね、そこで谷川の妻ふみと会って話をした、当然、ふみは藤子が訪ねて来たこと、相続を巡る話を持ってきたことをそのまま谷川に伝え、ふみは谷川を責め立てた、谷川は藤子の勝手な行動に激怒した、谷川は配下の男らに、藤子を殺せ、と命じた、ふみに告げ口された仕返し、腹いせに、藤子を殺せと命じた、とそう思っていた、
 だが、考え合わせれば、それだけが理由ではなかったと判って来た、
(谷川は、初めっから、竜次と一緒に居た藤子のことを知っていた、竜次が谷川とどんな因縁があったか藤子には知る由もないが、谷川は、初めから藤子を殺すつもりでいた、と藤子は確信する、その理由は、藤子が竜次から何か谷川の悪事について聞いている、それを他人に喋られることを怖れたか、それを何処かに訴えて出られるのを怖れたか、そして竜次を殺し、藤子も殺すつもりだった、
 だが、谷川は、すぐには手を下さなかった、藤子の挑発に乗せられてか、それともただ単純に色欲に狩られて藤子を殺すのを躊躇っていたのか、
(あんた、その時、見掛けたような)
 藤子は今になって思い当る、谷川は、そう云いながら、うちにカマかけてきてたんや、うちがどんな反応見せるか、うちが何か竜次から聞いてないか、
 今日の昼間の、谷川の妻ふみとの面談が、谷川を怒らせ、いつか大きな禍となる藤子を殺せ、始末せよと漸く決心させたことは確か、

           
 それにしても、あのカッターシャツの男、いったい何者なん?うちの味方?うちの味方やったら、とっくに顔出して、こういう者ですと名乗った筈、そしたら、うちの敵?警官?警察がもしうちを捕まえに来てるとしたら、もうとっくの昔に、うちの両手に手錠を掛けた筈、
 だが、未だにうちの前に立って通せんぼ一度もしていない、それどころか、さっきなどはいきなり現れて、どっちが悪いか事情も聞かず、うちを追っかけてきた男ら四人と、命を賭けて助けてくれた、いったい、何者なん?
 せやけど、うちのこと、何処でどう調べてんの?最初に見かけたのは港の近くの空き地、次はうちが今の店で働き始めてすぐの頃、不意に店に顔を出して仲居らにうちの所在を確めた、そしてたった今、いきなり現れて、うちを助けた、
 何者なのか、敵か味方も判らない、ふと藤子は思い当たる、このカッターシャツの男、うちが築港に居たことをどうやって突き止めた?その後のことは、付け回していたとすれば、うちが何処に居たか判っていたはず、
 しかし、うちが村を棄てて、偶然知り合うた竜次に拾われて一緒に生活するようになったけど、それでも、竜次が殺されるまでこのカッターシャツ男の姿は見なかった、うちが気が付かなんだ、だけなんか?
 藤子が、もしや、と思い当ったのは、耕三の世話を頼む、隣人の春猪ばあへの毎月の手当送る現金書留、以来欠かさず送り続けているが、もし、その封筒を見られた場合でも万が一を考えて、差出人住所は、竜次と暮らした長屋にしてあり、差出人名も竜次の名前にしてあった、しかし少し勘繰れば、その現金封筒の差出人が藤子だと誰にでもすぐ分かった、筈…
 そう考えると、カッターシャツの男、やはり棄てて来た村の地元の警官か?第一、やくざ者の男四人相手に、相手が溜まらず逃げ出す程の喧嘩の強さ、あれは、絶対に素人ではない、
 敵なのか味方なのかどっちか判らない、判らないが、藤子は、このカッターシャツ男に四六時中見張られている、ことだけは間違いない、と確信する、しかし、藤子は考えてみた、こんなうちに、いったいどこの誰が味方、してくれる?

 藤子が店に戻ると、仲居らが心配そうに駆け寄って来て、藤子の体のあちこちに触れながら、藤子の無事を確める、
「良かった、な、何んも無うて、ホンマ、心配したわ」
「店のお客さん、どない?」
 店内に賑わいも活気もない、第一、仲居らが一斉に藤子の傍に駆け寄ってくること自体、碌な状況じゃない、
「皆な、すぐ帰った、うち、思うね、もうこの店アカンかも知れんな、何でって、今までやったら何処でもかしこでも喧嘩沙汰、刃傷沙汰だらけやった、ひと、目の前で誰か殺されるん見ても皆な知らん顔しとった、
 けど、今、世の中、変わってしもた、そんなん、もう嫌われてまうご時世になってんや、時代に逆らわれへん」
 他の仲居らは何も云わず俯くだけ、藤子も思う、これ、正解、やろな、と、
「ま、そない、心細いこと云わんと、ほんまにアカンなるまで、うち頑張るし、皆も、ホンマにアカンなる、ちょっと前まで、頑張って貰われへん?」
 仲居らは暫し顔を見合わせていたが、一人がくすっと笑うと一斉に大声出して笑った、

 仲居達は座敷に上がり、調理場に戻って片付けに掛かる、内の一人、ここで一番長く働く仲居を呼び止め、藤子は訊ねた、
「谷川の旦那は、いつも何処に居てんのか、あんた、知らんか?」
 藤子が約束の履行をしつこく迫るようになって以来、谷川は店に顔を出さなくてなっていた、今夜のようなことの後ではもう二度と現れないと藤子は思う、谷川の実家の寺を訪ねても、あそこには帰っていそうにもない、何であれ、直談判して、ことの決着を図らなければ藤子は気が済まない、
 藤子は思う、
 うちは殺しに来たあの男達は、何を訊いても、どうせ死ぬんやから聞いても無駄や、と答えた、次、いつまたあの四人に襲われるかしれたものではない、せやけど、そんなん別に恐ろしない、うちは命なんぞ惜しない、せやけど、うちを騙した奴は絶対許さへん、
 仲居は返事を渋っていたが、
「うちが教えたて云わんといてな、絶対やで、上六の、百貨店、知ってるわな、その角、入ってすぐのとこに、赤十字、あるんやけど、確か、その辺りに、谷川興行て書いた看板のビル、そこが谷川社長の事務所、や、ま、店の者ん、皆、知ってる、けどな、云うか云わんか、だけやけどな」


              15、
(谷川の助平爺、何でうちまで殺さなあかんねんや?)
 藤子は同じことを再た堂々巡りに考えてしまう、
(浮気がばれたからか?いきなり寺に乗り込んで行って嫁はんのふみに、何もかもばらしたからか?)
 藤子はこれは違うとやっぱり思う、これがきっかけに成ったことは確か、せやけどやっぱり違う、うちのしつこさが鬱陶しくなって来てたからか、とも思う、
 谷川は、藤子に約束した事、元から何一つ守る気なんかあれへんかったんや、ただの口からの出任せなんや、うちの体、モノにしようと思った、だけ、なんや、それが証拠に、権利がどうのとか儲けの八分二分の話とか、未だに何一つ実行されてない、
 考えれば考える程、竜次を殺した谷川にまんまと騙され、おまけに自分まで殺されそうになったことに腸が煮えくり返る程悔しくてなってくる、
(そんなら見とれ、スケベクソ爺、お前の背中の女郎蜘蛛も一緒に、竜次がやられたと同じように、背中から腹まで包丁で一突きに串刺しにして殺したる)

 藤子の脳裏に、口から泡を吹くように血を吐き、痙攣して仰け反り、息絶えた竜次の死に顔が蘇る、そしてふと、藤子は今になって思い当った、竜次は、もしかして、最後にうちに何か云おうとしてたんやない?
(あんた、何かうちに云おうとしてたん?あんた、そのことで谷川に狙われたんか?)
 あの夜、谷川組の男は、血の気がひいて顔が蒼褪めた竜次に云った、
(お前な、落とし前つけなあかんやろ)
 落とし前て、あんた、何か悪いこと、したん?

 藤子は、竜次と二人、暮らした長屋に、小料理屋の二階に引っ越して以来、初めて訪ねて来た、そして、その惨状を見て、思わず声を上げた、
 家の入口軒下に置いた屋台はその元の形を残さず破壊され、家の入口戸は、蹴破られ、開きっぱなしになっていた、
 屋台の残骸を退けながら家に入ると、僅か二間の室内は、誰かが大暴れしたように何もかもが引っ掻き回されて物が散乱していた、
 誰がやったんや?だが、どう見ても、盗人など小者の仕業ではない、この乱暴さは素人のやり口ではない、
 なら、誰がやった?藤子はすぐにあの谷川組の四人が狂人のように暴れまくる姿を想像した、
 何の為に?目の前の惨状は、家探しされた跡、
 何を捜した?それを竜次に持っていられると、谷川にとって不都合な物に違いない、それは何?藤子にはそれが何か想像もつかない、竜次はそんなこと、何一つ云わなかったし、毎日一緒に暮らしていても、そんな特別な物など、藤子は一度も目にしていない、
 落とし前つけろ?藤子は谷川組の男が、竜次にそう云った時、単純に、何か組に、もしくは組の誰かに不義理をした為の落とし前、だとそう思い込んでいた、
 そうやないの?竜次さん、あんた、いったい、何したん?ほんでそれ、何処に隠したん?
 それ、何んやの?
 それが何だか藤子には判らない、判らないが、それは谷川にとっては余程、の物、であることに間違いない、これだけ家探ししたが、男達は何も見つけられなかった、に違いない、谷川は男達に藤子を連れてこいと命令した、だが藤子の行方が判らなかった、
 ところがその藤子が、藤子の方から、知ってか知らずか、谷川の懐に飛び込んで来た、その真意を探らんと、そして未だ見つかっていない或る物の隠し場所を藤子が聞き知っているかもしれない、谷川は藤子に、今となっては全部が口からの出任せだったが、好条件を持ちかけて長く留まるように調子のええ嘘をついた、
 だが、藤子の日々の様子から何も見えない、埒が明かない、業を煮やしていた谷川は、藤子の、妻ふみとの面会を切っ掛けに、藤子殺しを決めた…
(竜次さん、あんたの仇が誰かようやっと判った、うち、な、必ずあんたの仇とったるからな)

            
 藤子は、上六の、谷川興行の建物が見える角に立っていた、何か特別な策がある訳ではなかった、だが、抑えても抑えても湧いて出る、竜次を殺された憎しみ、恨み、そして騙され、殺されかけた悔しさに耐えられず、藤子はここまで来た、
 ビルの入り口に二、三人、どう見ても真面目に仕事しているふうには見えない男達が、たばこをふかして屯ろしている、ビルに向かって歩いてくる藤子の殺気立った異様な様子に気付き、男達は藤子の前に立ちはだかった、
「姉さん、何の用か知らんけど、こっから先、誰も、猫一匹、中へ入られへんのや」
「谷川に会わしてんか、うちは、イクタマで店任して貰うてる、藤子っちゅうね、早う取次せんと、後で社長にどやされんで、あんたら」
「悪いけど、社長、ここに居てないね」
 入口上のガラス窓が開き、谷川が顔を出した、
「おお、藤子やないか、まだ生きてたんや、ま、ええ、上、上がってきたらええがな」

 部屋には男数人、あの四人の内の、藤子が腕を切り裂いたあの男も混じって、男はナイフの刃先を自分の顎に当てて藤子を睨んでいる、その腕には包帯、
 部屋の真ん中にソファがあり、そこに一人、薄くなった白髪頭、背中も肩幅も以上に大きな男が向こう向きに座っていた、ちらと見える男の地肌の色が変に赤い、藤子は、ホテルタニガワにパンパンと雪崩入って来る白人米兵の顔に同じ色の肌を何度も見ている、横に座っている小柄な日本人が男に英語で何か喋りかけた、男は振り向いて、驚いたように目を見開いて、藤子を見る、
「ジョージさん、あかん、顔見せたらあかんがな、皆な外出てくれ」

 部屋に谷川と藤子の二人だけになった、谷川はソファに座り直し、藤子に前に座れと薦めた、
 藤子は先手を打った、
「さっきのひとがジョージさんかいな、竜次が時々、このひとの名前、云うてた、な」
 谷川の表情は一変し、殺意剥き出しに藤子を睨んだ、
「谷川さん、もううちな逃げるの止める、あんたに竜次から預かったモン、あんたに返そ、思うてんね、但し、但しや、谷川さん、条件があんね、それ、あんたに渡したら、うちの命の保証して欲しいね、二度とうちのこと殺さへんと保証して欲しい、ね」
 谷川は、藤子の顔をじっと見つめ、そして頷いた、
「それと、こっちの方が大事なんやけど、谷川さん、それ、なんぼで買うてくれる?」
 谷川は藤子を見たまま、返事をしない、その時不意に部屋の扉が開き、男が入って来た、谷川の弟、義行、だった、怒り狂った仁王像のような顔で藤子を睨みつける、
「兄貴、さっさと殺してまいいな、こんなアマ、儂、やってまおうか」
 すかさず藤子は云った、
「ほら、今、うち云うたやろ、こんなあほ、おるから、命、保証せえて云うたんや、ま、うち、狙われても、うちには相棒が居てますね、あんたんとこの、名前知らんけど、この前、こっぴどうあんたんとこのアホ共四人、やっつけてくれたんやけど」
 谷川は弟に向かって顎をしゃくって出て行けと指図した、
「なんぼ、や」
 谷川は渋々、そう云った、
「さ、なんぼにしようか、谷川さん?別に、うち、なんぼでもええねんけど、ちょっと色付けたって欲しいね、一つは竜次への香奠代、屋台の修理代、それにあんたが約束した、ホテルと料理屋の権利と、これまでうち働いた分の儲けの八分二分も足して欲しいね」
「舐めんな、よ、藤子」
 谷川の眼が殺気に満ちて据わる、
「厭やったら、別にええね、あんなもん、うち持ってても猫に小判や、新聞屋にでも、こんなん道に落ちてましてんけど、て届けりゃ済むこっちゃし、
 話は決裂っちゅうことやな、ほな、うち、帰るし、あと付けてきたら、またあのお兄さんに痛い目に会わされるだけやでて表で待ってるアホ共に云うたってや」
 藤子はソファから立ち上がり、出口に向かう、扉の把手に指が掛かった時、谷川が呼び止めた、
「こんだけや」
 谷川は指五本を広げて見せた、藤子は扉の把手に手を掛けたまま応じた、
「それになんぼ掛けたらよろしいね?」
「10万や」
「50万円、ですか?さよか、竜次の命も、あんたのホテルも皆な全部足してたったそれだけかいな、ほな、話はなかったことにましょ、谷川さん、ほな、うち、帰るわ」
「くそ、ほな、500万や、これ以上は無理や」
「これで、命の保証代も込み、でんな、それやったら、受けますわ」
「今、それ何処に在んね、いつこっちに渡すんや、現物と金と引き換えや、決めた日にここへ持ってこい」
「谷川さん、そら、あきません、うちの方、分が悪過ぎますわ、どうせ仰山あんたの子分さんや、もしかして進駐軍の兵隊さんにも囲まれたとこで、うちは一人で?そんなアホなこと、出来ませんわ、どっかで場所決めて、落ち合いましょうよ、第一、そんな仰山の札束、持ってうろうろ出来へんし、な、そいで、お互い、受け取るモン受け取ったらその後は互いに恨みっこなしにしたいね」


              16、
 藤子は谷川に向かって啖呵を切った、何もかも、それこそ口から出任せ、何一つ根拠はなかった、ジョージなんて名前、聞いたことも無い、それに、竜次から受け取った物は元からなにも無い、ただ相手が、谷川が勝手にそう思い込んでると確信した藤子は、谷川の思い込みを利用して取引を提案しただけだった、
 面白いように話は進んだ、そして物々交換の話迄まとまった、この後どうするかはまだ何も決めていない、というより緒から藤子は何も考えていなかった、

 藤子は小料理屋「竜次」に戻った、他に行く宛もなかったが、よくよく考えれば、谷川から、少なくとも物々交換当日までの命の保証を得た以上、ここが一番安全だと判ったからだった、
 店は、藤子が拉致された日から客足は遠のいているが、それでも、ひとの記憶も、ひとの我が身の心配も、時間と日が経つにつれて薄らぎ、少しずつは客の数も回復してきていることを仲居らと一緒に体を動かしながら実感していた、
 藤子は思う、本当は、このまま何もややこしいことに関わらず、皆と賑やかに、ワーワー客を迎えて客とわーわー騒いでいたい、とつくづく思う、別に、ここが他人の店だろうと何だろうと構わない、一緒に皆と働けば一日が充実してあっと云う間に過ぎて行く、
 藤子の性分なのか、それとも男が勝手に藤子を巻き込むからか、それは藤子には判らない、判らないが、何かするに、いつも男が絡む、しようがない、
 ふと藤子は、耕三のことを思い出した、
(あんた、具合、どない?ちょっとは良うなってるか?春猪ばあは、ちゃんと世話してくれてるか?)
 あの、墓地横の、大きな松の木の枝が覆い被さるその下の、今にも崩れそうな荒れ小屋の風景が藤子の脳裏に蘇る、
(あんた、生きてるか?しんどかったら、もう頑張らんと、死んだ方が楽かも知れんよ、あんたに約束した入院のこと、うまいこと行ったら明日にでもすぐ入院させたげられる、かも知れん、せやけど、あんまりあてにせんといて、な、
 やっぱし、それでも、また入院したところで、手術やら注射やら苦い薬やら、えらいしんどい目するだけで、結局直らんと死んでしまうかもしれんし、あんた、もう手遅れかもしれん、それやったらいっそ、今の内にすっと死んだ方がマシや、思う)

 ふと思い出した隣接する墓地の風景が、藤子に、突然に或る考えを齎した、藤子はその閃きを元に、或る作戦を練った、考えるうちに、その作戦を実行するには、男の力無しではどうにもならない、ことがわかってきた、

 やはり、あの男は居た、イクタマさんの、石の慰霊碑に隠れる姿があった、会社務めの男のように今日も律儀にカッターシャツを着、長い袖を折って腕まくりしている、
 藤子はその慰霊碑の前を素知らぬ顔で素通りし、店に向かう振りして途中で、よその小料理屋の角で裏へ回り、生玉神社の境内へと戻った、
 カッターシャツの男は、藤子の無事の出勤を確めて安堵したのか、たばこを出して白い煙を空に向かって吐き出した、
 藤子は、慰霊碑の反対側から男の前にすっと姿を現した、男は余程驚いたのか、吸った煙草の煙を飲み込んで、喉で蒸せ、咳込んだ、


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