雌蜘蛛

Tosagin-Ueco

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雌蜘蛛ー4

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 第四部「そして死刑」
           
 カッターシャツ男の、苦しく咳込む様子が、藤子には何故か、藤子の心の中の、女の本能をくすぐった、
「兄さん、ごめん、やで、脅かした、みたいや、ほんま、ごめん」
 藤子は、男の肩に体をくっつけ、背中をさすってやった、そうしてやることに何のためらいも気恥ずかしさもない、極く自然で、藤子にも不思議な感覚だった、
 男もそれを拒否しなかった、漸く咳が治まり、男は藤子の顔を見詰める、藤子は何故か照れてしまった、
「ごめん、な、兄さん、お詫びに、それにこの前、うちのこと、助けてくれたお礼も未だ出来てなかっってん、そのお礼も兼ねて、うちの店で、何か食べてくれたら、うち、嬉しい、ねんけど?…」
 男は、どれぐらいの歳なんやろ、うちより一回りぐらい若い?よく見ると結構、整っていて、表情は暗いが男らしい顔、藤子好み、男は、断らずに、藤子の後ろを従いて来た、

 先に藤子が「竜次」の店の暖簾を分けて入り、続けて入って来た男の様子、男の顔に覚えのある仲居らが、口に手を当てて息を飲んだ、
「ええね、ええね、このひと、どうも悪いひとや、ない、みたいや、この前、殺されかけた時、この人が助けてくれてんや、えらい喧嘩強かった、あっと云う間に四人、やっつけてくれた、悪いひとやない、思うね、な?」
 最期の所、藤子は振り返って男に訊いた、男は、にこりともしない、
「ま、こっち、上がって下さい、ますみさん、用意、頼みます、うちの店で2番目にお値段、高い、の」

 普段、藤子が居住する二階の部屋、そこに男を招じ入れた、膳が運ばれてくる、盃を男に渡し酒を注ぎ、飲み干すのを待って、
「本当に、先日は、危ない所、ありがとうございました」
 藤子は、両手をつき、頭を下げた、男は、次の一杯もぐいと飲み干して藤子に返杯した、男は藤子の手の盃に酒を満たす、藤子もぐいと飲み干し、口紅で赤く染まった飲み口を拭き取らず、その飲み口が男の唇に向くよう盃を返して酒を注いだ、男はその赤い紅の付いた飲み口に唇を当て、盃を傾けた、
 藤子は、男のその飲みっぷりを見ていると、自分の体の芯の部分が男の体とつながっているように感じて、そのことを男に悟られてはと思うと、却って頬が熱くなり、うっとりと官能的な酔いに体がとろけ始めた、
「いい飲みっぷり、お強い、んでしょうね?うちは、駄目、ちょっとのお酒ですぐ酔っちゃう、今頂いた一杯で、もう、駄目、あと、お願い、してもいい、ですか?」
 藤子は腰を歪めて男の体に体を寄せる、男は別に拒む様子はない、藤子は知っている、どの世界に住む男であろうと、酒を嫌いな男は居ないし、ただの女を食わぬ男は居ない、
「お名前、教えて頂いていいでしょうか?私、多分ご存じだと思いますが、藤子、と云います」
 悪戯っぽく云ってみた、
「並木、です」
「並木、さん、ね、本当にありがとう、並木さん、あの時、居てくれてなかったら、うち、もうここに居てない、あの男達、ね、上六の、谷川組のやくざ者、この谷川組の組長が、うちを殺せと命令した、んやと思う、並木さん、竜次のこと、知ってる?」
 並木は、暫く考えていたが、頷いた、
「谷川組の組長、竜次のことで、何か根に持っている、ようなんやけど、それで竜次、殺されて、竜次を殺したあの四人の男の一人、顔、うち、はっきり覚えてる、けど、竜次、何で殺されたのか、うちには何んも解れへん」
 男は、卓袱台の上の料理を盛った皿を、箸でつつき、何も云わず、手酌で注いだ盃を数杯、立て続けに喉に流し込んだ、藤子は男のそんな様子を何も云わず見詰めていた、


             17、
 男は、意を決したように座りなおすと、
「藤子さん、聞いていいですか?」
 並木は刺すように藤子の眼を見る、
「何でも、どうぞ、うちに、ひと様に隠さなあかんこと、何も有らへんし」
「自分の話を聞いて何としてでも藤子さんに協力して頂きたい、自分は竜次さんが殺された次の夜、あの屋台近くで竜次さんと会うことになっていた、
 自分は大分以前から、谷川と進駐軍のジョージ少佐との、米軍物資の横流しを内密に調べていた、谷川組とジョージとの闇取引は、ジョージが大阪管区に転勤してきてすぐに始まっていたが、その実態がなかなか掴めなかった、
 取引現場に必ず進駐軍の兵士が数人いて、踏み込むことも出来ず、踏み込んで訴えてたところでジョージ少佐に揉み消されてしまう、なかなか手が出せずにいた、
 朝鮮戦争が休戦に向かい、進駐軍も、どんどん引き上げ始めた、谷川組とジョージとの不正な物資横流しも、このままでは永久に闇に埋もれてしまう、今まで進駐軍の言い成りだった日本の警察も、徐々に警察権が復活している、ジョージ少佐が進駐軍と一緒にアメリカに還ってしまうまでに、何んとか不正取引を摘発し、関係者全員を逮捕しなければならない、それにはどうしても、実態を具体的に証明するものが必要で、手掛かりを求めて、自分は谷川組を見張っていた、ある日、谷川組の中で揉め事が発生した、
 竜次さんの妹が谷川に手籠めにされて自殺した、竜次さんは最初から物資横流しを担当して、谷川にも組で一番に信頼されていて、取引も殆ど一人で仕切っていて、自分もそんな竜次さんに目を付けていた、
 その竜次さんが、妹さんの死因を知って、組長を殺そうとしたが、阻止され、組を脱け、行方を眩ませていた、
 或る日、竜次さんが、組事務所を見張っている自分のところに来て、
(横流しを記録した手帳を持っている、引き取った物資、日にち、その量、買取額、それの売り先、売り上げ額、を詳しく書いてある、売り先は、日本の大手物産、商事会社の名前がずらりと並んでいる、鉄も有れば、銅もある、金塊もある、進駐軍の少佐や関係者にキックバックした詳細も書いてあり、少佐直筆署名付きのレシートも付けてある、役に立つか?)
 と云う、自分が喉から手が出る程欲しい物だった、報酬は?と竜次さんに訊いた、
(妹の仇を取る、奴らを叩きのめしてくれたら、それでええ)
 命の保証が出来ない、と云うと、
(今、好きな女が出来た、可愛いやっちゃ、一緒に暮らしている、このまま奴らから隠れて暮らしたいが、それは無理や、俺は何れ、何処へ逃げようが谷川か進駐軍に捕まって殺される、俺が殺されたあと、その女を奴らから守ってやって欲しい、藤子って名前や、他に何も要らん)
 会って渡すと約束してくれたその前の日に竜次さんが殺された、
 自分は、竜次さん、絶対にその手帳、何処かに隠している、と信じていた、谷川組の男らが竜次さんの家に押しかけ、家探しした、自分は様子を見ていたが、屋台を潰し、家の中、ひっくり返す音が聞こえてきたが、家から出て来た男達の様子から、何も見つかっていないと判った、
 竜次さんは藤子さんに、その手帳を渡しているか、それともどこかに隠し、その隠し場所を藤子さんに教えている筈と思い、それを聞き出したくて、こうしてあとをつけていた、
 それさえあれば、ジョージ少佐を帰国前に逮捕することが出来る、谷川組を潰し、谷川だけではない、進駐軍の横流しで暴利を貪った大手の会社や、谷川の金に群がる政治家数人も一緒に世間の目にその悪事を晒して吊るし上げることも出来る…」
 並木は話疲れたか、盃に手酌で酒を注ぎ、一息に呑む、
「そうなんや、そいでうちのこと、付け回してたんや、おおきに、な、並木さん、竜次だけやなし、うちも並木さんにお世話になってたんや、せやけど、うちな、ほんま、何も知らんねん、竜次さん、そんなこと、ひとことも、うちに、
 うちな、谷川と取引してんや、谷川も、うちが竜次から何か渡されて持っている、それともその隠し場所を聞いて知っている、と思うてんのが判った、そいで、うちもハッタリかけて、うち、持ってもないもんを谷川に売るって話に今なってんね、そんなもの何処にも無いし、どうしたらええか、悩んでましたんや、どないしようか、と思うて」

 藤子、ふと間を措いて、
「あ、ちと待ち、あ、待って、そや、あそこや、竜次さん、それ、隠してるとこ、うち、判った、絶対あそこや」
 藤子は子供がはしゃぐような声を出した、
「あそこや、間違いない、この前、うちもあの家、行った、あそこだけは、あんなに周り、引っ掻き回されてんのに、何んともなってなかった」
 並木の眼が輝いた、
「それ、どこ、です?」
「あ、あかん、うち、それ、云わん、そやんか、うちと並木さん、まだ、知り合うたばっかしやん、お互い、まだ、どんな人間か知ってない、その手帳、聞いてたら、飛んでもないこと、書いてあるみたいやけど、うち、それ売ったら、いや、もう売る約束してんねや、谷川と、何ぼや思う?あのどケチの、どスケベの谷川が、こんだけ出すて約束してんやで」
 藤子は右手を広げて見せた、
「500万やで、あんた、普通の人間、一生かけて働いても無理や」
 並木の眼が微かに動いた、
「それ、あんたに渡して竜次の仇、とって欲しいと、うちは思う、せやけど、それやったら、うち、何も無いやん、こんだけのお金、一銭もうちのもんにならへん、それに、あのどスケベ爺に、うち、殺されかけたし、うちの体もええように弄ばれたんや、で、ホテルの権利書もこの店の売り上げも一銭もうち、あの男に騙されて一銭も貰うてないねんで、あかん、折角やけど、それ、並木さんに渡されへん、悪いけど、あかん、並木さん、あんた、諦めて」
 並木が応える、
「藤子さん、その手帳、谷川に渡して、谷川、500万もの金、すんなり渡すと思ってるんですか?」
「それや、それが一番心配やね、並木さん、こんなん聞いたら失礼やけど、あんたは、警察か、それともどっかのお役人さん、や思う、あんた、奥さんは?」
 並木は苦虫噛んだような顔で、渋々と頷く、
「お子さんは?そう、で、どっち?男の子?そうなんや、これからお金、嫌云う程かかるんや、並木さんのお子さんやったら絶対賢い子や思う、大学も行かさなあかん、大学出てないと出世出来へん、そんなこと、並木さんが一番よう知ってはる筈や、
 うち、今考えた、うちと並木さんで500万の半分、250万毎、で、どうです?おまけに並木さんはその手帳も手に出来る、これ、どう?」
 並木は、予想外の提案を受けて、暫し、考え込んでいたが、腹を決めようと、冷めた酒を湯飲みに満たし、喉に流し込んだ、

               18、
 谷川は、物々交換の場所を、小料理屋「竜次」を指定してきたが、金を受け取り、手帳を渡さずに逃げるには、最悪だと並木の判断で、藤子は拒否し、代わりに藤子は、その取引場所を寺町の、谷川の実家の寺を指定し、昼間の時間を指定した、谷川にとっては有利な条件、当然了承した、
 取引には、お互いに単独で、特に谷川には、寺の周囲に、また境内に一人でも組の人間見つけたら、自分には金は要らん、命の方が大事、即座にその場から逃げ、そのまま、近くの警察に駆け込む、と条件を付けた、谷川は了承した、それにもう一つ、藤子は付け加えて云った、小料理屋「竜次」へ藤子の寝込みを襲っても、竜次から預かったものはそこには無いので無駄足だと念を押した、

 並木は、藤子と谷川の取引が場所も時間も確定して以降、谷川が500万もの大金を何処で用意して何処に保管するか、その一点に絞り、谷川の動向、組の幹部の動静を監視した、
 その結果、並木はその金の保管は、絶対に組事務所内ではないと確信した、事務所には昼夜間、複数の配下の者がそこに常住しているが、谷川の性格からして、現実に一番信用していた竜次の裏切りに遭って以来、配下を信用している筈はなく、まして不用心に、事務所の金庫に大金を、例え一時的にも保管しておく筈はないと読んでいた、
 その保管は銀行でしかない、戦後、金の出し入れも全て進駐軍の監督下に在った金融機関は漸く自由を得て、次第とその信用を取り戻し、また朝鮮戦争での日本経済の復活に乗じてその取り引き高も倍々に業績を伸ばしていた、
 それに、谷川の取引先は、相手は進駐軍本体であり、国内では大手商社、物産関係の会社が顧客であった、億単位の金を銀行の金庫の中に眠らせていると並木は見込んでいた、
 それでも、並木は、次第に焦り始めていた、谷川に、また組に、それらしい動きが全く見えなかった、一日中張り付いていても、谷川が何処にそんな大金を保管しているのか、手掛かりが掴めなかった、
 並木は、谷川に藤子との取引を実行する気が無い、初めから騙すつもりではなかったかと疑い始めた、金は一銭も用意せず、竜次の遺した証拠品を藤子から力づくで奪い取り、叫べばその場で喉を絞めれば、全て一件落着、する、現に、藤子にしても、初めから正直に取引するつもりは更々なかった、
 物々交換実行の2日前、だった、谷川は珍しく実家の寺を訪ねた、並木は、境内に数人居る他の拝観者に紛れ、自らも拝観者を装い、境内を手を腰の後ろに組んで、のんびりと眺め歩き、本堂の仏像に手を合わせながら、境内隅に駐車している谷川の黒い車を見張っていた、
 谷川と組の幹部らしき二人が、奥の庫裡の方から車に戻って来る、その後ろに妻のふみが頭を下げて見送っている、そのふみの後方に、3人の、若い男が整列して谷川らを見送っている、
 谷川の後ろを警護するように歩く幹部の一人が、手にしていた風呂敷を埃を払い落すように叩いて折り畳んだ、
 並木は咄嗟に判断した、取引に使う金を、あの風呂敷に包んでここに持ち込んだ、と直感した、3人の男は万一の為の用心に残されたに違いない、男3人、並木一人でどうにかなる、


           
 昨夕、並木は久しぶりに署に戻り、上司に現状を報告した、定期的に報告するよう義務付けられている、竜次からの受け取りに失敗して以後、上司は並木に冷たい視線でものを云うようになった、多分上司も上層部から失態を厳しく責められたに違いない、
 そんな世界だった、戦後民主主義も、新憲法も、新刑訴法発布も警察官僚の陰湿さは何一つ変わっていない、上から下へと叱責は降りて来る、時には罵倒、面罵も伴う、
 だが、功績、手柄は現場のものではなく、常に上司が掻っ攫う、竜次から取引の申し出があったことを伝えた時は、上司は俄かに狂喜し、部屋を飛び出して幹部のところへ報告に走った、
 取引失敗の日から、上司の物言いは侮蔑的になった、この日も、並木の報告を、他の書類を見ながら苛立たしそうに聞いていた、
 並木はつくづく嫌になってきた、並木の人生で、こんなふうに思うのは初めてのことだった、
 藤子の提案がそうさせた、500万の半分、250万、これだけ有れば、別に他の会社でまじめに働いてさえいれば、人生、家族共々、あくびしながらでも悠々生きていける、
 上司の薦めで、半ば強制的に妻となった女房の、何かにつけ、誰それさんのご主人が出世したの、どこそこの子供がこんな成績を、と愚痴不満をバケツの水をかぶるように浴びせられるのにも、愈々我慢することが辛くなってきていた、
 夜になり、料理屋「竜次」を訪ねれば、仲居らは並木をすぐに二階の藤子の部屋に上げ、酒と満載の料理を運んでくる、そして藤子は必ず並木の相手をして、酔えば、二人で床に入り、何度も悦楽の極みに酔い痴れた、この数年、妻の体に触れたことがない、そして藤子との営みは、男を忽ちに恍惚の世界へと誘い、そして幾度も果てた、
 藤子は、並木の耳に、子供の頃の話をしたことがある、生まれた家は、寂しい漁村の村はずれ、寺か神社の、小さな祠で、親子4人か5人で暮らしていた、と云う、父は、いつも、一升瓶に蝮を漬けた焼酎を飲んで、母を、真っ裸にして子供達の前で犯し、自分には妹と弟がいた記憶があるが、その記憶も霧のように消えて、その妹と弟が、その後、どうなったのか判らない、と云う、
 子供の頃、就学期を過ぎても学校に来ない藤子は或る日、役場の人に無理やり連れられて初めて学校へ行った、皆の前で、頭を下げた藤子に、子供達が一斉に囃し立てた、
(へんぞの子や、へんぞの子や)
 そして、用意していた小石を藤子目掛けて投げつけた、その内の何個かが藤子の腕や足、そして頭に当たった、血が滴り落ちた、藤子は走って逃げた、と云う、以来学校には行っていない、とも云った、
 そして藤子は云う、その(へんぞの子)の意味を大人になって知ったと云う、並木は訊ねた、
(へんぞはへんろ、遍路巡礼するひとのこと)
 藤子はそう教えた、
(じゃあ、藤子さんはその巡礼の子か?)
(違う、そやない、うち、さっき云った妹や弟のこと、うち、今になって思う、妹も、弟も、多分、子の無いお遍路さんに貰われて行った、いや、買われて行った、んやと今になって思う、父は、その妹や弟を売った金で、酒を飲んでいた、と思う、父が、働いているところなんか、うち、見た覚えない…)
 並木にしても、藤子ほどではないが、貧乏な農家に生まれた、ただ勉強は良く出来た、何とか上の学校へ入り、そして警官になった、警官としての成績を上げ、特別な任務を任されるようになった、それが自慢だった、だが、並木は、今になって思う、それがいったい何だと思う、
 酒がうまい、酔いが心地よい、藤子と話をしていると心の塊が解れ、そして希望が沸々と湧いて出る、同僚と交わす酒は、酔えば必ず、おれが、で始まり、あんたの為なら、と絡み出し、次にはひとの悪口を言い始め、最後には殴り合う、あの世界に戻るのがつくづく嫌になってくる、
 だが、あと数日もすれば、あの、陰湿な世界に戻らなくてよくなる、あの、妻の冷たく蔑んだ視線を浴び、針の筵に座るような居心地の悪い家に戻らなくて済む、250万の金さえ有れば、俺は生まれて初めて自由になれる…

 藤子が仰向けて並木を迎え入れ、藤子は並木の頭を抱えて両手で揉み解す、藤子が腹這いになった、並木は藤子の膝の裏に、黒い、小さな影、虫のような影を見つけた、
「ちょって待って、そのまま、にして、なんか、膝の裏に虫がくっついている、ダニかも知れない」
「やだ、そんなの、早く取ってよ」
 並木は俯せてやや膝を立てた藤子の股間に頭を入れて、その小さな影を見る、
 蜘蛛?いや?並木は指で触れてみた、動かない、
 痣?痣、のようだ、並木は指先で、目の前の藤子の秘部を押してみた、
「やだ、並木さん、何、入れてんのよ、やらしい、スケベ」
「痣、がある、丁度、膝の裏、蜘蛛の形、している」


          19、
 物々交換実行日の前夜、藤子と並木は、谷川の実家の寺に隣接する寺の境内に、その日の夕からそこに侵入して隠れ、時間を見計らって木を登り、塀越しに谷川の寺へ忍び入った、モンペ姿に、頭と口を手拭いで包んだ藤子は機敏に動いた、当初、襲撃を計画した時、並木は単独で実行するつもりだったが、藤子は、
(あかん、並木さん、全部持って逃げる)
 と拒否され、二人で侵入することにした、並木は案じたが、子供の頃から木登りや、走りには自信があると藤子は云ったが、足手まといにはならなかった、

 二人はその日の朝の内、藤子と竜次が暮らした長屋の一軒を訪れていた、
「あいつら、見張ってないやろか」
 藤子は心配したが、
「前に家探しして、ここに何もないと判っている、絶対安全だ」
 その通り、それらしき男の姿は無かった、
 家の中は何もかも破壊されて、物も散乱しているが、家の中のどこかから、竜次の体の匂いが臭ってくるようで、藤子はふと、二人で過ごした日々が思い出され、涙が出そうになった、
 並木に急かされ、元はその上に卓袱台を置いてあった床の、床板を一枚、そしてもう一枚をめくると、床下に、机の抽斗のような箱に、分厚く膨らんだ手帳が数冊、見つかった、
 並木はそれら手帳をぱらっとめくって中を確めると、用意してきた背負い袋にそれら手帳を詰め込んだ、
「多分、もうこれ、公けに使うことはないかも知れないが、万一の時の、二人の命の保障の役に立つ」
 と云った、
 それを聞いて、藤子は、並木にも、大金の有難みが解ったようで、奪った大金で、この後の人生を楽しく暮らしたいと、人並みの欲が出てきたと解って安心した、
 
 二人は、藤子が以前、谷川の妻ふみと面会した本堂裏の邸へと向かった、もう夜は更けていた、並木は、手帳の束を入れた背負い袋を背中に担いでいる、金を奪い取った後、その金もこの背負い袋に詰め込み、一目散に逃走する、
 並木は、大金の保管場所を、同じ邸内で、谷川の配下の者が泊まり込んでいる部屋がそうだと見込んでいた、
 邸内に忍び込むと、男達が警備する部屋はすぐに分かった、電灯が点いて明々とした部屋がひとつだけあった、、中から、男達の、酒を飲みかわす声が聞こえて来ていた、
 暫く待って男達の寝込みを襲うことにした、並木は懐から、筒の長い拳銃を取りだし、布で念入りに磨き始めた、藤子はこんな物騒な物、初めて見て驚いたが、並木がそれを察し、小声で、
「心配しなくていい、消音付きだ、撃っても音はしない、脅しに使うだけだ」
 と平然と云うのを聞き、それに拳銃を扱う様子が手慣れていて、藤子は、この男と組んで良かったと改めて思った、

 たらふく飲んで満足したか、男達の部屋は静かになった、電灯は点いたまま、だった、忍び足でその部屋の前で聞き耳立てると、男達のだらしない鼾が聞こえてくる、
 藤子を部屋の外で待たせ、手拭いで顔半分を隠した並木はそろりと中に入り、畳に寝転がる男達の奥の床の間に、鎮座している大きな金庫を見つけた、見たところ、数字合わせの盤はなく、大きな左右の扉に把手が付いていて、その下に鍵穴が見えた、ダイヤル合わせ式であれば、警備の男達が知らされている可能性は低い、もし知っていても、数字を合わせる手間が省ける、鍵だけなら、最悪、銃弾で壊すことも出来る、そして部屋は男達の飲み空けた酒瓶が転がり、饐えたような酒の匂いが充満していた、並木は今日の作戦の成功を確信した、
 足元に延びる一人の男の足を並木は蹴った、男は寝惚け眼で、電灯を眩しそうに見ながら起き上がったが、目の前に覆面した男の顔を見て、座ったまま声を出さずに後退りした、
「金庫の鍵を出せ」
 並木は厳しい口調で告げた、云われて男は初めて事態を把握し、他の男を揺り動かした、
「鍵を出せ、ボケ、撃ち殺すぞ」
 並木は懐から銃身の長い拳銃を出し、男の頭に銃口を向けた、
「鍵はここに無い、社長が持って行った」
「あるかないか、お前の頭に聞いてやる」
 並木は銃口を男のすぐ目の前に突き出した、
 男は慌ててズボンのポケットをまさぐる、だが怯えと焦りで、なかなかうまく鍵を出せないでいる、他の二人も目を覚まし、緊迫した事態に呑まれて声一つ上げられなかった、
「ぐずぐずするな、撃ち殺すぞ」
 鍵をポケットから出そうとする男の足を並木は蹴った、漸く男は鍵を取り出し、それを並木に見せた、
「開けろ、金庫を開けろ」
 男はどうして良いか躊躇い仲間の顔を見た、
 並木は、その仲間の一人の首根っこを捕まえ、その男の額に銃口を当てた、
「早く開けろ、こいつの脳天、ぶち抜くゾ」
 それでも鍵を持った男はぐずついた、業を煮やした並木は、銃口を、首根っこを捕まえた男の太腿に向け、引き金を引いた、空気を裂くような音が響き、太腿を撃ち抜かれた男が叫び転がった、
「うるさい、静かにしろ」
 並木はその男を捕まえ、頭を拳銃で殴った、男は頭を抱え、そしてミミズのように跳ね転ぶ、
「金庫を開けろ」
 鍵を持った男は、
「撃つな、撃たんといてくれ、今開ける、撃つな」
 金庫の鍵穴に鍵を差し込み、鍵を捻ると、扉が開いた、中に札束が見えた、
「ここへ、金、全部入れろ」
 並木は背負い袋を男に放り投げた、男は並木の方を何度も振り向きながら札束を袋に入れた、
 並木は金庫の中の札束が全部、袋に詰められたことを確認すると、鍵を開けた男ともう一人の男の太腿を拳銃で撃ち抜いた、二人は人間のものとは思えぬ叫び声を上げて、畳の上を転がった、

 部屋から飛び出して来た並木に手を引っ張られて、藤子も走った、邸の中を、元来た廊下を何処かで外れたか、別の廊下へ二人は迷い込んでしまった、
 その廊下の行き着く先に、ひとの影が立っている、並木は構わず突進した、立っていたのは、谷川の妻、ふみ、だった、男達の悲鳴を聞き、恐ろしい事態を察して、口に手を当て、怯えている、
 その前を並木は強引に藤子の手を引き、走った、藤子は足が縺れ、モンペの裾が何かに引っ掛かって、ふみの前で腹這いになって倒れた、モンペは膝の上から足許まで引き裂かれた、藤子の白い足がふみに丸見えになった、その時、ふみが
「あっ」
 と、息を飲むような小さな悲鳴を上げた、藤子は正体がばれたかと思ったが、とにかく顔を見られてはまずいとすぐ立ち上がり、並木の後を追った、
 振り返ると、ふみはまだそこに立って口に手を当てたまま、藤子達の方を見ていた、


          
 藤子と並木は、ほとぼりが冷めるのを待つことにした、500万円の強奪は、現場にその顔を見た者はいなかったが、谷川は全て藤子が仕組んだものと確信しているに違いない、藤子がその日から姿が消していることも藤子の仕業であることは明らかだ、
 拳銃で配下の男3人の足を撃ち抜き、現金を奪った男については、3人は、姿は見たがそれがどこの誰か、見当もつかなかった、だが、谷川は、以前、藤子を襲撃させた時に不意に現れたと云う男、その手際の良さから、その時と同じ男だろうと見ていた、

 藤子と並木の二人は事前に話し合って決めていた通り、藤子は里に戻り、並木は一旦、本来の警察部署に復帰することになった、金と手帳は藤子が、並木は当初渋っていたが、並木にそれらを隠せる場所がなく、藤子が並木の背負い袋をそのまま担いで里に戻ることに納得した、
 藤子の里のことは、大阪で暮らした数年、藤子は誰にも自分が何処で生まれ育ったか教えていなかったので、谷川に居場所を知られる恐れは無いと説明して並木を安心させた、
 当然、藤子は並木に、藤子の里の住所を教え、その隠れ住む家の地図も書いて渡した、お互いに、それぞれの場所で、身に危険が及ばなければ、半年後に藤子の隠れ処で再会して、奪った500万の金を山分けしようと決めていた、

 だが、並木は、金の無事を案じるのか、藤子の体が欲しくなるのか、それとも藤子を信用し切れないのか、月に2,3度、藤子の家にやってきた、そしてその顔は見る度次第と荒んでいく、

 三か月が過ぎた頃、訪ねて来た並木の顔は憔悴していた、酒を荒っぽく飲み干す様子に、訳を尋ねると、普段からその態度に不満を募らせていた上司と口論になり、上司を殴ったと云う、その翌日、並木は平巡査に降格され、その日の内に大阪南部の、山合いに在る駐在所勤務を命じられた、と云う、妻と子は、妻の実家に居ると云う、
 上司への不満、妻への愚痴を止めどなく口にする並木を観ながら、藤子は、この男の性根はただの会社員、夢や野心のない詰まらない男の正体を見るようで失望した、
(この男には、出世することだけが望み、それしか見えてないんや)
 並木は、酔いが深まるにつれ、やはり藤子を信用出来ないと口にする、並木は云う、もうこれ以上待てない、この先3か月も待てない、今すぐ250万の金と、竜次の書き遺した手帳の束を渡せと執拗にせがむ、藤子はこんな男に250万もの大金を分け与えるのが惜しくなってきた、
 よくよく考えれば、元はと云えば、谷川が、並木が欲しがる手帳は、妹を殺された復讐に竜次が命を賭けて谷川から奪い取った物、それを還せと脅す谷川にハッタリ掛けて500万の金を用意させたのは藤子であり、その金を奪い取ろうと持ち掛けたのも藤子だった、並木に大金250万もの分け前を受け取る資格はない…
 藤子はそれでも並木を根気よく説得し、そしてその体で並木の苛立ちを慰めた、

 並木に会う度、藤子は谷川組の動向を訊ねた、谷川は、現金を強奪されたこと、配下の男らが銃で撃たれたことも警察には届けていない、と並木は云う、訴える筈がない、とも云った、訴えれば並木が元所属した特捜部が待ってましたとばかりに顔を出し、知られたくないことを根掘り葉掘り調べられて丸裸にされてしまう、それこそ藪蛇、になる、
 また、並木はこうも云った、
「谷川の欲しいのは、竜次が書き遺した手帳と、500万の金、これを奪い返すためには谷川は躍起になって自分達二人を探す、そのためにはどんなことでもする、警察は表の戸を叩いて訪ねて来るが、奴らは、裏戸を叩き割って押し入って来る、今も、谷川は配下の者を全国に撒き、まだ居残る進駐軍を通じて、自分らの居場所を探している、ここも安全ではない、あんたがここに戻って来て居ることはこんな狭い村、誰でも気付いている、あんたの噂話で持ち切りだろう、そんなところへ谷川の組の者が、あんたのことを地元の誰かに聞けば、お人好しに、ああ、その女なら、と教えてくれる、何れ、ここも近い内に見つかり、夜中に踏み込まれてあんたは嬲り殺しにされる」


                20、
 並木の話は道理だった、藤子にしてもそんな理屈が判らない訳ではない、近い内にここを出なければとも思っていた、しかし、並木の話を聞けば、大阪にはとても戻れそうにない、
 藤子は想像する、
 船が着き、タラップを降りたその瞬間に恐ろし気な男達に忽ちに羽交い絞めにされ、そのまま谷川の目の前に引きずられて行き、その場で激しく暴行を受け、血反吐を吐いて息絶え、ずたずたになった遺体は道頓堀にでも安治川にでも投げ廃てられる、
 金を隠す場所はある、あそこなら絶対に見つからない、現に今もそこに隠してある、だが身を隠す所が無い、初めて大阪へ逃げた時に隠した金と、今手持ちの金の額は比べ物にならない、その金の隠し場所から離れて暮らすのはやはり躊躇らわれる、だが、ここに閉じ籠れば身の破滅、確実に殺され、金は草葉に埋もれて腐ってしまう、
 藤子は考えた、そして答えを見つけた、
(谷川が欲しいのは竜次の遺した手帳、だけの筈、その手帳がひとの手に触れ、ひとの目に触れることを谷川が怖れたが為に、交換条件として500万払うと谷川は応じた、谷川にとって500万位の金はどうでも良い、手帳さえ渡せば、谷川と藤子が最初に約束した通りの結果になるだけのこと、その手帳を渡せば、金を還せと云う筈は無いし、藤子の命を奪うこともない…)
 藤子は自分の命の保証、そして身代わりに、もう今やその存在自体が鬱陶しくなって来た並木を生贄に差し出せばよい、と考えた、
 この前、並木は、藤子にこう云った、そしてその言葉を思い出す度、藤子は並木に殺意をさえ抱くようになっていた、
「分け前の250万も、手帳も未だに渡さない、自分はあんたに騙された、と近頃思うようになった、そうとしか思えない、あんたがその気なら、自分にも覚悟がある、自分はもう死んだも同然だ、なら自分は、今度のこと全てあんたが仕組んだことだと訴えて、あんたの居場所を谷川に知らせてやる、そうされたくないなら、今、目の前に、金と手帳を出せ、さ、さっさと出せ」
 凄い剣幕で云われて身の危険を感じた藤子は、屋根裏に、風呂敷に包んで隠してあった手帳の束を渡した、
「お金はここに置いてない、次、あんた、いつ来る?判った、その時に耳揃えてあんたに渡してあげる、心配しいな、250万はあんたの取り分や、うちはあんたの取り分に手付けたりせん、うちは250万もあれば十分や」
 手帳の束を確めた並木の顔から僅かに怒気が緩んだ、藤子は並木の顔を見てほっとした、渡した手帳はこれが全部ではない、残りは念のために、分けて500万の金と一緒に隠してある、藤子は並木の肩にもたれて云った、
「ごめんね、あんたのこと、うち、ちっとも判ってやれへんかった、ごめんやで、あんたなんか、何でも、うちと違うて何でも一人で出来ると思い過ぎていたんや、今度来たら、お金持って帰ったらええよ、せやけど、それでうちら終わりやて云わんといてな、うち、あんたに半年待ってて云ったのは、ほとぼり冷めて、谷川も諦めて、そうなったら、あんたとずっと一緒に暮らせる、と思うてたんや」
 ここまで話がややこしくなったのは、全て並木の悪巧みの所為、藤子を誑かし、また手帳を渡さず金を強奪した並木、谷川はその名前も正体も、得体も知らない並木に対して、谷川は激しく憎悪を、敵意を募らせている筈、なら谷川の目の前に、手帳をその背中に括りつけて並木を突き出せば、全て片が付く、


           
 その夜は、深夜になって雨風、激しくなり、海から吹きつける風がものの怪の遠吠えのように吠え、その風に煽られ、荒れ小屋の屋根上に覆い被さる松の木の枝が唸りを上げてしなる、    
 屋根に葺いたトタン板が、今にも引きちぎられそうにばきばきと音を立てるのが家の中に居ても聞こえてくる、
 藤子は並木の体に敷かれて、剥き出しの屋根裏を見上げていた、一本の蝋燭、風に煽られて炎が揺れる、その蝋燭灯りに照らされて、天井に張り付いた蜘蛛の巣を藤子は見上げながら、溢れる欲情丸出しに熟れた藤子の乳房に赤子のようにしがみつく並木の髪の毛を揉みほぐしてやっていた、やがて並木の体が痙攣し始め、藤子は並木の頭を両の乳房で包み、痙攣が治まるのを待った、
(並木さん、何度でも行ったらいいよ、うち、何回でも付き合うたげる、今夜が最期、なんよ、あんたとこうして過ごす夜は…)

 藤子は谷川に手紙を出した、宛先住所は藤子が働いた小料理屋「竜次」、谷川社長さまへと書き、差出人名は「ふじこより」とした、封筒の中には便箋が一枚、そしてたった一行、
「大阪府警、~町~駐在所勤務 並木巡査」
             
 藤子はこの結果を想像しながら、この一行を書いた、 
(突然、駐在所に押し入ってきた男達に両足太腿を撃ち抜かれた並木は、藤子が自分の居場所を谷川に知らせたと疑い、その仕返しに、そして命乞いに、金も手帳も藤子が持っている、今度のこと、全部藤子が仕組んだ、自分はただ云われるままにやった、そして並木は藤子の居場所を男達に教え、這って逃げる並木は背中に留めの弾を撃ち込まれ、口から血を吐きながらも、いもりのように赤い腹を跳ねて息絶える、
 男達は、家探ししたが何もなかったと、谷川に報告する、並木が云い遺した藤子の住所を書き留めた紙片を谷川に渡す、谷川はその紙片を憎々し気に睨み、そして男達に、たった一言、こう云う、
「殺せ、八つ裂きにして殺せ」)

 谷川組の男達がこの荒れ小屋の裏の板戸を蹴破って押し込んでくる前に、ここを逃げ出さなければならない、行く宛は無いが先ずは行方を眩ますことが先だと藤子は決意した、
 夜中、藤子は懐中電灯と炭火用の十能を持って、隣接する墓地へ入った、風は強いが、幸いに月は明るかった、藤子は懐中電灯を照らして、ひとつの墓柱を目指した、
 雑草が生え放題、伸び放題の墓地の中、藤子の留守中、毎夏に必ず二度や三度は襲来したはずの台風の被害を案じたが、目指す墓柱は元在った場所に無事な姿で見つかった、
 藤子は、その墓柱の真後ろの、小さな岩を真ん中に載せた石台を退けた、十能で、石台の下に在った土と雑草を一緒に掘り始め、十分程深く掘って柔らかくなった土中に手を突っ込み、まさぐった、
 指先に、埋めた柔いナイロン袋が触れる、筈だった、何度も、またもう少し深く掘って手でまさぐり、土を掻き出し、掻き雑ぜたが、それらしきものが出て来ない、
 藤子の頭の中は真っ白になり何も考えられなくなった、落ち着くんや、と自ら気を静めてみるが、頭の中の記憶が消えて、思い出そうとするが、何も浮かんでこない、
 深呼吸を繰り返し、何んとか思い出した記憶を一つ一つ辿る、藤子の記憶は、大阪から帰った夜に遡る、大阪から帰ったその夜、藤子は並木の背負い袋から札束を取り出した、竜次の書き遺した手帳の束も取り出し、先に、屋根裏の梁の上に、二つに分けて風呂敷に包んで隠した、
 藤子は札束を途中で買って来たナイロン袋に入れ直し、墓地に運び、前に、行商屋の徳田から掠め取った金を隠したと同じ、小さな岩を墓石代わりにした石台の下に、正に、今、藤子が掘っているこの場所に埋めた、その記憶がありありと蘇った、そして、小さな岩を石台から動かした時、その岩が、藤子が置いた時と微妙に位置がずれていた、ような気がした、
 誰かが…?


                21、
 だが、藤子の記憶も定かではない、記憶を何度も辿るがそれ以上のことは、全てがあやふやではっきり思い出せない、ここに埋めたことだけは確か、訳が分からなくなって、藤子は立ち上がった、ふと後ろで草木が擦れる異音がして、藤子は振り返った、
 墓地と藤子の家との境、背の高い雑草が茂った中に、月明かりに照らされて、ひとの姿のような白い影を見つけて、藤子は腰が抜ける程に驚いた、
 恐々、懐中電灯の光を向けると、そこに立っていたのは、骨と皮だけに痩せ細った、夫、耕三だった、
 こんなところに耕三が立っていること、いや立っていられること自体が信じられず、藤子は声も出せず、ただ茫然と突っ立った、
 我が身一つ、指先一寸も動かせず寝たきりの、糞尿垂れ流して悪臭に塗れてしか生きられない筈の耕三が、いや、間違いなく耕三が、そこに立っている、藤子は、喉を絞められた鶏が喘ぐような声を出して呼び掛けた、
「あんた、あんた、なん?」
 白い影は答えない、返事の代わりに、藤子に向かってそろりと手招きする、箸一本持てない耕三が腕を動かし、手招きをする、
 耕三は背を向け、手足を棒のように、しかしゆっくり動かして、家へと歩く、藤子は狸に化かされ魂を抜かれたように後を従いて行く、

 藤子は体中泥だらけのまま、構わず座敷に上がった、耕三は卓袱台に肘を立て、凭れるように座っている、しかしその顔は蒼白で、髪は白髪で、卓袱台に立てた腕は、骨の形が浮き出ている、そして何よりも、その顔は年齢以上に更けて、いや殆ど死人の顔、元の耕三の面影はどこにも残していなかった、
「あんた、どうしたん?歩けるようになったん?どないしたん?」
「はるいばあが毎日病院に、荷車にのせて連れて行ってくれる、薬飲んで家のまわり、歩けるようになった」
 耕三は、顎が外れたように、ゆっくりと、そして口から涎を垂らしながら喋った、その間延びした声も藤子の記憶する耕三の声とはまるで違っていた、
「嘘や、ほんまに歩けるようになったんや、あんた、良かった、やん」
 藤子は耕三の、今にも骨が砕けてしまいそうな手を握り締めながら、この数日のことを思い出す、
 大阪から帰った藤子は、真っ先に奥の間で寝たきりの耕三に声を掛けた、
(あんた、うち、帰って来たよ、ちょっとの間かもしれんけど、うち、またあんたの面倒見るし、春猪ばあ、あんじょうしてくれてたん?)
 そう声を掛けた時、耕三は開いた口端から涎を垂らし、動かない目で天井をじっと見上げていた、藤子は手拭いで耕三の口を拭いてもやった、そして、朝夕に口に粥を入れてやり、おしめも換えてやった、だが、耕三の体は、竹の棒で作った案山子のように、固まってしまって、5年前に出奔した時と、20年前と、何一つ変わっていなかった…
「うそ、嘘や、信じられへん、せやけど、ほんまや、あんた、ほんまに良かった、な」
 そう云いながら、藤子は墓石の下から消えたナイロン袋のことが気に成って仕方なかった、それに、ふと藤子は思った、
(何で、このひと、あんなとこに立ってたんや?うちが墓の土、掘ってたん、見てた、みたいやった)
 藤子は思い出した、藤子が初めて大阪へ出る前の夜、藤子は寝たきりの耕三の横に座って、独り言云うように、耕三に話し掛けた、ことがあった、
(うちな、あんたにだけ云う、とくな、うち、徳田の家から、お金、盗んで来たんや、あんたに悪いねんけど、あの徳田に手籠めにされてんや、その慰謝料とか云うのあるやん、それ貰う為に、徳田の家から盗んで来たんや、ほんでな、そのお金、な、裏の墓地に隠してあんね、や、徳田とこのくそ婆、うちが銭盗んだ云うて吠えまくってる、警察もうちを見張ってる、せやけどあそこなら誰にも判れへん、ほとぼり冷めんの待って、また大阪から帰って来て、それ掘り出したら、まだ大分残してある、それ掘ったら何なりと役に立つ、それまで、あんた、捜さんといてな、ま、無理やろけど)
 耕三が、あの墓石の下から金を掘り出した?こんな骨と皮の体、今でも歩くのがやっと、耕三があの重い墓石を動かせる訳はない、
 そしたら、誰か、他の者が、盗んだ?
 藤子は考えた、誰かがあそこに墓参りに来た、草抜いていて、あの墓石の下に、何か埋めてあることに気が付き、それを掘り出した、それは藤子が徳田の家から盗んで来た金の残り、この盗人は、何日か前に藤子が帰っていることを知り、また同じところに金を隠した、と思い、掘って、大金を見つけた…?
 ふと別のことを思い付く、
 どうして、耕三はあそこに立っていた?歩けるようになったかも知れん、せやけど、普通の人のように行ったり来たり出来へん、それに、なんでうちがあそこに居たこと、判ったん?うちがあそこで土掘り返すの、判ってたみたいに?耕三は、やっぱり、藤子があそこに金を隠すの判っていた?

            
「また、出ていくのか?」
「行かへん、行かへんよ、何処へも行かへん、ずっとここに居て、あんたの面倒見るつもりや、春猪ばあにもちょっとは楽して貰うつもりや」
「うそや、お前の嘘はききあきた、またすぐ出て行くんや」
 嘘を嘘だと詰られて藤子は感情が荒れた、
「何であんたにそない云われ方せんならんのや、ここに居て、あんた、うちに飯食わしてくれるんか?飯食われへんから、出て行くんやろ?何を偉そうに云われんならんのや」
 耕三は動かぬ眼球で藤子をじっと見詰める、
「うち、さっき掘ってたとこにお金、隠した、それ、今、掘ったら、何も無い、盗まれたんや、あそこにお金埋めてるの知ってるのは、あんただけや、あんたが盗んだんか?」
 耕三は何も云わない、無表情、無感情の顔が、しらを切っているように見えた、藤子に突然殺意が芽生え、そして抑えきれない程に膨れ上がった、抑えきれなくなって、藤子は、立ち上がり、耕三を押し倒して首根っこを両手で絞めた、
「何処や、うちの金、何処へやった、うち、あの金、命賭けて、奪ってきた、あんたは一体うちに何してくれた?あんたは、糞に塗れて一生、寝たきりやんか、うちに何んか文句言える筋合い、無いんやで、うちのお金、何処へやった、さっさと云え、このまま首絞めて死んでしもうてもええんか?」
 耕三の口から涎が白い泡となって溢れ出る、そして、耕三は最後に、息苦しそうに喉を鳴らして、そのまま、白目をむいて息絶えた、
(何処や、何処へ隠したんや)
 藤子は狂ったように耕三の顔に向かって吠えた、不意に一人の老女の姿が藤子の頭に映し出された、春猪ばあ、
 藤子が大阪から帰ったその日、春猪ばあは、耕三の世話のために、家に来た、そして藤子が居ることに驚いた顔を見せ、頭を下げて、挨拶した、
「春猪姉さん、おおきにな、いつも耕三さんがお世話になって、ほんまにおおきに、うち、暫くここに居るよって、また、大阪へ戻ることになったら、その前に、また姉さんに頼まなならんので、その時にまた」
 と云って、その日は特別に日当を渡して帰って貰った、
 藤子は疑った、
 春猪ばあ、今になって思う、ひとからその手癖の悪さを聞いてはいた、聞いてはいたが、藤子自身も決してひとに褒められるようなことは何一つして来ていない、村の排他的な仕打ちにも藤子は反感があった、それに藤子自身、徳田の家から金を盗んだ疑いで村から出なければならない事情もあった、そんな噂など構わず、春猪ばあに、耕三の世話を頼んだ、他に頼める人もいなかった、
 春猪ばあ、盗人癖のある人間特有の勘が働いたのか、それとも金の匂いをあの墓地に嗅ぎつけたのか、それらしい形跡のある墓や空き地を犬のように鼻を鳴らして嗅ぎまわり、あの小さな岩を載せた石台を見つけた、石台の下の土に乱れを見つけた春猪ばあ、そこを掘って大金を掘り当てた…そんな絵が藤子に見えて来た、

               22、
 藤子は、包丁を持ち出し、泥土に汚れたままの格好で、夜道を歩き、数分先の一軒家の前で足を止めた、電灯の点いた家の中の様子を聞き耳立てて探る、ひとの声はない、春猪ばあは元から一人で住んでいる、その春猪ばあの足音だけが聞こえている、
 藤子は、戸を開けて、中に入った、藤子の顔を見た途端、全てを覚ったような慌てぶりで、身を翻して裏口へと逃げる春猪ばあの背中を捕まえ、引き戻して座らせた、
(姉さん、金返せ、金返したら、何もせん、金、何処や)
 春猪ばあは箪笥の抽斗を指さした、藤子は春猪ばあの髪を引っ掴み、箪笥のそばに座らせた、
「開けろ、早よ、抽斗、開けろ」
 春猪ばあは震える手で箪笥の一番下の抽斗を引っ張り出した、衣類に隠れてナイロン袋の包みが見えた、藤子は抽斗からそのナイロン袋を引っ張り出し、家から持ち出してきた包丁の切っ先を春猪ばあの喉元に突き当てた、
「なあ、フジちゃん、わし、殺すな、殺さんといてくれ、まだ死にとうない、な、わしが悪かった、な、助けてくれ、わし、助けてくれたら、耕三の世話、わし、一生、死ぬまで、ただで面倒みるよって、な、それに、わし、殺したら、誰が、耕三の面倒、世話すんね」
「姉さん、うちのひとのこと、なんも気にせんでええ、もう、死んだ、うちが首絞めて、殺した、もうあの世に着いた頃や思うわ」
 大きな雲の塊が二つ三つ、夜空に流れて月を隠したその時、ひとの断末魔の声が、夜空に響いた、だが、その声に気付いた者はいなかった、
 その小一時間後、ひとは、火事を知らせる鉦の連打で目を覚ました、外に飛び出して夜空を見上げ、集落から離れた一軒家の上空が火花で朱く染まっているのを見つけて大騒ぎになった、
 そしてそれから半時間後、今度は、村はずれ、松林の下の、小さな墓地の在る辺りから火の手が上がり、二つの火事に人びとは恐怖に陥ちた、

             
 半年後の夜明け前、生玉神社境内で、戦没者慰霊碑の礎台に凭れ、背中に背負い袋を背負った一人の女が死んだように寝ている姿が、ひとの目に触れ、見るからに乞食ふうの女が、もしかして死んでいるかも知れないと警察に通報があった、
 この生玉辺り、一時期、傷病兵が慰霊碑の周りに集まって物乞いする姿も見られたが、警察の厳しい排除を受け、最近はその姿を殆ど見なくなっていた、だがその代りにやたらと浮浪者が集まり、近くの料亭や、連れ込みホテルの、一晩中、ネオンで明るいこの辺りに、夜になれば蛾や虫のように集まり、行き交う男女に食い物をねだる姿が多く見られるようなった、
 どうせ、そんな浮浪者の一人だろうと、通報を受けた警官は、嫌がる女を力づくで派出所に連れて来た、が、不自然に顔を隠そうとする女に不審を抱き、その背中に背負う袋を女から無理に引き剥がし中を開けた、
 食い物の残りを詰め込んだその下に、紐で括って束ねた手帳数冊、その紐を鋏で切って手帳を開いてみると、一頁にぎっしりと、それが全頁に日付、物の名前、その重量等、受取先、引き渡し先の受領印、その金額、などが詳細され、警官はどの頁にも、大手物産関係の商社名がずらりと並び、その膨大な金額、しかもそれがドルのマークが付き、アルファベットの外国人の名前と、その所属、階級が添えられているのを見て、もしかして自分は飛んでも無い物を拾ってしまったのではないかと驚いた、しかし派出所勤務の警官にはこれらが実際何を意味し、どれほどの価値が、どれほど重大な犯罪を証明するものか想像もつかなかった、
 警官は、手帳の下、背負い袋の更に底の方に、ナイロン袋を見つけて取り出した、
 ナイロン袋の中に、角張った新聞紙の包みが数個、その内、一個の包みの新聞紙を破いて中を確認して警官は驚いた、中身は全て高額紙幣、その紙幣を束に、更にその束を積み重ねて一束にしてあった、どれも同じ額の紙幣で、数個の包み合計しておおよそ500万円は下らない、警官は目の前の状況を本署に電話で、手を震わせながら詳細した、

 女は、藤子、だった、藤子の身元が、藤子が口にした出身地の警察署に照会に出され、数日後、藤子の地元警察から出張してきた刑事が見せた手配書を読んだ担当官は、その凶悪な犯行内容に驚き何度も読み返したほどだった、
 女は、寝たきりの夫、耕三、そして夫の生活介添え人、二名を殺害し、それぞれが住む家に放火した容疑で指名手配されていた、


               23、
 藤子からの聞き取りは二手に分けて実施された、藤子には担当が入れ代わっても質問されることに素直に、知っているかぎりに応じていたが、藤子自身、何故、担当が、その名前や所属を告げずに交代しても同じ質問することに特に気にはしていなかった、
「竜次さんは谷川組の男に殺された、どうして竜次さんが殺されたのか、殺した男が
(落とし前、つけろ)
 とか云うてたが、どんないざこざがあったのか、うちは知らない、竜次さんからそんな話、一度も聞いたことがない、
 竜次さんが殺されて暫くして、並木が、谷川組の男にうちが襲われた時、うちを助けてくれた、並木は、竜次さんから何か預っていないかとうちに訊いたが、うちは何も聞いていないし、何も渡されていない、並木は、竜次さんが何故、谷川に殺されたか理由を教えてくれた、うちと並木は竜次さんの家から谷川が捜していた手帳の束を見つけた、
 それを見た並木がうちに云った、
(谷川に、竜次さんの書き遺した手帳を渡す、その代り、500万を出せ、と云え)
 うちは谷川に直接会って並木に云われた通りに云った、谷川は、うちの話を了承した、
 並木は、金を奪い、手帳も渡さない計画を立て、谷川の実家から、そこに居た組員3人を撃って、金庫から500万の金を奪い、二人で逃げた、
 うちは手帳は要らない、500万の金は山分けしようと決めていた、けど、並木は500万の金、全部欲しくなって、全部渡せと云い出した、うちは、金を別の所に隠してあった、いついつ渡すと約束して、並木は帰った、うちは、並木が何処に住んで、どこで何をしているのか一度も聞いたことはない、ただ、警官やというのだけは判っていた、
 その並木が、それ以後、一度もうちのところに訪ねて来なくなった、手帳は先に渡してある、もう金は要らなくなったんやと、思っていた、
 今、初めて聞いて知った、並木が殺されたこと、うちらあと少しで一緒に暮らすつもりしていた、そやのに、並木、うちのこと捨てたんやと、うち、恨んでいた…
 ごめん、やで、並木さん、うち、知らんかった、あんたに嫌われた、棄てられたと、うち、あんたを本当に恨んでいた、

 耕三さん、薬を飲むようになって、体が少しは動くようになっていた、うちも嬉しくなって、うち、隠してあるお金で、耕三さんを大きな病院連れて行って、ええ先生に頼んで直して貰うつもりしてた、うちの取り分、250万もあればすぐにでも入院出来る、
 その、隠してあったお金を捜しに行ったら、裏の墓地、埋めたところに埋めたお金がない、うち、まさかと思って、春猪ばあに、訊いてみた、春猪婆は、
(そんなん、知らん、そんな大金、生まれてこの方、見たことも触ったこともない)
 と笑った、
 うちは大阪へ戻った、もしかして、並木が、うちがお金隠した場所知ってて、お金掘り出して、それで、行方くらました、第一、それが証拠に、分け前の250万も、あれから受け取りに来ていない、並木が全部持って逃げたと、うちはそう信じて、並木を捜すことに決めて大阪へ行った、
 そやから、うちの家が火事になって耕三さんが死んだことも、春猪ばあの家が焼けて春猪ばあが焼け死んだこともうちは大阪から帰って来て知った、耕三さん、あと少し待っててくれたら、病気直ったのに、それに春猪ばあ、うちが留守中、耕三さんによくしてくれた、お礼もしようとおもっていたのに)

           
 並木が元所属した、進駐軍物資横流し特捜部は、この時既に解体されており、当時の並木の元上司は、竜次の手書きの記録が、生玉神社で寝ていた浮浪者が持っていた、と通報を受けた時、進駐軍が去ってしまった今となってはもう何の役にも立たない、手帳で名指しされている関係各社、関係役人、また個人等への聞き取り調査は悪戯に世間を騒がすだけだと、即座にその破棄を決めていた、ただ公の人間以外の、ただ金の匂いに集まって来ただけの虫けら共は生かしておいて碌なことはない、何らかの方法で始末することにした、
 藤子への尋問もこの元上司が担当したが、破棄、無視することを決定済みの方針に沿って、元上司は、藤子が、この手帳の内容をどれだけ理解しているか、他にこのことを知る者がいないか確認する必要があった、だが初対面で人定尋問しただけで、字もまともに読み書き出来ないと知って、その日の内に、手帳数冊、本庁のごみ焼却場の釜に投げ込み、ほんの数分で灰にした、元上司にただ一つ気がかりなのは、竜次が書き記した進駐軍物資横流しの手帳がこれで全部だったのかどうか、何故なら竜次の日誌の記録の日付が、飛び飛びになっていたことに元上司は気付いていた、
 だが元上司は思い直した、時代は変わった、何もかも変わった、今更、こんなものがどこかから出て来ても、古代の遺跡、いや化石のようなもの、何の役にも立つはずがない、

 一方、耕三、春猪ばあ放火殺人事件について聴取した地元署刑事は、藤子の供述の何一つ藤子にとって有利に証明する目撃、物的証拠がなく、全てが口から出任せの云い繕いであると見抜き、アリバイ等の反証をたっぷり揃えて、公判に臨んだ、
「死刑」 
 が言い渡された、
         
 頭髪の殆どが白くなった藤子、明日の死刑執行を言い渡された朝、何か云い遺すこと、誰かに伝えて欲しいことはないかと尋ねられたが、明日の死刑を、何だか子供が遠足の日を待ち侘びるような顔をして、
「ありません、あるとしたら、出来たら、今からでも、うち、ええねんけど」
 と笑みを浮かべて答えた、
 担当看守は気付いていた、判決から既に数年、死刑囚なら誰もが陥る、毎朝、死の宣告を怖れて拘禁ノイローゼになる、藤子もこの一、二年、何を聞いても、全てが上の空だった、その以前は大体、下の話で看守をからかっていた、
 看守は思う、死刑は残酷だ、と、しかしその恐怖に耐え切れずにノイローゼ症状になってしまうことは、却って人道的といえるのかも知れない、とも思う、死への恐怖から少しでも解放される、事実そうなのかどうかは看守にも判らない、しかし何十年、死刑囚に向き合って、最近になってそう思えるようになった、いや、思うようにしていた、
 執行を云い伝えて戻る看守は、ふと違和感をもった、藤子のあの、軽口をたたいて笑みを浮かべた藤子の表情は、一、二年前までごく普通に云っていた冗談を、ごく普通に云って笑みを藤子は顔に浮かべた、この一年間に観えた、ノイローゼ症状の患者のものではなかった、

             24(最終回)
 藤子に面会があった、刑務官が、同じ人物から、以前から申し込みがあった、が藤子との血縁的関連性もはっきりせず、また面会を希望する理由もはっきりしなかったため、許可されなかった、と経緯を話してくれた、
 だが今回は、執行前日で本人の感情の昂りも憂慮されて不許可とするつもりだったが、教誨師からの身元保証と、絶っての推薦があり、許可することに成った、と云った、
 藤子も、面会希望者の名前を聞くと、あっさりと、
「会ってみたい、な」
 と笑みを見せたので、実現することになった、

 看守と教誨師に付き添われて、一人の、やせ形の、僧衣に身を包んだ女が、面会室に入って来た、鉄格子の前で待つ間、女が、俯いたまま、しかし異常な緊張を抑えきれないのか、膝の上に載せた細い手が震えているのを看守は観た、
 
 藤子が、特別に許されて、普段着を着て、面会室の格子の向こうに現れた、
 看守は、予想していた、いつも見慣れた、死刑囚と家族との、悲愴な別れの儀式、泣き喚く声が面会室に響き渡る、そんな景色を看守は予想していた、だが、死刑囚、しかも明日に処刑される死刑囚藤子の明るい声が看守の予想を打ち砕いた、
「ふみ、さん、やな、谷川組長の、奥さん、ふみさん、やな、うわあ、懐かしい、うわ、ふみさんも、頭、真っ白、やん、で、どうしたん、お坊さんの格好して、うち、未だ、死んでないんやで、ちょっと、気、早すぎるんちゃうん?済んでから来てくれても良かったんちゃうん」
 突拍子もなく明るい声、面会者谷川ふみも、付き添いの教誨師も、呆気に取られて二人暫し見合っていた、
「おおきに、な、ふみさん、うち、いらんことしてしもうて、あんたに迷惑かけてしもた、その罰で、明日、うち死刑やて、ホンマ、笑うてまうわ」
 教誨師が風呂敷包みを開けて一冊の日記帳を取り出し、その表紙を藤子に見せた、難しい漢字が書いてあり、看守も読めずにいたが、ふみが顔を上げて云った、
「藤子さん、うちの谷川が、藤子さんに大変なご迷惑をかけていたこと、本人が首を吊って死んでから会社のひとから聞いて知りました、私の方こそ、藤子さんに謝らなければなりません、お許し下さい」
「谷川の旦那さん、死んだん、え、ほんま?辛いな、そんな話、うち明日死ぬ前の日に聞くの、そんなん、辛いわ」
「済みません、今日、藤子さんに是非お会いしなければ、と、本当は、何も、知らせない方が、とも思ったのですが、やっぱり、どうしても、と」
「何?何んやの、何か気になるな、何でもええよ、教えてくれたら、明日にはうち、この世から消えてまうんで」
「これ、私の父の日記、なんです、父が老衰で、死に向かう前に、私に、一冊の日記帳、これを私に見せて云いました、
(ふみよ、勘の良いお前のこと、儂がお前の実の父親じゃないこと、とっくに気付いていたと思う、済まなかった、それでもお前はけなげに実の娘のように儂に接してくれた、本当に礼を云う、この日記に、昔、儂ら夫婦の若い頃、なかなか子に恵まれず、これは、きっとお大師様が儂の徳の薄さをお叱りに成って子を授けてくれないからだと思い、母さんと一緒に四国へ巡礼の旅に出た、その遍路の旅の途中…

 そこから、ふみは、父・遍照の日誌の一頁を、朗読した、
(二三番札所薬王寺から南へ、次の二四番最御崎寺へ向かう途中、薬王寺からほぼ半日、海岸伝いに、磯の景色を眺めながら二人、白い杖をついて歩いていた、母さんが突然激しい腹痛に襲われ、熱にも浮かされて一歩も動けず、その場で気を失ってしまった、
 周囲見渡しても、ただ磯の岩場が続くだけ、ひとの住む家は一軒もない、途方に暮れ、狼狽えていると、岩場の間から、男のひとが現れ、土地の人だと思い、妻の状況を云って、近くに体を休めるところはないかと尋ねた、が、その人は何も云わず、私に母さんを背負わせ、ついてくるように手で仕草をした、
 そのひとについて行くと、切り立った崖、その裾の、波がその近くまで荒々しく打ち寄せる辺りに、岩壁を掘って作ったような祠が有った、そこに辿り着くさえ、足を滑らせれば岩場を転がって海に転落してしまいかねず、私は躊躇っていたが、その男に手招きされ、男が示す足の踏み場に沿って後を付いて行き、その祠に辿り着いた、
 祠と云っても中は狭く、柱も、壁板も、汐風に曝されて今にも朽ちてしまいそうに、海苔に塗れてみすぼらしく、しかし私は、もしかして、この祠こそ、千数百年も昔、お大師様が修行の為、立ち寄られ、ここで荒海に向かって読経に明け暮れなされた、それこそ何百年も人の眼に触れず、ひとの口にも噂されず、幻の祠かと、もしや、その巡り合わせをお大師様から頂いたのではと深く感謝して、私は、手を合わせて、念仏を暗誦した、
 男は何も云わず、磯の岩場で火を起こし、その火で谷の水を沸かして粥を炊いて、母さんの口に入れた、信じられないことが起こった、気を失っていた母さんが、目を覚まし、そしてその額に手を当てると、先程迄触れるさえ火傷しそうだった熱が、噴き出た汗でひんやりとして、母さんは起き上がって、ここはどこなのと、尋ねた、
 暫くして、子供の声、それも乳飲み子のような声が聞こえ、この祠の奥にもう一つ部屋があり、そちらを見遣ると、世話をしてくれた男と女のひと、男の妻か、そして二人の子供、一人は四つか五つの女の子、もうひとりも二つぐらいの女の子、女の背中に一人、乳飲み子がおぶさっている、
 夫婦は、どこかで物乞いでもしながら生きているような様子、私が、助けてくれたことに感謝の言葉を述べると、男は恥ずかしそうに笑みを見せたが、女のひとはまるで反応はありませんでした、
 それで殆ど、この夫婦、そしてこの家族の悲惨な状況を私は察した、
 私は母さんと相談した、
 この出遭いは、私ら夫婦の仏罰をお大師様がお許し下さり、私ら夫婦にこの哀れな子供らを授けて下さっているのだ、私らがこの子らを、このまま放っておけばやがて、飢え死にするか病に罹って死んでしまう、無事生き延びてもこの子らに、幸せが来るとは思えない、私ら二人で私らの子供として大事に育ててやったらどうかと、話し合ってそうすることに決めた、
 そして男に、手の動きで私ら夫婦の想いを伝えた、男は長い間考えていましたが、決心してくれたのか頷いてくれた、そして小さな二歳ぐらいの女の子と女の背中に負ぶった乳飲み子を指さした、女は、私と男が何を話しているのか理解したのか、声を出さず、暴れ出したが、男に目で説得され、やがて頷き、そして床に額をくっつけて泣いた、
 私は持っていたお金の全てを男に渡した、金など街道に戻れば何処かの寺を頼れば何うにでもなる、私が二歳の女の子を手を引き、母さんが乳飲み子を背負って祠を出た、
 残された四、五歳ぐらいの女の子が私たちの後を追っかけて来るのが分かった、そしてようやく磯の岩場から抜けた私たちの前に、手を広げて通せんぼ、した、私は、女の子にこの子たち二人は、私たちが必ず幸せにする、大事に育てると、説得した、
 女の子は理解してくれたのか、私たちに背を向けて、振り返り振り返りしながら戻って行った、泣いているのかその背中が震えていた、その女の子の、右足の脛の裏に、黒い大きな痣が見えた、よく見ると、蜘蛛の形をしていた、
 私たち夫婦は、女の子の小さな背中を見送りながら、こう願った、
(いつか、お前たち兄弟が生き延びて、この世でもう一度相見える機会が有れば、その機会を見逃さぬ様、お大師様が去ってゆく女の子の足に、痣を造って目印にして下さった、必ず再び、この哀れな兄弟たちが巡り会い、必ず幸せが訪れますように)」

「私は父に訊ねました、その時の赤ちゃんは?父は悔しそうに顔を歪めて云いました、
(こっち連れて来てすぐに流行り病に罹って死んでしまった、私ら夫婦が、殺したかもしれないと今でも悔やんでいる、私らが勝手な事をしたんじゃないか、親子を引き裂く飛んでも無いことをした、それでお大師様が、私らに天罰を)」
「私は、父の臨終を見送ってから、父の日誌に書いてあった場所を探しすため、巡礼に旅立ちました、23番札所から国道を離れ、海岸線伝いの、時に道は岩場で途切れ、海に消え、そして山の道へと迷い込みました、
 私は、宗教的なことは何も知りません、ですが道に迷って崖の上に立ち、磯の岩場で途方に暮れて、足を汐に洗われている内、私の心が次第と清浄されていくのが判りました、 
 初めは、ここに来てしまったことをやはり後悔していました、今更、と思う気持ちが有りました、ですが、歩くうち、私の心から邪念が消えて、ただひたすら、そこにまだ生きているかも知れない、父や母、そして私たちから引き離された姉が、今もそこで暮らしているかも知れない、早く会いたいと思う心が強くなりました、
 私は、あちこち尋ねて歩きました、そして、或るひとが、昔、この向こう、磯の岩場に祠らしきものが在ったと云う場所を教えてくれました、
 岩場で足を滑らせ、何度か海に落ち乍ら、そして、私は見つけました、ですが、時は残酷でした、無情でした、切り立った岩壁の裾に、祠の跡らしき、木の柱や板壁の残骸が、崩れ落ちた屋根が磯の岩場に散乱し、打ち寄せる波に洗われていました、
 出会った漁師の方に聞きました、
「えらい古い話やな、せやけどはっきりとは判らん、いつの間にか、誰も居なくなったなあ、もう何十年も前の話やけんなあ、儂らあの近くまでさざえやアワビを取りに行く、いつも祠が見えとって、時々誰か、なんか親子で住んでるようやったけんが、いつか大きな台風が来て、粉々になっているのを見たが、それからそこに誰も見掛けんなって、どっか別のところに逃げて行ったんやろと別に気にもせんかった、
 そう云や、一人きれいな娘さんが居たな、そうや、フジちゃんや、大きい成って、港の市場で暫く働いとったが、行商の、そや、徳田のあそこ切って、逃げた、いう話があったな、嘘かほんまか知らんけど」
 話疲れたか、ふみは暫く俯いていた、が顔を上げて、云った、
「藤子さん、あの晩、逃げて行く藤子さんが、私の前で、躓いて転んだ時、藤子さんが履いていたもんぺが破けて、私、目の前で、藤子さんの脛の裏に、蜘蛛の形をした痣を…見たんです」


 その夜、明日早朝死刑執行の前夜、藤子は夢を見ていた、
 藤子は、磯の、波が激しく打ち砕ける、切り立った崖の裾、そこに張り付くように建つ小さな祠の中で、屋根裏を見上げて、屋根裏に張り付いた蜘蛛の巣を見ていた、
 そこに小さな蜘蛛が一匹、そして蜘蛛の巣の中央に別の大きな蜘蛛が一匹、互いに睨み合って動かない、ふと吹いた風に巣の網が煽られた瞬間、小さな蜘蛛が大きな蜘蛛の後ろに素早く回り込み、大きな蜘蛛の腹を数本の足で絡めると交尾を始めた、
 しかしそのほんの一瞬の後、抱え込まれていた蜘蛛が暴れて小さな蜘蛛を跳ね返すと、小さな雄蜘蛛は仰向けにされ、雌蜘蛛の糸に巻かれて身動きできなくなった、暫くもがいていたが、その腹に雌蜘蛛が喰らいつき、むしゃむしゃと音立てて喰い始めた、その音は藤子にも聞こえた、小さな蜘蛛は足を丸めてもがいていたが、やがてぴくりとも動かなくなった、
 雄の腹を食い破った雌蜘蛛、眼下の藤子に気付いたか、八つの、冷たく光る眼で藤子を睨み据える、藤子は、恐ろしくなって、寝床から這って逃げ出した、その藤子の背中に、雌蜘蛛、舞い降りて、鋭い牙で、藤子の首に喰らいついた…

 藤子の心は、激しく動揺した、数時間後に迫る死への恐怖に戦慄した、手が、足が、そして体が震えた、ふと藤子の耳奥に、ふみの言葉が聞こえた、
(姉さん、私、あの日を境に、大日如来様に身を委ねました、そして今、ここに来て姉さんにお会いして、これも如来様のお導きと思います、そして、姉さん、私は、ずっと姉さんのこと、如来様と一緒にお祈りしております、何も恐れることはありません、私たちが傍にいます…

                       完
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