紫のゆかり、君に逢いたく

永田英晃

文字の大きさ
4 / 12

四 闇

しおりを挟む
紫織の足首の黒い跡は、三日経っても消えなかった。

陰陽寮の見習い・安倍有景が診察に来たのは、四日目の朝であった。若いながらも鋭い観察眼を持つと評判の陰陽師は、紫織の足首を凝視し、眉をひそめた。

「これは……尋常ではない穢れです」

有景が懐から取り出したのは、白い紙で作られた人形と、小さな鈴だった。彼は人形を紫織の足首にかざし、鈴を静かに鳴らす。

「清めの術を試みます」

鈴の音が清らかに響く。すると、黒い跡から微かに煙が立ち上り、人形の表面に黒い斑点が浮かび上がった。

「む……」

有景の表情がさらに険しくなる。

「この穢れ、通常の物の怪のものとは性質が異なります。より深い……より古い闇の気配がします」

縁が心配そうに声をかけた。

「姫君に危険はないのでしょうか?」

「今のところ、生命に直接の危険はなさそうです。しかし」

有景は紫織をまっすぐ見つめた。

「姫君、この穢れを受けたとき、何か特別なことを感じませんでしたか?冷たさ以外に」

紫織は考えた。あの瞬間、怪物が発した言葉。「かえれ」「異界の者」。

「その……物の怪が、言葉を話しました」

「言葉を?」

有景の目が鋭く光る。

「何と?」

「『かえれ』と。そして『異界の者』と」

一瞬、部屋の空気が凍りついた。有景の顔から血の気が引いていくのがわかった。

「それを、誰にも話してはなりません」

声は低く、しかし緊迫していた。

「特に、宮中や貴族方には。そんなことをすれば、姫君は『物の怪に取り憑かれた』と疑われるでしょう」

縁が顔を覆った。

「まあ……なんということ」

「では、この穢れは?」紫織が尋ねた。

有景は人形を懐に収め、立ち上がった。

「浄化の術を試みますが、完全に消すことは難しいかもしれません。この穢れは……『目印』のようなものです」

「目印?」

「はい。他の物の怪が姫君を探すための」

有景は深々と一礼した。

「私は調べを進めます。何かわかれば、すぐに参ります」

彼が去った後、紫織は縁に言った。

「少し、庭を散歩したい」

「でも姫君、お身体が」

「大丈夫です。少しの間だけ」

紫織は厚い単衣を纏い、渡殿を抜けて庭へ出た。秋が深まり、紅葉は最盛期を迎えていた。しかし、その美しさにもかかわらず、紫織の心は晴れない。

彰紋との約束から三日。彼は毎日、密かに連絡をよこしていた。物の怪の動向、陰陽寮の調査結果、そして紫織を元の世界に帰す方法についての手がかり。

しかし、進展はほとんどなかった。

「紫織殿」

振り返れば、彰紋が木陰から現れた。今日は水干姿ではなく、貴族風の直衣を纏っている。変装だろう。

「彰紋さん。どうしてここに?」

「有景が診察に来ると聞き、様子を見に来た」

彼は紫織の足首を見下ろした。

「悪化していないか」

「ええ、でも……消えません」

「有景は何と言った?」

紫織はためらったが、真実を話した。目印である可能性。彼女を狙う他の物の怪の存在。

彰紋の表情が硬くなった。

「ますます危険が迫っている」

「でも、なぜ私が?なぜ『異界の者』を狙うの?」

彰紋はそばの石に腰を下ろし、紫織にも座るよう促した。

「ここ数日、調べてわかったことがある。都で起こっている怪異のほとんどは、『境界』が薄くなっている場所で起きている」

「境界?」

「現世と異界の境だ。通常は見えない、触れられない。しかし何らかの力で弱まっている場所がある。貴女がこの時代に来たのも、おそらくそのためだろう」

紫織は考えた。図書室で触れたあの古書。あの瞬間感じた歪み。

「では、私が来た場所も、そのような『境界』が薄い場所なのですか?」

「そうだろう。そして物の怪たちは、その弱まった境界を通って現世にやってくる。貴女が異界からの来訪者であることを知っているなら、貴女を狙う理由は二つ考えられる」

彰紋は指を折った。

「一つ、貴女を異界に連れ戻そうとしている。二つ、貴女の持つ『異界の力』を利用しようとしている」

「私に力なんてありません」

「ないと言えるか?」

彰紋の目が真剣だった。

「有景が言うには、境界を弱めるほどの力を持つ者が異界から来たなら、その者自身が強大な力の源かもしれないと」

紫織は自分の手を見つめた。普通の女子高生の手だ。特別な力などあるはずがない。

その時、突然、庭の池の水面が揺れた。波紋がひとりでに広がり始める。

「あれは?」

彰紋が立ち上がり、刀に手をかけた。

水面に映るはずのないものが映り始めた。歪んだ建物。光る窓。走る箱のようなもの。

「あっ……」

紫織の息が止まった。

それは、現代の街並みだった。

「紫織殿、これは?」

「私の……私の世界です」

水面はさらに揺らぎ、映像は変わっていく。桜華学園の校舎。図書室。そして――あの古書『平安異聞記』が開かれている机。

「彰紋さん、あれ、私が来たときの……」

その瞬間、水面から黒い手が伸びてきた。

紫織の足首を掴もうとする。

「離れろ!」

彰紋が紫織を引き寄せ、刀で黒い手を切り払おうとした。しかし刀は手を貫通し、水面に突き刺さるだけだった。

手は紫織の足首に触れようと伸びてくる。黒い跡が熱く疼き始めた。

「紫織殿、逃げろ!」

「でも――」

「早く!」

紫織は後ずさりした。すると、手は突然方向を変え、水面の中の『平安異聞記』に向かった。

本のページをめくるように、手が動く。

そして、ある一節を指さした。

紫織は必死にその文字を読もうとした。

『――西より来たりし姫、都の闇を祓う力を持つ。されどその力発露のとき、姫自らも闇に飲まれる危あり――』

「なに……?」

さらに手はページをめくる。

『――姫を護る将、その身をもって闇を封ず。されど代償として――』

そこまで読んだとき、水面が突然渦を巻き始めた。黒い手は引き込まれ、映像は歪み、やがて静かな池の面に戻った。

二人は息を殺して立ち尽くした。

「今の……なんだったの?」

紫織の声が震えていた。

彰紋はゆっくりと刀を納めた。

「境界からのメッセージ……か。それとも警告か」

「あの本、『平安異聞記』。私が図書室で触れた本です」

「その本に、貴女の運命が書かれているということか」

彰紋の顔が青ざめているのに紫織は気づいた。

「彰紋さん、どうかしたの?」

「……いや、なんでもない」

しかし、彼の目には動揺が隠せなかった。あの文章の続きが気になっているのだろう。『代償として』の後に何が書かれていたのか。

その時、遠くから叫び声が聞こえてきた。

「物の怪だ!物の怪が!」

二人は顔を見合わせ、急いで声のする方へ走った。

邸宅の東門に近づくと、家臣たちが騒いでいる。地面には黒い跡が残り、門番の一人が気絶していた。

「何事だ!」彰紋が駆け寄った。

「彰紋様!さっき、黒い影が門を襲い、この者を襲いました!」

「怪我は?」

「傷はありませんが、冷たくなっています。まるで生気を吸い取られたようです」

彰紋が気絶した男の脈を取る。かすかだが、脈は打っている。

「すぐに屋内に運べ。暖かい布で包み、湯を飲ませろ」

下人たちが男を運び去る間、彰紋は門の黒い跡を調べた。紫織の足首の跡と同じ性質のものだ。

「また……私を狙ってきたの?」

紫織の声が小さく響く。

彰紋は立ち上がり、彼女の肩に手を置いた。

「恐れるな。私が護る」

「でも、次は誰かが傷つくかもしれない。門番の方が、私の代わりに……」

「ならば、対策を急がねばならない」

彰紋の目に決意の光が灯った。

「陰陽寮と協力し、境界を強化する方法を探す。そして貴女を元の世界に帰す方法を、一刻も早く見つける」

「でも、あの水面に映った文章……私が力を使うと、闇に飲まれるかもしれないって」

「ならば、力を使わずに帰る方法を探せばいい」

彰紋の言葉は力強かったが、紫織は彼の目尻のわずかな曇りを見逃さなかった。あの文章の続きが気になっている。『代償として』の後に来る言葉が。

夕闇が迫り始めた。

二人は邸宅の中へ戻ろうとした時、紫織はふと東の空を見上げた。

薄暮の中、異様に黒い雲が渦を巻いている。それは自然の雲ではない。不気味な動きで、ゆっくりと都の中心へと向かっている。

「彰紋さん、あれ……」

彰紋も空を見上げ、顔を強張らせた。

「物の怪の気配が、一点に集まっている」

「どこへ?」

彰紋は黙って指さした。

その指の先にあったのは――

宮中の大極殿だった。

都の中心。天皇の住まう場所に、闇が集まり始めている。

紫織は足首の跡が疼くのを感じた。まるで、闇の呼びかけに応えようとしているかのように。

彰紋は紫織の手を握りしめた。

「明日から、計画を変えよう。陰陽寮だけでなく、宮中にも助けを求めねばならない」

「でも、私の正体がばれたら……」

「それでもだ」

彰紋の目は闇に向かって輝いていた。

「都全体が危険にさらされている。そしてその中心に貴女がいる。もう、隠しているだけでは済まされない」

彼の手の温もりが、紫織の冷たい指に染み渡っていく。

「約束しよう。たとえ宮中の全てが敵になろうとも、私は貴女を護る」

その誓いの言葉が、迫り来る闇の夜に、かすかな光として二人の間に灯った。

東の空の黒い雲は、少しずつ、しかし確実に、都を覆い始めていた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。

沼野 花
恋愛
夫と子供たちに、選ばれなかったイネス。 すべてを愛人に奪われ、彼女は限界を迎え、屋敷を去る。 だが、その先に待っていたのは、救いではなかった。 イネスを襲った、取り返しのつかない出来事。 変わり果てた現実を前に、 夫はようやく、自分が何を失ったのかを思い知る。 深い後悔と悲しみに苛まれながら、 失ったイネスの心を取り戻そうとする夫。 しかし、彼女の心はすでに、外の世界へと向かっていた。 贖罪を背負いながらもイネスを求め続ける夫。 そして、母の心を知っていく子供たち。 イネスが求める愛とは、 そして、幸せとは――。

完結 辺境伯様に嫁いで半年、完全に忘れられているようです   

ヴァンドール
恋愛
実家でも忘れられた存在で 嫁いだ辺境伯様にも離れに追いやられ、それすら 忘れ去られて早、半年が過ぎました。

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

転移先で日本語を読めるというだけで最強の男に囚われました

桜あずみ
恋愛
異世界に転移して2年。 言葉も話せなかったこの国で、必死に努力して、やっとこの世界に馴染んできた。 しかし、ただ一つ、抜けなかった癖がある。 ──ふとした瞬間に、日本語でメモを取ってしまうこと。 その一行が、彼の目に留まった。 「この文字を書いたのは、あなたですか?」 美しく、完璧で、どこか現実離れした男。 日本語という未知の文字に強い関心を示した彼は、やがて、少しずつ距離を詰めてくる。 最初はただの好奇心だと思っていた。 けれど、気づけば私は彼の手の中にいた。 彼の正体も、本当の目的も知らないまま。すべてを知ったときには、もう逃げられなかった。 毎日19時に更新予定です。

主人公の恋敵として夫に処刑される王妃として転生した私は夫になる男との結婚を阻止します

白雪の雫
ファンタジー
突然ですが質問です。 あなたは【真実の愛】を信じますか? そう聞かれたら私は『いいえ!』『No!』と答える。 だって・・・そうでしょ? ジュリアーノ王太子の(名目上の)父親である若かりし頃の陛下曰く「私と彼女は真実の愛で結ばれている」という何が何だか訳の分からない理屈で、婚約者だった大臣の姫ではなく平民の女を妃にしたのよ!? それだけではない。 何と平民から王妃になった女は庭師と不倫して不義の子を儲け、その不義の子ことジュリアーノは陛下が側室にも成れない身分の低い女が産んだ息子のユーリアを後宮に入れて妃のように扱っているのよーーーっ!!! 私とジュリアーノの結婚は王太子の後見になって欲しいと陛下から土下座をされてまで請われたもの。 それなのに・・・ジュリアーノは私を後宮の片隅に追いやりユーリアと毎晩「アッー!」をしている。 しかも! ジュリアーノはユーリアと「アッー!」をするにしてもベルフィーネという存在が邪魔という理由だけで、正式な王太子妃である私を車裂きの刑にしやがるのよ!!! マジかーーーっ!!! 前世は腐女子であるが会社では働く女性向けの商品開発に携わっていた私は【夢色の恋人達】というBLゲームの、悪役と位置づけられている王太子妃のベルフィーネに転生していたのよーーーっ!!! 思い付きで書いたので、ガバガバ設定+矛盾がある+ご都合主義。 世界観、建築物や衣装等は古代ギリシャ・ローマ神話、古代バビロニアをベースにしたファンタジー、ベルフィーネの一人称は『私』と書いて『わたくし』です。

妻からの手紙~18年の後悔を添えて~

Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。 妻が死んで18年目の今日。 息子の誕生日。 「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」 息子は…17年前に死んだ。 手紙はもう一通あった。 俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。 ------------------------------

【完結】乙女ゲーム開始前に消える病弱モブ令嬢に転生しました

佐倉穂波
恋愛
 転生したルイシャは、自分が若くして死んでしまう乙女ゲームのモブ令嬢で事を知る。  確かに、まともに起き上がることすら困難なこの体は、いつ死んでもおかしくない状態だった。 (そんな……死にたくないっ!)  乙女ゲームの記憶が正しければ、あと数年で死んでしまうルイシャは、「生きる」ために努力することにした。 2023.9.3 投稿分の改稿終了。 2023.9.4 表紙を作ってみました。 2023.9.15 完結。 2023.9.23 後日談を投稿しました。

断罪後のモブ令息、誰にも気づかれずに出奔する

まる
ファンタジー
断罪後のモブ令息が誰にも気づかれないよう出奔して幸せを探す話

処理中です...