紫のゆかり、君に逢いたく

永田英晃

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一二 千年の時を超えて

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彰紋との再会から一ヶ月が経ち、紫織の日常は穏やかな幸福に包まれていた。

放課後の中庭での逢瀬。時折、図書室で隣り合わせに勉強すること。千年の時を隔てた二人は、現代の高校生としての新しい関係を、ゆっくりと築き始めていた。

「この『数学』という学問、実に合理的だな」

ある日、図書室で彰紋が微分の教科書をめくりながら感心していた。

「平安の世にはなかった考え方だ」

紫織はそっと笑った。

「あなた、本当に勉強熱心ね。他の男子はみんな部活かゲームに夢中なのに」

「千年の時を無駄に過ごしたくないからな」彰紋の目が一瞬、遠くを見つめた。「それに、この時代で君と共に生きていくためには、この時代の知識が必要だ」

その言葉に、紫織の胸が温かくなった。彰紋は真剣に、この現代で生きていくことを考えている。彼女との未来を。

「でも、時々不思議なんだ」紫織が声を潜めた。「あの日から、一度も異界の気配を感じない。影の私も、何の動きもない」

彰紋の表情が少し曇った。

「僕も気になっている。異界との繋がりが完全に断たれたはずがない。あの鈴の力で時空を越えてここに来られたなら、逆のことも可能だろう」

「それでも」紫織は彰紋の手を握った。「今は、この平穏を大切にしたい。千年待ったこの幸せを」

「そうだな」

彰紋は微笑んだが、その目には一抹の警戒が消えなかった。本能が、安寧の裏に潜む危険を感じ取っていた。

その警戒が現実となる日は、突然訪れた。

文化祭の準備で学校が賑わうある金曜日、紫織は彰紋と屋上で昼休みを過ごしていた。空は高く晴れ渡り、遠くに都心のビル群が霞んで見える。

「この景色も、平安の都とは全く違うな」

彰紋が柵にもたれながら呟いた。

「人が多いし、建物も高い。でも、どこかで通じるものがある気がする」

「例えば?」

「人々が懸命に生きていること。未来を信じて日々を過ごしていること」

紫織は彰紋の横顔を見つめた。風に揺れる前髪の下の目は、千年の時の重みを感じさせながらも、確かに今を生きている。

「あの時、異界で影の私と対峙した時……彼女は何と言っていた?」

突然の質問に、彰紋は一瞬たじろいだ。

「なぜ今さら?」

「知りたいの。あの私のもう半分が、どんなことを考えていたのか」

彰紋は深く息を吐き、ゆっくりと語り始めた。

「彼女は言っていた。『完全になりたい』と。苦しみも悲しみもない、完全な存在に。そして、僕にこう言った。『お前も、不完全さゆえの苦しみから解放してやる』と」

「あなたは……どう答えました?」

「拒否した」彰紋の声は静かだが、揺るぎなかった。「苦しみがあっても、悲しみがあっても、それが君との絆の証だ。それを手放すことは、君を手放すことと同じだ」

紫織の目に涙が光った。

「ありがとう」

「感謝されることではない。それが僕の選んだ道だ」

その時、突然、空が歪んだ。

「なに……?」

二人が空を見上げると、晴れ渡っていた空に、紫がかった黒い筋が走り始めた。それはまるで、異界の空の色だった。

「来たか」彰紋が身構える。

「でも、なぜ今?一ヶ月も何もなかったのに――」

紫織の言葉が途中で止まった。彼女のポケットから、呼び鈴がひとりでに鳴り響き始めた。彰紋のポケットからも、同じ鈴の音が聞こえる。

二つの鈴が共鳴し、周囲の空気を震わせる。

「これは……境界が開く前兆だ」

彰紋が紫織の手を握りしめた。

「離れるな。絶対に離れるな」

黒い筋が次第に広がり、屋上の空に渦を巻き始めた。その中心から、ゆっくりと影が降りてくる。

それは、紫織の姿だった。

しかし、完全に黒く、目には虚ろな光を宿している。影の紫織だ。

「ついに……見つけた」

影の声は、二人の鈴の共鳴と重なって響く。

「我が半身……そして、我が半身を縛る者……」

「何をしに来た」彰紋が刀の構えを取る――しかし、手には刀がない。現代の学生服しか身に着けていない。

「刀がなくとも、私は将だ」

彰紋は一歩前に出て、紫織を背後に守った。

影はゆっくりと着地し、二人を見下ろす。

「千年の時を越え、ようやく完全になる時が来た。我が半身、共に還ろう。異界の皇として、真の完全な存在として」

「私は拒否する」紫織がはっきりと言った。「私はこのままがいい。愛する人と共に、不完全ながらも幸せに生きていく」

影の目が鋭く光る。

「愚かだ。不完全さは苦しみを生むだけだ。見よ、この千年間、お前はどれほど泣き、苦しんだことか」

「それでもいい!」紫織の声は震えていたが、確信に満ちていた。「その苦しみが、私の人間としての証だ。あなたにはわからないかもしれないけど、愛する人のために苦しむことだって、幸せの一部なんだ」

影は一瞬、言葉を失ったようだった。

「愛……それがお前を不完全に縛りつける鎖ではないか」

「違う」彰紋が言った。「愛は縛りではない。繋がりだ。千年の時を越えても断ち切れない、魂の繋がりだ」

影は次第に周囲に闇を広げ始める。屋上の床が黒く染まり、空気が重くなる。

「ならば、強制的に連れ戻すまでだ。我が半身が抵抗するなら、この現世ごと異界に飲み込んでしまえばよい」

「待て!」紫織が叫んだ。「あなたは本当に、完全になりたいだけなの?それとも……ただ寂しかっただけなんじゃない?」

影の動きが止まった。

「何を……言っている」

「私の記憶には、あなたの感情の断片が残っている。異界で一人、千年もの間待っていた孤独。私と一つになりたいと願った本当の理由は、ただ……寂しさからじゃなかった?」

影の目がわずかに揺らぐ。その虚ろだった光に、人間らしい感情のきらめきが一瞬浮かぶ。

「私は……寂しい?」

「私も寂しかった」紫織が一歩前に出る。彰紋が止めようとしたが、彼女はうなずき、安心させた。「千年の時を隔てて、愛する人に会えない苦しみ。それは、あなたも同じだったはず」

影は沈黙した。周囲に広がっていた闇が、少し後退する。

「私は……お前の影だ。お前が切り捨てた、闇の部分だ」

「違う」紫織はもう一歩近づく。「あなたは私の一部だ。私が恐れて否定した部分かもしれないけど、それでも私だ」

彼女は手を差し伸べた。

「戻ってきて。私と一つになって。でも、異界の皇としてではなく、ただの人間の女の子として」

影はその手を見つめ、躊躇した。

「可能か?一度切り離されたものが、再び一つになることなど」

「可能だ」突然、新しい声が響いた。

振り返れば、屋上の入り口に、老いた男性が立っていた。白髪で背筋の伸びたその姿は――

「大森……先生?」

古文の大森先生が、穏やかに微笑みながら近づいてくる。

「実は私、賀茂有景の子孫なのです」

「えっ!?」

「学校の創立者である歴史学者は、私の曾祖父でした。彼は夢に見た平安の物語を書き記し、そしてある予言を残しました。『千年後、二人の魂は再び出会い、その時に最後の選択を迫られる』と」

先生は影の紫織を見つめた。

「あなたは完全になりたいと願う。しかし真の完全さとは、光と闇、喜びと悲しみ、全てを受け入れることなのです」

影は混乱したように頭を抱えた。

「わからない……私はただ……苦しみから解放されたかっただけ……」

「ならば、受け入れなさい」彰紋が言った。「苦しみも、悲しみも、全てが君の一部なのだ。それを否定することは、君自身を否定することだ」

紫織は影の前にひざまずき、そっとその肩に手を置いた。

「お願い、戻ってきて。あなたがいない私は、本当の私じゃない。あの時、あなたを切り離したのは間違いだった」

影の目から、黒い涙がこぼれた。

「私は……怖かった。お前の苦しみが、あまりに大きすぎて……」

「今は怖くない」紫織は微笑んだ。「あなたがいて、彰紋がいて、大森先生がいて……一人じゃない」

長い沈黙が流れた。

やがて、影がゆっくりと顔を上げた。その目には、初めて温もりが宿っている。

「約束してくれるか?二度と、私を切り離さないと」

「約束する」

「では……一つになろう」

影の体が光り始める。黒い影が次第に透明になり、紫織の方へと吸い込まれていく。

「紫織殿!」彰紋が駆け寄ろうとしたが、大森先生が手で制止する。

「見守りなさい。これは彼女たちの選択だ」

影は完全に光となり、紫織の胸へと消えていった。瞬間、紫織の全身に光が走り、彼女は天を見上げた。

空に広がっていた黒い渦は、次第に収束していく。紫がかった空は、再び青空に戻った。

「紫織!」彰紋が彼女を抱き支える。

「大丈夫……ただ、少し……全部がつながった感じ……」

紫織の目には、新たな深みが加わっていた。光と闇、喜びと悲しみ、全てを包含するような穏やかな輝き。

「これが……本当の私」

大森先生がうなずいた。

「めでたい。千年の輪廻が、ようやく完結した」

「先生」紫織が尋ねた。「あなたはずっと……見守っていてくれたんですか?」

「ええ。曾祖父からこの使命を受け継ぎ、君たちの再会の時を待っていた。そして、最後の選択を導くために」

先生はポケットから古びた巻物を取り出した。

「これが、曾祖父が夢に見たままに記した『平安異聞記』の完結編だ。今日まで、誰にも見せずに保管していた」

巻物を開くと、そこには今日の出来事までが記されていた。

『千年の時を越え、二人は再会す。影と本体、一つとなりて真の完全を得。かくて物語は幕を閉じ、新たなる人生始まる――』

「すべては……決まっていたこと?」彰紋が尋ねた。

「そうかもしれません。あるいは、君たちの選択が、この物語を形作ったのかもしれません」

大森先生は巻物を紫織に手渡した。

「これをどうするかは、君たちに任せます。過去の記録として大切にするもよし、この秘密を二人だけのものにするもよし」

紫織は巻物をしっかりと握りしめた。

「ありがとうございます、先生。私たち……この物語を、私たちの宝物にします」

その夜、紫織と彰紋は再び中庭の銀杏の木の下に立っていた。二つの呼び鈴は、今は静かだった。

「これで、本当に終わったんだね」紫織が呟いた。

「そうだな。異界の脅威も、影の問題も、全て解決した」

彰紋は紫織の手を握った。

「これからは、ただの高校生として生きていける」

「あなたは……この時代で幸せになれる?」

彰紋は紫織を見つめ、穏やかに微笑んだ。

「君がいるなら、どこでも幸せだ。平安の世でも、この現代でも」

月が昇り、銀杏の木に柔らかな光を注いでいた。千年の時を隔てた二人は、ようやく同じ時を生きることができた。

「一つ、約束して」紫織が言った。「たとえまた何かが起きても、絶対に一人で背負わないで。一緒に乗り越えよう」

「約束する。二度と君を離さない」

二人の唇が重なった。千年の時を越えたそのキスは、全ての苦しみと別れを癒し、新たな始まりを告げるものだった。

翌日から、二人の日常は本当の意味で平和になった。影の問題が解決され、異界との繋がりも完全に断たれた。呼び鈴は二つとも、紫織の机の引き出しに大切に保管された。

卒業後、紫織は歴史学を、彰紋は物理学を学んだ。二人はそれぞれの道で、千年の時の謎を解き明かそうとした。

そして十年後――

紫織は大学で日本史の研究者となり、彰紋は時空理論の物理学者となっていた。二人は結婚し、小さな家に住んでいた。

ある秋の日、紫織が書斎で古い巻物を整理していると、一枚の紙が舞い落ちた。

『平安異聞記』の最後のページだった。

そこには、曾祖父の追加のメモが記されていた。

『物語は終わらず。光と闇の調和が新たな物語を生む。その子孫たちが、また次の千年の物語を紡ぐだろう――』

紫織は窓の外を見た。庭では、彰紋が二人の子供たちに、銀杏の葉っぱで遊び方を教えていた。

彼女はそっと微笑み、メモを元の場所に戻した。

物語は終わらない。ただ、新しい章が始まるだけだ。

千年の時を越えて結ばれた愛は、これからも次の千年へと受け継がれていく。

彼女は書斎を出て、家族のもとへ歩いていった。

秋の陽射しが、銀杏の木を黄金に染め、家族の笑い声が穏やかな風に乗って響いていた。

全てが、完璧に調和していた。

光も闇も、喜びも悲しみも、全てが大切な一部として。

千年の時を超えて、ようやく見つけた本当の幸せが、ここにはあった。
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