紫のゆかり、君に逢いたく

永田英晃

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一一 再会

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記憶が戻ってから一週間が経ち、紫織の心には深い喪失感が定着していた。『平安異聞記』の物語が単なる古典ではなく、彼女自身の過去であったという事実は、彼女の日常を一変させた。

授業中も、友達との会話中も、ふとした瞬間に彰紋の顔が浮かぶ。彼の笑い声、刀を振るう音、「必ず戻る」という約束の言葉――全てが鮮明すぎて、今ここにいないことが耐えられない。

ある金曜日の放課後、紫織は校舎の裏にある小さな中庭にいた。ここは生徒がほとんど来ない場所で、彼女が一人で泣くには最適だった。銀杏の木が若葉を茂らせ、その木陰に腰を下ろし、彼女は静かに涙を流した。

「また会いたい……あなたに会いたい……」

胸の中の痛みは、日に日に深くなるばかりだった。教科書の文章を読み返すたびに、あの別れの瞬間が何度も蘇る。彼女が境界を越え、彼が異界に残される瞬間。

「私がもっと強かったら……あなたを引き離さずに済んだのに……」

自己嫌悪が彼女を苛んだ。千年の時を隔てて、今さら何ができるというのか。彼はもう、とっくに――

「あの……大丈夫ですか?」

突然、背後から声がかかった。

紫織は慌てて顔を上げ、涙を拭おうとした。振り返ると、そこには制服姿の男子生徒が立っていた。背が高く、整った顔立ちだが、どこか見覚えのあるような――

「すみません、泣いているのを見つけてしまって」

彼の声は、驚くほど優しく、どこか懐かしい響きがあった。

「いえ……私、ちょっと……」

紫織は言葉を詰まらせた。見知らぬ男子生徒に、どう説明すればいいのか。

「何か悲しいことがあったんですか?」

彼は少し離れた場所に腰を下ろし、紫織と同じように銀杏の木を見上げた。

「春なのに、この木はまだ秋の記憶を持っているみたいだね。落ち葉の跡が、地面に残っている」

その言葉に、紫織は胸を衝かれた。秋の記憶――彼女の胸にも、平安の秋の記憶が刻まれていた。

「あなたは……この木が好きなんですか?」

「ええ。この木には、特別な思い出があるような気がして」

彼は紫織をちらりと見た。

「君も、この場所に何か思い出があるんじゃないかって思ったんだ。さっき、本当に悲しそうだったから」

紫織は黙ってうなずいた。

「時々さ」彼は続けた。「どこかで会ったことがある人に、初めて会う時に感じることってない?この人、昔から知ってるみたいだなって」

紫織はじっと彼の顔を見つめた。確かに、どこかで会ったような――いや、もっと深い。この人を知っている。長い間、ずっと知り合いだったような。

「私、紫織って言います。二年B組です」

「ああ、綾瀬紫織さんか。名前は聞いたことあるよ。僕は三年の――」

彼は突然、言葉を切った。眉をひそめ、何かを思い出そうとしているようだ。

「どうかしたんですか?」

「いや……変なんだ。自己紹介しようとして、自分の名字が急に思い出せなくて」

彼は頭を軽く叩いた。

「おかしいな。僕、何ていう名前だったっけ……」

紫織は不自然に感じた。自分の名前が思い出せない?

「たぶん、記憶喪失とかじゃないですよね?」

「いや、普通に覚えてるつもりなんだけど……あれ?僕、この学校の生徒だよね?確かに、三年の……」

彼の表情が真剣になる。

「待って。何かがおかしい。僕の記憶が、ところどころぼんやりしている」

紫織の心臓が高鳴り始めた。この状況、どこかで――

「あなた、もしかして……何か不思議な体験したことありますか?」

彼は紫織を見つめ、ゆっくりとうなずいた。

「時々、夢を見るんだ。平安時代の夢を。刀を持って戦っている夢。それと……誰かを護っている夢」

紫織の息が止まりそうになった。

「誰かを……護っている?」

「うん。とても大切な人を。その人は、この時代に属していないような……遠いところから来た人だ」

紫織は立ち上がった。足が震えている。

「その人のこと……もっと詳しく覚えていますか?」

彼は考え込むように目を閉じた。

「長い黒髪。悲しそうな目。そして……紫という名前に似合う、高貴な人」

「紫……」

「そう。夢の中では、僕は彼女を『紫織殿』って呼んでる」

その瞬間、紫織の全身に電気が走った。

「ありえない……そんなこと……」

彼は目を開け、紫織を見つめた。その目は、突然、深い理解に満ちていた。

「君が……夢の中の人だ」

「彰紋……さま?」

名前を口にした瞬間、二人の間に風が吹き抜けた。銀杏の若葉がさやめき、光の粒が舞い散る。

彼の目が大きく見開かれた。

「その名前……どこで……」

「あなたは藤原彰紋。左大臣家に仕える将で、異界に取り残された……」

紫織は涙で言葉を詰まらせた。

「あなたが……生きていたなんて……まさか、現代に……」

彼――彰紋は自分の手を見つめた。学生服の袖から覗く腕は、確かに若者のものだ。しかし、その手のひらには、古い傷跡のようなものが見える。

「僕は……どうやってここに?」

「わからない……でも、あなたがここにいる。本当にここにいる」

紫織は一歩前に出た。震える手を伸ばし、彼の頬に触れようとした。幻かもしれない。夢かもしれない。でも、この温もりは本物だ。

「紫織……殿」

彼の口から、千年の時を超えた呼びかけが零れた。

その瞬間、二人の頭の中で、記憶の洪水が起こった。

異界での戦い。影の紫織との対峙。そして――

「思い出した」彰紋が呟いた。「僕は異界で、君の影と融合しそうになった。でも、最後の瞬間、境界がもう一度開いて……それで、ここに飛ばされた」

「でも、なぜ現代に?なぜ、千年後の時代に?」

「おそらく」彰紋は銀杏の木を見上げた。「君がこの場所で、強く僕を想っていたからだ。その想いが、時空を越えて僕を呼び寄せたのかもしれない」

紫織は涙をこらえきれなかった。

「ずっと……ずっとあなたを待っていた。忘れようとしたけど、忘れられなくて。この胸の痛みが、あなたを覚えている証だった」

彰紋は彼女の手をそっと握った。その触感は、平安の都で彼が彼女を護った時と同じだった。

「僕もずっと、君を想っていた。異界の闇の中で、君の声だけが僕を支えてくれた」

二人はしばらく、ただ手を握り合って立っていた。千年の時を超えた再会が、あまりにも突然で、現実味がなかった。

「でも」紫織がふと疑問を抱いた。「あなた、この学校の生徒として存在しているんですよね?みんなから見れば、普通の先輩で……」

「そうみたいだ。僕の記憶では、確かにこの学校に通っていて、家にも帰る場所がある。でも、その記憶はどこか薄っぺらい。本当の記憶は、平安の都でのものだ」

「それって……誰かがあなたをこの時代に合わせて、存在を『縫い込んだ』ってこと?」

彰紋は深く考え込んだ。

「陰陽術には、時空を操作する術があると聞いた。もし君の影が、異界で強大な力を持ったなら……あるいは、有景たちが何かをしたのかもしれない」

「有景さまたちが?」

「彼らは、最後の儀式の後も、僕を救おうと努力していたかもしれない」

彰紋はふと、ポケットに手を入れた。

「そういえば、この制服を着ていたら、ポケットにこれが入っていた」

彼が取り出したのは、小さな鈴だった。紫織の呼び鈴の片割れだ。

「あなたが持っていた鈴!」

「これ、何だかわかる?」

「これは、異界から戻るための呼び鈴です。私が一つ持っていて、あなたが一つ……あの時、境界が閉じる直前、私の鈴が鳴ったから帰ってこられたんだ」

彰紋は鈴をじっと見つめた。

「ということは……この鈴が、僕と君を繋いでいたのかもしれない。そして、君の想いが、この鈴を通して僕をこの時代に引き寄せた」

紫織は自分のバッグを探った。古文の教科書の中から、彼女も鈴を取り出した。

二つの鈴は、近づけると微かに共鳴するように震えた。

「これで……もう離れない」

紫織の声が震えた。

彰紋はそっと彼女を抱きしめた。その抱擁は、平安の都でのものよりも、もっと深く、もっと切実だった。

「二度と離さない。たとえ時空がまた私たちを引き離そうとしても」

「でも」紫織は顔を上げた。「あなたはこの時代でどうするの?家族は?これからの生活は?」

彰紋は少し微笑んだ。

「わからない。でも、一つだけ確かなことがある。僕は君と一緒にいたい。千年の時を超えて、ようやく見つけた君をもう失いたくない」

校舎のチャイムが鳴り、部活動が終わる時間を知らせた。

「私たち、そろそろ帰らないと」

「そうだな」

二人は手を繋いで中庭を出た。しかし、普通の生徒たちが歩く校舎の中では、その手を離さざるを得なかった。

「明日、また会える?」紫織が小声で尋ねた。

「もちろん。どこで?」

「ここ、中庭で。放課後」

彰紋はうなずき、そっと紫織の頭を撫でた。

「約束だ。千年待ったんだから、一日くらい平気だ」

その言葉に、紫織は泣きそうになった。彼は変わらない。あの優しさも、強さも、全てが平安時代の彰紋のままだった。

別れる時、彰紋はふと尋ねた。

「紫織殿……いや、紫織。一つ聞いていいか?」

「なに?」

「君は……この時代に戻ってきて、後悔していないか?平安の都での記憶を思い出して、苦しんでいるときに」

紫織は真剣に考え、ゆっくりと答えた。

「後悔なんてない。あの時代で出会えたから、今ここであなたに再会できた。どんなに苦しくても、あなたとの記憶は私の宝物だから」

彰紋の目に、涙の光が瞬いた。

「ありがとう。それだけで、僕の千年の戦いは報われた」

彼は深々と一礼し、ゆっくりと去っていった。その背中は、平安の将のそれでありながら、現代の男子生徒のそれでもあった。

紫織は彼の姿が見えなくなるまで立ち尽くし、胸に手を当てた。心臓の鼓動が、ようやく本当の意味で打ち始めたような気がした。

千年の時を越えて、愛する人が帰ってきた。

しかし、その喜びと同時に、一抹の不安が彼女の胸をよぎった。この再会は本当に永遠なのか?異界の影は、完全に消えたのか?

そして何より――彰紋がこの現代で、本当に幸せになれるのか?

彼女は銀杏の木を見上げ、誓った。

今度こそ、彼を守る。千年の時を超えて巡り会えたこの奇跡を、絶対に失わない。

その時、遠くの空に、一筋の黒い雲が流れていくのが見えた。

まるで、異界の闇が、まだ二人を見つめているかのように。
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