紫のゆかり、君に逢いたく

永田英晃

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一〇 教科書

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時は流れ、紫織が平安時代から帰還してから三ヶ月が経った。

季節は春から初夏へと移り変わり、桜華学園の校庭には新緑が鮮やかに輝いていた。紫織の日常は、何もなかったかのように元に戻っていた。朝は友人と登校し、授業を受け、放課後は軽いおしゃべりをして家に帰る。どこにでもいる、普通の女子高生の生活だ。

しかし、時折、彼女はふと立ち止まることがあった。

図書室の前を通りかかると、胸が締めつけられるような感覚に襲われる。紅葉が散る校庭を見ると、理由もなく涙が出そうになる。特に月が美しい夜は、窓辺に立ってどこか遠くを見つめ、空虚な寂しさに胸を痛めた。

「最近、紫織ってぼーっとしてない?」

ある日、友人たちが話していた。

「うん、時々、すごく悲しそうな顔してる」

「恋でもしてるのかな?」

「聞いてみる?」

しかし、紫織自身も、その理由がわからなかった。ただ、何か大切なものを失ったような、そんな感覚だけがいつも胸にあった。

そんなある日、古文の授業で、教員が新しい教材を配った。

「今日から『平安異聞記』を読みます。これは学校の創立者が収集した古写本の一部で、通常の古典にはない民間伝承が記されています」

紫織はそのタイトルを見た瞬間、手が震えた。

『平安異聞記』

どこかで聞いたことのある名前。いや、見たことのある名前だ。

「どうしたの?紫織」隣の優花がささやいた。

「ううん……なんでもない」

でも、何かがおかしい。教科書の文字が、自分の心に直接響いてくるような気がする。

大森先生が朗読を始めた。

「『時に、都に異変起こり、物の怪頻りに出でて人を悩ます。されど、西より来たりし一の姫、不思議なる力を持ちて――』」

紫織の呼吸が乱れた。耳鳴りがする。先生の声が遠のいていく。

「『姫は影切りといふ術にて、己が半身を異界に封ず。されどその代償として、記憶を失い――』」

記憶を失う?

紫織は自分の手の甲を見つめた。何の痕跡もない。でも、なぜかそこに何かがあったような気がする。

「紫織、大丈夫?顔色が真っ青だよ」

優花の声がかすかに聞こえる。しかし紫織は、教科書の文字から目を離せなかった。一行一行が、彼女の心をかき乱す。

「続きを読みます。『姫を護りし若き将、名を彰紋といふ。彼は主に忠義を尽くすかたわら、ひそかに姫を愛す――』」

彰紋。

その名前を聞いた瞬間、紫織の頭の中で何かが破裂した。

――月明かりの下で笑う青年。
――刀を握る逞しい手。
――「必ず戻る」という声。

「あ……」

涙が、一滴、また一滴と教科書の上に落ちた。

「紫織!?」

優花が驚いて声を上げた。クラスメートの視線が一斉に紫織に集まる。

「ごめんなさい……ちょっと……」

紫織は立ち上がり、教室を飛び出した。廊下を走り、階段を下り、どこへ向かうとも知らずに走り続けた。

そして、図書室の前で足が止まった。

ここだ。ここで何かが始まった。ここで何かが終わった。

彼女はドアを開け、中へ入った。いつもより静かで、誰もいない。午後の陽射しが、埃の舞う光の柱を作っている。

紫織は古文籍コーナーへ向かった。手探りで本を探す。あの本。あの紫紺の表紙の本。

「あった……」

『平安異聞記 ―― 抄録』

学校の備品として、きちんと棚に収められている。彼女は震える手でそれを取り出し、ぱらりとページをめくった。

そして、教科書には載っていない部分を見つけた。

『異界に取り残されし彰紋、影の姫に囚われて苦しむ。されど彼の心は、常に現世の姫を想いてやまず――』

「彰紋……さま……」

紫織の声が震える。記憶が、洪水のように戻ってくる。

都での出会い。月下の誓い。異界での戦い。別れ。

全てが、鮮明によみがえった。

「私は……私はあなたを置いて……帰ってきてしまった……」

彼女は本を抱きしめ、床に膝をついた。嗚咽が体を震わせる。あの時、彼を助けられなかった。彼と一緒に異界に残るべきだった。

教科書には、さらに続きがあった。

『姫、異界より帰還すれど、記憶を失いて平常の生活に戻る。されどその心の片隅に、消えぬ寂しさを宿す――』

まさに、彼女のこの三ヶ月間だ。

そして、最後の一文。

『かくて千年の時を越え、二人の物語は語り継がれぬ。ただ、時に縁ある者、この記録に触れて、いにしえの恋を知る――』

紫織は顔を上げた。

「私は……あなたを見捨てて帰ってきた……」

罪悪感が、彼女を押しつぶそうとする。あの時、もっと強く戦うべきだった。彼を置き去りにすべきではなかった。

「でも……でもあの時は……」

彼女は思い出そうとする。境界が閉じる瞬間。彰紋が「行け!」と叫んだこと。彼は、彼女を逃がすことを選んだのだ。

「あなたは……私を生かすことを選んだ……」

それでも、胸の痛みは消えない。彼が今、異界でどうしているのか。影の自分に何をされているのか。

図書室のドアが開く音がした。

「紫織?ここにいたんだ」

優花が心配そうに入ってきた。

「大丈夫?突然教室を飛び出して、みんな心配してるよ」

「ごめん……ちょっと、気分が悪くて」

「それ、何の本?」

優花が『平安異聞記』を見つめる。

「古文の授業でやってるやつだよね。でも、こっちはもっと詳しいみたい」

「うん……私、この話……」

紫織は言葉を詰まらせた。どう説明すればいいのか。千年の時を越えた恋など、誰が信じてくれるだろうか。

「私、この主人公の女の人に……すごく共感しちゃって」

それは本当だった。いや、それ以上だった。

優花は紫織の横に座り、そっと背中をさすった。

「私も、時々不思議な感覚になることあるよ。この世界のどこかで、別の自分が生きているんじゃないかって」

紫織は優花を見つめた。

「優花は信じる?タイムスリップとか、前世とか」

「うーん……わかんない。でも、もし紫織がそう信じてるなら、私は信じるよ」

その言葉に、紫織はまた涙があふれた。友人に、この重すぎる真実を話すことはできない。でも、この理解だけが、今の彼女を支えていた。

放課後、紫織は一人で校庭のベンチに座っていた。教科書を開き、『平安異聞記』の一節を何度も読み返す。

『彰紋、影の姫に「汝が半身、すでに我らが皇となることを拒む。ならば、汝をもって彼女を呼び戻さん」と言われ、もだえ苦しむ――』

「私のせいで……あなたが苦しんでいる」

彼女は空を見上げた。青空の向こうに、あの紫がかった異界の空はあるのだろうか。

「どうやって……どうやってあなたを助けられる?」

答えはなかった。千年の時を隔てて、彼女にできることなど何もない。

ただ、一つのことがわかった。

彼女は、彰紋を決して忘れられない。この胸の痛みは、彼への愛の証なのだ。

そして、もしもう一度あの世界に戻れるなら――今度こそ、彼を置き去りにはしない。

たとえ、永遠に異界に閉じ込められることになっても。

紫織は教科書を閉じ、胸に抱きしめた。

教室に戻ると、大森先生が心配そうに声をかけてきた。

「綾瀬さん、体調は大丈夫か?」

「はい……すみません、急に気分が悪くなって」

「そうか。それで、『平安異聞記』についてだが、実はこの話、学校の創立者である歴史学者が、夢に見た物語を書き記したものだと言われている」

「夢……ですか?」

「そうだ。彼はある時から、繰り返し同じ夢を見るようになった。平安時代の姫と将の物語を。それを記録に残したのが、この『平安異聞記』だ」

紫織は息を呑んだ。夢?いや、これは夢ではない。確かにあった現実だ。

「先生……もし、その夢が本当の記憶だとしたら?」

大森先生は少し驚いたような表情を見せたが、やがて穏やかに微笑んだ。

「歴史学者たちは、往々にしてそんな風に言うものだ。あまりに深く研究に没頭すると、自分がその時代に生きているような錯覚に陥る。だが、綾瀬さん」

先生は紫織をまっすぐ見つめた。

「時には、それが単なる夢や錯覚ではないこともある。歴史とは、そうした無数の記憶の積み重ねなのかもしれない」

その言葉に、紫織は少し救われた気がした。

この物語を、ただの作り話だと片付けられるのは耐えられない。でも、誰かがそれを「記憶」として認めてくれるなら。

「ありがとうございます、先生」

「勉強になるなら何よりだ。でも、あまり深く考えすぎないように。時には、今を生きることも大切だからな」

紫織はうなずいた。しかし心の中では、誓っていた。

今を生きる。でも、過去を忘れない。そして、もし機会があれば――

必ず、あの時代に戻る。

彼女は窓の外を見た。校庭の銀杏の木が、新緑の葉を揺らしている。あの秋、あの紅葉の下で、彼女は彰紋に出会った。

「必ず……もう一度会うから」

その誓いは、千年の時を越えて、どこかで聞いているだろうか。

紫織は胸の痛みを抱きしめながら、教室を出た。

これからも、この痛みは消えないだろう。でも、それでいい。

なぜなら、それが彼女と彰紋を繋ぐ、唯一の絆なのだから。
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