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九 空白の記憶
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左大臣邸の地下祭祀場で、紫織は虚空を見つめたまま、動かなかった。
「紫織姫……もう、境界は閉じました」
有景の声が、水中にいるように遠く聞こえる。ろうそくの炎が、今は普通の光を放っている。異界の気配は完全に消え、ただの石室に戻っていた。
「彰紋さまは……?」
彼女の声はかすれ、震えていた。
有景は答える言葉を見つけられず、ただうつむいた。賀茂保憲が階段を下りてくる足音が響く。
「どうした?」保憲の声は重い。「彰紋は?」
「戻ってきませんでした」有景が小声で言う。「境界が閉じる直前、異界の者に捕らえられたようです」
紫織の体が微かに震えた。目の前が真っ暗になるような感覚。胸の奥が、えぐり取られるような痛み。
「開けて」彼女は立ち上がろうとしたが、足がもつれる。「もう一度、境界を開けて!私も行く!」
「できません」保憲の声は冷酷なほどに静かだ。「逆行の儀に必要な力を、我々はもう持ち合わせていない。四つの封印点も、今回の儀で完全に封印されました。異界への扉は、当分開かない」
「でも、彰紋さまが――!」
「彰紋にも、その覚悟はあったはず」
「そんな……そんなこと言わないで……!」
紫織は崩れるように膝をついた。涙が石畳に落ち、小さな染みを作る。全てが無意味だった。異界へ行き、戦い、それでも彼を失った。
有景がそっと彼女の肩に手を置いた。
「姫君、今はお休みください。お体が持ちません」
「私の体なんて……どうでもいい……彰紋さまが戻ってこなければ……」
その夜、紫織は高熱にうなされた。
夢の中で、彼女は繰り返しあの瞬間を見る。境界が閉じる光。彰紋が手を差し伸べる姿。そして、影の自分が彼を引きずり込む笑顔。
「待って……待って……!」
目を覚ますと、縁が心配そうに顔を覗き込んでいる。
「姫君、大変でした。三日も昏睡状態で」
「三日……?彰紋さまは?」
縁の目が悲しみに曇る。
「まだ……音沙汰はありません」
紫織は起き上がろうとしたが、体中に鈍い痛みが走る。特に頭が重い。記憶がぼんやりとしている。
「縁……私、何があったのか……少し……」
「姫君?」
「彰紋さまは……確かに一緒にいたよね?異界に行ったのは……覚えているけど……」
紫縁は有景を呼んだ。
有景が診ると、紫織の記憶が曖昧になっていることに気づいた。異界での出来事、彰紋との別れ――その痛みが強すぎて、心が自らを守るために記憶を曖昧にしているようだった。
「これは一時的なものかもしれません。あるいは……」
「あるいは?」
「姫君の魂の半分が異界に残っている以上、異界での記憶が定着しにくい可能性があります。特に、強いトラウマは……」
紫織は自分の手を見つめた。かつて黒い跡があった場所は、今はきれいになっていた。影切り術で封印された彼女の影が、異界で何かをしているかもしれない。その影が、彼女の記憶に影響を与えているのかもしれない。
月日が流れた。
都では、異変が収まったことが次第に知れ渡っていく。物の怪の出現はぴたりと止み、黒雲は消え、人々は平穏な日々を取り戻した。
左大臣惟房は、紫織の身の上を案じながらも、彼女が「西より来たりし姫」としての役目を終えたと考えていた。
「姫、そろそろ故郷に戻ることを考えてはどうか?」
ある朝、惟房が紫織に言った。庭の紅葉は散り、冬の気配が近づいていた。
「故郷……?」
紫織は首をかしげた。西国のことだと言われるが、彼女にはその記憶がない。本当の故郷は千年先の未来だが、その道も閉ざされている。
「私は……ここにいたいです」
「だが、お前はまだ若い。このままこの屋敷に閉じこもっていては、未来がない」
紫織は考えた。彰紋がいないこの世界で、彼女は何をすればいいのか。ただ、彼が戻ってくることを待つだけか。
その夜、夢を見た。
現代の夢だ。校庭の銀杏。図書室の机。友人たちの笑い声。
目を覚ますと、胸が痛い。懐かしさと喪失感が入り混じった、複雑な痛み。
「私……本当はどこに帰ればいいの?」
次の日、紫織は決意した。
「有景さま、私を元の世界に帰す方法は、本当にないのですか?」
有景はしばらく沈黙し、やがて言った。
「一つの可能性があります。逆行の儀の反対を実行すること。つまり、現世の力を集め、境界を一時的に逆転させる」
「それはできるの?」
「理論上は可能です。しかし、強大な力が必要です。しかも、正確に姫君が来た場所と時間を狙わねばなりません」
「私が来た場所は、この邸の地下ではありません」
紫織は初めて、有景に全てを打ち明けた。千年後の未来の話。図書室の古書。タイムスリップの経緯。
有景は驚きながらも、うなずいた。
「ならば、さらに難しい。時空を越えるのですから。でも……もし成功すれば、姫君は元の時間に戻れます。そして、ここでの記憶は――」
「どうなりますか?」
「おそらく、夢のように曖昧になるでしょう。あるいは、完全に消えるかもしれません」
紫織は胸に手を当てた。彰紋との記憶が消える。それは、彼をもう一度失うことと同じだ。
「考えさせてください」
その答えが出ないまま、冬が来た。
雪が都を覆うある日、紫織はふと庭に出た。雪化粧された庭は静かで、かつて彰紋と並んで立った場所に、彼女は一人佇んだ。
「彰紋さま……今、どこで何をしているのでしょう」
雪がそっと彼女の頬に触れる。冷たいが、どこか優しい。
その時、突然、頭が激しく痛んだ。
「あっ……!」
視界が歪む。雪の庭が、現代の校庭と重なって見える。銀杏の木が、雪の中で黄金の葉を揺らしている。
(なに……これ……)
記憶が、時空を越えて流れ込んでくる。
――彰紋が笑っている。
――刀を振るう背中。
――「必ず戻る」という言葉。
「彰紋……さま……」
涙が雪に落ちる。記憶が戻ってくる。しかし同時に、別の何かも感じる。
異界にいる彰紋の痛み。彼が戦っていること。彼が彼女を想っていること。
「有景さま!」
紫織は走って有景を探した。
「異界にいる彰紋さまと、心がつながっているような気がするんです!彼が苦しんでいる……それに、何かが近づいている……」
有景の顔が青ざめた。
「もしや……姫君の影が、異界で何かを……」
「何かを?」
「姫君と完全に融合しようとしているのかもしれません。そうなれば、姫君自身も異界へ引きずり込まれる危険が……」
紫織は顔を上げた。目には決意の光が宿っている。
「有景さま、お願いします。私を元の世界に帰す術を実行してください」
「でも、記憶が――」
「それでいいんです。もし私がここにいることで、異界との繋がりが維持され、彰紋さまが苦しむなら……それに、もし私の影が完全に目覚めたら、この世界も危険になるでしょう?」
有景は言葉を失った。
「私が去れば、異界との繋がりは弱まります。影も力を失うかもしれません。そして彰紋さまが帰ってくる道が、開かれるかもしれません」
「それは確証のない賭けです」
「それでも賭けます。彰紋さまが、きっと戻ってくると信じて」
有景は長いため息をつき、うなずいた。
「わかりました。準備を始めましょう。最も力が高まる、冬至の夜に」
その夜が来るまでの数日、紫織は静かに過ごした。かつて彰紋と歩いた都の町を一人で歩き、二人で見た景色を一人で見つめた。
最後の日、彼女は惟房と北の方に別れを告げた。
「長い間、お世話になりました」
「姫、無理はするな」惟房の目にも涙が光っていた。「もしまた機会があれば、戻ってきてくれ」
「はい。きっと」
しかし紫織はわかっていた。戻ってくることはないだろう。この別れが永遠だと。
冬至の夜。
地下祭祀場には、陰陽寮の精鋭たちが集まっていた。今回は、紫織一人を送り出す儀式だ。
「覚悟はいいか?」賀茂保憲が尋ねた。
「はい」
紫織は白い衣を纏い、祭壇の前に座った。手には、何も持っていない。持ち帰るものは、記憶だけだ。それすらも、あやふやになるかもしれないが。
「術が始まると、貴女は眠りに落ちるだろう。そして目覚めた時には、元の世界にいる」
「彰紋さまが戻ってきたら……どうか、よろしくお伝えください。私がずっと待っていたこと、愛していたことを」
有景がうなずいた。
「約束します」
術が始まった。
ろうそくの炎がゆらめき、祭壇の紋様が光る。紫織の体が軽くなっていく。意識が遠のく。
最後に、彼女は思い出した。
月明かりの下、彰紋が微笑む顔。
「必ず……戻る……」
彼女の声は、次第に消えていった。
光が紫織を包み込む。体が透明になっていく。そして、ふわりと、その場から消えた。
祭祀場には静寂が戻った。
「成功したか?」誰かが尋ねた。
有景がうなずく。
「彼女は、千年後の未来へ帰った」
「記憶は?」
「運命に任せるしかない」
その時、突然、祭壇の上に一筋の光が残った。それは小さな鈴の形をしている。紫織が持っていた呼び鈴の片割れだ。
「これは……」
有景がそれを拾い上げた。鈴は微かに温かい。まるで、紫織の想いが宿っているかのように。
「彼女が、彰紋を待っている証だ」
有景は鈴を大切に胸にしまった。
一方、千年後の未来で――
桜華学園の図書室で、綾瀬紫織は机の上で目を覚ました。
「え……?寝ちゃった……?」
彼女は周囲を見回す。夕陽が窓から差し込み、図書室はオレンジ色に染まっている。そばには、開かれたままの古書『平安異聞記』。
「あ、本を片づけなきゃ」
紫織は本を閉じ、棚に戻した。何か、悲しい夢を見たような気がする。でも、内容は思い出せない。
ただ、胸の奥に、ぽっかりと穴が空いたような感覚が残っている。
彼女は鞄をまとめ、図書室を出た。
廊下で友人に会った。
「紫織、ずっといたの?何してたの?」
「うん……ちょっと居眠りしちゃった」
「そっか。じゃあ、一緒に帰ろ?」
「うん」
紫織は友人の後について歩きながら、ふと振り返った。
図書室のドアが閉まる。中には、平安の時代も、戦いも、愛も、何も残っていない。
ただの、何気ない日常がそこにあった。
彼女はため息をつき、再び歩き始めた。
胸の痛みも、なぜか悲しい気持ちも、きっとそのうち消えるだろう。
そう思って。
「紫織姫……もう、境界は閉じました」
有景の声が、水中にいるように遠く聞こえる。ろうそくの炎が、今は普通の光を放っている。異界の気配は完全に消え、ただの石室に戻っていた。
「彰紋さまは……?」
彼女の声はかすれ、震えていた。
有景は答える言葉を見つけられず、ただうつむいた。賀茂保憲が階段を下りてくる足音が響く。
「どうした?」保憲の声は重い。「彰紋は?」
「戻ってきませんでした」有景が小声で言う。「境界が閉じる直前、異界の者に捕らえられたようです」
紫織の体が微かに震えた。目の前が真っ暗になるような感覚。胸の奥が、えぐり取られるような痛み。
「開けて」彼女は立ち上がろうとしたが、足がもつれる。「もう一度、境界を開けて!私も行く!」
「できません」保憲の声は冷酷なほどに静かだ。「逆行の儀に必要な力を、我々はもう持ち合わせていない。四つの封印点も、今回の儀で完全に封印されました。異界への扉は、当分開かない」
「でも、彰紋さまが――!」
「彰紋にも、その覚悟はあったはず」
「そんな……そんなこと言わないで……!」
紫織は崩れるように膝をついた。涙が石畳に落ち、小さな染みを作る。全てが無意味だった。異界へ行き、戦い、それでも彼を失った。
有景がそっと彼女の肩に手を置いた。
「姫君、今はお休みください。お体が持ちません」
「私の体なんて……どうでもいい……彰紋さまが戻ってこなければ……」
その夜、紫織は高熱にうなされた。
夢の中で、彼女は繰り返しあの瞬間を見る。境界が閉じる光。彰紋が手を差し伸べる姿。そして、影の自分が彼を引きずり込む笑顔。
「待って……待って……!」
目を覚ますと、縁が心配そうに顔を覗き込んでいる。
「姫君、大変でした。三日も昏睡状態で」
「三日……?彰紋さまは?」
縁の目が悲しみに曇る。
「まだ……音沙汰はありません」
紫織は起き上がろうとしたが、体中に鈍い痛みが走る。特に頭が重い。記憶がぼんやりとしている。
「縁……私、何があったのか……少し……」
「姫君?」
「彰紋さまは……確かに一緒にいたよね?異界に行ったのは……覚えているけど……」
紫縁は有景を呼んだ。
有景が診ると、紫織の記憶が曖昧になっていることに気づいた。異界での出来事、彰紋との別れ――その痛みが強すぎて、心が自らを守るために記憶を曖昧にしているようだった。
「これは一時的なものかもしれません。あるいは……」
「あるいは?」
「姫君の魂の半分が異界に残っている以上、異界での記憶が定着しにくい可能性があります。特に、強いトラウマは……」
紫織は自分の手を見つめた。かつて黒い跡があった場所は、今はきれいになっていた。影切り術で封印された彼女の影が、異界で何かをしているかもしれない。その影が、彼女の記憶に影響を与えているのかもしれない。
月日が流れた。
都では、異変が収まったことが次第に知れ渡っていく。物の怪の出現はぴたりと止み、黒雲は消え、人々は平穏な日々を取り戻した。
左大臣惟房は、紫織の身の上を案じながらも、彼女が「西より来たりし姫」としての役目を終えたと考えていた。
「姫、そろそろ故郷に戻ることを考えてはどうか?」
ある朝、惟房が紫織に言った。庭の紅葉は散り、冬の気配が近づいていた。
「故郷……?」
紫織は首をかしげた。西国のことだと言われるが、彼女にはその記憶がない。本当の故郷は千年先の未来だが、その道も閉ざされている。
「私は……ここにいたいです」
「だが、お前はまだ若い。このままこの屋敷に閉じこもっていては、未来がない」
紫織は考えた。彰紋がいないこの世界で、彼女は何をすればいいのか。ただ、彼が戻ってくることを待つだけか。
その夜、夢を見た。
現代の夢だ。校庭の銀杏。図書室の机。友人たちの笑い声。
目を覚ますと、胸が痛い。懐かしさと喪失感が入り混じった、複雑な痛み。
「私……本当はどこに帰ればいいの?」
次の日、紫織は決意した。
「有景さま、私を元の世界に帰す方法は、本当にないのですか?」
有景はしばらく沈黙し、やがて言った。
「一つの可能性があります。逆行の儀の反対を実行すること。つまり、現世の力を集め、境界を一時的に逆転させる」
「それはできるの?」
「理論上は可能です。しかし、強大な力が必要です。しかも、正確に姫君が来た場所と時間を狙わねばなりません」
「私が来た場所は、この邸の地下ではありません」
紫織は初めて、有景に全てを打ち明けた。千年後の未来の話。図書室の古書。タイムスリップの経緯。
有景は驚きながらも、うなずいた。
「ならば、さらに難しい。時空を越えるのですから。でも……もし成功すれば、姫君は元の時間に戻れます。そして、ここでの記憶は――」
「どうなりますか?」
「おそらく、夢のように曖昧になるでしょう。あるいは、完全に消えるかもしれません」
紫織は胸に手を当てた。彰紋との記憶が消える。それは、彼をもう一度失うことと同じだ。
「考えさせてください」
その答えが出ないまま、冬が来た。
雪が都を覆うある日、紫織はふと庭に出た。雪化粧された庭は静かで、かつて彰紋と並んで立った場所に、彼女は一人佇んだ。
「彰紋さま……今、どこで何をしているのでしょう」
雪がそっと彼女の頬に触れる。冷たいが、どこか優しい。
その時、突然、頭が激しく痛んだ。
「あっ……!」
視界が歪む。雪の庭が、現代の校庭と重なって見える。銀杏の木が、雪の中で黄金の葉を揺らしている。
(なに……これ……)
記憶が、時空を越えて流れ込んでくる。
――彰紋が笑っている。
――刀を振るう背中。
――「必ず戻る」という言葉。
「彰紋……さま……」
涙が雪に落ちる。記憶が戻ってくる。しかし同時に、別の何かも感じる。
異界にいる彰紋の痛み。彼が戦っていること。彼が彼女を想っていること。
「有景さま!」
紫織は走って有景を探した。
「異界にいる彰紋さまと、心がつながっているような気がするんです!彼が苦しんでいる……それに、何かが近づいている……」
有景の顔が青ざめた。
「もしや……姫君の影が、異界で何かを……」
「何かを?」
「姫君と完全に融合しようとしているのかもしれません。そうなれば、姫君自身も異界へ引きずり込まれる危険が……」
紫織は顔を上げた。目には決意の光が宿っている。
「有景さま、お願いします。私を元の世界に帰す術を実行してください」
「でも、記憶が――」
「それでいいんです。もし私がここにいることで、異界との繋がりが維持され、彰紋さまが苦しむなら……それに、もし私の影が完全に目覚めたら、この世界も危険になるでしょう?」
有景は言葉を失った。
「私が去れば、異界との繋がりは弱まります。影も力を失うかもしれません。そして彰紋さまが帰ってくる道が、開かれるかもしれません」
「それは確証のない賭けです」
「それでも賭けます。彰紋さまが、きっと戻ってくると信じて」
有景は長いため息をつき、うなずいた。
「わかりました。準備を始めましょう。最も力が高まる、冬至の夜に」
その夜が来るまでの数日、紫織は静かに過ごした。かつて彰紋と歩いた都の町を一人で歩き、二人で見た景色を一人で見つめた。
最後の日、彼女は惟房と北の方に別れを告げた。
「長い間、お世話になりました」
「姫、無理はするな」惟房の目にも涙が光っていた。「もしまた機会があれば、戻ってきてくれ」
「はい。きっと」
しかし紫織はわかっていた。戻ってくることはないだろう。この別れが永遠だと。
冬至の夜。
地下祭祀場には、陰陽寮の精鋭たちが集まっていた。今回は、紫織一人を送り出す儀式だ。
「覚悟はいいか?」賀茂保憲が尋ねた。
「はい」
紫織は白い衣を纏い、祭壇の前に座った。手には、何も持っていない。持ち帰るものは、記憶だけだ。それすらも、あやふやになるかもしれないが。
「術が始まると、貴女は眠りに落ちるだろう。そして目覚めた時には、元の世界にいる」
「彰紋さまが戻ってきたら……どうか、よろしくお伝えください。私がずっと待っていたこと、愛していたことを」
有景がうなずいた。
「約束します」
術が始まった。
ろうそくの炎がゆらめき、祭壇の紋様が光る。紫織の体が軽くなっていく。意識が遠のく。
最後に、彼女は思い出した。
月明かりの下、彰紋が微笑む顔。
「必ず……戻る……」
彼女の声は、次第に消えていった。
光が紫織を包み込む。体が透明になっていく。そして、ふわりと、その場から消えた。
祭祀場には静寂が戻った。
「成功したか?」誰かが尋ねた。
有景がうなずく。
「彼女は、千年後の未来へ帰った」
「記憶は?」
「運命に任せるしかない」
その時、突然、祭壇の上に一筋の光が残った。それは小さな鈴の形をしている。紫織が持っていた呼び鈴の片割れだ。
「これは……」
有景がそれを拾い上げた。鈴は微かに温かい。まるで、紫織の想いが宿っているかのように。
「彼女が、彰紋を待っている証だ」
有景は鈴を大切に胸にしまった。
一方、千年後の未来で――
桜華学園の図書室で、綾瀬紫織は机の上で目を覚ました。
「え……?寝ちゃった……?」
彼女は周囲を見回す。夕陽が窓から差し込み、図書室はオレンジ色に染まっている。そばには、開かれたままの古書『平安異聞記』。
「あ、本を片づけなきゃ」
紫織は本を閉じ、棚に戻した。何か、悲しい夢を見たような気がする。でも、内容は思い出せない。
ただ、胸の奥に、ぽっかりと穴が空いたような感覚が残っている。
彼女は鞄をまとめ、図書室を出た。
廊下で友人に会った。
「紫織、ずっといたの?何してたの?」
「うん……ちょっと居眠りしちゃった」
「そっか。じゃあ、一緒に帰ろ?」
「うん」
紫織は友人の後について歩きながら、ふと振り返った。
図書室のドアが閉まる。中には、平安の時代も、戦いも、愛も、何も残っていない。
ただの、何気ない日常がそこにあった。
彼女はため息をつき、再び歩き始めた。
胸の痛みも、なぜか悲しい気持ちも、きっとそのうち消えるだろう。
そう思って。
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