紫のゆかり、君に逢いたく

永田英晃

文字の大きさ
9 / 12

九 空白の記憶

しおりを挟む
左大臣邸の地下祭祀場で、紫織は虚空を見つめたまま、動かなかった。

「紫織姫……もう、境界は閉じました」

有景の声が、水中にいるように遠く聞こえる。ろうそくの炎が、今は普通の光を放っている。異界の気配は完全に消え、ただの石室に戻っていた。

「彰紋さまは……?」

彼女の声はかすれ、震えていた。

有景は答える言葉を見つけられず、ただうつむいた。賀茂保憲が階段を下りてくる足音が響く。

「どうした?」保憲の声は重い。「彰紋は?」

「戻ってきませんでした」有景が小声で言う。「境界が閉じる直前、異界の者に捕らえられたようです」

紫織の体が微かに震えた。目の前が真っ暗になるような感覚。胸の奥が、えぐり取られるような痛み。

「開けて」彼女は立ち上がろうとしたが、足がもつれる。「もう一度、境界を開けて!私も行く!」

「できません」保憲の声は冷酷なほどに静かだ。「逆行の儀に必要な力を、我々はもう持ち合わせていない。四つの封印点も、今回の儀で完全に封印されました。異界への扉は、当分開かない」

「でも、彰紋さまが――!」

「彰紋にも、その覚悟はあったはず」

「そんな……そんなこと言わないで……!」

紫織は崩れるように膝をついた。涙が石畳に落ち、小さな染みを作る。全てが無意味だった。異界へ行き、戦い、それでも彼を失った。

有景がそっと彼女の肩に手を置いた。

「姫君、今はお休みください。お体が持ちません」

「私の体なんて……どうでもいい……彰紋さまが戻ってこなければ……」

その夜、紫織は高熱にうなされた。

夢の中で、彼女は繰り返しあの瞬間を見る。境界が閉じる光。彰紋が手を差し伸べる姿。そして、影の自分が彼を引きずり込む笑顔。

「待って……待って……!」

目を覚ますと、縁が心配そうに顔を覗き込んでいる。

「姫君、大変でした。三日も昏睡状態で」

「三日……?彰紋さまは?」

縁の目が悲しみに曇る。

「まだ……音沙汰はありません」

紫織は起き上がろうとしたが、体中に鈍い痛みが走る。特に頭が重い。記憶がぼんやりとしている。

「縁……私、何があったのか……少し……」

「姫君?」

「彰紋さまは……確かに一緒にいたよね?異界に行ったのは……覚えているけど……」

紫縁は有景を呼んだ。

有景が診ると、紫織の記憶が曖昧になっていることに気づいた。異界での出来事、彰紋との別れ――その痛みが強すぎて、心が自らを守るために記憶を曖昧にしているようだった。

「これは一時的なものかもしれません。あるいは……」

「あるいは?」

「姫君の魂の半分が異界に残っている以上、異界での記憶が定着しにくい可能性があります。特に、強いトラウマは……」

紫織は自分の手を見つめた。かつて黒い跡があった場所は、今はきれいになっていた。影切り術で封印された彼女の影が、異界で何かをしているかもしれない。その影が、彼女の記憶に影響を与えているのかもしれない。

月日が流れた。

都では、異変が収まったことが次第に知れ渡っていく。物の怪の出現はぴたりと止み、黒雲は消え、人々は平穏な日々を取り戻した。

左大臣惟房は、紫織の身の上を案じながらも、彼女が「西より来たりし姫」としての役目を終えたと考えていた。

「姫、そろそろ故郷に戻ることを考えてはどうか?」

ある朝、惟房が紫織に言った。庭の紅葉は散り、冬の気配が近づいていた。

「故郷……?」

紫織は首をかしげた。西国のことだと言われるが、彼女にはその記憶がない。本当の故郷は千年先の未来だが、その道も閉ざされている。

「私は……ここにいたいです」

「だが、お前はまだ若い。このままこの屋敷に閉じこもっていては、未来がない」

紫織は考えた。彰紋がいないこの世界で、彼女は何をすればいいのか。ただ、彼が戻ってくることを待つだけか。

その夜、夢を見た。

現代の夢だ。校庭の銀杏。図書室の机。友人たちの笑い声。

目を覚ますと、胸が痛い。懐かしさと喪失感が入り混じった、複雑な痛み。

「私……本当はどこに帰ればいいの?」

次の日、紫織は決意した。

「有景さま、私を元の世界に帰す方法は、本当にないのですか?」

有景はしばらく沈黙し、やがて言った。

「一つの可能性があります。逆行の儀の反対を実行すること。つまり、現世の力を集め、境界を一時的に逆転させる」

「それはできるの?」

「理論上は可能です。しかし、強大な力が必要です。しかも、正確に姫君が来た場所と時間を狙わねばなりません」

「私が来た場所は、この邸の地下ではありません」

紫織は初めて、有景に全てを打ち明けた。千年後の未来の話。図書室の古書。タイムスリップの経緯。

有景は驚きながらも、うなずいた。

「ならば、さらに難しい。時空を越えるのですから。でも……もし成功すれば、姫君は元の時間に戻れます。そして、ここでの記憶は――」

「どうなりますか?」

「おそらく、夢のように曖昧になるでしょう。あるいは、完全に消えるかもしれません」

紫織は胸に手を当てた。彰紋との記憶が消える。それは、彼をもう一度失うことと同じだ。

「考えさせてください」

その答えが出ないまま、冬が来た。

雪が都を覆うある日、紫織はふと庭に出た。雪化粧された庭は静かで、かつて彰紋と並んで立った場所に、彼女は一人佇んだ。

「彰紋さま……今、どこで何をしているのでしょう」

雪がそっと彼女の頬に触れる。冷たいが、どこか優しい。

その時、突然、頭が激しく痛んだ。

「あっ……!」

視界が歪む。雪の庭が、現代の校庭と重なって見える。銀杏の木が、雪の中で黄金の葉を揺らしている。

(なに……これ……)

記憶が、時空を越えて流れ込んでくる。

――彰紋が笑っている。
――刀を振るう背中。
――「必ず戻る」という言葉。

「彰紋……さま……」

涙が雪に落ちる。記憶が戻ってくる。しかし同時に、別の何かも感じる。

異界にいる彰紋の痛み。彼が戦っていること。彼が彼女を想っていること。

「有景さま!」

紫織は走って有景を探した。

「異界にいる彰紋さまと、心がつながっているような気がするんです!彼が苦しんでいる……それに、何かが近づいている……」

有景の顔が青ざめた。

「もしや……姫君の影が、異界で何かを……」

「何かを?」

「姫君と完全に融合しようとしているのかもしれません。そうなれば、姫君自身も異界へ引きずり込まれる危険が……」

紫織は顔を上げた。目には決意の光が宿っている。

「有景さま、お願いします。私を元の世界に帰す術を実行してください」

「でも、記憶が――」

「それでいいんです。もし私がここにいることで、異界との繋がりが維持され、彰紋さまが苦しむなら……それに、もし私の影が完全に目覚めたら、この世界も危険になるでしょう?」

有景は言葉を失った。

「私が去れば、異界との繋がりは弱まります。影も力を失うかもしれません。そして彰紋さまが帰ってくる道が、開かれるかもしれません」

「それは確証のない賭けです」

「それでも賭けます。彰紋さまが、きっと戻ってくると信じて」

有景は長いため息をつき、うなずいた。

「わかりました。準備を始めましょう。最も力が高まる、冬至の夜に」

その夜が来るまでの数日、紫織は静かに過ごした。かつて彰紋と歩いた都の町を一人で歩き、二人で見た景色を一人で見つめた。

最後の日、彼女は惟房と北の方に別れを告げた。

「長い間、お世話になりました」

「姫、無理はするな」惟房の目にも涙が光っていた。「もしまた機会があれば、戻ってきてくれ」

「はい。きっと」

しかし紫織はわかっていた。戻ってくることはないだろう。この別れが永遠だと。

冬至の夜。

地下祭祀場には、陰陽寮の精鋭たちが集まっていた。今回は、紫織一人を送り出す儀式だ。

「覚悟はいいか?」賀茂保憲が尋ねた。

「はい」

紫織は白い衣を纏い、祭壇の前に座った。手には、何も持っていない。持ち帰るものは、記憶だけだ。それすらも、あやふやになるかもしれないが。

「術が始まると、貴女は眠りに落ちるだろう。そして目覚めた時には、元の世界にいる」

「彰紋さまが戻ってきたら……どうか、よろしくお伝えください。私がずっと待っていたこと、愛していたことを」

有景がうなずいた。

「約束します」

術が始まった。

ろうそくの炎がゆらめき、祭壇の紋様が光る。紫織の体が軽くなっていく。意識が遠のく。

最後に、彼女は思い出した。

月明かりの下、彰紋が微笑む顔。

「必ず……戻る……」

彼女の声は、次第に消えていった。

光が紫織を包み込む。体が透明になっていく。そして、ふわりと、その場から消えた。

祭祀場には静寂が戻った。

「成功したか?」誰かが尋ねた。

有景がうなずく。

「彼女は、千年後の未来へ帰った」

「記憶は?」

「運命に任せるしかない」

その時、突然、祭壇の上に一筋の光が残った。それは小さな鈴の形をしている。紫織が持っていた呼び鈴の片割れだ。

「これは……」

有景がそれを拾い上げた。鈴は微かに温かい。まるで、紫織の想いが宿っているかのように。

「彼女が、彰紋を待っている証だ」

有景は鈴を大切に胸にしまった。


一方、千年後の未来で――

桜華学園の図書室で、綾瀬紫織は机の上で目を覚ました。

「え……?寝ちゃった……?」

彼女は周囲を見回す。夕陽が窓から差し込み、図書室はオレンジ色に染まっている。そばには、開かれたままの古書『平安異聞記』。

「あ、本を片づけなきゃ」

紫織は本を閉じ、棚に戻した。何か、悲しい夢を見たような気がする。でも、内容は思い出せない。

ただ、胸の奥に、ぽっかりと穴が空いたような感覚が残っている。

彼女は鞄をまとめ、図書室を出た。

廊下で友人に会った。

「紫織、ずっといたの?何してたの?」

「うん……ちょっと居眠りしちゃった」

「そっか。じゃあ、一緒に帰ろ?」

「うん」

紫織は友人の後について歩きながら、ふと振り返った。

図書室のドアが閉まる。中には、平安の時代も、戦いも、愛も、何も残っていない。

ただの、何気ない日常がそこにあった。

彼女はため息をつき、再び歩き始めた。

胸の痛みも、なぜか悲しい気持ちも、きっとそのうち消えるだろう。

そう思って。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

私の息子を“愛人の子の下”にすると言った夫へ──その瞬間、正妻の役目は終わりました

放浪人
恋愛
政略結婚で伯爵家に嫁いだ侯爵令嬢リディアは、愛のない夫婦関係を「正妻の務め」と割り切り、赤字だらけの領地を立て直してきた。帳簿を整え、税の徴収を正し、交易路を広げ、収穫が不安定な年には備蓄を回す――伯爵家の体裁を保ってきたのは、いつも彼女の実務だった。 だがある日、夫オスヴァルドが屋敷に連れ帰ったのは“幼馴染”の女とその息子。 「彼女は可哀想なんだ」 「この子を跡取りにする」 そして人前で、平然と言い放つ。 ――「君の息子は、愛人の子の“下”で学べばいい」 その瞬間、リディアの中で何かが静かに終わった。怒鳴らない。泣かない。微笑みすら崩さない。 「承知しました。では――正妻の役目は終わりましたね」

拾った年上侯爵が甘え上手すぎて、よしよししてたら婚約することになりました

星乃和花
恋愛
⭐︎火木土21:00更新ー本編8話・後日談8話⭐︎ 王都の市場で花屋をしているリナは、ある朝―― 路地裏で倒れている“美形の年上男性”を拾ってしまう。 熱で弱っているだけ……のはずが、彼はなぜか距離が近い。 「行かないで」「撫でて」「君がいると回復する」 甘えが上手すぎるうえに、褒め方までずるい。 よしよし看病してあげていたら、いつの間にか毎日市場に現れるようになり、 気づけば花屋は貴族の面会所(?)になっていて―― しかも彼の正体は、王都を支える侯爵家の当主だった!? 「君は国のために必要だ(※僕が倒れるから)」 年上当主の“甘え策略”に、花屋の心臓は今日ももたない。 ほのぼの王都日常コメディ×甘やかし捕獲ラブ、開幕です。

さようなら婚約者

あんど もあ
ファンタジー
アンジュは、五年間虐げられた婚約者から婚約破棄を告げられる。翌日、カバン一つを持って五年住んだ婚約者の家を去るアンジュ。一方、婚約者は…。

三十年後に届いた白い手紙

RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。 彼は最後まで、何も語らなかった。 その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。 戴冠舞踏会の夜。 公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。 それは復讐でも、告発でもない。 三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、 「渡されなかった約束」のための手紙だった。 沈黙のまま命を捨てた男と、 三十年、ただ待ち続けた女。 そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。 これは、 遅れて届いた手紙が、 人生と運命を静かに書き換えていく物語。

「がっかりです」——その一言で終わる夫婦が、王宮にはある

柴田はつみ
恋愛
妃の席を踏みにじったのは令嬢——けれど妃の心を折ったのは、夫のたった一言だった 王太子妃リディアの唯一の安らぎは、王太子アーヴィンと交わす午後の茶会。だが新しく王宮に出入りする伯爵令嬢ミレーユは、妃の席に先に座り、殿下を私的に呼び、距離感のない振る舞いを重ねる。 リディアは王宮の礼節としてその場で正す——正しいはずだった。けれど夫は「リディア、そこまで言わなくても……」と、妃を止めた。 「わかりました。あなたには、がっかりです」 微笑んで去ったその日から、夫婦の茶会は終わる。沈黙の王宮で、言葉を失った王太子は、初めて“追う”ことを選ぶが——遅すぎた。

完結 辺境伯様に嫁いで半年、完全に忘れられているようです   

ヴァンドール
恋愛
実家でも忘れられた存在で 嫁いだ辺境伯様にも離れに追いやられ、それすら 忘れ去られて早、半年が過ぎました。

さようならの定型文~身勝手なあなたへ

宵森みなと
恋愛
「好きな女がいる。君とは“白い結婚”を——」 ――それは、夢にまで見た結婚式の初夜。 額に誓いのキスを受けた“その夜”、彼はそう言った。 涙すら出なかった。 なぜなら私は、その直前に“前世の記憶”を思い出したから。 ……よりによって、元・男の人生を。 夫には白い結婚宣言、恋も砕け、初夜で絶望と救済で、目覚めたのは皮肉にも、“現実”と“前世”の自分だった。 「さようなら」 だって、もう誰かに振り回されるなんて嫌。 慰謝料もらって悠々自適なシングルライフ。 別居、自立して、左団扇の人生送ってみせますわ。 だけど元・夫も、従兄も、世間も――私を放ってはくれないみたい? 「……何それ、私の人生、まだ波乱あるの?」 はい、あります。盛りだくさんで。 元・男、今・女。 “白い結婚からの離縁”から始まる、人生劇場ここに開幕。 -----『白い結婚の行方』シリーズ ----- 『白い結婚の行方』の物語が始まる、前のお話です。

冷遇王妃はときめかない

あんど もあ
ファンタジー
幼いころから婚約していた彼と結婚して王妃になった私。 だが、陛下は側妃だけを溺愛し、私は白い結婚のまま離宮へ追いやられる…って何てラッキー! 国の事は陛下と側妃様に任せて、私はこのまま離宮で何の責任も無い楽な生活を!…と思っていたのに…。

処理中です...