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八 絶命
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異界への旅の準備は、密やかに進められた。
賀茂保憲が陰陽寮の秘蔵の書物から、異界への入り方と戻り方を調べ上げた。それは「逆行の儀」と呼ばれる、通常の境界越えとは逆の原理を用いるものだった。
「通常、異界から現世へ来るには、境界の弱まった場所を利用する」保憲は地下祭祀場で説明した。「しかし、現世から異界へ行くには、境界そのものを『逆転』させねばならない」
紫織は白い修行衣を纏い、彰紋は軽い鎧を着込んでいた。二人の間には、決意に満ちた緊張が漂っている。
「逆転させるには?」彰紋が問う。
「強大な力の衝突が必要だ。つまり、異界からの力と現世からの力が、一点で激突するとき、その歪みを利用する」
保憲が祭壇の上に地図を広げた。
「この四つの封印点を、再び活性化させる。しかし今回は、異界からの侵攻を許すのではなく、我々から能動的に『呼びかける』」
「危険ではないか?」紫織が眉をひそめた。「また物の怪が大量に現れたら」
「危険であることは確かだ。しかし、その危険こそが扉を開く。異界の力が現世に流れ込む瞬間、その流れに逆らって泳ぎ上がるように異界へ入るのだ」
有景が補足した。
「最も危険なのは、異界に入った後です。時間の流れが異なり、現世の数時間が異界では数日に、あるいは逆に数瞬間に感じられるかもしれません。そして、異界そのものが生きているかのように、侵入者を排除しようとするでしょう」
彰紋は紫織の手を握った。
「戻る方法は?」
保憲が小さな鈴を二つ取り出した。
「この『呼び鈴』を携えて行く。異界でこれらを鳴らせば、現世の私たちが境界を一時的に開く。しかし、使えるのは一度きりだ。そして、鳴らしてから帰還できるまでには、異界時間でおよそ一日かかる」
「一日か……」彰紋が呟いた。
「その一日を、どう生き延びるかが勝負だ。そして、もう一つ重要なことがある」
保憲の表情が厳しくなる。
「紫織姫は、異界では『皇』として認識されるだろう。それは力になるが、同時に最大の危険にもなる。異界の住人たちが、姫を本物の皇として崇めようとするかもしれない。あるいは……偽物の皇として抹殺しようとするかもしれない」
紫織は自分の胸に手を当てた。その中には、半分だけ異界の魂が宿っている。かつてはそれを呪ったが、今は違う。この特別さが、愛する世界を守る力になるなら。
「わかりました。いつ始めますか?」
「三日後の満月の夜が最適だ」有景が答えた。「それまでに、体と心を整えておいてください」
その三日間、紫織と彰紋はほとんどを共に過ごした。
最後の日、二人は都を見下ろす丘に立っていた。夕陽が都を黄金に染め、遠くに大極殿の屋根が輝く。
「美しいですね」紫織が呟いた。「こんなに美しい場所を、闇に飲ませたくない」
「守り抜く」彰紋の声は静かだが、揺るぎなかった。「たとえ私の命を代償にしても」
「そんなこと言わないで」紫織が彰紋の腕にすがった。「二人で帰ってくるって約束したでしょう?」
彰紋は紫織を見つめ、そっと頬に触れた。
「あの日、貴女が記憶を失ったとき、私は絶望した。でも今は思う。たとえ記憶を失っても、魂は覚えているのだと。貴女の魂は、私を選び続けてくれた」
「彰紋さま……」
「異界で何が待っていようとも、一つだけ覚えていてほしい。私は貴女を愛している。千年の時を超えても、この想いは変わらない」
紫織は涙をこらえきれず、彰紋の胸に顔を埋めた。
「私も……ずっと愛しています。この世界に来て、一番の幸せは、あなたに出会えたことです」
夕陽が沈み、最初の星が輝き始めた。
満月の夜が来た。
四つの境界点には、陰陽寮の精鋭たちが配置された。桂川の河原には有景が、双ヶ丘には賀茂保憲が、船岡山には他の陰陽師たちが。そして左大臣邸の地下には、紫織と彰紋が立っている。
「準備はいいか?」保憲の声が通信鏡から聞こえる。
「はい」紫織が答える。手には呼び鈴をしっかり握っている。
「では、始める。私が合図を出す。それと同時に、四か所で結界を解放する。異界の力が流れ込んできたら、その瞬間に逆行の術を実行する」
緊張が張り詰める。
「今だ!」
四か所同時に、結界が解かれた。
最初は静かだった。しかし、すぐに地下の空気が震え始める。ろうそくの炎が激しく揺れ、祭壇の紋様が赤く輝く。
「来る」彰紋が刀に手をかける。
黒い渦が現れた。以前より大きく、深い。中からは、無数の影がうごめいている。
しかし今回は、影たちは襲ってこない。ただ、紫織を見つめている。その目には、畏敬と期待が混じっている。
「皇……ついに……お帰りに……」
「我らの皇……導きたまえ……」
紫織は一歩前に出た。
「私は、異界へ行く。道を開け」
影たちが道を空ける。渦の中心に、光の道が現れた。
「行こう」彰紋が紫織の手を握る。
二人は光の中へ歩み入った。
瞬間、周囲の景色が一変した。
左大臣邸の地下祭祀場は消え、代わりに歪んだ風景が広がっている。空は紫がかった黒で、地上には水晶のような植物が生え、遠くには逆さまに浮かぶ山々が見える。
「ここが……異界」
紫織の声が、不思議と響く。空気が濃く、言葉に重みがある。
彰紋が周囲を警戒する。
「生きている気配は?」
「たくさんいます。でも、遠くから見ているだけみたい」
確かに、水晶の森の影に、無数の目が光っている。しかし、それらは近づこうとしない。
紫織は胸の内を探った。ここに来てから、何かが変わった。体の奥底で、長く眠っていた何かが目覚めようとしている。
「あっ……」
突然、彼女の足元から光が広がった。地面に複雑な紋様が浮かび上がり、まるで歓迎されているかのようだ。
「これは?」
「皇の帰還を祝う印だ」
新しい声が響いた。振り返れば、人間の形をした影が立っている。しかし、その姿は紫織にそっくりだった。
「あなたは?」
「私は貴女の『影』だ。かつて切り離され、封印されたもの」
影は微笑んだ。その笑顔は、紫織のものと瓜二つだが、どこか冷たい。
「ようこそ、我が半身よ。長い旅だったね」
彰紋が刀を抜く。
「紫織殿を傷つけるな」
「傷つける?」影が首をかしげた。「なぜ傷つける必要がある?私は彼女を『完全』にするためにここにいる」
影は一歩近づいた。
「貴女は不完全だ。魂の半分だけが異界に属している。その不完全さが、苦しみを生む。私と一つになれば、全ての苦しみから解放される」
「一つになるって?」
「融合することだ。そうすれば、貴女は完全な異界の皇になる。現世の儚い感情に悩まされることもない」
紫織は彰紋の手を握りしめた。
「私は現世の感情を捨てたくない。愛する人がいるから」
「愛?」影が冷たく笑った。「それは不完全さが生む幻想だ。完全になれば、そんなものは必要ない。永遠の安らぎが得られる」
水晶の森から、次第に影たちが現れ始めた。紫織を囲むように。その数は数百、いや数千かもしれない。
「見ろ」影が腕を広げた。「我が民が貴女を待っている。本当の皇として」
彰紋は紫織を背後に隠した。
「退け!」
「愚かな現世の者よ」影の声が冷たくなる。「貴様は彼女を縛りつけている。彼女の真の可能性を閉ざしている」
「紫織殿は自分で道を選ぶ!」
「では、選ばせよう」
影が手を上げた。瞬間、紫織の頭が激しく痛んだ。
「あっ……!」
記憶が、否、記憶ではない。潜在能力が、眠っていた力が、一気に目覚めようとする。異界の皇としての力が。
「紫織殿!」
「大丈夫……私は……私でいるから……」
しかし、力はあまりに強大だ。周囲の異界そのものが、彼女の中に流れ込んでくる。水晶の木々が輝き、空が紫織に語りかける。
(我らの皇よ……)
(統治したまえ……)
(我等と一つに……)
「やめて……!」
紫織が叫んだ。その声は、異界全体に響き渡る。
影たちが一斉に跪いた。
「皇の声……!」
「ついに目覚めた……!」
影の紫織が満足そうに微笑んだ。
「そう、それだ。それが皇の力。さあ、私と一つになろう。そして、真の皇として覚醒しよう」
影が紫織に手を差し伸べた。その手に触れれば、全てが終わる。苦しみも悲しみも、愛も憎しみも、全てが消えてしまう。
彰紋がその手を斬り払おうとしたが、動けない。異界そのものが彼を縛りつけている。
「紫織殿、だめだ!触れるな!」
紫織は影の手を見つめた。触れれば楽になる。全ての苦しみから解放される。
でも……それでは、彰紋との出会いも、愛も、全てが無意味になってしまう。
「私は……」
彼女はゆっくりと影の手を避け、彰紋の方へ一歩踏み出した。
「私は、不完全なままがいい。愛する人がいるから」
影の表情が歪んだ。
「愚かな選択だ。ならば……」
影の目が鋭く光る。
「強制的に融合するしかない」
瞬間、異界全体が動いた。地面が裂け、空が歪み、無数の影が紫織へと突進する。
「紫織殿!」
彰紋が必死に縛りを解こうとするが、動けない。影たちが紫織を取り囲み、彼女の体を黒い光で包み始める。
「離せ!離しなさい!」
紫織が抵抗するが、力は異界のものたちに吸い取られていく。
影の紫織が勝ち誇ったように笑う。
「さあ、完全になろう。そして、この異界の真の皇として――」
その時。
紫織の懐から、呼び鈴がひとりでに鳴り響いた。
「なに!?」
鈴の音が異界を揺るがす。現世との境界が、予定より早く開き始めた。
「戻る準備はまだ……!」
保憲の声が、鈴を通して聞こえる。
「今だ!戻れ!」
彰紋の縛りが解けた。彼は刀を振るい、紫織を取り囲む影たちを切り払う。
「紫織殿、行くぞ!」
「でも、鈴を鳴らしてから一日――」
「待っている間に殺される!今すぐ戻るしかない!」
彰紋が紫織の手を引き、光の道へ走り込む。背後から影たちが追ってくる。
「逃がすな!」
「皇を止めろ!」
光の道は次第に狭くなる。境界が閉じようとしている。
「もっと……早く……!」
彰紋が紫織を先に押しやる。
「先に行け!」
「でもあなたは!」
「私もすぐに続く!約束だ!」
紫織が光の中へ飛び込む。振り返ると、彰紋が影たちと戦いながら、ゆっくりと後退している。
「彰紋さま!」
「行け!」
境界が、ほとんど閉じる。
彰紋が最後の一歩で光の中へ飛び込もうとした瞬間――
影の紫織が彼の足を掴んだ。
「彼女だけは渡さない」
「離せ!」
境界が閉じる。
光が消える。
左大臣邸の地下祭祀場に、紫織だけが倒れ込んでいた。
「紫織殿!」有景が駆け寄る。
「彰紋さま……彰紋さまは?」
紫織が振り返るが、彰紋の姿はない。
境界は完全に閉じていた。
「いや……いやだ……彰紋さま……!」
紫織の悲鳴が、異界へと届くことはなかった。
影の紫織が、捕らえた彰紋を見下ろして微笑んでいる。
「さあ、現世の者よ。貴様を使って、彼女をまた呼び戻してやろう」
彰紋は縛られたまま、歯を食いしばった。
(紫織殿……決して戻ってくるな……)
しかし、彼の心の奥では、もう一つの想いがささやいていた。
(生きて……必ず戻る……貴女に会うために……)
異界の闇が、二人を完全に飲み込んだ。
賀茂保憲が陰陽寮の秘蔵の書物から、異界への入り方と戻り方を調べ上げた。それは「逆行の儀」と呼ばれる、通常の境界越えとは逆の原理を用いるものだった。
「通常、異界から現世へ来るには、境界の弱まった場所を利用する」保憲は地下祭祀場で説明した。「しかし、現世から異界へ行くには、境界そのものを『逆転』させねばならない」
紫織は白い修行衣を纏い、彰紋は軽い鎧を着込んでいた。二人の間には、決意に満ちた緊張が漂っている。
「逆転させるには?」彰紋が問う。
「強大な力の衝突が必要だ。つまり、異界からの力と現世からの力が、一点で激突するとき、その歪みを利用する」
保憲が祭壇の上に地図を広げた。
「この四つの封印点を、再び活性化させる。しかし今回は、異界からの侵攻を許すのではなく、我々から能動的に『呼びかける』」
「危険ではないか?」紫織が眉をひそめた。「また物の怪が大量に現れたら」
「危険であることは確かだ。しかし、その危険こそが扉を開く。異界の力が現世に流れ込む瞬間、その流れに逆らって泳ぎ上がるように異界へ入るのだ」
有景が補足した。
「最も危険なのは、異界に入った後です。時間の流れが異なり、現世の数時間が異界では数日に、あるいは逆に数瞬間に感じられるかもしれません。そして、異界そのものが生きているかのように、侵入者を排除しようとするでしょう」
彰紋は紫織の手を握った。
「戻る方法は?」
保憲が小さな鈴を二つ取り出した。
「この『呼び鈴』を携えて行く。異界でこれらを鳴らせば、現世の私たちが境界を一時的に開く。しかし、使えるのは一度きりだ。そして、鳴らしてから帰還できるまでには、異界時間でおよそ一日かかる」
「一日か……」彰紋が呟いた。
「その一日を、どう生き延びるかが勝負だ。そして、もう一つ重要なことがある」
保憲の表情が厳しくなる。
「紫織姫は、異界では『皇』として認識されるだろう。それは力になるが、同時に最大の危険にもなる。異界の住人たちが、姫を本物の皇として崇めようとするかもしれない。あるいは……偽物の皇として抹殺しようとするかもしれない」
紫織は自分の胸に手を当てた。その中には、半分だけ異界の魂が宿っている。かつてはそれを呪ったが、今は違う。この特別さが、愛する世界を守る力になるなら。
「わかりました。いつ始めますか?」
「三日後の満月の夜が最適だ」有景が答えた。「それまでに、体と心を整えておいてください」
その三日間、紫織と彰紋はほとんどを共に過ごした。
最後の日、二人は都を見下ろす丘に立っていた。夕陽が都を黄金に染め、遠くに大極殿の屋根が輝く。
「美しいですね」紫織が呟いた。「こんなに美しい場所を、闇に飲ませたくない」
「守り抜く」彰紋の声は静かだが、揺るぎなかった。「たとえ私の命を代償にしても」
「そんなこと言わないで」紫織が彰紋の腕にすがった。「二人で帰ってくるって約束したでしょう?」
彰紋は紫織を見つめ、そっと頬に触れた。
「あの日、貴女が記憶を失ったとき、私は絶望した。でも今は思う。たとえ記憶を失っても、魂は覚えているのだと。貴女の魂は、私を選び続けてくれた」
「彰紋さま……」
「異界で何が待っていようとも、一つだけ覚えていてほしい。私は貴女を愛している。千年の時を超えても、この想いは変わらない」
紫織は涙をこらえきれず、彰紋の胸に顔を埋めた。
「私も……ずっと愛しています。この世界に来て、一番の幸せは、あなたに出会えたことです」
夕陽が沈み、最初の星が輝き始めた。
満月の夜が来た。
四つの境界点には、陰陽寮の精鋭たちが配置された。桂川の河原には有景が、双ヶ丘には賀茂保憲が、船岡山には他の陰陽師たちが。そして左大臣邸の地下には、紫織と彰紋が立っている。
「準備はいいか?」保憲の声が通信鏡から聞こえる。
「はい」紫織が答える。手には呼び鈴をしっかり握っている。
「では、始める。私が合図を出す。それと同時に、四か所で結界を解放する。異界の力が流れ込んできたら、その瞬間に逆行の術を実行する」
緊張が張り詰める。
「今だ!」
四か所同時に、結界が解かれた。
最初は静かだった。しかし、すぐに地下の空気が震え始める。ろうそくの炎が激しく揺れ、祭壇の紋様が赤く輝く。
「来る」彰紋が刀に手をかける。
黒い渦が現れた。以前より大きく、深い。中からは、無数の影がうごめいている。
しかし今回は、影たちは襲ってこない。ただ、紫織を見つめている。その目には、畏敬と期待が混じっている。
「皇……ついに……お帰りに……」
「我らの皇……導きたまえ……」
紫織は一歩前に出た。
「私は、異界へ行く。道を開け」
影たちが道を空ける。渦の中心に、光の道が現れた。
「行こう」彰紋が紫織の手を握る。
二人は光の中へ歩み入った。
瞬間、周囲の景色が一変した。
左大臣邸の地下祭祀場は消え、代わりに歪んだ風景が広がっている。空は紫がかった黒で、地上には水晶のような植物が生え、遠くには逆さまに浮かぶ山々が見える。
「ここが……異界」
紫織の声が、不思議と響く。空気が濃く、言葉に重みがある。
彰紋が周囲を警戒する。
「生きている気配は?」
「たくさんいます。でも、遠くから見ているだけみたい」
確かに、水晶の森の影に、無数の目が光っている。しかし、それらは近づこうとしない。
紫織は胸の内を探った。ここに来てから、何かが変わった。体の奥底で、長く眠っていた何かが目覚めようとしている。
「あっ……」
突然、彼女の足元から光が広がった。地面に複雑な紋様が浮かび上がり、まるで歓迎されているかのようだ。
「これは?」
「皇の帰還を祝う印だ」
新しい声が響いた。振り返れば、人間の形をした影が立っている。しかし、その姿は紫織にそっくりだった。
「あなたは?」
「私は貴女の『影』だ。かつて切り離され、封印されたもの」
影は微笑んだ。その笑顔は、紫織のものと瓜二つだが、どこか冷たい。
「ようこそ、我が半身よ。長い旅だったね」
彰紋が刀を抜く。
「紫織殿を傷つけるな」
「傷つける?」影が首をかしげた。「なぜ傷つける必要がある?私は彼女を『完全』にするためにここにいる」
影は一歩近づいた。
「貴女は不完全だ。魂の半分だけが異界に属している。その不完全さが、苦しみを生む。私と一つになれば、全ての苦しみから解放される」
「一つになるって?」
「融合することだ。そうすれば、貴女は完全な異界の皇になる。現世の儚い感情に悩まされることもない」
紫織は彰紋の手を握りしめた。
「私は現世の感情を捨てたくない。愛する人がいるから」
「愛?」影が冷たく笑った。「それは不完全さが生む幻想だ。完全になれば、そんなものは必要ない。永遠の安らぎが得られる」
水晶の森から、次第に影たちが現れ始めた。紫織を囲むように。その数は数百、いや数千かもしれない。
「見ろ」影が腕を広げた。「我が民が貴女を待っている。本当の皇として」
彰紋は紫織を背後に隠した。
「退け!」
「愚かな現世の者よ」影の声が冷たくなる。「貴様は彼女を縛りつけている。彼女の真の可能性を閉ざしている」
「紫織殿は自分で道を選ぶ!」
「では、選ばせよう」
影が手を上げた。瞬間、紫織の頭が激しく痛んだ。
「あっ……!」
記憶が、否、記憶ではない。潜在能力が、眠っていた力が、一気に目覚めようとする。異界の皇としての力が。
「紫織殿!」
「大丈夫……私は……私でいるから……」
しかし、力はあまりに強大だ。周囲の異界そのものが、彼女の中に流れ込んでくる。水晶の木々が輝き、空が紫織に語りかける。
(我らの皇よ……)
(統治したまえ……)
(我等と一つに……)
「やめて……!」
紫織が叫んだ。その声は、異界全体に響き渡る。
影たちが一斉に跪いた。
「皇の声……!」
「ついに目覚めた……!」
影の紫織が満足そうに微笑んだ。
「そう、それだ。それが皇の力。さあ、私と一つになろう。そして、真の皇として覚醒しよう」
影が紫織に手を差し伸べた。その手に触れれば、全てが終わる。苦しみも悲しみも、愛も憎しみも、全てが消えてしまう。
彰紋がその手を斬り払おうとしたが、動けない。異界そのものが彼を縛りつけている。
「紫織殿、だめだ!触れるな!」
紫織は影の手を見つめた。触れれば楽になる。全ての苦しみから解放される。
でも……それでは、彰紋との出会いも、愛も、全てが無意味になってしまう。
「私は……」
彼女はゆっくりと影の手を避け、彰紋の方へ一歩踏み出した。
「私は、不完全なままがいい。愛する人がいるから」
影の表情が歪んだ。
「愚かな選択だ。ならば……」
影の目が鋭く光る。
「強制的に融合するしかない」
瞬間、異界全体が動いた。地面が裂け、空が歪み、無数の影が紫織へと突進する。
「紫織殿!」
彰紋が必死に縛りを解こうとするが、動けない。影たちが紫織を取り囲み、彼女の体を黒い光で包み始める。
「離せ!離しなさい!」
紫織が抵抗するが、力は異界のものたちに吸い取られていく。
影の紫織が勝ち誇ったように笑う。
「さあ、完全になろう。そして、この異界の真の皇として――」
その時。
紫織の懐から、呼び鈴がひとりでに鳴り響いた。
「なに!?」
鈴の音が異界を揺るがす。現世との境界が、予定より早く開き始めた。
「戻る準備はまだ……!」
保憲の声が、鈴を通して聞こえる。
「今だ!戻れ!」
彰紋の縛りが解けた。彼は刀を振るい、紫織を取り囲む影たちを切り払う。
「紫織殿、行くぞ!」
「でも、鈴を鳴らしてから一日――」
「待っている間に殺される!今すぐ戻るしかない!」
彰紋が紫織の手を引き、光の道へ走り込む。背後から影たちが追ってくる。
「逃がすな!」
「皇を止めろ!」
光の道は次第に狭くなる。境界が閉じようとしている。
「もっと……早く……!」
彰紋が紫織を先に押しやる。
「先に行け!」
「でもあなたは!」
「私もすぐに続く!約束だ!」
紫織が光の中へ飛び込む。振り返ると、彰紋が影たちと戦いながら、ゆっくりと後退している。
「彰紋さま!」
「行け!」
境界が、ほとんど閉じる。
彰紋が最後の一歩で光の中へ飛び込もうとした瞬間――
影の紫織が彼の足を掴んだ。
「彼女だけは渡さない」
「離せ!」
境界が閉じる。
光が消える。
左大臣邸の地下祭祀場に、紫織だけが倒れ込んでいた。
「紫織殿!」有景が駆け寄る。
「彰紋さま……彰紋さまは?」
紫織が振り返るが、彰紋の姿はない。
境界は完全に閉じていた。
「いや……いやだ……彰紋さま……!」
紫織の悲鳴が、異界へと届くことはなかった。
影の紫織が、捕らえた彰紋を見下ろして微笑んでいる。
「さあ、現世の者よ。貴様を使って、彼女をまた呼び戻してやろう」
彰紋は縛られたまま、歯を食いしばった。
(紫織殿……決して戻ってくるな……)
しかし、彼の心の奥では、もう一つの想いがささやいていた。
(生きて……必ず戻る……貴女に会うために……)
異界の闇が、二人を完全に飲み込んだ。
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