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七 戦い
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紫織が記憶を失ってから七日が経った。
彼女の生活は表面上、何事もなかったかのように戻っていた。十二単を纏い、和歌を詠み、貴族の姫としての振る舞いを覚え直す日々。ただ、彼女の目には以前の深い悲しみはなく、代わりに無邪気な好奇心が宿っていた。
「これは何という花ですか?」
庭で紫織が白い花を指さして尋ねた。彰紋がそっと答える。
「萩です。秋の七草の一つ」
「きれいですね。でも、なぜか胸が苦しくなる」
紫織は首をかすかに傾げた。記憶は消えても、身体はまだ闇との戦いの傷跡を覚えていた。
彰紋はその反応を見逃さなかった。有景が言っていた。記憶は封印されたが、感情の痕跡は残ると。紫織がかつて抱いていた痛みや愛は、まだ心の奥底で息づいている。
「紫織殿、少し散歩なさいますか?」
「ええ、良いですわ」
二人は渡殿を歩き始めた。紫織は彰紋のことを「彰紋様」と呼んでいた。かつての親しみは消え、礼儀正しい距離を保っている。それが彰紋の胸を締めつけた。
「紫織殿は、この世界をどう思われますか?」
「どうって?」
「慣れましたか?あるいは……どこか違和感はありませんか?」
紫織は足を止め、遠くの空を見つめた。
「時々、夢を見るのです。高い建物が立ち並び、光る箱が走っている夢。でも、目が覚めると、そんなものはどこにもない」
彼女は彰紋を見つめた。
「あの夢は、何ですか?」
彰紋は言葉を選んだ。
「それは……紫織殿がかつていた世界の名残かもしれません」
「私がかつていた世界?」
「はい。とても遠い、未来の世界です」
紫織は目を見開いた。
「未来?でも、私はここにいるのに」
「詳しいことは、また今度話します。今は――」
その時、急ぎ足で有景がやってきた。顔は青ざめている。
「彰紋様、紫織姫。緊急です」
「何事だ?」
「残る三つの境界点が、同時に活性化し始めました。桂川の河原、双ヶ丘、そして……ここ、左大臣邸の地下です」
「ここが?」
「はい。実はこの邸は、古くから異界との境界の一つでした。それを封じる結界が張られていたのですが、影切り術の影響で弱まっている可能性が」
彰紋の表情が硬くなった。
「いつまで持つ?」
「長くて三日。短ければ、今夜中にも」
紫織は二人の会話を聞き、不安そうに声をかけた。
「何か……悪いことが起きるのですか?」
有景は紫織を見つめ、覚悟を決めたように言った。
「姫君、真実をお話しします。姫君は異界からこの世界に来られました。そして今、異界の者たちが姫君を取り戻そうとしています」
「異界?私は……普通の人間では?」
「外見はそうです。しかし、姫君の魂の半分は異界に属しています。それゆえ、物の怪たちは姫君を『皇』として迎えようとしているのです」
紫織は自分の手を見つめた。確かに、時折、この体が自分のものではないような感覚があった。
「では、私は……誰なのですか?」
彰紋が紫織の前にひざまずき、彼女の目をまっすぐ見つめた。
「あなたは紫織だ。私が命をかけて守ると誓った女性だ。それ以上でも、それ以下でもない」
その言葉に、紫織の胸に温かいものが広がった。なぜか、この人の言葉だけは、深く心に響く。
「では……何をすれば良いのですか?」
有景が答えた。
「三つの境界点を同時に封印する術を行わねばなりません。そのためには、三人の術者が同時に術を実行する必要があります」
「三人?」
「私が桂川へ。賀茂保憲様が双ヶ丘へ。そして――」
有景は紫織を見つめた。
「姫君がここで術を行っていただきます」
「私が?でも、術など知りません」
「術は知らなくても構いません。必要なのは、姫君の『存在』そのものです。姫君がこの場所で決意を示すこと。異界に帰るのではなく、この世界に留まるという決意を」
彰紋が反対した。
「危険すぎる!紫織殿はまだ記憶も戻っていない!ましてや、ここが最も危険な場所だ!」
「それでも姫君でなければできません。姫君こそが、境界の『扉』なのですから」
紫織は黙って考えた。記憶はない。この世界についてもほとんど知らない。しかし、一つだけ確かなことがあった――彰紋が彼女を護ると言ってくれたこと。そして、彼女もまた、この人を護りたいと思うこと。
「私がやります」
「紫織殿!」
「だって」紫織はかすかに微笑んだ。「彰紋様が困っているから。それに……なぜか、これが私の役目だと思えるのです」
有景は深く一礼した。
「では、準備を始めます。今夜、新月の刻に術を実行します。それまでに、姫君には決意を固めていただかねばなりません」
夜が訪れた。
左大臣邸の地下には、古い祭祀場があった。石畳の床には複雑な紋様が刻まれ、中央には石の祭壇が設えられている。
紫織は白い単衣を纏い、祭壇の前に座った。周囲には有景が仕掛けた結界の札が貼られ、ろうそくの炎がゆらめいている。
彰紋は入り口に立ち、刀を構えている。
「私はここで護ります。絶対に何者も通しません」
「彰紋様」
「なんですか?」
「もし……私が異界に引きずり込まれそうになったら、どうしますか?」
彰紋はためらわず答えた。
「私もついて行きます。どこへでも」
その言葉に、紫織の目に涙が光った。なぜこんなに胸が熱くなるのだろう。この人を、もっと昔から知っているような気がする。
「時が来ました」
有景が言った。手には、桂川と双ヶ丘とを結ぶ通信鏡を持っている。
「保憲様、準備はよろしいですか?」
鏡の中の賀茂保憲がうなずく。
「では、始めます。紫織姫、祭壇の中央に手を置き、心を静めてください。そして、ただ一つ思ってください――『私はこの世界に留まる』と」
紫織は目を閉じた。
(私はこの世界に留まる)
最初は何も起こらなかった。ただ、ろうそくの炎が少し大きく揺らめいただけだ。
(私はこの世界に留まる)
次第に、祭壇の紋様が微かに光り始めた。青白い光が、紋様の線を伝って広がっていく。
(私はこの世界に――)
突然、地下の空気が歪んだ。
「来た!」有景が叫んだ。
祭壇の真上に、黒い渦が現れた。中から、無数の手が伸びてきて、紫織を掴もうとする。
「紫織殿、手を離すな!」彰紋が叫ぶ。
紫織は目を閉じたまま、祭壇に手をつき続けた。冷たい手が彼女の腕を掴み、引きずり込もうとする。痛みではない。虚無に飲み込まれるような、深い恐怖。
「私は……この世界に……留まる……!」
「姫君、その調子です!」有景が術を続けながら励ます。
通信鏡から賀茂保憲の声が聞こえる。
「双ヶ丘、異常なし!術は順調!」
有景が自らの鏡を見る。
「桂川も順調!」
しかし、黒い渦は次第に大きくなる。中から、より多くの手、より多くの影が現れる。
「異界の皇よ……還れ……」
「我らの元へ……還れ……」
囁き声が紫織の心に直接響く。甘く、魅惑的だ。苦しみも悲しみもない世界へ。全てを忘れて安らかに眠れる世界へ。
(そうか……ここへ行けば、この胸のわからない痛みも消えるのか……)
紫織の手が、ほんの少し、祭壇から離れそうになる。
「紫織殿!」
彰紋の声が、彼女を現実に引き戻した。
「覚えていてくれ!たとえ記憶がなくても、私がお前を愛していることを!」
その瞬間、紫織の胸に熱いものがこみ上がった。
(愛している……?)
(この人が……私を……?)
突然、頭の中で何かが破裂した。
――月明かりの下、二人で立っている。
――都の町を馬で駆け抜ける。
――「私も、彰紋さまが好きです」
記憶の破片が、洪水のように流れ込んできた。
「あ……!」
紫織の目が開いた。目には、かつての深い輝きが戻っている。
「彰紋……さま……」
「紫織殿?記憶が?」
「少し……戻ったみたい」
紫織は黒い渦を見つめ、今度は力強く宣言した。
「私はこの世界に留まる!愛する人がいるこの世界に!」
祭壇の光が爆発的に強くなった。青白い光が黒い渦を押し戻し、手を焼き払う。
「不可能……!」
「皇が……拒む……!」
影たちが悲鳴を上げて渦の中へと引き込まれていく。
同時に、通信鏡から賀茂保憲と有景の分身の声が響く。
「双ヶ丘、封印完了!」
「桂川、封印完了!」
有景が最後の印を結ぶ。
「左大臣邸、封印――完了!」
黒い渦は光に飲み込まれ、消えていった。祭壇の光も次第に収まり、地下には静寂が戻る。
紫織は崩れるように倒れそうになったが、彰紋が駆け寄り、彼女を支えた。
「大丈夫か?」
「ええ……ただ、少し疲れただけ」
紫織は彰紋の顔をまっすぐ見つめた。
「覚えています。あなたが私に求愛した夜のこと。月がとてもきれいだった」
彰紋の目に涙が浮かんだ。
「全部……戻ったのか?」
「全部ではないけれど、大事なことは。あなたを愛していること。この世界に留まりたいこと」
有景がほっとしたように息を吐いた。
「成功です。三つの境界点は封印されました。これでしばらくは、異界からの侵攻は防げるでしょう」
しかし、彼の表情はまだ晴れない。
「ただし、これは一時的な措置に過ぎません。完全に境界を修復するには、異界そのものに行き、源を断たねばならないかもしれません」
「異界へ?」紫織が尋ねた。
「はい。そしてそれは、姫君を導き手として」
彰紋の腕に力がこもった。
「危険すぎる」
「危険であることは承知しています。しかし、このままではいつか再び異界の侵攻は始まるでしょう。それに――」
有景は紫織を見つめた。
「姫君の魂の半分はまだ異界にあります。完全な人間として生きるためには、あの半分を取り戻すか、あるいは……」
「あるいは?」
「異界の皇として覚醒するか」
紫織は黙った。彰紋の腕の中で、彼女は考えた。
逃げ続けることはできない。この世界を守りたい。愛する人を守りたい。
ならば、戦わなければ。
「行きます」紫織は静かに言った。「異界へ。そして、決着をつけに」
彰紋は彼女を見つめ、やがてうなずいた。
「ならば、私もついて行く。約束だ」
二人の手がしっかりと結ばれた。記憶が戻った今、その絆は以前よりも強く、深いものになっていた。
有景は二人を見つめ、深く一礼した。
「では、準備を始めましょう。異界への旅は、命がけです。覚悟はできていますか?」
紫織と彰紋は顔を見合わせ、微笑んだ。
共に答える必要はなかった。その目が全てを語っていた。
闇との最終決戦への旅が、今、始まろうとしている。
彼女の生活は表面上、何事もなかったかのように戻っていた。十二単を纏い、和歌を詠み、貴族の姫としての振る舞いを覚え直す日々。ただ、彼女の目には以前の深い悲しみはなく、代わりに無邪気な好奇心が宿っていた。
「これは何という花ですか?」
庭で紫織が白い花を指さして尋ねた。彰紋がそっと答える。
「萩です。秋の七草の一つ」
「きれいですね。でも、なぜか胸が苦しくなる」
紫織は首をかすかに傾げた。記憶は消えても、身体はまだ闇との戦いの傷跡を覚えていた。
彰紋はその反応を見逃さなかった。有景が言っていた。記憶は封印されたが、感情の痕跡は残ると。紫織がかつて抱いていた痛みや愛は、まだ心の奥底で息づいている。
「紫織殿、少し散歩なさいますか?」
「ええ、良いですわ」
二人は渡殿を歩き始めた。紫織は彰紋のことを「彰紋様」と呼んでいた。かつての親しみは消え、礼儀正しい距離を保っている。それが彰紋の胸を締めつけた。
「紫織殿は、この世界をどう思われますか?」
「どうって?」
「慣れましたか?あるいは……どこか違和感はありませんか?」
紫織は足を止め、遠くの空を見つめた。
「時々、夢を見るのです。高い建物が立ち並び、光る箱が走っている夢。でも、目が覚めると、そんなものはどこにもない」
彼女は彰紋を見つめた。
「あの夢は、何ですか?」
彰紋は言葉を選んだ。
「それは……紫織殿がかつていた世界の名残かもしれません」
「私がかつていた世界?」
「はい。とても遠い、未来の世界です」
紫織は目を見開いた。
「未来?でも、私はここにいるのに」
「詳しいことは、また今度話します。今は――」
その時、急ぎ足で有景がやってきた。顔は青ざめている。
「彰紋様、紫織姫。緊急です」
「何事だ?」
「残る三つの境界点が、同時に活性化し始めました。桂川の河原、双ヶ丘、そして……ここ、左大臣邸の地下です」
「ここが?」
「はい。実はこの邸は、古くから異界との境界の一つでした。それを封じる結界が張られていたのですが、影切り術の影響で弱まっている可能性が」
彰紋の表情が硬くなった。
「いつまで持つ?」
「長くて三日。短ければ、今夜中にも」
紫織は二人の会話を聞き、不安そうに声をかけた。
「何か……悪いことが起きるのですか?」
有景は紫織を見つめ、覚悟を決めたように言った。
「姫君、真実をお話しします。姫君は異界からこの世界に来られました。そして今、異界の者たちが姫君を取り戻そうとしています」
「異界?私は……普通の人間では?」
「外見はそうです。しかし、姫君の魂の半分は異界に属しています。それゆえ、物の怪たちは姫君を『皇』として迎えようとしているのです」
紫織は自分の手を見つめた。確かに、時折、この体が自分のものではないような感覚があった。
「では、私は……誰なのですか?」
彰紋が紫織の前にひざまずき、彼女の目をまっすぐ見つめた。
「あなたは紫織だ。私が命をかけて守ると誓った女性だ。それ以上でも、それ以下でもない」
その言葉に、紫織の胸に温かいものが広がった。なぜか、この人の言葉だけは、深く心に響く。
「では……何をすれば良いのですか?」
有景が答えた。
「三つの境界点を同時に封印する術を行わねばなりません。そのためには、三人の術者が同時に術を実行する必要があります」
「三人?」
「私が桂川へ。賀茂保憲様が双ヶ丘へ。そして――」
有景は紫織を見つめた。
「姫君がここで術を行っていただきます」
「私が?でも、術など知りません」
「術は知らなくても構いません。必要なのは、姫君の『存在』そのものです。姫君がこの場所で決意を示すこと。異界に帰るのではなく、この世界に留まるという決意を」
彰紋が反対した。
「危険すぎる!紫織殿はまだ記憶も戻っていない!ましてや、ここが最も危険な場所だ!」
「それでも姫君でなければできません。姫君こそが、境界の『扉』なのですから」
紫織は黙って考えた。記憶はない。この世界についてもほとんど知らない。しかし、一つだけ確かなことがあった――彰紋が彼女を護ると言ってくれたこと。そして、彼女もまた、この人を護りたいと思うこと。
「私がやります」
「紫織殿!」
「だって」紫織はかすかに微笑んだ。「彰紋様が困っているから。それに……なぜか、これが私の役目だと思えるのです」
有景は深く一礼した。
「では、準備を始めます。今夜、新月の刻に術を実行します。それまでに、姫君には決意を固めていただかねばなりません」
夜が訪れた。
左大臣邸の地下には、古い祭祀場があった。石畳の床には複雑な紋様が刻まれ、中央には石の祭壇が設えられている。
紫織は白い単衣を纏い、祭壇の前に座った。周囲には有景が仕掛けた結界の札が貼られ、ろうそくの炎がゆらめいている。
彰紋は入り口に立ち、刀を構えている。
「私はここで護ります。絶対に何者も通しません」
「彰紋様」
「なんですか?」
「もし……私が異界に引きずり込まれそうになったら、どうしますか?」
彰紋はためらわず答えた。
「私もついて行きます。どこへでも」
その言葉に、紫織の目に涙が光った。なぜこんなに胸が熱くなるのだろう。この人を、もっと昔から知っているような気がする。
「時が来ました」
有景が言った。手には、桂川と双ヶ丘とを結ぶ通信鏡を持っている。
「保憲様、準備はよろしいですか?」
鏡の中の賀茂保憲がうなずく。
「では、始めます。紫織姫、祭壇の中央に手を置き、心を静めてください。そして、ただ一つ思ってください――『私はこの世界に留まる』と」
紫織は目を閉じた。
(私はこの世界に留まる)
最初は何も起こらなかった。ただ、ろうそくの炎が少し大きく揺らめいただけだ。
(私はこの世界に留まる)
次第に、祭壇の紋様が微かに光り始めた。青白い光が、紋様の線を伝って広がっていく。
(私はこの世界に――)
突然、地下の空気が歪んだ。
「来た!」有景が叫んだ。
祭壇の真上に、黒い渦が現れた。中から、無数の手が伸びてきて、紫織を掴もうとする。
「紫織殿、手を離すな!」彰紋が叫ぶ。
紫織は目を閉じたまま、祭壇に手をつき続けた。冷たい手が彼女の腕を掴み、引きずり込もうとする。痛みではない。虚無に飲み込まれるような、深い恐怖。
「私は……この世界に……留まる……!」
「姫君、その調子です!」有景が術を続けながら励ます。
通信鏡から賀茂保憲の声が聞こえる。
「双ヶ丘、異常なし!術は順調!」
有景が自らの鏡を見る。
「桂川も順調!」
しかし、黒い渦は次第に大きくなる。中から、より多くの手、より多くの影が現れる。
「異界の皇よ……還れ……」
「我らの元へ……還れ……」
囁き声が紫織の心に直接響く。甘く、魅惑的だ。苦しみも悲しみもない世界へ。全てを忘れて安らかに眠れる世界へ。
(そうか……ここへ行けば、この胸のわからない痛みも消えるのか……)
紫織の手が、ほんの少し、祭壇から離れそうになる。
「紫織殿!」
彰紋の声が、彼女を現実に引き戻した。
「覚えていてくれ!たとえ記憶がなくても、私がお前を愛していることを!」
その瞬間、紫織の胸に熱いものがこみ上がった。
(愛している……?)
(この人が……私を……?)
突然、頭の中で何かが破裂した。
――月明かりの下、二人で立っている。
――都の町を馬で駆け抜ける。
――「私も、彰紋さまが好きです」
記憶の破片が、洪水のように流れ込んできた。
「あ……!」
紫織の目が開いた。目には、かつての深い輝きが戻っている。
「彰紋……さま……」
「紫織殿?記憶が?」
「少し……戻ったみたい」
紫織は黒い渦を見つめ、今度は力強く宣言した。
「私はこの世界に留まる!愛する人がいるこの世界に!」
祭壇の光が爆発的に強くなった。青白い光が黒い渦を押し戻し、手を焼き払う。
「不可能……!」
「皇が……拒む……!」
影たちが悲鳴を上げて渦の中へと引き込まれていく。
同時に、通信鏡から賀茂保憲と有景の分身の声が響く。
「双ヶ丘、封印完了!」
「桂川、封印完了!」
有景が最後の印を結ぶ。
「左大臣邸、封印――完了!」
黒い渦は光に飲み込まれ、消えていった。祭壇の光も次第に収まり、地下には静寂が戻る。
紫織は崩れるように倒れそうになったが、彰紋が駆け寄り、彼女を支えた。
「大丈夫か?」
「ええ……ただ、少し疲れただけ」
紫織は彰紋の顔をまっすぐ見つめた。
「覚えています。あなたが私に求愛した夜のこと。月がとてもきれいだった」
彰紋の目に涙が浮かんだ。
「全部……戻ったのか?」
「全部ではないけれど、大事なことは。あなたを愛していること。この世界に留まりたいこと」
有景がほっとしたように息を吐いた。
「成功です。三つの境界点は封印されました。これでしばらくは、異界からの侵攻は防げるでしょう」
しかし、彼の表情はまだ晴れない。
「ただし、これは一時的な措置に過ぎません。完全に境界を修復するには、異界そのものに行き、源を断たねばならないかもしれません」
「異界へ?」紫織が尋ねた。
「はい。そしてそれは、姫君を導き手として」
彰紋の腕に力がこもった。
「危険すぎる」
「危険であることは承知しています。しかし、このままではいつか再び異界の侵攻は始まるでしょう。それに――」
有景は紫織を見つめた。
「姫君の魂の半分はまだ異界にあります。完全な人間として生きるためには、あの半分を取り戻すか、あるいは……」
「あるいは?」
「異界の皇として覚醒するか」
紫織は黙った。彰紋の腕の中で、彼女は考えた。
逃げ続けることはできない。この世界を守りたい。愛する人を守りたい。
ならば、戦わなければ。
「行きます」紫織は静かに言った。「異界へ。そして、決着をつけに」
彰紋は彼女を見つめ、やがてうなずいた。
「ならば、私もついて行く。約束だ」
二人の手がしっかりと結ばれた。記憶が戻った今、その絆は以前よりも強く、深いものになっていた。
有景は二人を見つめ、深く一礼した。
「では、準備を始めましょう。異界への旅は、命がけです。覚悟はできていますか?」
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