紫のゆかり、君に逢いたく

永田英晃

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六 異界への扉

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船岡山は闇に飲まれていた。

彰紋が駆けつけた時、山麓はすでに陰陽師たちの結界で囲まれていたが、その光は次第に闇に蝕まれつつあった。山肌から湧き出る黒い瘴気は、木々を枯らし、岩を腐らせていく。

「彰紋様、こちらです!」

安倍有景の弟子の一人が手を振った。顔には疲労と焦りの色が濃い。

「状況は?」

「師たちは山中へ入りましたが、連絡が途絶えてから一時間以上経ちます。瘴気が強すぎて、式神も戻ってきません」

彰紋は山を見上げた。頂上付近では、闇が渦を巻き、時折稲妻のような不気味な光が走っている。

「いくつの物の怪が?」

「数えきれません。山中から絶え間なく湧き出しています。これまでに見たどの物の怪よりも強力で、陰陽術すら通じないものも」

彰紋は刀の柄を握りしめた。

「私は入る。援護してくれ」

「でも、彰紋様お一人では――」

「待てない。紫織殿が宮中で危険にさらされているかもしれない。一刻も早くこの異変の源を断たねば」

彰紋は結界の裂け目から山中へと飛び込んだ。

闇はすぐに彼を包み込んだ。空気は重く、甘い腐敗臭が鼻を突く。足元には枯れた草が、触れるだけで粉々に崩れていく。

「賀茂殿!安倍殿!」

呼びかけるが、応答はない。代わりに、闇の奥から無数のざわめきが返ってくる。物の怪たちの声。

突然、前方から黒い影が襲いかかってきた。彰紋は瞬時に刀を抜き、一閃。影は両断され、黒い煙となって消散する。

だが、すぐにまた次の影が。

「くっ……!」

次々に現れる物の怪たち。彰紋は刀を振るい続けたが、数の前にじりじりと押されていく。

その時、背後から声がした。

「彰紋様、こちらへ!」

振り返れば、賀茂保憲が岩陰から手を振っている。服は破れ、額から血を流していたが、命に別状はなさそうだ。

彰紋は物の怪の群れを切り抜け、岩陰へと駆け込んだ。

「保憲殿、無事だったか!」

「かろうじて。だが、有景ら三名が山中の祠に閉じ込められている。瘴気の源はあの祠だ」

保憲が指さす先に、ぼんやりと古びた祠の輪郭が見えた。周囲は特に濃い闇に包まれ、無数の物の怪がうごめいている。

「あの祠が境界点か」

「そうだ。そして、今まさに、境界が破られようとしている。あの黒い渦が見えるか?あれが、異界への扉だ」

彰紋は息を呑んだ。渦は次第に大きくなり、中には異形の世界がちらついている。

「これを止めるには?」

「祠の中の『核』を破壊しなければならない。だが、あの物の怪の数では近づくことすら難しい」

彰紋は考えた。そして、あることを思い出した。

「紫織殿の足首の跡……あれは物の怪を引き寄せる『目印』だと有景は言っていた」

「そうだ。だが、なぜ今それを?」

彰紋の目に決意の光が走った。

「ならば、逆に利用できないか?私が紫織殿の血でもって物の怪を引きつけ、その隙に保憲殿が祠に入る」

「馬鹿な!そんなことをすれば、貴様は瞬時に物の怪に囲まれる!」

「それでも試す価値はある」

彰紋は懐から小さな壺を取り出した。中には、紫織が以前、傷から流した血を保存していた。

「これは……!」

「陰陽術のためのものだと有景から預かっていた。今こそ使う時だ」

保憲は彰紋の顔をじっと見つめた。

「そこまでして、なぜ?彼女は異界の者だ。都の異変の原因かもしれない」

「彼女は原因ではない」彰紋の声は静かだが、揺るぎなかった。「彼女はただの犠牲者だ。そして、私は彼女を護ると誓った」

「お前、彼女に心を許したな」

「愛している」

その言葉に、保憲は目を見開いた。やがて、深いため息をついた。

「ならば、止めはしない。だが、覚悟はできているか?生きて帰れる可能性は低い」

「紫織殿に会うまでは死ねない」

彰紋は壺の蓋を開け、中身を自分の刀に塗りつけた。紫織の血が刀身に染み込むと、微かに光り始めた。

「では、行く」

彰紋は岩陰から飛び出し、刀を高く掲げた。

「来い!異界のものたちよ!これがお前たちが求める者の血だ!」

刀の光が闇を切り裂く。同時に、山中のすべての物の怪が、一斉に彰紋の方へ向きを変えた。

「あああああ――!」

「血……異界の血……!」

無数の物の怪が彰紋に殺到する。彼は刀を振るい、斬りまくった。一撃ごとに物の怪は消散するが、すぐに次のものが埋めてくる。

「保憲殿、今だ!」

「承知した!」

保憲が結印を組み、風の術で物の怪の群れをかき分けながら祠へと駆け込んだ。

彰紋は孤軍奮闘していた。傷が増える。左肩に深い爪痕。右足に咬みつかれた傷。それでも彼は立ち続けた。

(紫織殿……少しだけ、待っていてくれ)

その時、祠の中から保憲の叫び声が聞こえた。

「核を見つけた!だが、これは――!」

次の瞬間、祠が破裂した。

光と闇が入り混じった衝撃波が山全体を揺るがす。彰紋は吹き飛ばされ、岩に背中を打ちつけた。

「がはっ!」

血の味が口に広がる。視界が揺らぐ中、彼は見た。

崩壊する祠の中から現れたのは、巨大な水晶のようなものだった。中には、黒くうごめく影が封じられていた。

そして、その水晶の表面に映っているのは――

紫織の顔だった。

「な……なに……?」

保憲が叫んだ。

「この核……姫君の『影』だ!姫君自身が、異界との境界を弱めている!」

「そんな……馬鹿な……」

だが、彰紋にもわかった。水晶の中の影は確かに紫織に似ている。目を閉じ、苦悶の表情を浮かべている。

(もしや……あの黒い跡が……)

足首の跡。手の甲に広がる黒い筋。全ては、紫織自身が異界への扉になりつつあったことを示していた。

物の怪たちの攻撃が突然止んだ。彼らは一斉に水晶の方へ向かい、跪き始めた。

「皇……皇の目覚め……」

「我らの皇……ついに……」

彰紋は理解した。紫織を狙っていたのは、彼女を異界に連れ戻すためでも、力を利用するためでもない。

彼女を、異界の皇として覚醒させるためだった。

「くそ……!」

彰紋は立ち上がろうとしたが、足がもつれる。失血がひどい。

保憲が彼の傍らに駆け寄った。

「動けるか?今のうちに撤退するのだ!」

「でも、紫織殿が――」

「姫君は宮中にいる!これは彼女の『影』に過ぎない!だが、この影が完全に覚醒すれば、姫君自身も闇に飲まれる!」

保憲が彰紋を支え、下山し始めた。背後では、物の怪たちが水晶を取り囲み、暗黒の儀式を始めている。

「わかった……宮中に戻ろう」

彰紋は歯を食いしばった。どんなに傷ついていようとも、紫織の元へ戻らなければならない。

一方、宮中では――

紫織は部屋の中で震えていた。突然の激しい痛みが全身を駆け巡ったからだ。胸が締めつけられ、息ができない。

「姫君!どうなさったのですか!」

縁が駆け寄ったが、紫織は言葉を発せなかった。視界が赤く染まり、耳元で無数の声が囁く。

(還れ……還れ……)

(我らの皇よ……)

(異界は君を待っている……)

「や……めて……!」

紫織は床に倒れ込み、体を丸めた。手の甲の黒い跡は、今や肘まで達していた。そして、その黒さはますます濃くなっている。

扉が勢いよく開いた。

「紫織殿!」

彰紋だ。血まみれで、歩くのもやっとなのに、彼は紫織の元へたどり着いた。

「彰紋さま……苦しい……体中が、燃えるように……」

「しっかりしろ!今、船岡山で見たことを話す」

彰紋は保憲の報告を簡潔に伝えた。紫織の影が核となっていること。彼女が異界の皇として覚醒させられようとしていること。

紫織は目を見開いた。

「私が……すべての原因?」

「違う。お前は操られているだけだ」

彰紋は紫織の手を握った。

「有景が言っていた術を教えてくれ。どんな危険でも構わない。お前を救う術を」

紫織はうなずき、有景を呼んだ。

有景が現れ、ためらいながら語り始めた。

「一つだけ……『影切り』の術があります。姫君の影を本体から切り離し、封印する術です。しかし――」

「しかし?」

「影を切り離すということは、姫君自身の魂の一部を失うことになります。記憶が欠落するかもしれません。あるいは、感情の一部が失われるかもしれません」

彰紋の顔が強張った。

「他に方法は?」

「境界を完全に修復し、異界への扉を閉じることです。そのためには、四つの境界点すべてで同時に術を行わねばなりません。しかし、今の状況では不可能です」

「ならば」紫織がかすれ声で言った。「影切りをして」

「姫君!」

「このままでは、私が完全に闇に飲まれて、みんなを傷つけてしまう。それよりは……記憶を失うほうがまし」

彰紋は紫織を見つめた。彼女の目に、もはや迷いはない。

「わかった」彰紋は言った。「しかし、一つ条件だ。私がお前の記憶の全てを、新たに刻み直す。たとえお前が忘れても、私が覚えているから」

紫織の頬を涙が伝った。

「ありがとう」

有景は深く息を吸い、必要な道具を取り出し始めた。

「術を行うには、最も強い結界が必要です。そして、二人の深い絆が。影を切り離す際、姫君の魂が散り散りにならぬよう、彰紋様が魂の『錨』とならねばなりません」

「どうすれば良い?」

「姫君の手を握り、決して離さぬこと。そして、姫君が記憶している最も強い想いを語り続けること」

彰紋は紫織の両手をしっかりと握った。

「準備は良いか?」

紫織はうなずいた。

有景が術を開始した。部屋中に光の紋様が浮かび上がり、紫織の影が床から立ち上がるように伸び始めた。

痛みが襲う。骨が引き裂かれるような。

「紫織殿、しっかり!私はここにいる!」

彰紋の声が、痛みの海の中で唯一の浮き輪だった。

「覚えているか?初めて会った日。私がお前を『異界の者』と見抜いたこと」

「うん……」

「覚えているか?都の町を案内した夜。お前が未来の話をしてくれたこと」

光が強くなる。影がはっきりと形を現し、紫織そっくりの像が床に立っている。

「覚えているか?月の下で、互いの想いを伝え合ったこと」

「覚え……ている……」

「忘れるな。たとえ術の後で思い出せなくても、心のどこかで覚えていてくれ」

影が完全に分離した。有景が封印の術を唱え、影は光の玉に包まれて小さくなり、壺の中に封じ込まれた。

同時に、紫織の体から力が抜けた。

「紫織殿!」

彼女の目は虚ろだった。彰紋の顔を見つめているが、そこにはかつての輝きがない。

「あなたは……だれ?」

その一言で、彰紋の胸が張り裂けそうになった。

有景がそっと肩に手を置いた。

「成功です。影は封印されました。姫君の命に別状はありません。しかし……」

「記憶が……」

「時間と共に戻るかもしれません。あるいは、戻らないかもしれません」

彰紋は紫織の手を握りしめた。温もりはある。心臓は鼓動している。しかし、彼女の中の彼女が、今はここにいない。

「大丈夫」

彰紋は微笑んだ。涙が頬を伝っているのに。

「たとえ千年かかっても、私はお前の記憶を取り戻させる。もう一度、私のことを思い出させてみせる」

紫織はきょとんとした表情で彼を見つめ、やがて、かすかに微笑んだ。

「なぜか……あなたの声を聞くと、安心する」

それだけで十分だった。

外では、黒雲が少しずつ薄れ始めていた。異界への扉は、まだ完全には閉じていない。しかし、少なくとも今は、時間を稼ぐことができた。

彰紋は誓った。

全ての境界を修復し、異界への扉を閉じる。そして、紫織が元の世界に帰るべきか、この世界に留まるべきか、その選択を彼女自身にさせてやると。

そのためには、まだ戦わねばならない。もっと強くならねばならない。

闇との戦いは、まだ終わっていない。
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