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漢字一文字タイトルシリーズ №5 「翅」

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 私が勤務する刑事課盗犯係に、絵手紙が届いた。それは蝶を描いたものだが、左右の翅一枚一枚の模様が異なっている。蝶はともかく昆虫の場合、翅は4枚で構成されている。
 詳細は追い追い説明するとして、この絵手紙の差出人は半年前、私が取り調べた高齢の窃盗犯だった。刑事は唯でさえ犯罪者から忌み嫌われているのに、律儀にも連絡をくれるとは意外にも思えた。文面に「今は穏やかに日々を送っています」と記されていた。絵と文の内容が不一致ではあるが、この差出人には盗みを働いた奥深い背景があった。
 
 差出人は当時、県内の百貨店で開催された昆虫特別博覧会の物販コーナーで、時価8万円もする蝶の標本を万引きした。それは確かに蝶で間違いないのだが、先ほども述べた通り翅が同一の種でないことが判然としていた。さすが供述調書に適当なことを書くわけにはいかないので、大学から専門家を呼び鑑定してもらった。するとこの様な状態を「雌雄モザイク」と言い、性染色体に異常が発生した際に、既存の統一性を維持しないアンバランスな様相を呈している。この標本の場合、右上の翅がナガサキアゲハのメスで白地に黒い条。右下の翅がナミアゲハの雌。そして左半分の上下がクロアゲハのオスで、ほぼ漆黒だ。
 
 さて本題である。この老人が何故、標本を万引きしたかである。大概この手の場合は、生物に興味が強い未成年層がやりそうだと想定される。しかし、動機が気になる。尋ねると、
「あいつに、恥をかかせてやりたかった」
と答えが返ってきた。自身のしたことを棚の上において、恥をかかせてやりたかったとは、まったく洒落になっていない。さらに聞くと、この標本の作成者は老人の旧友で中学生から大学まで、有名私立に通っていたらしい。サークル活動も生物関連のものでまさに竹馬の友だった。そんなに仲が良かったはずなのに、わざわざ盗みを働いたのか? 盗みを働いてまで、敢えて旧友の尊厳を失墜させたかったのか? 

 その友人は大学卒業して3年後、昆虫の研究が進んでいる台湾の大学に研究員として招聘され、そのまま就職した形になった。やがて幾星霜が過ぎ、現在は現地の教授に就任しているとのこと。一方、この老人は大学を卒業し、中学の理科教師を約10年勤めていたが、就任当時のいわゆる「荒れる学校」問題で、番長グループの生徒たちに手を焼き心身ともに疲弊し、やがて離職。以降は予備校で教鞭を執っていた。その間、学校の教師として戻る様に、教育委員会から懇願されていたが、キッパリと断っていた。定年退職してからは、僅かな年金と退職金で生活していたとのこと。かつての旧友と自信を比べて、日に日に卑屈になり今回の犯行に至ったのであろう。老人は盗んだ事実も認め、供述調書を係長に提出し後は送検するだけとなった。
 だが翌日になり地検から、不起訴処分の通達を受けた。意外と言えば意外だった。その理由を係長から訊くと、初犯で充分に反省している面、釈放後その旧友に対し謝意があることが考慮されてとのことだったらしい。その老人は故郷の熊本県へ帰郷した。

 そして現在、私は老人からの絵手紙を見ていた。察するところ、穏便に暮らし最近始めたであろう趣味の絵手紙を描いて、楽しんでいることだろう。
 そこで係長から唐突にも、
「君もこの老人と、同じ心境を経験しているんじゃないかね?」
 当初、何を言われたのか理解できず絶句した。だが時間が経つに連れ、心当たりを感じていた。かつて小学校から高校まで、仲の良かった友人が私にもいた。部活も野球部で決して強豪校とは言えないが、部員約30人の中でいつも、レギュラーに選ばれていた。しかも将来警官になることを夢見て、念願は叶った。
 だがそれからだった。経歴は省くがその友人は他方面の警察署長で、階級は警視正。かく言う私は盗犯係の主任で、巡査部長に落ち着いている。この現実を感じ、彼に対して敬遠しているのも事実だ。またこの絵手紙の題材でもある「雌雄モザイク」の様に、同じ翅と言う共通項で繋がっているのに、対照的な立ち位置に存在していると改めて思った。もし友人に会う機会があったら、それこそどの面を下げて、赴けばいいのか躊躇っていた。
 
 夜の帳が降り家路に向かう最中、私の携帯電話にメールが届いた。送信者は例の友人だった。
 メールボックスを開くと、
「ずいぶんご無沙汰してます。如何お過ごしでしょうか? 今度、屋台で一杯やりませんか?」
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みんなの感想(1件)

藤森馨髏 (ふじもりけいろ)

うわあ、どうしましょう。続きが気になるので栞を挟んでおきますね🎵

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