万華の咲く郷

第五章

第五十七夜 【月と落人】

　網代あじろが部屋を訪ねた翌日から、朱理しゅりは再びその名を吉原中に轟とどろかせた。

　暫しばらく姿を見せなかった所為せいで様々な憶測が飛び交っていた為、混乱を収束させる意味を込めて盛大な花魁道中が度々、行なわれた。
　復帰した朱理は滞とどこおっていた古馴染みから新馴染み、新規まで全ての客を短期間で完璧に捌さばき切った。
　自由時間である16時から18時も休まず客の相手をし、昼見世ひるみせも14時からのところを、場合によっては12時前に見世を出ている。

　そうして、あっという間に番付は大関おおぜきへと返り咲き、新規の予約数が倍増するまでに至った。
　吉原内は熱に浮かされ、皆が惚ほうけた様に朱理の名を口にして、流行病さながらの様相を呈ていしている。
　正に吉原ここは今、完全に彼の庭となっていた。

　復帰以降、その壮絶な人気と極める多忙に、万華郷の娼妓しょうぎらは朱理と口をきくどころか、姿すら殆ほとんど見かけない始末である。
　新造たちは軒並み朱理の名代みょうだいへ持って行かれ、顧客を持つ暇も無い。
　帰る客は口々に素晴らしい、完璧だ、あんな太夫はふたりと居ない、と褒めそやし、三日と空けずに来る者ばかりである。

「一体、どうなってやがる……」

　のぼせ上がって帰って行く客達を見送りながら、黒蔓くろづるは苦々しく眉根を寄せていた。

「以前から大変な人気でしたが、少し間あいだが空いた事で、良い刺激となったのでは？」
「いや、違うな。これはそんなんじゃない。何奴どいつも此奴こいつも骨の髄まで蕩とろけてやがって、正気の沙汰じゃないぞ。まるで病気だ」
「良よい事ではありませんか。見世の名は広まる一方いっぽう、朱理太夫の顧客は二割増、待機のご新規様で向こう三ヶ月は埋まっております」

　東雲しののめの抑揚の無い報告を聞き流し、黒蔓は舌打ちする。東雲はちらりと黒蔓を見遣ると、更に感情の無い声で問うた。

「一体、何がそんなにご不満なのですか。彼の仕事振りは以前にも増して素晴らしく、見世の売上は鰻うなぎのぼり。陸奥むつ太夫の穴埋め以上の利益が出ています。お望み通りではありませんか」
「…………」

　黒蔓は即座に東雲が怒っている事を察した。違うのだと、こんな状況を望んだ訳ではないのだと言いたかったが、部下にそんな弱音を吐く訳にもいかず、押し黙る。

　部屋から出て来たあの日、数日振りに見た朱理はまるで別人だった。
　元々、妖艶さと異質な存在感が魅力の人物だったが、更に拍車がかかり、無数の蛇が纏まとわりつく様な色気の影を落とす。
　そして独特の目付きと笑い方、声音、話し方は、脳髄のうずいに響く艷なまめかしさを帯びていた。
　以前の朱理に、そんな物は無かった。確かに掴み所の無い妖しさはあったが、その実、非常に純粋で無邪気な人物だった筈だ。
　隙が無い、と言うのが最も近いだろう。気を抜くと、影の様に伸びる蠱惑に足元を掬すくわれる様な、ある種の恐怖すら覚える。
　一体、陸奥と何があったのか。自分はとんでもない間違いを犯してしまったのではないか。
　腹の底から這い上がる吐き気に似た厭な予感は、朱理の名声が上がれば上がる程、増していく様だった。

　ちょうどその時、揚屋あげやから客を伴ともなった朱理が戻ってきて大玄関を潜る。
　つい先程、座敷から客を送り出したばかりだと言うのに、またかと黒蔓は眉を顰ひそめた。ここ最近、朱理の客は揚屋などただの待ち合わせ場所とばかりに、直すぐさま座敷へ上がるのだ。
　ぴったり身体を寄せ合い、朱理の肩を抱いているのは篁たかむらである。通りすがりに、こんな会話が聞こえて来た。

「それにしてもお前、どうして突然、雲隠くもがくれしていたんだ？　随分、心配したんだぞ」
「嗚呼……ちょっと怪我しちゃってねェ」
「大丈夫か？　何があった？」
「ハハッ、もう大丈夫だよ。ただ……〝い・ぬ・に咬まれた〟だけの事サ」
「危ないな。犬も致命傷を与えかねん。大した事が無くて良かったよ」
「ふふ、ありがと。寂しい思いさせてごめんねェ、篁サン」
「ああ、とても寂しかったからな。会えなかったぶん、今夜はたっぷり埋め合わせしてもらおう」
「アハハッ！　やーらしー！」

　遠ざかって行くその声を聞きながら、黒蔓はぐっと拳こぶしを握り締めた。
　犬に噛まれた、と言ったのは態わざとだろう。それも自分へ向けて、当て付けて言ったに違いない。
　黒蔓の〝狗いぬ〟に噛まれたのだと。そしてその言葉は〝どうでも良い事、瑣末さまつな事〟の意を持つ物である。

「……どうでも良かったなら、お前はどうしてそうなったんだよ……」

　ぽつりと呟かれた黒蔓の独語は、夜見世の喧騒けんそうに掻き消えていった。

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「……もう行くのか？」
「んー。そろそろ風呂入って支度しなきゃ。今日もちょっと早く出るからサ」

　11時半。中庭の一角にある、楼主宅の寝室にて。
　広いベッドから起き上がった朱理は、兎毛ともうのロングローブを引っ掛けながら答えた。後ろから腕を回され、逞たくましい胸板に閉じ込められる。

「風呂くらい、此処ここで入って行けば良いじゃないか。一緒に入ろう。いっそ、ずっと此処から通えば良い。部屋なら貸すほど余ってるんだ」
「アハハ、無茶むちゃ言わないでよ。ただでさえ朝、部屋に戻ってない事バレてるんだよ？」
「俺は別に構わないぞ。皆に大声で言って周りたいくらいだ」
「もぉ、ほんとに可愛いなァ、賢剛けんごうさんは」

　朱理は背後を仰あおぐ様に顔を向け、その首元に口付けながら笑った。
　二人が関係を持ったあの日から、ほぼ毎日、朱理は客を見送ると自室へは戻らず、こうして網代の家で寝起きしている。

「……そろそろ陸奥が帰ってくるから、また暫く来られない。今朝、連絡入ってた」
「はぁ……またか。厭だなぁ……」
「仕方ないよ。狗いぬっころにご褒美あげるのも、俺の仕事だからね」
「お前にそんな事をさせるなんて、黒蔓の奴は一体、何を考えているのやら……。俺にはもう、さっぱり分からんよ」
「全ては見世の為サ。賢剛さんは、何も心配しなくて良いんだよ」

　相変わらず出突でづっ張ぱりの陸奥は、時折、見世に戻ったかと思うと、また出るまでの間、決まって朱理を囲かこうのだ。朱理が自室で過ごすのは、今やその時だけである。
　以前の様に痕あとをつける事は無くなったが、相変わらず譫言うわごとの様に愛してると囁かれ続けている。
　網代は朱理の頤おとがいへ指を添えて上を向かせ、口付ける。腹に回された男らしい腕は温かく、愛おしそうに抱き締めてくるその仕草を、朱理は割と気に入っていた。

「お風呂、一緒に入ろっか」
「ああ」

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　13時。支度を整えた朱理が玄関へ向かっていると、伊まりと鉢合はちあわせた。

「よぉ、朱理。なんや、えらい久し振りに顔見た気ぃするわ。また早出はやでか？」
「おはよォ。もうすぐ彼奴あいつが戻って来るからさ。その前に詰め込んどかないと、後が面倒だからね」
「ったく、なんなん？　なんでお前が彼奴の性欲処理したらなアカンわけ？」
「さァ？　それが遣手のご意向とあらば、従うしかないでしょ」
「あーあ、気持ち悪ぅてしゃーないな。お前もあんまエエ子しとったら、そのうち頭おかしなるで」
「はッ……ンなのとっく……全ては見世の為さ」
「お前──」
「おーい、朱理ー。車まわしたぞー」

　僅わずかに眉を顰ひそめて言葉を濁した朱理に、伊まりが身を乗り出した時、玄関口から網代の声が響いた。

「はァい、行きまーす。それじゃ、お先に」

　ひらひらと手を振って階段を降りて行く朱理の背を見送りながら、伊まりは苦々しく顔を歪めて舌打ちした。

「……なんやアレ」
「何が見世の為だか、無理しちゃって。痛々しくって見てらんないねぇ」

　背後の座敷から出て来た香づきが、伊まりに並んで大玄関を見下ろす。

「最近、楼主はやたら猫可愛がりやしな。痒かゆなるわ」
「妙だよねぇ、突然。まぁ、依怙贔屓えこひいきが遣手から楼主に代わっただけなんだけどさー」
「阿呆、全然ちゃうやろが。ここんとこ、彼奴が笑っとるとこ見た事あるか？」
「あの貼り付けたみたいな薄ら笑い以外にって意味なら、もう覚えてないよ」
「あー、堪らん、堪らん。こんな気色悪い事、いつまで続くんやろな」
「さあ……何かが壊れるまでじゃないの」

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　揚屋あげやへ向かう車中、朱理は窓枠に肘を付き、運転する網代を眺めていた。

「楼主自ら送り迎えなんて、しなくていいって言ってるのに」
「俺がしたいんだよ。厭か？」
「そんなワケないでしょ。運転してる賢剛さん見るの、好きだし」
「照れるからあんまり見るなよ」
「アハハッ。ホント、可愛いったらないんだからァ」

　笑いながら視線を窓の外へ移す。見事だった桜並木は、既に青々とした葉桜になっており、季節は人の思惑とは無縁に移ろっている。

──つい数週間前、共に見た桜は美しかった。
　澄み渡る空と、降り注そそぐ陽光が眩しかった。指先の温ぬくみは確かだった。
　その瞬間までは。
　あの日の反照はんしょうと、愛し合っていた筈の日々は、いつの間にか跡形もなく失せてしまった。
　残ったのは〝見世の為〟という言葉だけになった。
　今思えば、哀情あいじょうと愛情を、何処かで取り違えていたのかもしれない。
　もう何も伝えられない、もう元には戻れない。その意向に従う事でしか、繋がる事が出来なくなった。
　それでも必死に息を継ぐのは、全て見世あのひとの為なのだ──