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最終章
第九十八夜 【丸い三角】
しおりを挟む午前2時半。なんの前触れも無く、朱理の部屋の襖が開いた。
陸奥が首をかしげてそちらを見ると、不機嫌を隠そうともしない表情で、黒蔓が立っていた。陸奥は皮肉っぽく口角を上げて問う。
「早かったですね。もう上がりですか?」
「急いだんだよ。お前こそ、いつまで居るんだ。早く部屋へ戻れ」
あからさまに邪魔くさそうに言われ、陸奥はやれやれと嘆息した。
「そう急かさなくても良いじゃないですか。心配しなくても、なにもしてませんって」
「そんなの見たら分かるわ。良いから出てけ」
「だって俺が動くと起こしそうだし、もう今夜は諦めたらどうです? たまには添い寝くらい、譲って下さいよ」
「お断りだね。おい朱理、起きろ」
「……ぅ……んん……」
痺れを切らした黒蔓が朱理へ声を掛けると、呻き声を上げながら陸奥の腕の中で身動ぎした。
しかし、一向に起きる気配は無く、逆に抱き締めている陸奥の胸に頬擦りをしながら丸くなり、更に眠りを深くしている。
まるで猫のようなその有様に、黒蔓は苛苛するやら心配になるやらで、深く溜め息をついた。
「まったく、つけ込むお前もお前だと思ってたが、そいつも大概だな。平静で居られるお前、すごいわ」
「でしょ? こんな可愛い姿見せられて手を出さないのなんて、俺くらいですよ」
黒蔓は、大口を叩くなと言いかけたが、代わりにふんと鼻を鳴らして目を逸らせた。
「まぁ、そこだけは認めてやる。そういうお前だからこそ、最大限、譲歩してやってるってことを忘れるなよ」
「はいはい」
黒蔓は諸々を諦めて、珈琲の準備をし始めた。陸奥はその姿に目を細めて問う。
「……その習慣、どっちが先に始めたんですか?」
「なにが」
「珈琲ですよ、仕事終わりの」
「先も後も無い。たまたま同じ癖があっただけだ」
「ふぅん……。本当、厭になるくらい価値観が相似してますねぇ」
「せいぜい、無益な嫉妬心に苛まれろ。お前にとっちゃ、貴重な体験だろ」
あまりに朱理を依怙贔屓するため、忘れがちだが、黒蔓は娼妓たち全員をよく見て、それぞれの性質を理解している。陸奥も例外ではなく、朱理さえ知らない陸奥の心情をも、見通しているのだ。
そうこうしていると、陸奥の横にある文机に、湯気のたつマグが置かれた。
「砂糖やらは自分で勝手に入れろ。そこまでしてやる義理はねぇからな。飲んだら出ていけよ」
「うわ、まじか。吃驚した。まさか遣手に珈琲を淹れてもらう日が来ようとは」
「最初で最後だからな。味わって飲め」
「どうせなら朱理に淹れて欲しいところだけど、まぁ、これはこれで悪くない。重ね重ね、貴重な経験をどうも」
「なんだその上からな物言いは。ガキのくせに腹立つな」
「すいませんねぇ、若くって」
「若くはねぇだろ」
「まだ30代ですし。貴方よりは若いですしおすし」
「しね」
軽口を叩き合い、黒蔓は陸奥の反対側に腰を下ろして煙草を吹かす。こんなに穏やかな時間が流れるのは、部屋主のお陰か、と陸奥は二人の間で眠る朱理を見遣った。
しばしの沈黙の後、陸奥は静かに呟く。
「……こんなことを続けていれば、いつか知られますよ。今だって危ういのに、どうするつもりですか」
「どうもしもねぇよ。元より覚悟のうえだ」
「貴方がそんな怪我を負い、恋人を差し出してまで守った見世に、まったく未練は無いと?」
「無いね。怪我はともかく、こいつを差し出したわけじゃねぇ。てめぇが勘違いしてただけだ」
「へえ……。じゃ、ゴシップ誌にでもリークしちゃおうかな。万華郷、遣手と大関の熱愛発覚。しかも新旧般若太夫のカップルだなんて、新たな伝説の誕生ですよ。きっと、吉原は蜂の巣を突いた大騒ぎになる。しばらく楽しめそうじゃありませんか」
嫌味を含んだ陸奥の言葉を鼻で笑って、黒蔓は紫煙を吐いた。
「お前はそんなこと、絶対しねぇよ」
「……なぜそう言い切れるんです。分かりませんよ? 手負いの獣は凶暴ですから」
「よく言う。お前は吉原の誰より利口な獣だからな。自分で自分の首を絞めるような真似、するわけ無いだろ」
ふう、と煙を吐いて陸奥は黙った。どうやら自分の憶測は、間違っていなかったと解ったからだ。
黒蔓と朱理の仲は、少し引っ掻き回せばすぐに壊れると思っていたが、前回の件から得た結果は真逆だった。
──踠き、足掻き、苦しみに喘ぐ朱理は美しかった。
自責と絶望に打ち拉がれる黒蔓を見るのは、とても愉快だった。
しかし、それも一時だった。
半年も経たぬうちに、二人はより深い絆で結ばれ、眼前に存在している。まるで、折れた骨が以前より強靭になって戻ったがごとくに。
人の心は容易く離れ、壊れるものだと。縁など、蜘蛛の糸より脆いものだと、たかをくくっていた。
それが唯一の誤算だった。そして、取り返しのつかない失敗となった。
あの時がこの十年でただ一度、彼を手に入れられる好機だったというのに、やり方を間違えてしまったのだ。
ようやく見つめ返してくれた瞳に、名を呼んでくれる声に、縋ってくる腕に舞い上がり、偽りの幸福と気付いていながら、酔い痴れてしまった。
結果がこれだ──
「ああ、厭だ厭だ。なんでも知ってる女王様と、なにも知らないお姫様のタッグだなんて、最強過ぎるでしょ。王道過ぎてつまんないでしょ、世間的に」
「他所は他所、うちはうちだ。大体、世間的に言ったら、なんでもできる王子様と、皆を虜にするお姫様のほうが王道だろ」
「そう思うのなら、王道ルートを下さい」
「断る。王道過ぎちゃ、つまらないんだろ?」
陸奥は言い返す言葉をなくして、むっつり顔を晒す。誰より甘やかされている朱理でさえ、黒蔓との論争は避けるのだ。少なくとも今の吉原に、黒蔓を言い負かせる者は居ない。
「……近々、揚げ足取りの黒蔓ってふたつ名が流行りますから、覚悟しといて下さいね」
「じゃ、お前のは悲恋の冷帝だな」
「なにこの人、めちゃくちゃうざい」
皮肉を言い合っていると、二人の間からくぐもった笑い声が上がった。
「意外と仲良いよね、貴方たちって」
「やっと起きたのか、寝坊助」
「おはよ、朱理」
唸りながら伸びをして、朱理が体を起こす。名残り惜しげにまとわり付いてくる陸奥の腕をすり抜け、黒蔓へ凭れ掛かった。
「お帰り、志紀さん」
「ただいま」
抱き合いながら口付ける二人をじとりと見遣って、陸奥は非難がましい声を上げた。
「ちょっと、俺がまだ居るんですけど。しかも、いつの間に名前呼び?」
「教えない。つーか、なんでまだ居るの?」
「えぇ……寝こけてたお前を支えてた人に対して、その言い方は酷くない?」
「そもそも、普通に抱き起こしてベッド入れりゃ、支えてなくても良かっただろ」
「そーだ、そーだ。人の寝顔見て興奮してたんだろ、この変態」
黒蔓はもちろん、朱理も口から産まれたと言われるほどだ。そのうえ、ぴったり息が合っている。陸奥は頭痛がするように額を押さえた。
「ちょっと待って、多勢に無勢過ぎる。あんたら一人で五人分くらい口達者なんだからね」
「お前に言われたくない」
揃ってたたみかけられ、陸奥は深く溜め息をついた。
「……なんかどっと疲れた……」
「なら、さっさと部屋帰って寝ろ」
「窶れた顔もいなせだねぇ、男前。良い夢見ろよー」
「はいはい……。まったく、生き生きしやがって、腹立つな」
けらけらと笑って手を振る朱理たちを睨み、陸奥は腰を上げる。ふと、自分も自然と口角が上がっていることに気付いた。
──欲しくて欲しくて堪らない人に選ばれなくても。自分以外の誰かと、仲睦まじく寄り添っていても。こうして穏やかに笑い合っていられる。
そう、こんな日々が続くのも、確かに悪くないのだ──
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