万華の咲く郷【完結】

四葩

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最終章

第九十九夜 【芽吹いた夜】

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 それは10年前。晩秋から初冬にかけての、ちょうど今頃だった。まったくの偶然に、彼らは出逢った。そして、互いの双眸そうぼう隻眼せきがんかれ合ったのだ。
 その年、朱理しゅりはやりたい仕事も無く、内定はおろか、単位さえ危うい状態で、かろうじて大学を卒業した。
 就職した友人たちが仕事に慣れてきた頃の、ある夜。おごるから、久し振りに遊ばないかと声をかけられた。ふらふらと就職浪人を続けていた朱理は、ふたつ返事でそれを受けた。その選択が今後、いかに己の人生を左右するかなど、知る由も無く。
 同夜、黒蔓くろづる全楼ぜんろう懇談会に出席していた。
 遣手になって1年も経たない新参しんざんには風当たりもきつく、風貌と経緯いきさつが輪をかけて、好奇の目に晒される。毎月のことにうんざりしながら、仲之町通りを徒歩で見世へと戻っていた。
 色街が浮き彫りになる夜の吉原を歩いていると、道端みちばたの木製ベンチに座る青年に目が止まった。細身の色白で、器量はそこそこだが、強い存在感を放っている。それこそが朱理だった。
 白シャツの上にライダースジャケットを羽織り、黒いサルエルパンツ、中折れ帽子をかぶって、肩に大判のストールを巻きつけ、寒そうに煙草を吹かしている。
 張見世はりみせむらがって、楽しげな同年代の男たちを不機嫌そうに見遣る様子から、不本意に連れて来られたのだろう、と黒蔓は踏んだ。事実、遊びに行く先が吉原だったとは、朱理も知らなかったのだ。
 赤提灯に照らされた朱理の顔の横で、どこからか飛んで来たしゃぼん玉が、ぱちんとはじけた。その瞬間、頭を上げた朱理と黒蔓の目が合う。二人はしばらく見つめ合っていたが、やがて黒蔓が朱理の側へ歩み寄り、短く声を掛けた。

「隣、良いか?」
「どうぞ」

 はしへ寄った朱理の隣に腰掛け、黒蔓もたもとから新しい煙草を取り出して火を点ける。それからまたしばらく、無言で煙草を吹かしていた。
 ぽつりと黒蔓が問い掛ける。

「吉原は初めてか?」
「いえ、二度目です。と言っても、前回は見世にも入らず帰っちゃったんですけどね。もしかして俺、浮いてますか?」

 彼の人懐っこい返答に、黒蔓は小さく笑った。

「浮いてると言うより、目立ってる。この街じゃ、不機嫌そうなやつは珍しいからな」
「いやぁ、俺、金無いんで。遊郭にもあんまり興味無いし。寒いわ待たされるわで、ちょっと苛々いらいらしてたかも」

 無邪気に笑う顔は幼さが残っているが、どこか達観たっかんしているようにも見える。朱理の黒蔓を見る目には、好奇も警戒も無い。無防備なようでいて、絶妙な隙の無さもうかがえる。黒蔓は彼に、表現し難い魅力を感じた。
 黒蔓は、この不思議な青年を欲しいと思った。その感情をのちにどう自覚するか、どれほど己に影響を与えるかなど、やはり黒蔓さえ、知る由も無かったのだ。
 しかし、見世に欲しいとは言え、どう切り出したものかと行き交う人々を眺めながら考えていると、朱理が先に口を開いた。

「吉原で働いてるんですか?」
「ああ、そうだ」
「もしかして、カタギじゃない人?」
「見世の関係者だ。これでも、一応、カタギのつもりだが、外から見れば同じかもしれんな」

 くく、と喉の奥で笑う黒蔓に、朱理は慌てて小さく頭を下げた。

「ごめんなさい。たまにそういう人から声掛けられるから、てっきり貴方もかと。失礼しました」
「気にするな。そう思われるのには慣れてる」
「面白いなぁ。雰囲気はちょっと怖いけど、話すと優しいんですね。しかも、すごく綺麗だ」

 黒蔓は、朱理の言葉に一瞬、隻眼を見開いた。綺麗だと言われたのは、怪我を負って以来、初めてだったと気付く。なんとなく気恥しいのを誤魔化すように、黒蔓は新しい煙草を咥えた。

「そっちこそ、見た目の割に落ち着いてるな。幾つだ?」
「23です。若く見えます?」
「いや、はっきり言って年齢不詳だよ」
「よく言われるんですよね、それ」

 愉快そうに笑うのを見て、ちょっとやそっとでは動じない程度に、様々な経験をしてきたのだろう、と黒蔓は納得した。若いがきもの座りが良い、見込みのある男だと思いながら立ち上がる。

「名前は? 俺は黒蔓」
土生はぶみです」
「下の名は?」
「朱理」
「土生 朱理、か。良い名だ。仕事はしてるか?」
「恥ずかしながら、就職浪人って言うか……ほとんど引きニートですね」
「じゃ、うちに来い」
「え?」
「無理にとは言わんが、お前はきっと、吉原一の太夫になる。俺の直感は結構、当たるぞ」

 黒蔓は朱理に薄く微笑わらいかけ、黒い絹手袋をしている右手を差し出す。一瞬、怪訝な顔をした朱理だったが、ほぼ反射的にその手を取っていた。
 朱理は、なぜあっさりそんな行動に出たのか、自分でも分かっていない。それまでスカウトや黒服の勧誘は、すべて断ってきたのだが、不思議と差し出された手をこばむ選択肢は、無かったのだ。
 初めて触れた絹の冷たさとなめらかな感触は、何年経ってもよく覚えている。その手がすぐに温かくなったことも、黒蔓の満足そうな笑みも、なにもかもが鮮明だ。
 反対に、あれほど五月蝿うるさかった喧騒や雑踏、肌を刺す寒さは、まったく覚えていない。ただ、黒蔓の手を取った瞬間だけが切り取られ、脳裏に焼き付いている。
 それが、二人の運命が静かに動き始めた、冬の気配がする夜であった。
 そうして朱理は、あれよあれよと万華郷へと連れてこられた。
 見世の規模や豪奢な内装、働く娼妓しょうぎの美しさを目の当たりにして、逃げ出したくなった時には既に遅く。更に、声を掛けてきたのが、実質この見世の最高権力者であったことも輪を掛けて、朱理の肝胆かんたんさむからしめた。
 肩身の狭い思いで縮こまる姿を、黒蔓が愉快そうに微笑わらう。

「そう萎縮するな。お前は、この俺のスカウトだぞ? もっと自信を持て」
「い、いやぁ……そう言われましても……。俺、場違いすぎませんか? くるわのしきたりとか、仕事内容とか、完全に無知ですし……。つとまりませんって、こんな立派なとこで……」
「問題無い。最初は皆、そうだ。俺がみっちり叩き込んでやるから、安心しろ」
「は、はぁ……」

 とんでもないことになった、と青ざめる朱理へ、新造の和泉いずみ東雲しののめが、少し離れた所から憐憫の眼差しを送っていた。

「遣手が直々に引っ張って来るなんて、驚いた。可哀想にな、あいつ」
「それだけ、見込みがあるということでしょう。しかし見たところ、吉原にさえ慣れていない様子ですが、大丈夫なのでしょうか……」
「さぁな。駄目ならすぐ出て行くだろ。売られたわけじゃないんだし」
「ええ……。それにしても、あの方は相変わらず、無茶をされますね……」

 いっぽうその頃、上手太夫かみてだゆう蝶二ちょうじ宇昆うこんは、階段の手摺りにもたれて、にんまりと口角を吊り上げていた。
 蝶二は鶴城つるぎの、宇昆は冠次かんじの兄太夫である。この二人は、歴代の太夫の中でも、群を抜く自由人で、途方も無く破天荒なのだ。

「黒蔓のやつ、またすげぇ変り種を仕入れたもんだな。さすが般若だぜ」
「へーえ、なにあの存在感。まだ二十歳はたちそこそこ? 美味そうじゃないの」

 宇昆が妖艶に唇を舐めていると、蝶二が顎で下を指す。

「見ろよ、宇昆。お前んとこの新造、ガチで目の色変えてやがる。こりゃ、面白いことになりそうだぜ」
「あーあー……。冠次に目ぇ付けられるなんて。大丈夫かね、あの子。冠次って淡白に見えて、意外と粘着だからなぁ」

 心配そうな言葉とは裏腹に、宇昆の声音には愉悦が混じっている。

「しっかり首輪しとけよ? 俺が一番乗りするんだからな」
「はー? ふざけんな、俺が先だっつーの」

 この自由人たちは、かなり捻くれた遊びを好むため、もっぱら管理職の頭痛の種だ。
 太夫らの好奇の眼差しと、新造たちの期待と憐憫の混ざった視線の中、また違った目で朱理を見つめる人物が居た。言うまでもなく、陸奥むつと冠次である。
 陸奥はこの時、初めて恋というものを知った。文字通りのひと目惚れだった。冠次も同様に、朱理を見るなり、その異質な存在感にちたのだ。
 そうして、一晩のうちに、あっさりと朱理の就職が決まったのだった。
 翌日には、それまで住んでいたマンションから引っ越し、新造用の座敷がてがわれた。朱理の着物や、生活に必要な細々こまごまとした物は、すべて兄貴分の黒蔓がまかなった。
 このときすでに、和泉らより上等な物が多く与えられ、誰の目にも明らかな依怙贔屓えこひいきが始まっていたが、当時の朱理は、そんなことに気付く余裕などなかった。
 朝となく夜となく、娼妓とはなんたるかを叩き込まれる、怒涛どとうの日々が始まったのだ。

「今日も可愛いねぇ、朱理ちゃん。お掃除してるのー?」
「あ、宇昆さん、お疲れ様です! お邪魔してすみません」
「全然、邪魔じゃないよー。分からないことはない? お兄さんがー、手取り足取り腰取り、イロイロ教えてあげるよー?」

 新造の日々は忙しい。特に、皆より遅く入楼した朱理は、短期間で様々なことを覚えねばならないため、一日のほとんどを稽古と勉強に費やし、合間に掃除などの雑用をこなす。そこへ、隙あらば口説こうと寄ってくるのが、宇昆と蝶二だ。

退け、宇昆。カビ臭い台詞せりふ吐いてるオッサンはほっといて、あっちでダベらねぇ? 楽しませてやれると思うぜ」
「有難うございます、蝶二さん。まだ掃除が残ってるので、今日は遠慮します」
「じゃ、手伝ってやるよ。早く終わらせて休憩しようぜ」
「ずっりぃぞ、蝶二! 俺も手伝うー!」
「いえ、大丈夫です! 太夫のお手を煩わせるわけには、いきませんから!」

 魂胆が見え透いていて、もはや邪魔でしかない蝶二らにも、朱理は素直に受け答えしていた。

「いーから、いーから。あー、あの部屋の掃除ってまだ? 先にやっちゃおーよ」
「おお、あそこなら暗くてあんま人も来ないし、ちょうど良いな。ナイスだぜ、宇昆」
「そこって物置ですよね? ちょうど良いってなに……」
「あははー、何でもないから気にしないでー。ほら、入った入った」

 まだ客あしらいも知らない朱理が、危うく野獣二人に連れ込まれかけたところへ、怒りを孕んだよく通る声が響く。

「てめぇら、朱理から離れろ」
「げっ、黒蔓ぅ……」
「あと一歩だったのに、惜しかったな」

 苦笑する宇昆と、悪びれもしない蝶二に、黒蔓は深く嘆息した。

「まったく、油断も隙もねぇな。さっさと仕事に行け、馬鹿どもが。お前もお前だぞ、朱理。これから娼妓になろうって奴が、あっさり流されてんじゃねーよ」
「ごめんなさい」

 このように、隙あらばつまみ食いしようと狙う自由人コンビから守るのも、黒蔓の新たな仕事となった。
 太夫らは、朱理がいつまで持つか、賭けたり冷やかして面白がっていたが、慣れぬ芸事げいごと寝屋ねやでの立ち回りに右往左往しつつも、結局、朱理がを上げることは無かった。
 最初の三ヶ月ほどは、失敗続きで愚痴ばかりこぼしていたが、和泉やけい菲らが献身的に慰め、支えてくれた。和泉と朱理が親しくなったのも、この日々がきっかけである。
 黒蔓も教育こそ厳しかったが、朱理への接し方は、周囲が眉をひそめるほどの猫可愛がりだったため、なんとか山場を乗り切ることができたのだった。
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