九段の郭公【完結】

四葩

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3章

29【冷静と狂気と艶羨】※

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──かすかな違和感。それはきっと、ここまで近しい者にしか分からない、ほんの僅かなほころび。

「ンっ……ぁあッ! ぐ、ぅ……ッ!」

 内部へ押し入った時、いや、触れた瞬間に感じた、他人の気配。ここ最近なかったはずのそれに、思わず顔をしかめた。
 また、始まったのか。
 初めて気付いた時、気が狂うかと思うほど動揺した。単純な嫉妬心とは違う、これまで味わったことのない絶望感と敗北感にさいなまれた。それはほとんど、憎しみに近い感情だった。
 それでも無理矢理、狂気をはらの中へ抑え込んだ。長くは続かないと、知っていたから。どす黒い憎悪を抱えながら、それでも笑って過ごしていた。
 あの日、廊下でうずくまる璃津りつを見つけた時は、湧き上がる喜びで踊り出しそうになった。ようやく己の腕の中で眠った彼に、心の底から充足感に満たされ、狂気も去った。嬉しくて仕方がなかった。
 匂いも、形も、自分しか映さない体へと上書きするように、何度も何度も抱いた。
 それなのに、いつのまに、いつから……そうだ、引っ越してからだ。そうか、そういうことか……。

「ッぐ……アァア゙ッ! ヒ、イ゙ッ……!」

 わざと乱暴に突き上げ、痛みで歪む顔に口角が上がる。これは要するに、八つ当たりだ。
 バディだからといって、恋人ではない。プライベートに口を出す権利も、縛る権利もない。そうしているのは、紛れもなく自分たちだ。それでも、起こる感情はどうしようもなくて。
 腹立たしくも、親密な存在を主張してくる第三者。まずは匂い。吸わなくなったはずの紙タバコ、今までと違うシャンプー、香水の移り香。そして体。髪に隠れたうなじや、太腿の付け根の赤い跡。開口部の感触。
 気付かないとでも思っているのか。気付かれても良いと思っているのか。
 怒りを通り越して、いっそ嗤える。どうして、そこまでして縛っておきたいのか。いつかは終わると、知っているくせに。いつか離れるものだと、本当は分かっているくせに。
 その時、この可哀想で可愛い子は、完全に堕ちてくれるのかもしれない。
 そうしたら大事にしまいこんで、毎日、愛を囁いてやるのだ。お前の居場所はここにしかないのだと、言い聞かせてやるのだ。どこにも出さないで、俺の腕の中だけで、生きながら死んでいるように。
 いつか必ず、そんな日が来る。夢や願望ではない。それが俺たちの誓約だ。
 だからもう一度、この狂気を呑み込むのだ。何度だって、いくらだって呑み込んでやる。幸福など仮初めだと、俺だけは理解しているのだから。

「……はぁッ、璃津……大好きだよ……」

 そう、この世の何より大切で、大好きな人。ぐちゃぐちゃに壊してあげたいほどに。
 そうだ。その仮夢が終わった時には、本物の夢を見せてあげなければ。突き上げて、揺すぶって、締めあげて。
 お前が本物の夢に満足したら、次はその体を自分の物にするのだ。血の一滴も残さずに。名実ともに、俺の中で生きるお前になる。
 そうしてやっと、俺たちの悲願は成就する。

「……カ、はッ……ぁ……ぅ、ぐ……」

 分かっている。お前の望みを叶えられるのは俺だけ。理解できるのも俺だけ。逆もしかりだ。俺の望みを叶えられるのも、理解できるのもお前だけ。
 だからお互い、もう少しだけ、仮初めに生きていても良いさ。偽物の夢を見ていても良いさ。いつか来るその時のために、いつもこの手を緩めるのだから……──

「────ゲホゲホッ、っ、ぐ、ふぅッ……! んン──……っ!」

──ようやく締められていた気管を解放され、呼吸を再開して咳込む。
 その息さえ逃しはしないとでも言うように、顎を掴まれて無理矢理、唇を塞がれる。
 目尻に溜まった生理的な涙を舌ですくわれ、酸欠でぼんやりする意識の中、酷く満足そうな長門ながとの笑みを見た。
 どうかしている、気持ち悪いと思われるだろう。そんなことは、嫌というほど分かっている。でも、だからこそ俺の中には、確かな充足感と安心感が産まれるのだ。おかしいのはお互い様なのだと、もう12年も確かめ合っている。
 そして今、どんな人物が介入しようと、この関係にはなんの影響も及ぼさないと、証明されたのだ。匂いも、体の痕も、何もかも、わざと知らせていた。気付いてもなお、狂気を呑み込んで笑う姿は、本当に期待通りだった。胸が張り裂けそうなほど嬉しかった。
 俺達は多分、どちらかが死ぬか殺すかするまで、離れられないのだろう。この密やかで切実な期待が理性を上回った時、ようやく俺はすべて曝け出せるのだろう。
 そうしたらきっと、この男は俺の満足する形で、完璧にして完全に、狂った願いを叶えてくれるのだ。同時に、彼の求めて止まない切願も叶うのだろう。
 それまでもう少し、この退屈なうつつを生き流れていく。手に入れた玩具をもてあそび、飽きたら壊してしまいながら……──

「なに笑ってるの、璃津」
「なんでもないよ、長門」

 朝夷と丹生の正気と狂気の狭間は、少しずつ融合し、やがて境をなくす時を静かに願い、待っている。狂った2人の織り成す歪な愛情を、まだ誰も知らない。



「お久し振りです、長門兄さん。璃津さんも、一層お美しくなられたようで」

 その日、特別局には珍しい客人が訪れていた。朝夷 陸奥むつ、長門の異母弟だ。

「うわぁ、陸奥さん久し振りー。相変わらず、覇者オーラが半端ないね」

 兄に引けを取らぬ、彫りの深い完璧な容姿。程よい筋肉質で、すらりとした長身。低く柔らかく耳朶じだに染み入る声。上品で優雅な物腰と表情の中に、独特な威圧感をにじませる、凄みのある美丈夫だ。

「げっ……。お前、なんでこんな所に居るんだよ。こら、りっちゃん、離れなさい。陸奥菌が伝染うつるでしょ」

 にこやかに挨拶され、丹生はハグで歓迎し、長門は思いきり嫌な顔で丹生を引き剥がそうする。

「どうしたの? 吉原から出てくるなんて、珍しい」
「ええ、少し野暮用で。せっかくなので、兄さん達の顔を見てから戻ろうと思いましてね」

 陸奥は日本最大の花街、吉原特区の陰間茶屋で働いており、絶大な人気を誇る太夫である。

「来なくていいから、まっすぐ帰れ。っていうか、来るなら連絡くらいしろよな。局に居るとは限らないんだぞ」

 陸奥は上品に笑い、「すみません」と柔らかく言った。
 長門には、他にもあまり仲が良いとは言えない異母兄姉けいしが居るが、陸奥とは砕けた会話をする程度の関係を保っている。

「それで、野暮用ってなんだよ。政治家絡みか、それとも株主のほうか?」
「両方ですね。米A社と華G社の株が大暴落したこの間の悪い時に、どこぞの馬鹿議員がBEPSベップスプロジェクトなんて持ち出したもんだから、うちの顧客が軒並み泡を食ってるんですよ」

 陸奥は外見だけでなく、頭脳も完璧だ。日本最難関の帝都大学を首席で卒業し、株や土地転がし、税金対策等の経理にも精通しており、政治家や企業家のコンサルもおこなっている。およそ、娼妓しょうぎの域を逸脱した人物だ。
 G社と聞いて、丹生は顔を引きつらせた。

「うわ……それ、半分は俺らのせいかも。この前のアレだよな、長門」
「なに言ってるの、りっちゃん。俺たちは仕事しただけでしょ。それで泡食うような奴らは、自業自得さ」

 ばっさり切り捨てる長門に、陸奥は納得したように頷き、顎へ長い指をかけた。

「G社を挙げたのは兄さんたちでしたか。相当、汚い手で荒稼ぎしていたようですから、確かに仕方がありませんね。おっしゃる通り、今頃になって慌てる馬鹿どもが悪いんですが、迷惑するのは善良な私たちなんですよ。見世みせの今後にも関わるので、こうして走り回らなきゃならなくてね。まったく、厄介な連中です」

 はあ、と艶っぽい溜め息をつく陸奥は、猫を愛でるが如く丹生の頭を撫でている。

「お疲れだねぇ、可哀想に。なんとかしてやれよ、長門」
「無理だよ。吉原特区なんて、ほとんど治外法権だもの。心配しなくても、こいつの見世は大物議員やら大企業やら、しこたま抱え込んでるから大丈夫だって」
「その顧客が問題なんじゃん。ベップスなんかが通ったら、租税回避ができなくなって、吉原通いが厳しくなるんだろ。バカ高いからな、座敷遊びは」
「さすが璃津さん、よく分かっていらっしゃる。これほど美しく聡明な方は、吉原にもそう居ませんよ。今からでも、私に乗り換えませんか?」
「わーお、吉原の帝王にナンパされちゃったよ。みんなに自慢しよっと」

 甘いマスクと声音で囁く陸奥に、長門は「けっ」と吐き捨て、ふざける丹生の両脇に腕を差し入れ、強引に引き離した。

「まったく、歯の浮くようなセリフをぬけぬけと。お前、好きな子居るんだろ。そんなことばかりしてるから、10年も相手にされないんじゃないのか」
「10年も想い続けてるの? こんなに良い男で一途だなんて、最早、非の打ち所がないじゃん。相手にされないなんてことある?」

 長門に後ろから抱えられた体勢で首をかしげる丹生に、陸奥は何とも言えない複雑な笑みを向けた。

「なかなか厄介なライバルが居ましてね。あの手この手と試行錯誤していますが、勝ち筋はほぼ無いのが現状です。本当に、兄さんたちが羨ましい」
「あれま、そりゃ大変そうだ。だけど、俺たちだって恋人じゃないし、羨ましがるような関係じゃないよ」
「ちょっとりっちゃん、余計なこと言わないで! 折角、しおらしくしてるのに、また調子に乗るでしょ」

 しかし、長門の予想に反して、陸奥は寂しげな微笑を浮かべたまま緩く首を振った。

「関係がどうあれ、貴方たちは深い絆で結ばれている。私はそれが羨ましいんです」

 丹生と長門は顔を見合せたが、薄く笑っただけで、否定も肯定もしなかった。
 それから少し雑談を交わし、「では、また」と陸奥は帰っていった。

「吉原の人気太夫でも、恋の悩みがあるんだな。あれだけ恵まれてるのに、まだ羨むことがあるなんて、贅沢な気もするけど」
「まぁ、陸奥にとっては初恋だろうからね。いくら人知を超えていても、手に入らない物はあるってことだよ。俺はあいつのほうが、何倍も羨ましいけどね」
「はー? お前も大概、恵まれてるだろ。まったく、これだから何でも持ってる奴らは面倒なんだよな」
「何でもなんて持ってないさ。あいつに比べれば、何も持ってないに等しいよ」

 声のトーンが下がった長門を見上げると、先ほどの陸奥と同じく、複雑な微笑を浮かべていた。丹生は、やっぱり腹違いでも兄弟だな、と思った。
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