九段の郭公

四葩

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4章

41【溺れる魚たち】

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──特例人事司令
本日より調査部アグリ班所属、丹生たんしょう 璃津りつ特別調査官を、同アグリ班、班長補佐に任命する。
公安国際特別対策調査局 総務部──

 その日、出勤してきた局の面々は、大々的に表示された掲示板の文言を見て騒然としていた。何の前触れもなく、今まで存在すらしていなかった役職に、丹生が指名されたのだ。二重、三重の驚きや困惑が特別局に充満している。
 そんなことはつゆ知らず、丹生があくびを噛み殺しながら出勤してきた。騒めく局内の雰囲気をいぶかしみつつオフィスへ向かっていると、すれ違う局員が口々に声を掛けてくる。

「おはようございます、丹生さん。役職付き、おめでとうございます」
「凄いですねー、その若さで! 新しいポストですし、丹生さんのために作られたような物ですよね!」
「え……なに? なんの話?」
「ご存知なかったんですか? てっきり個人通達が行ってると思ってましたけど……」
「掲示板、ご覧になってないんですか?」
「いや、見てない」

 局員達にうながされ、ようやくそれを目にした丹生は、小脇に抱えていたクラッチバッグをどさっと床に落として立ち尽くした。

「……班長補佐って、なんじゃそら……」

 呆然とする丹生の脇でカシャリ、とシャッター音が響く。ギョッとしてそちらを向くと、満足そうに笑う朝夷あさひなが携帯を構えて立っていた。

「よーし、奇跡の1枚が撮れたぞー。あ、しまった。せっかくなら動画にしとけば良かったなぁ」
「……やっぱりお前か。修羅兄弟の用事って、これだったんだな……」
「ハハ! 本当、完璧なリアクションだよ! 驚いた?」
「驚くって言うか……なんだこれ? 班長補佐なんて、聞いたことないんだけど」
「そりゃそうだろうね。つい何日か前に出来たから」
「よくもまぁ、いけしゃあしゃあと……。なんのために? 悪目立ちする以外に、なんか意味ある?」
「だから言ったでしょ? お前を出向させないための緊急措置だよ。役職に付けちゃえば、内調や官僚も簡単に手が出せなくなる」

 丹生は眉間を揉みながら、納得と困惑が混ざった呻きをあげた。

「言ってる意味は分かるけどさ……。こんな無茶苦茶な話、よく通ったな。既にあって、かつ現在空席の部長補佐に付けるほうが、よっぽど簡単だったんじゃないの?」
「いやぁ、部長補佐ともなると、また屁理屈こねて引き抜かれかねないし、何より後が面倒だからね。まあ、新設も案外、スムーズに進んだよ」

 丹生は朝夷に拾われたバッグを受け取りながら、深く嘆息した。

「すいませんね、お気遣いいただいて。それにしても、朝夷一族の息が掛かってない場所って、国内にあるのかな……」
「んー、無いかな」

 あっけらかんと言って笑う朝夷に、丹生はまたしても大きな溜め息をついたのだった。
 一方その頃、阿久里あぐりは自分のオフィスで頭を抱えていた。決して悩んでいるわけではない。今にも歓喜で踊り出しそうになるのを抑え込み、必死で精神統一を図っているのだ。
 なにせ、恋い焦がれる丹生が自分の補佐になったのだ。今まで以上に堂々と接触できる位置まで、一足飛びにやって来たのである。異例の人事に動揺したものの、すぐに喜びがそれを上回った。
 想いを伝えてから早1ヶ月。関係を進める絶好の機会を天に与えられた心持ちで、阿久里は感謝の祈りを捧げるように両手を合わせて目を閉じた。
 その時、オフィスのドアがコンコンと鳴る。てっきり人事を見た丹生と思い込んでドアを開けると、弱りきった顔の椎奈しいなが立っていた。

「あ、あおい……!? おはよう、どうしたの?」
「……少し良いか?」
「ああ、うん。どうぞ入って」

 対面でソファに座った椎奈は、言いづらそうにもごもごと口を動かした。

「その……先ほど人事指令を見たんだが……」
「あ、ああ。突然で驚いたね。今まであんな役職、存在しなかったのに」
「阿久里が多忙なのは分かっている。だから、補佐が付くのは良いことだと思う」
「そうだね」
「だが……」

 続きがすんなり言えない椎奈は言葉を濁す。阿久里は彼が何を言いたいのか、大体、分かっていた。

「大丈夫だよ、葵。そんなに俺が信用できない?」
「違うっ! そうではない! ただ……こんなことを考えるべきではないと分かっている……。分かっているが、しかし……っ」
「なに? 言ってごらん?」
「……私が交代できたら、どれほど幸せかと……」

 阿久里は複雑な気分で苦笑した。

「うん、俺もそう思う。でも、葵は次期部長補佐の最有力候補だろう? 班長補佐よりずっと格上で、素晴らしいことだ。俺の1番の望みは、お前の実力が周囲に認められることだよ」
「……分かっている。しかしつい、璃津が羨ましいと思ってしまって……そんな自分が腹立たしくて……。すまない、仕事中にこんな弱音を吐くべきじゃないのに……」

 阿久里は椎奈の隣へ座り、優しく頭を撫でてやる。

「大丈夫だよ。話してくれて有難う、葵。愛してるよ」

 胸に頭を預けてくる椎奈を見下ろしながら、可愛い人だと思った。ただし、それは愛や恋ではない。か弱い小動物を守ってやりたくなるような、庇護精神に基づくものだ。
 きっと10年前であれば、この場で押し倒すくらいのぼせ上がる状況だっただろう。しかし、時間は戻せない。無くした想いも返ってこない。
 椎奈には申し訳ないが、長い年月の末に、互いの想いの形は異なってしまったのだ。
 これは時間のかかる問題だな、と阿久里はひっそり嘆息したのだった。



 雨音がしんみりと部屋に響く夜。2人分の汗で湿ったシーツに指を滑らせ、丹生は情事後の余韻に浸りながら電子タバコを燻らせていた。隣では更科さらしなが煙草を吸いつつ、丹生を見遣る。

「今日はやけに大人しいな。何かあったか?」
「んーん、なんでもないよ」
「へえ、そろそろ俺にも飽きてきたってか」

 丹生は漏らすように笑った。更科は己の性分をよく理解している。過ぎるほどに。

「違う、逆だよ」
「逆って?」
「どんどん深みにハマりそうで……なんかね」
「よく言う」

 鼻であしらって笑う更科に、丹生は少しムッとする。
 同棲生活もそろそろ2ヶ月になろうとしていた。丹生はこの居心地の良い仮住まいが気に入っている。
 忙しいくせに、ほとんど毎晩、先に帰って立派な晩ご飯を用意して、朝はいつも先に起きてコーヒーをいれてくれる。大人で余裕のある更科と居る時間は、酷く心地好い。
 しかし、2人は明確に付き合っているわけではない。少なくとも、互いにはっきりそう口にしていない。
 丹生は公安庁入りしてからというもの、特定の相手を作ることを頑なに拒んでいた。いくら仕事と言えど、性的関係を定期的に持つ相手がいる以上、恋人を作る気にはなれない、というのが建前だ。
 しかし、と丹生はぼんやり考える。更科と恋人になったら、一体どうなるだろう。今も近い関係ではあるが、やはり距離感が微妙に違うのだ。酷く脆く、危うい綱渡りのように不安定でいて、凪いだ海のごとく抑揚がない。
 この関係は、いつか終わる確信がある。何日か、何ヶ月か、何年後か分からないが、いつか必ず別れる。きっとあっさりと、これまでのことなど無かったかのように。
 そこで丹生は考えるのを辞めた。面倒になって枕へ突っ伏すと、後頭部へ優しく手のひらが触れた。

「お前は考え過ぎるんだよ。余計な心配ばかりするな」
「まったく羨ましいね。どこから来るの、その余裕」
「俺は死ぬまでお前を手離さないと決めてるからな。そこからだろ」

 望む言葉と、ほんの少しだけニュアンスの違う発言が気に障る。その微妙な変化を感じ取った更科は、声音を真剣なものに変えた。

「いくら言葉を尽くしたところで、お前に届かないのは知ってる。だから態度で示すんだよ」
「へえ、どうやって?」
「内調に喧嘩売ったりとか」

 意味が分からずに小首を傾げると、更科は新しい煙草に火をつけながら話を続けた。

「もう朝夷から聞いただろ。内調がお前を欲しがってたって」
「聞いたけど……手を回したのは長門でしょ?」
「もちろん朝夷となつめ一族の協力はあった。だが、内調に圧力かけたのは俺だ。あそこには〝あの男〟が居るし、流石の修羅兄弟も、朝夷家が相手じゃ厳しいからな」

 丹生は朝夷一族の厄介さに苦く笑い、「なるほど」と答える。

「朝夷は何もかも自分の画策だと信じてやまない。まあ、エリートの坊ちゃんはそれで良い。アイツがお前に夢中で助かるぜ」
「なにそれ。あんなに別れさせるって息巻いてたくせに」
「手綱は握り方にコツがあるからな。お前を守りきるのに、俺だけじゃ力不足なんだよ。朝夷の後ろ盾ってのは、日本帝国では何より強力だ」

 生々しい、けれど縁遠い話だ、と丹生は思う。
 自分には学歴も家柄もコネも無い。言ってしまえば、正式な官僚ですらない。そんな出来損ないは、この世界では真っ先に利用され、ボロ雑巾のように捨てられる。
 自分がここまで来られたのは、更科と朝夷が付いているからだ。彼らの協力がなければ、すぐさま落ちていくだろう。強者に依存せねば明日も知れない、ちっぽけで惨めな存在だ。

「……本当は、利害で繋がりたくないのにな……」
「馬鹿。この俺が利害でお前と居ると思うのか?」

 そう言いながら、更科は丹生と同じ目線に身を横たえた。優しい笑みが視界に広がり、丹生は緩く首を横に振った。

「本当は部長補佐にしたかった」
「きっと椎奈さんも、逆なら良かったと思ってるだろうね」
「お前を阿久里に近付けたくはないが、内調に取られるよりはマシだからな」
「分かってる。俺はこのままで居られるなら、なんだって良いんだ」

 丹生はぼんやり虚空を見つめて呟いた。

「結局、俺は何も出来ずに、今日がただ終わってく。今更だけど、無力ってのは虚しいもんだね。毎日、優しさに溺れていくみたいで……息の仕方も忘れそうになる……」
「大丈夫だ。溺れないように、俺がしっかり掴んでてやるから」

 そうして手を繋いだまま目を閉じる。欲望と欺瞞にまみれ、いつかは覚めると知りながら夢を見る。擦り込み、塗り重ねた嘘に呑み込まれる。眠りに落ちる直前、まるで溺れる魚だな、と丹生は思った。
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