九段の郭公

四葩

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6章

56【呉越同舟・閑話】

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 自宅の鍵を開け、玄関に入る。灯りを付けたそこに、自分以外の誰かが入った形跡はない。リビングにもキッチンにも、誰も居ない。ひと通り室内を確認し終えた更科さらしなは、落胆しつつダイニングのドアを後ろ手に閉めた。
 数ヶ月前まで、当たり前の風景だった。独りでいることには慣れていたはずなのに、酷く空虚な気持ちにさせられる。
 どちらが先に帰ろうと、夕飯はほぼ毎日、一緒に取り、時間がずれても必ず共にベッドで眠る。そんな生活が、いつの間にか当たり前になっていた。
 ソファへ座れば、テレビを見ながらそのまま寝ている姿が。ダイニングの椅子に座れば、向かいに屈託の無い笑顔を浮かべる姿が、今も鮮明に蘇る。
 洗面所の歯ブラシ、浴室のシャンプー、クローゼットの服、帽子、アクセサリー。この部屋には、姿無き彼の気配が充満している。
 顔が見たい、声が聞きたい、肌に触れたい、抱き合って眠りたい。それが叶わないのなら、せめて無事でいて欲しい。なぜ彼なのか。なぜ今なのかと、何度思ったか分からない。
 今、どこでどんな目にあっているのか、なるべく考えないようにしていた。嫌でも想像がつくからだ。
 皮肉なもので、この仕事は優秀であればあるほど、その身に負うリスクは高くなる。籠絡したターゲットに追い回されることなど、まだマシなほうだ。そう頭で理解していても、割り切るのは容易ではない。
 これは任務のための犠牲ではない。仕方がないと切り捨てることなど、到底できないのだ。必ず見つける、どんな手を使っても。
 更科の社用携帯が鳴った。ディスプレイに表示された朝夷あさひなの名に、溜め息をつきながら通話ボタンを押す。

「……こんな時間になんだ」
【うわー、思いっきり不機嫌ですねぇ。嫌なら出なきゃ良いのに】
「出ると分かってて掛けてきてるだろ。で、なに」
【意気消沈してる部長様のご機嫌うかがい】
「機嫌なら悪い。用が無いなら切るぞ」
【冗談です。これでもパイプ役頼まれてるんでね、報告ですよ】
「なら無駄口叩いてないでさっさと済ませろ」
【国防省は衛星探索と監視カメラ映像の解析、外務省は上海で情報収集、マトリは逢坂おうさかたちに張り付いてる】
「要するに進展無しか」
【せめて鋭意捜索中と言ってほしいな。これでも使える戦力は総動員なんですよ?】
「そうかよ」
【で、ひとつ頼みがあるんですが、入管に古傷もとい古馴染みが居るでしょう】
「嫌な言い方すんじゃねぇよ。入国者リストか?」
【さすが、話が早い】
「もうやった、収穫無しだ。璃弊リーパン関係の人物を探させてるが、華国人入国者は多すぎて絞り込むのが難しい」
【ああ、仕事も早いですね。まぁ、出来ることはやっておきたくて。頼むまでも無かったみたいですけど】

 更科は、ふんと鼻を鳴らして話題を変えた。

「ところでお前の兄貴、くそほど厄介だな。どうにかなんねぇのかよ。お陰で頼みの綱の中央センターが使えねぇじゃねぇか」
【どうにか出来たらしてますよ、とっくにね。アレはもう居ないものとして扱うより他に無いんです。だから国防省に衛星頼んでるんじゃないですか】
「無理だろ。横槍入れてんのあいつだぞ。お前んとこのお家騒動なんざ、さらさら興味ねぇが、ここまで来ると無視するにも限界がある」
【だったら部長がどうにかして下さい。俺が出張ると火に油ですから。この前やったみたいに脅しかけるなり、裏取り引きするなり、どうぞご自由に。まぁ、あの人に通用するとは思えませんけどね】
「ったく……何でもお見通しかよ、腹立つな」
【あの子に関する情報は、ひとつも漏らさないのが俺の信念なもので。だから、今回の件は完全に俺の落ち度です。1人で行かせるべきじゃなかった。判断ミスでした、申し訳ありません】

 話の後半から低く、真剣な声音に変わったのを聞き届け、更科は深く紫煙を吐いて言った。

「……お前、みょうに落ち着いてるな。しおらしくて気持ち悪ぃ」
【それ、椎奈しいなにも似たようなこと言われましたよ。やれやれ、みんな俺にどんなイメージ持ってるんだか】
「12年もベッタリ背後霊みたいに張り付いてるくせに。冷静になれないほうが健全なんだよ」
【こんな仕事をしている以上、リスクは承知しています。あの子が自分を犠牲にする性格なのも、よく知ってる。だからこそ、部長だってあの子が可愛くて、守ってやりたくてたまらないんでしょう?】
「知ったような口をきくな、くそがきめ」
【まぁでも、俺と貴方は今、似たような心境だと思うんですけどね】

 更科は呆れと少しの嘲りを含んだ息を吐いた。

「誰が。お前みたいなサイコパスの心境なんて知るか」
【本当、そういうひねくれた所はそっくりだ。似た者同士だからこそ惹かれたんですかね、貴方は】
「さあな」

 2人ともたっぷり一呼吸分は黙ってから、柔らかくも物悲しい声音で朝夷が呟く。

【……ねえ、更科さん】
「なんだよ」
【万が一、あの子が無事に戻らなかったら、俺たちはどうなるんでしょうね】
「……馬鹿なこと言ってないでさっさと寝ろ。じゃあな」

 一方的に通話を終えると、テーブルへ携帯を放り投げた。

「どうなるも何も……」

 どうにもならない。彼が居なくなったところで、世界は回り続ける。国も組織も、何も変わらない。
 朝夷は精神面を問うたのだろうが、今の時点で答えは出ない。出せないのだ。
 彼をこの世界に引きずり込んだ張本人は自分だ。守りきれなかったなんて結末は、想像もしたくない。
 きっと、変わるのは自分だろうと解っている。何事も無かったように生きていくのは、恐らく不可能だ。あんなことを聞いてくる辺り、朝夷も同じなのだろう。平静を装っていながら、その実、最も心中穏やかではない2人なのだ。

「こんなことで共通認識なんざ、冗談じゃねぇ……」

 小さく毒と紫煙を吐き、更科は煙草を揉み消した。



閑話

【年下彼氏】

──俺の恋人はとんでもなく美人で愛嬌も抜群だ。
 気まぐれで我儘だが、仲間うちでは人気者だ。好かれ過ぎて、目の色が違う奴まで居るのには困りものだが仕方ない。仕事もできるし、上からの評判もすこぶる良い。
 ただひとつ、難点をあげるとすれば……──

「またソファで寝落ちてんのか、こいつは」
「……ぅう……んー……」
「またテレビつけっぱなしだし。今度はなに見て……」

 100インチの大画面に、虫食や人体解体ショー、腐乱死体など、過激衝撃映像がたれ流されている。悪寒と吐き気に襲われ、即座にテレビの電源をオフにした。

「あー……更科さん、おかえりー」
「……おう……ただいま……」
「ふぁーあ……また途中で寝ちゃったよぉ。いつまで経っても最後まで見れないな」
「……お前これ……なに見てた……?」

 丹生は大きく伸びと欠伸をしながら、背後の更科を振り仰ぐ。

「ん? つじがダークウェブで拾ってきてくれた動画。面白いんだけど、いかんせんノンフィクションで緩急に欠けるから、いつも寝落ちしちゃうんだよね」

(面白い!? 変な虫食ってたり、人体切り刻んでたり、ウジ虫たかってる死体が面白いだと!? 嘘だろ、おい。品性どうなってんだ? つーかコレ、完全に違法動画じゃねぇか!)

「どうしたの、渋い顔して。あ、もしかしてお腹空いてる? ご飯の準備するから、手ぇ洗ってきなよ」
「あ、ああ……」
「……ちょっと、なんでキッチンで洗うの? 動きにくいから洗面所でやってよ」
「……メシの支度、手伝おうと思ってな……」
「えー、疲れてるでしょ? 座ってて良いのに」
「良いんだよ、したいから」

 やや強引に居座る更科に、丹生は腰に手を当てて眉をひそめた。

「なに、まさかまだ俺が作るの不安なの? こう見えて普通に出来るって、いい加減に認めようぜー。認めたくない気持ちは分かるけれども」
「違うわ。お前のメシが美味いのは充分、分かってるっつーの」

(ただ……虫食ってる動画なんて好んで見てるの知っちまったら、流石にな……。いや、みょうなモンは入ってないって信じてるけど……でもやっぱ怖いわ)

「あ、じゃあ先にお風呂行ってくれば? その間にちゃちゃっと作るからさ」
「……今日は一緒に風呂入らねぇか? 一緒にメシ作って食って、ひと休みしてからな。どうだ、嫌か?」
「良いけど、そんなに共同作業したがるなんて珍しいね。なんかあった?」
「な、なんもねぇよ。なんとなくで悪いか」
「いや、悪くないよ。なんか今日の更科さん、可愛いね」

(言えねぇ……。お前のメシが衛生的に不安だなんて、絶対、言えねぇ……)

──俺の恋人は超絶美人だし素直で可愛い。
 ただ、過激なアングラ映像を好む趣味には、まだ理解が及んでいない……──



【年上彼氏】

──暫定彼氏は凄く格好良くて、頭良くて、なにより偉い。愛想は皆無でハラスメントの常習犯で、部下からの評判は最悪もいいところだけど、そこがまた良い。
 彼は趣味や私事に干渉してこない。帰りが遅くなっても、あれこれ聞いてくることはない──

 とある日。

「ただいまー」
「おかえり、璃津りつ。美術展は満喫できたか?」
「ああ、うん。綺麗だったなー、オートクチュール。暗すぎてあんまよく見えなかったけど」
「しょうがねぇよ、保全のためだろ。メシ出来てるぞ」
「わーい、今夜はなにかなー」

 またとある日。

「ふぃー、ただいまー」
「おかえり。初めてだったんだろ? ロイヤルヘボウのコンサート」
「うん! いやもう、ホント最高だったよ! さすが世界最高峰の演奏って感じで、圧巻だった!」
「しかし、椎奈しいなとこれほど仲良くなるとは驚きだわ。アイツにとっちゃ、初めてのお友達ってやつなんじゃねぇの」
「うんうん、椎奈さんとのディナーも楽しかったぁー。でも、流石に初めてってのは言い過ぎ……って、ん? あれ?」
「なんだ、どうかしたか」
「い、いやぁ? なんでもないよ……」

 またまたある日。

「たーだいまー……」
「おかえり。今日はだいぶ疲れたんじゃねぇか?」
「んー……ちょっとだけね。寝不足かなー」
「メンツが悪いんだよ。阿久里あぐり神前かんざきが苦手だからな」
「はぁ、やっぱそうなのかな。確かにちょっとキツいとこあるけど、根は良いやつなのに……な……?」
「何してんだ、突っ立ってないで座れ。メシ食ってきたんだろ。コーヒーいれてやるよ」
「……アリガトウゴザイマス……」

(ひと言も伝えてないアフターファイブが、完全に把握されている……。場所からメンツ、何してきたかまで詳細に……)

──暫定彼氏は凄く格好良くて偉い。私事に干渉しないし、帰りが遅くなっても怒らない。
 なぜならGPSの監視や盗聴により、すべて筒抜けだから。慣れるにはもう少し、時間が必要かもしれない……──
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