戦国澄心伝

RyuChoukan

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第一百一十四話 東山追捕・比叡山暗影

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焚宮ののちの京に、静かな日は一日もなかった。
 
ただ、喧騒は戸の内側へ押し込まれ、代わりに低い囁き声と戸を閉ざす音だけが残った。
 
六月に入るころ、封鎖は少しだけ緩んだ。
 
二条周辺で見かけた三好の旗は減ったが、今度は各所の寺社の門前にちらつくようになる。
 
「将軍残党の粛正」「内奸の掃除」といった言葉が高札に踊り、人々の頭上に突きつけられていた。
 
その日の午後、里村紹巴が東山に駆け込んできた。
 
門をくぐるなり、山路と廊下を確かめるように見回し、人影がないと知るとようやく声を潜める。
 
「先生。先日の連歌の席でお会いした山科殿を覚えておいでか」
 
「あの『残火の歌』を好んで詠んでいた方だな」
 
「その人です」
 
里村は苦い笑みを漏らす。
 
「誰かが彼の名を『将軍残党』の帳面に書き加えました。歌に『過ぎし日を惜しむ心あり』とあったからだそうで」
 
弥助は頭皮がむず痒くなる思いだった。
 
「歌まで口実にして、ですか……」
 
「歌は口実に過ぎません」
 
里村は肩をすくめる。
 
「山科殿の縁者は細川や一色ともつながりがありましてな。燃えさかる火にちょうどよい薪と見たのでしょう」
 
山科殿は寺町を抜け、今まさに東山へ逃れようとしている。
 
追手もすぐそこまで迫っていた。
 
「帳面に従って動く連中は、山路であろうとお構いなしに刀を振ります」
 
里村はため息をつく。
 
「もし彼らが本当に東山まで踏み込めば、先生のこの院も巻き添えを食いましょう」
 
柳澄原は廊に出て、石段の下の山道を見下ろした。
 
山の麓から吹き上げる風が、遠くの炊煙の匂いを運んでくる。
 
「弥助」
 
「はい」
 
「門を閉めろ」
 
「でも、山科殿はどうやって中へ?」
 
「門の外に居てもらう」
 
柳澄原は淡々と言う。
 
「今日この敷居を越えてよいのは、風だけだ。人は越えさせぬ」
 
弥助は一瞬目を丸くしたが、すぐに意図を悟った。
 
門を閉ざすことは、見捨てることと同じではない。
 
ただ、この日の刀を敷地の内に入れぬというだけのことだ。
 
やがて、山道の小石がばらばらと跳ねた。
 
ひとりの男がよろよろと駆け上がってくる。
 
衣は半ば乱れ、全身土まみれだ。
 
「山科殿!」
 
里村は戸口まで駆け寄り、手すりを握りしめる。だが敷居を越えることはしない。
 
山科殿は苦しげに笑った。
 
「本日は……いやはや、里村殿に恥をさらしましたな」
 
その背後には、軽甲を着た追っ手が五、六人。
 
隊長格の男が刀を掲げて指さす。
 
「この帳面に名の載った山科某、二条旧臣と通じた疑いあり! 命により拘引いたす!」
 
山科殿は東山残院の外壁に背中を押しつけ、いつ倒れてもおかしくない。
 
柳澄原はゆっくりと門口に出た。
 
扉は半ばだけ開け、身はあくまで敷居のこちら側に残した。
 
「ここはただの医房だ」
 
彼は静かに言う。「人を捕らえるなら、門前で筋を立てていただきたい」
 
「医房だと?」
 
隊長は嘲るように鼻で笑った。
 
「反逆者の傷をきれいに治してやる所を、確かにそう呼ぶか」
 
そう言って、部下たちを促した。
 
東山残院の前に据えられた石段は三段。
 
一段目は広く、二段目はやや狭く、三段目はふたり並ぶのがやっとだ。
 
脇には石灯籠と古い根株、さらに雨で削れた浅い窪みがある。
 
柳澄原は、その全てを日々歩きながら見ていた。
 
敷居を一歩越え、石段の一段目に爪先を立てる。
 
「山科殿」
 
彼は呼びかけた。「あそこの場所に立っていただけますか」
 
刀の鞘で指し示したのは、二段目の階と石灯籠の間の、わずかな空きだった。
 
山科殿は息を荒げながらも、本能的にその位置へ移動する。
 
追っ手たちは一斉に石段を駆け上がる。
 
隊長は相手が文士と医者ばかりと見ていたので、あっさりと第一段を占めた。
 
その瞬間、柳澄原が一歩踏み出し、刀を振るう。
 
最初の一刀の狙いは――
 
首でも手首でもない。
 
兵士の足の甲だった。
 
その足はちょうど第一段と第二段の境にあった。
 
刃を受けて男は前につんのめり、前の者の背中に突っ込む。
 
すぐさま二刀目。
 
今度は斬りつけるのではなく、刀背で薙ぎ払う。
 
薙がれた兵は、ちょうど雨で削れた浅い窪みに足を取られ、膝を折って崩れた。
 
石段の上は、たちまち足と刀と怒声が絡まる混乱の場となった。
 
誰かの足が引っかかり、誰かの刀は味方の肩口にぶつかり、後ろから押された者は戻ることも進むことも叶わない。
 
隊長は舌打ちして、真っ直ぐ突っ込んできた。
 
柳澄原は下がらない。
 
むしろ半歩だけ退いて、最も「空いているように見える」道を残してやる。
 
隊長が二段目へ足をかけたとき、足裏に違和感を覚えた。
 
そこは薄い苔が生え、さきほど部下の泥でさらに滑りやすくなっていた。
 
一歩目を滑らせ、体が前に傾く。
 
すでに振り下ろした刀は止まらない。
 
このままでは柳澄原に届かぬばかりか、背後の味方の肩を斬り落としかねない。
 
その刹那、柳澄原の刀が横からわずかに当たる。
 
刃の真ん中を軽く叩くように。
 
劈く力は行き場を変えられ、刀は石灯籠をかすめて石段の縁にめり込んだ。
 
火花が散り、隊長の手は痺れて刀を落としかける。
 
「今の一刀、拙者は殿の面子を救っただけですぞ」
 
柳澄原は淡々と言う。
 
「そのまま振り下ろしていれば、まずは自分の手勢ふたりの腕が飛んでいた」
 
兵たちは容易に踏み込めなくなった。
 
膠着が続いたそのとき、山道の上から別の足音が聞こえてきた。
 
その足取りは、追っ手たちのそれより重く、一定の拍子を持っている。
 
僧の草履と石との擦れる音だ。
 
「やめよ」
 
甲冑に袈裟を重ねた僧兵たちが、石段の上方に姿を現した。
 
背後の旗には大きな「山」の字が縫い取られている。
 
「ここは東山の麓」
 
先頭の僧兵が沈んだ声で言った。
 
「山門の境内にて、勝手に刀を振るわれては困る」
 
隊長はぎくりとする。
 
「比叡山の方々か」
 
「お前たちが捕らえようとする者など、山門の知ったことではない」
 
僧兵は続ける。
 
「ただ、この坂の此方から上は我らの領分。此方から下はお前たちの好きにすればよい。だが、この石段の上で振るう刀は、我らも一緒に斬るということになる」
 
空気には鋭い火花の匂いが漂った。
 
だが同時に冷水も注がれた。
 
隊長は、今ここで山門を敵に回す愚を理解していた。
 
歯を食いしばって鼻を鳴らすと、刀を収める。
 
「今日は山門の顔を立てよう。あの書生どもは見逃してやる」
 
そう吐き捨て、兵を引いた。
 
柳澄原は余計な言葉を重ねることなく、山科の肩を支えて院の外壁にもたれさせる。
 
僧兵の頭は、門に掛かる「澄原醫房」の小札と、火に炙られた跡の残る楓の木を見上げた。
 
「東山のこの一角は、まだ静かなものだな」
 
「静かな場所というのは、大抵は死人が多すぎる場所でもある」
 
柳澄原はさらりと返した。
 
僧兵は目を瞬かせ、それから喉の奥で笑う。
 
「なるほど、澄原先生というわけだ」
 
その夜、先ほどの僧兵頭がひそかに残院を訪れた。
 
「山門は、今日の借りを忘れませぬ」
 
深く礼をし、「今後、山上から傷者が送られてきたとして、先生は来歴を問わず診てくださるか」と問う。
 
「門前に来た時点で、そいつは病人だ」
 
柳澄原は言う。
 
「山へ登る前に何者であったかは、拙者の知ったことではない」
 
「承知した」
 
僧兵頭は小さく会釈する。「ただ――いつか、火が山の上からも降りてくるやもしれぬ。そのときは、先生にも一緒に見ていただかねばなるまい」
 
「山から降りてくるほどの火なら」
 
柳澄原は城下を向いて目を細くする。
 
「真っ先に燃えるのは、我が院ではなく、この城だ。火が山の裾まで達する前に、そちらがそれを消す気があるかどうか――まずはそれを見せていただこう」
 
ふたりはしばし目を合わせ、それ以上は語らなかった。
 
夜更け、内室に戻った柳澄原は、風図の上で比叡山を示す線を浅い墨から濃い一筆へと描き直した。
 
交差するあたりに、三文字を書き添える。
 
――「山門の刃」。
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