戦国澄心伝

RyuChoukan

文字の大きさ
116 / 268

第一百一十六話 五条夜橋・火線初現

しおりを挟む
夏の終り、五条橋の夜は灯の海だった。
 
大道芸、茶店、屋台が隙間なく並び、人でごった返している。
 
鴨川の水は橋の下を静かに流れ、灯籠の光を揺らめかせている。
 
「先生が珍しく祭り見物とは」
 
弥助は湯気の立つ団子の串を握りしめ、目を輝かせた。
 
「祭りを見に来たわけじゃない」
 
柳澄原は言う。
 
「祭りを隠れ蓑に、誰が動くかを見に来た」
 
その日の午後、里村紹巴がひっそりと残院を訪れ、極めて短い伝言を残していった。
 
――「今夜の五条にて、近江よりの書状がひとつ、清洲の某君の名を書いた封で渡される。
  筆を執るのは私だが、届ける役は負わぬ。先生に暇があれば、風を見物されるがよい」
 
五条橋は、昔から何かを隠すには格好の場所だった。
 
人が多く、音も多く、水も近い。殺すにも、渡すにも、逃げるにも困らない。
 
柳澄原は、目立たぬ紺の小袖に身を包み、刀の鞘を布でくるみ、薬箱を背負って橋を渡る。
 
どこから見ても、橋上で薬を売る行商にしか見えない。
 
弥助は本当に食べ物を買う役目を引き受けた。
 
団子、焼き魚、菓子を両手に抱え、ただの夜店好きの小僧にしか見えない。
 
「先生、誰を探してるんです?」
 
「本物の荷を持つ者は、屋台なんぞ眺めていない」
 
柳澄原は答える。
 
「やつは水と風と、人の足だけを見る」
 
川面から吹き上げる風が、橋の灯籠を揺らす。
 
人混みの中に、荷を背負った中年の脚夫がひとり。
 
背中の籠に手をやりながら歩いていて、腰の一箇所だけ、必要以上に庇うような仕草を見せていた。
 
そこに膨らんだ布は、金の袋でも刀の鞘でもない。
 
布で厳重に巻かれた筒の形をしていた。
 
「あれだ」
 
柳澄原の目が止まる。
 
「弥助、あいつから目を離すな。離れすぎるなよ」
 
「ぼ、僕がですか?」
 
弥助は飛び上がりそうになる。
 
「僕に何が……」
 
「お前には、いざというとき大声を出す役目がある」
 
柳澄原は言う。
 
「人が多い場所では、一番大声で騒ぐ奴は、たいてい『斬る側』ではない方だ」
 
弥助は喉の奥を鳴らし、それでも力強く頷いた。
 
脚夫は橋の中央へ向かって歩いていく。
 
一見、何気なく進んでいるようだが、歩幅には一定のリズムがあり、最も混み合う場所や、巡回中の武士の視線は巧みに避けていた。
 
柳澄原は、橋の下の水面に生じた不自然な波紋を見逃さなかった。
 
橋脚に沿って、誰かが潜んでいる。
 
同時に、橋の片側の見世物一座の中に、浪人風の男たちが混じっていた。
 
即席の「勝負」と称して木刀を打ち鳴らし、観客と笑い合っているが、その木刀の重心は、どう見ても真剣を木で覆ったものに近い。
 
「下に一組、上に一組」
 
柳澄原は心の中で冷笑する。
 
「あとは少し離れたところで見物している目があれば揃うな」
 
橋頭の二階建ての酒楼を見上げる。
 
障子の陰に、動かぬ影がひとつ。時折首を動かして橋の様子を窺っている。
 
脚夫が橋の真ん中に差しかかったとき、橋下の水紋が急に乱れた。
 
一本の手が板の隙間の下から伸び、板の縁を掴む。
 
次の瞬間、板が下に引き抜かれ、隙間から竹槍の穂先が一気に突き上がった。
 
狙いは、脚夫の腰の荷だ。
 
「危ない!」
 
弥助はほとんど本能で叫んでいた。
 
脚夫の身体がびくりと硬直し、それまで慎重に保っていた歩調がわずかに乱れる。
 
竹槍もその一瞬の狂いに引きずられ、狙いがずれて籠の底を貫いた。
 
乾物が地面にぶちまけられ、周囲から笑いと罵声が上がる。
 
「下から悪戯か!」
 
「おい、荷物が落ちてるぞ――こら、逃げるな!」
 
笑い声に、一瞬、張り詰めた空気が霧散する。
 
竹槍が二撃目を繰り出す前に、柳澄原がそこにあった。
 
足先で落ちていた板切れを蹴り上げ、そのまま槍先の上に落とす。
 
穂先は板を穿つだけで、力を吸われ曲がった。
 
そのとき、木刀を振り回していた浪人のひとりが、突如、真剣の刃先を光らせた。
 
「勝負」の勢いを借りて、脚夫の背を狙って斬りかかる。
 
柳澄原は三歩で間を詰めた。
 
一歩目――さっきまで脚夫がいた場所へ。
 
二歩目――浪人が後に退くはずだった足場へ。
 
三歩目――ふたりの間。
 
弥助には、先生の姿が灯の中で一度かすんで消え、次に見たときには別の場所に立っているように見えた。
 
(踏影……)
 
浪人の一刀は、脚夫の背ではなく、柳澄原の鞘にぶつかった。
 
鋼と木がぶつかる澄んだ音が響く。
 
そのまま、柳澄原は刃筋を滑らせるように受け流し、橋の欄干へと逸らした。
 
木柱に深い傷が刻まれ、火把がひとつ弾き飛ばされて落ちる。
 
転がった火把は、別の刺客の足元にまで転がった。
 
火花が散り、刺客は思わず身を引く。
 
足がもつれ、そのまま橋の縁から落ちかけた。
 
「先生!」
 
弥助は腹をくくり、団子を握った手のまま突進した。
 
火把に躓いた刺客の腰に抱きつくようにしがみつく。
 
「何をする!」
 
刺客が怒鳴る。
 
「火だ! 火が危ない! みんな、気をつけろ、焼けるぞ!」
 
弥助はこれ以上ないほどの声を張り上げた。
 
その叫びに、周囲の見物人たちが一斉に振り向く。
 
数人は火把を踏み消しに走り、数人は喧嘩の仲裁に入ろうとし、さらに多くの人々は、ただ面白がって輪を広げる。
 
殺し合いの場でもっとも厄介なのは、事情を何ひとつ知らぬ第三者たちの存在だ。
 
その輪が厚くなるほど、刃は振りにくい。
 
浪人たちは一度刀を引っ込め、口々に笑いながら場を収めるふりをするしかなかった。
 
橋下の刺客も、失敗したと悟ると、橋脚から離れて流れに身を任せる。
 
その時、ちょうど一艘の小舟が橋の下を通りかかった。
 
船頭は水面の黒い影を見て、「妖か」と叫びながら竹竿で滅多打ちにする。
 
水面は再び激しく波打ち、刺客はさらに遠くへと押し流された。
 
柳澄原は混乱の隙をつき、脚夫の肩をつかんで橋の脇の少し人の少ない場所へ引き寄せた。
 
「もういいだろう」
 
低い声で言う。
 
「その腰のものをこれ以上守れぬなら、いっそ鴨川に投げ込め」
 
脚夫の顔は真っ青で、額から汗が吹き出していた。
 
「あ、あんたは……?」
 
「清洲から来た医者だ」
 
柳澄原は淡々と名乗る。
 
脚夫の体がびくりと震えた。
 
「ここで死ぬか、その信を目的地まで届けるか、どちらを選ぶ」
 
男は歯を食いしばり、腰から布包みを取り出して押し付けてきた。
 
「お願いだ……」
 
言い切る前に、口から血が溢れる。
 
先ほどの槍は致命傷にはならなかったが、肋を掠めていた。
 
「弥助!」
 
「はい!」
 
弥助は人波をかき分けて戻ってきた。頬には団子の砂糖がまだついている。
 
「この男を橋の袂の薬舗の裏庭へ運べ」
 
柳澄原は指示を飛ばす。
 
「拙者が借りると言えば、今夜に限って診るのは病ではなく人だと分かるだろう」
 
「承知!」
 
今度は弥助は何も訊かなかった。ただ叫びながら脚夫の腕を肩に回し、「怪我人だ、どいてくれ」と道を開けさせる。
 
先ほど弥助に釣られて集まってきた物見高い連中が、今度は盾になった。
 
わいわい騒ぎながら火を踏み消し、余計な揉め事を止めるふりをし、その実、追ってくる刃を遮っている。
 
橋の真ん中の騒ぎは、わずか数十息の後には半ば霧散していた。
 
浪人たちは軽口を叩き合いながら木刀を収め、人混みに紛れていく。
 
橋下の刺客も、水流に押し流され、しばらく顔を出すまい。
 
遠くの酒楼の窓の陰で、見物していた影が、静かに視線を引き、障子を閉めた。
 
柳澄原は橋の端に立ち、灯と背中合わせになりながら、手の中の布包みを見下ろした。
 
包みは小さいが、固く結わえられている。
 
刀先で慎重に紐を解くと、中から短い竹筒がひとつ現れた。
 
その中には一通の書状。
 
厚めの紙で辺縁は擦り切れている。すでに長い旅路を経ている証拠だ。
 
封を開けるのではなく、灯の陰でほんの一瞬だけ文面を覗き見た。
 
目に飛び込んできた数行。
 
――「越前……覚慶殿……」
 
――「清洲の某君に、将軍の弟君を上洛させ……」
 
――「三好を討ち……奸佞を払うべく……」
 
それだけで、この文がどのような性質のものかは十分だった。
 
「近江から来た火だ」
 
柳澄原は心の中で言った。
 
「清洲まで燃え移らせたがっている」
 
筒を閉じ、布包みに戻す。
 
東山に戻ったときには、夜はすでに更けていた。
 
弥助は脚夫を偏院の小屋に寝かせ、応急の手当てを済ませていた。
 
「先生、この人、傷はひどくありません」
 
弥助は言う。
 
「ただ、えらく怯えているようで」
 
「怯えているくらいでちょうどいい」
 
柳澄原は答えた。
 
「その方が、いつか今日のことを話すとき、声が大きくはならぬ」
 
内室に戻ると、薬箱の底から清い布を取り出し、竹筒を包んで極めて目立たぬ隠し場所へ仕舞った。
 
そのうえで、別の紙を一枚取り出し、書状の最も肝心な言葉だけを、名も地名も伏せて書き写す。
 
――「覚慶」「上洛」「清洲」「三好を討つ」。
 
紙を小さく折り畳み、これもまた別の隠し場所に滑り込ませる。
 
「先生、これは?」
 
弥助は案の定、訊ねずにはいられない。
 
「一通の文に、二本の道を用意した」
 
柳澄原は言う。
 
「本物の方は、然るべき場所まで届かねばならぬ。写しの方はここに残しておく。いつか誰かが『そんな文は最初からなかった』と言い張る日が来たとき、今夜の五条橋の風を、私が忘れずにおくためだ」
 
風図の前に立つ。
 
「近江/越前」の辺りに一点を打ち、そこから太い線を伸ばす。
 
線は「五条橋」を通り、真っ黒になった「二条御所」の上を迂回して「東山残院」に届く。
 
さらにそこから「清洲」へ。
 
その線は、「旧臣の余火」「山門の刃」「心火」と絡み合い、ますます細かい網目を描き始めていた。
 
弥助は背筋をぞくりとさせる。
 
「先生、この線は最後、どこに繋がるんです?」
 
「ある人ひとりの刀に」
 
柳澄原は小さく答える。
 
「そして、もうひとつの城の火に」
 
彼は夜の京の方角を見上げた。
 
町の灯火は一見穏やかだ。
 
しかし彼の目には、それが無理やり押し込められ、決して上がるなと抑えつけられた火にしか見えなかった。
 
――将軍はすでに斃れ、二条は焼け落ちた。
 
――だが本当の火は、まだ城の外を歩いている。
 
「この文が行き着くべきところまで行ったとき――」
 
柳澄原は心の中で静かに言葉を結ぶ。
 
「火を運ぶ者が、いつか必ず東山の門を叩きに来るだろう」
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

天正の黒船

KEYちゃん
歴史・時代
幕末、日本人は欧米諸国が日本に来た時の黒船に腰を抜かした。しかしその300年前に日本人は黒船を作っていた。

四代目 豊臣秀勝

克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。 読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。 史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。 秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。 小牧長久手で秀吉は勝てるのか? 朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか? 朝鮮征伐は行われるのか? 秀頼は生まれるのか。 秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?

ヤバイ秀吉

魚夢ゴールド
歴史・時代
題名通り、性格をヤバくした羽柴秀吉の伝記モノです。

強いられる賭け~脇坂安治軍記~

恩地玖
歴史・時代
浅井家の配下である脇坂家は、永禄11年に勃発した観音寺合戦に、織田・浅井連合軍の一隊として参戦する。この戦を何とか生き延びた安治は、浅井家を見限り、織田方につくことを決めた。そんな折、羽柴秀吉が人を集めているという話を聞きつけ、早速、秀吉の元に向かい、秀吉から温かく迎えられる。 こうして、秀吉の家臣となった安治は、幾多の困難を乗り越えて、ついには淡路三万石の大名にまで出世する。 しかし、秀吉亡き後、石田三成と徳川家康の対立が決定的となった。秀吉からの恩に報い、石田方につくか、秀吉子飼いの武将が従った徳川方につくか、安治は決断を迫られることになる。

不屈の葵

ヌマサン
歴史・時代
戦国乱世、不屈の魂が未来を掴む! これは三河の弱小国主から天下人へ、不屈の精神で戦国を駆け抜けた男の壮大な物語。 幾多の戦乱を生き抜き、不屈の精神で三河の弱小国衆から天下統一を成し遂げた男、徳川家康。 本作は家康の幼少期から晩年までを壮大なスケールで描き、戦国時代の激動と一人の男の成長物語を鮮やかに描く。 家康の苦悩、決断、そして成功と失敗。様々な人間ドラマを通して、人生とは何かを問いかける。 今川義元、織田信長、羽柴秀吉、武田信玄――家康の波乱万丈な人生を彩る個性豊かな名将たちも続々と登場。 家康との関わりを通して、彼らの生き様も鮮やかに描かれる。 笑いあり、涙ありの壮大なスケールで描く、単なる英雄譚ではなく、一人の人間として苦悩し、成長していく家康の姿を描いた壮大な歴史小説。 戦国時代の風雲児たちの活躍、人間ドラマ、そして家康の不屈の精神が、読者を戦国時代に誘う。 愛、友情、そして裏切り…戦国時代に渦巻く人間ドラマにも要注目! 歴史ファン必読の感動と興奮が止まらない歴史小説『不屈の葵』 ぜひ、手に取って、戦国時代の熱き息吹を感じてください!

世界はあるべき姿へ戻される 第二次世界大戦if戦記

颯野秋乃
歴史・時代
1929年に起きた、世界を巻き込んだ大恐慌。世界の大国たちはそれからの脱却を目指し、躍起になっていた。第一次世界大戦の敗戦国となったドイツ第三帝国は多額の賠償金に加えて襲いかかる恐慌に国の存続の危機に陥っていた。援助の約束をしたアメリカは恐慌を理由に賠償金の支援を破棄。フランスは、自らを救うために支払いの延期は認めない姿勢を貫く。 ドイツ第三帝国は自らの存続のために、世界に隠しながら軍備の拡張に奔走することになる。 また、極東の国大日本帝国。関係の悪化の一途を辿る日米関係によって受ける経済的打撃に苦しんでいた。 その解決法として提案された大東亜共栄圏。東南アジア諸国及び中国を含めた大経済圏、生存圏の構築に力を注ごうとしていた。 この小説は、ドイツ第三帝国と大日本帝国の2視点で進んでいく。現代では有り得なかった様々なイフが含まれる。それを楽しんで貰えたらと思う。 またこの小説はいかなる思想を賛美、賞賛するものでは無い。 この小説は現代とは似て非なるもの。登場人物は史実には沿わないので悪しからず… 大日本帝国視点は都合上休止中です。気分により再開するらもしれません。 【重要】 不定期更新。超絶不定期更新です。

マルチバース豊臣家の人々

かまぼこのもと
歴史・時代
1600年9月 後に天下人となる予定だった徳川家康は焦っていた。 ーーこんなはずちゃうやろ? それもそのはず、ある人物が生きていたことで時代は大きく変わるのであった。 果たして、この世界でも家康の天下となるのか!?  そして、豊臣家は生き残ることができるのか!?

猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~

橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。 記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。 これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語 ※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります

処理中です...