128 / 268
第一百三十話 灯下封口・笑裏に刃
しおりを挟む
八重美が案内したのは、大きな屋敷の正門ではなかった。
脇にある、小さな門だ。
敷居は低いのに、奥は深い。
灯りは抑えられ、必要以上に明るくならないように絞られている。
光が話の中身を照らし過ぎないように、わざと暗くしているようだった。
部屋の中では、誰かが机に突っ伏すように座っていた。
机の上には文書が広げられているが、筆先は宙に止まっている。
痩せた背中だが、座り方は釘のように真っ直ぐだ。
八重美は入ってすぐ、救いを求める言葉ではなく、何気ない冗談めいたひと言を先に落として、部屋に張りつめた空気を半寸ほど削り取った。
「ここの門はね、東山の雨よりケチなんです。」
彼女は軽くため息をつく。
「もう少し遅かったら、門前でキノコが生えるところでした。」
机に向かっていた人物は、喉の奥で咳を一つ。
その一声で、人の世界に引き戻されたようだった。
「八重美。連れてきたのは、誰だ。」
八重美は身を引き、柳澈涵を灯りのいちばん安定したところに立たせる。
「澄原先生。医者です。」
返事は簡潔だった。「命だけを救い、門の内か外かは問いません。」
相手は顔を上げ、まず柳澈涵の手を見る。
指は長く、指の腹には古いマメ。
次に弥助の背負った薬箱と木刀に目を移し、見えない名簿に照らし合わせているかのようだった。
「この京は、最近風当たりがきつい。」
その人はゆっくりと言う。
「医者が門を間違えれば、面倒を呼ぶ。」
八重美は、ほんの少しだけ笑った。
その笑みは甘くはなく、むしろ袖の中に刃を隠したような鋭さがあった。
「面倒を連れてくるのは門じゃなくて、口ですよ。」
と、彼女は言った。「口さえ暴れなければ、門は荒れません。」
言葉が終わらないうちに、外から細い音が届く。
誰かが来た。
現れた男は、きちんとした衣をまとい、腰には刀を帯びていた。
だが鞘口は布で丁寧に包まれている。
その包み方にも作法がある。
斬るためではなく、話しに来た印としての布巻き。
彼はまず机の人物に一礼し、次に八重美に軽く会釈をし、最後に柳澈涵に視線を移した。
「東山に澄原先生あり、との噂を耳にしております。」
口調は穏やかだ。「お目にかかって納得しました。気配が違う。」
弥助の背筋が強ばる。
握った木刀の手に、自然と力がこもる。
八重美は、彼の緊張など見えていないかのように振る舞う。
灯心をそっとつまみ、少しだけ明るくした。
その光がちょうど、来訪者の袖口の紋様を照らし出す。
あまりにもはっきりと。
――門の内側の印を、そのまま見せている。
それは同時に、無言の注意だった。
門の印を見せて入ってきた以上、門の規矩に従ってもらいますよ――という。
来訪者の視線が、一瞬だけ揺らぐ。
すぐに、それを引っ込めた。
「一つだけ伺いたい。」
彼は八重美に向き直る。「八重美殿と、この澄原先生とは、どういうご関係で?」
柔らかな問いだ。
だがそれは刀だ。
関係を問うことは、身分を迫ること。
身分を迫ることは、どちら側の人間かを決めさせること。
弥助の喉が上下し、何か言いかける。
柳澈涵は動かない。
彼が動かないのは、八重美がどう動くのかを待っているからだ。
もし彼女が「門」であるなら、この一撃は門が受けるべき刃だった。
八重美は、予想通りに動いた。
彼女は質問に正面から「関係」を答えることはしない。
代わりに、そっと机の角に手を置き、さりげないふうを装いながら、積まれた文書の最上段の一行目に指先を乗せる。
「関係とおっしゃる?」
彼女は顔を上げ、さらに軽く笑う。「では、こちらからも一つお聞きしてもよろしいですか。あなたは今日、この門にお入りになるとき、門の内からの“お許し”をお持ちでしたか。」
来訪者は言葉を詰まらせた。
八重美は、返事を待たずに続ける。
「もし許しを持って入られたのなら、門の内側でそのように“名分を迫る”問いは、本来してはならないはずです。
持たずに入られたのなら――なおさら、してはならない。」
言葉は、礼法そのものとして落とされた。
礼法が床に置かれた瞬間、なお問い詰めるならば、その者こそが無礼になる。
これが、彼女の封じ方だ。
真正面からぶつかるのではなく、相手を自分で規矩の袋小路に追い込んでいく。
来訪者はしばし黙し、やがて苦笑ともつかぬ笑みを浮かべた。
「八重美殿の舌は、ずいぶんと鋭い。」
「ただ、あなたの舌のほうが危なっかしく見えましたので。」
八重美は小さく嘆息する。「門の中の陶器を割られては困ります。割ったところで、あなたには買い戻せないでしょう?」
机の人物も、ようやく声を発した。
「そこまででいい。」
「澄原先生は医者だ。まずは病を診ていただこう。ほかの話は、風が少し弱まってからで構わん。」
来訪者は手を合わせ、一歩引いた。
引き際に、柳澈涵に向けた視線には、軽蔑はなかった。
むしろ、一振りの刀の鞘の形を覚え込むかのような目つきだった。
柳澈涵がようやく口を開く。
「病人は?」
八重美は振り向き、その目から一瞬にして笑みの色を消した。
「奥の間です。」
声は低く、「彼が倒れれば、京のどこかで、この夏の風に乗ってもっと大きな火が起こされます。」
柳澈涵は彼女の後に続く。
弥助が追いかけるとき、来訪者が机の人にささやくのを耳にした。
押し殺した声で、二文字だけ。
「久秀。」
八重美の足は止まらない。
だが、戸口の柱に差し掛かったとき、指先で木をかすめるように一撫でした。
その一撫では、名を刻んで沈める印のようだ。
名を声に出す前に、木の中に押し込めてしまう。
灯は揺れずに燃えていた。
京の風だけが、ますます強くなっていく。
脇にある、小さな門だ。
敷居は低いのに、奥は深い。
灯りは抑えられ、必要以上に明るくならないように絞られている。
光が話の中身を照らし過ぎないように、わざと暗くしているようだった。
部屋の中では、誰かが机に突っ伏すように座っていた。
机の上には文書が広げられているが、筆先は宙に止まっている。
痩せた背中だが、座り方は釘のように真っ直ぐだ。
八重美は入ってすぐ、救いを求める言葉ではなく、何気ない冗談めいたひと言を先に落として、部屋に張りつめた空気を半寸ほど削り取った。
「ここの門はね、東山の雨よりケチなんです。」
彼女は軽くため息をつく。
「もう少し遅かったら、門前でキノコが生えるところでした。」
机に向かっていた人物は、喉の奥で咳を一つ。
その一声で、人の世界に引き戻されたようだった。
「八重美。連れてきたのは、誰だ。」
八重美は身を引き、柳澈涵を灯りのいちばん安定したところに立たせる。
「澄原先生。医者です。」
返事は簡潔だった。「命だけを救い、門の内か外かは問いません。」
相手は顔を上げ、まず柳澈涵の手を見る。
指は長く、指の腹には古いマメ。
次に弥助の背負った薬箱と木刀に目を移し、見えない名簿に照らし合わせているかのようだった。
「この京は、最近風当たりがきつい。」
その人はゆっくりと言う。
「医者が門を間違えれば、面倒を呼ぶ。」
八重美は、ほんの少しだけ笑った。
その笑みは甘くはなく、むしろ袖の中に刃を隠したような鋭さがあった。
「面倒を連れてくるのは門じゃなくて、口ですよ。」
と、彼女は言った。「口さえ暴れなければ、門は荒れません。」
言葉が終わらないうちに、外から細い音が届く。
誰かが来た。
現れた男は、きちんとした衣をまとい、腰には刀を帯びていた。
だが鞘口は布で丁寧に包まれている。
その包み方にも作法がある。
斬るためではなく、話しに来た印としての布巻き。
彼はまず机の人物に一礼し、次に八重美に軽く会釈をし、最後に柳澈涵に視線を移した。
「東山に澄原先生あり、との噂を耳にしております。」
口調は穏やかだ。「お目にかかって納得しました。気配が違う。」
弥助の背筋が強ばる。
握った木刀の手に、自然と力がこもる。
八重美は、彼の緊張など見えていないかのように振る舞う。
灯心をそっとつまみ、少しだけ明るくした。
その光がちょうど、来訪者の袖口の紋様を照らし出す。
あまりにもはっきりと。
――門の内側の印を、そのまま見せている。
それは同時に、無言の注意だった。
門の印を見せて入ってきた以上、門の規矩に従ってもらいますよ――という。
来訪者の視線が、一瞬だけ揺らぐ。
すぐに、それを引っ込めた。
「一つだけ伺いたい。」
彼は八重美に向き直る。「八重美殿と、この澄原先生とは、どういうご関係で?」
柔らかな問いだ。
だがそれは刀だ。
関係を問うことは、身分を迫ること。
身分を迫ることは、どちら側の人間かを決めさせること。
弥助の喉が上下し、何か言いかける。
柳澈涵は動かない。
彼が動かないのは、八重美がどう動くのかを待っているからだ。
もし彼女が「門」であるなら、この一撃は門が受けるべき刃だった。
八重美は、予想通りに動いた。
彼女は質問に正面から「関係」を答えることはしない。
代わりに、そっと机の角に手を置き、さりげないふうを装いながら、積まれた文書の最上段の一行目に指先を乗せる。
「関係とおっしゃる?」
彼女は顔を上げ、さらに軽く笑う。「では、こちらからも一つお聞きしてもよろしいですか。あなたは今日、この門にお入りになるとき、門の内からの“お許し”をお持ちでしたか。」
来訪者は言葉を詰まらせた。
八重美は、返事を待たずに続ける。
「もし許しを持って入られたのなら、門の内側でそのように“名分を迫る”問いは、本来してはならないはずです。
持たずに入られたのなら――なおさら、してはならない。」
言葉は、礼法そのものとして落とされた。
礼法が床に置かれた瞬間、なお問い詰めるならば、その者こそが無礼になる。
これが、彼女の封じ方だ。
真正面からぶつかるのではなく、相手を自分で規矩の袋小路に追い込んでいく。
来訪者はしばし黙し、やがて苦笑ともつかぬ笑みを浮かべた。
「八重美殿の舌は、ずいぶんと鋭い。」
「ただ、あなたの舌のほうが危なっかしく見えましたので。」
八重美は小さく嘆息する。「門の中の陶器を割られては困ります。割ったところで、あなたには買い戻せないでしょう?」
机の人物も、ようやく声を発した。
「そこまででいい。」
「澄原先生は医者だ。まずは病を診ていただこう。ほかの話は、風が少し弱まってからで構わん。」
来訪者は手を合わせ、一歩引いた。
引き際に、柳澈涵に向けた視線には、軽蔑はなかった。
むしろ、一振りの刀の鞘の形を覚え込むかのような目つきだった。
柳澈涵がようやく口を開く。
「病人は?」
八重美は振り向き、その目から一瞬にして笑みの色を消した。
「奥の間です。」
声は低く、「彼が倒れれば、京のどこかで、この夏の風に乗ってもっと大きな火が起こされます。」
柳澈涵は彼女の後に続く。
弥助が追いかけるとき、来訪者が机の人にささやくのを耳にした。
押し殺した声で、二文字だけ。
「久秀。」
八重美の足は止まらない。
だが、戸口の柱に差し掛かったとき、指先で木をかすめるように一撫でした。
その一撫では、名を刻んで沈める印のようだ。
名を声に出す前に、木の中に押し込めてしまう。
灯は揺れずに燃えていた。
京の風だけが、ますます強くなっていく。
0
あなたにおすすめの小説
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
強いられる賭け~脇坂安治軍記~
恩地玖
歴史・時代
浅井家の配下である脇坂家は、永禄11年に勃発した観音寺合戦に、織田・浅井連合軍の一隊として参戦する。この戦を何とか生き延びた安治は、浅井家を見限り、織田方につくことを決めた。そんな折、羽柴秀吉が人を集めているという話を聞きつけ、早速、秀吉の元に向かい、秀吉から温かく迎えられる。
こうして、秀吉の家臣となった安治は、幾多の困難を乗り越えて、ついには淡路三万石の大名にまで出世する。
しかし、秀吉亡き後、石田三成と徳川家康の対立が決定的となった。秀吉からの恩に報い、石田方につくか、秀吉子飼いの武将が従った徳川方につくか、安治は決断を迫られることになる。
不屈の葵
ヌマサン
歴史・時代
戦国乱世、不屈の魂が未来を掴む!
これは三河の弱小国主から天下人へ、不屈の精神で戦国を駆け抜けた男の壮大な物語。
幾多の戦乱を生き抜き、不屈の精神で三河の弱小国衆から天下統一を成し遂げた男、徳川家康。
本作は家康の幼少期から晩年までを壮大なスケールで描き、戦国時代の激動と一人の男の成長物語を鮮やかに描く。
家康の苦悩、決断、そして成功と失敗。様々な人間ドラマを通して、人生とは何かを問いかける。
今川義元、織田信長、羽柴秀吉、武田信玄――家康の波乱万丈な人生を彩る個性豊かな名将たちも続々と登場。
家康との関わりを通して、彼らの生き様も鮮やかに描かれる。
笑いあり、涙ありの壮大なスケールで描く、単なる英雄譚ではなく、一人の人間として苦悩し、成長していく家康の姿を描いた壮大な歴史小説。
戦国時代の風雲児たちの活躍、人間ドラマ、そして家康の不屈の精神が、読者を戦国時代に誘う。
愛、友情、そして裏切り…戦国時代に渦巻く人間ドラマにも要注目!
歴史ファン必読の感動と興奮が止まらない歴史小説『不屈の葵』
ぜひ、手に取って、戦国時代の熱き息吹を感じてください!
世界はあるべき姿へ戻される 第二次世界大戦if戦記
颯野秋乃
歴史・時代
1929年に起きた、世界を巻き込んだ大恐慌。世界の大国たちはそれからの脱却を目指し、躍起になっていた。第一次世界大戦の敗戦国となったドイツ第三帝国は多額の賠償金に加えて襲いかかる恐慌に国の存続の危機に陥っていた。援助の約束をしたアメリカは恐慌を理由に賠償金の支援を破棄。フランスは、自らを救うために支払いの延期は認めない姿勢を貫く。
ドイツ第三帝国は自らの存続のために、世界に隠しながら軍備の拡張に奔走することになる。
また、極東の国大日本帝国。関係の悪化の一途を辿る日米関係によって受ける経済的打撃に苦しんでいた。
その解決法として提案された大東亜共栄圏。東南アジア諸国及び中国を含めた大経済圏、生存圏の構築に力を注ごうとしていた。
この小説は、ドイツ第三帝国と大日本帝国の2視点で進んでいく。現代では有り得なかった様々なイフが含まれる。それを楽しんで貰えたらと思う。
またこの小説はいかなる思想を賛美、賞賛するものでは無い。
この小説は現代とは似て非なるもの。登場人物は史実には沿わないので悪しからず…
大日本帝国視点は都合上休止中です。気分により再開するらもしれません。
【重要】
不定期更新。超絶不定期更新です。
マルチバース豊臣家の人々
かまぼこのもと
歴史・時代
1600年9月
後に天下人となる予定だった徳川家康は焦っていた。
ーーこんなはずちゃうやろ?
それもそのはず、ある人物が生きていたことで時代は大きく変わるのであった。
果たして、この世界でも家康の天下となるのか!?
そして、豊臣家は生き残ることができるのか!?
猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~
橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。
記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。
これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語
※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる