戦国澄心伝

RyuChoukan

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第一百三十一話 近侍問策・一時の退き

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     奥の間にいる男は、静かに横たわっていた。

静かすぎる。

病というより、誰かに呼吸そのものを薄い布で覆われたかのようだった。

柳澈涵が脈を取る。

指先が触れた瞬間に、この脈が「心火を無理やり押さえ込んだ脈」だと知る。

ただの不眠ではない。

恐怖を薬のように飲まされすぎ、そのせいで気の流れが逆に詰まってしまった脈だ。

八重美は屏風の外に立ち、一歩も線を越えない。

急かしもせず、問いもしない。

ただ、柳澈涵が立ち上がる瞬間を見計らったように、小さな箱を弥助の手に渡した。

中には、清潔な布と温めた酒。

準備は完璧だった。

その用意周到さは、行き当たりばったりのものではない。

最初からこうなると踏んでいた者の備え方だ。

弥助は、はたと悟る。

――彼女は助けを「乞い」に来たのではない。この門を「開けて歩かせる」ために来たのだ、と。

柳澈涵は針を打つ。

針は羽のように軽く落ちる。

だが一本一本が、「押し込まれた恐怖」から、わずかな隙間をこじ開けていく。

男の胸の上下は、ようやく少しだけ整い、額の冷や汗もわずかに引いていった。

屏風の外から、低い声が届く。

「澄原先生、少しお時間を。」

柳澈涵が屏風を出ると、先ほど机についていた人物が立ち上がっていた。

今はより身軽な衣服に着替えている。

袖口の紋様はそのままだが、深く折り込まれている。

主ではない。

主のすぐ傍にいて、風を聞く役目――近侍の姿だ。

「主君が、一つ問うておられる。」

近侍の声は揺れない。

「先生は、この京の風をどう見ておられるか。今は“鋒”をいったん避けるべき時かと。」

八重美が顔を上げ、その目が一瞬だけ光る。

すぐに伏せて、口は挟まない。

彼女はただ、立つ位置を屏風の端から戸口の脇へと移した。

いつでも退路が作れるように。

柳澈涵は近侍を見た。

「その鋒から逃げるとしたら――誰の刃を避けるのです?」

近侍は答えず、視線だけを奥の室内に滑らせた。

それだけで十分だった。

柳澈涵は少しの間黙り、やがて口を開く。

「もし半歩退くことができるなら、その鋒は別のところに落ちるでしょう。

退かぬなら、鋒は真っ直ぐ胸に刺さります。この夏の京は、病ではなく――刀です。」

近侍の喉がごくりと動く。

「主君は、退かれません。」

彼は低く言った。「退けば、そのまま二度と戻れぬと。」

その言葉が落ちた瞬間、部屋の空気は急に暑くなる。

八重美の指先が、袖の中で軽く握られた。

めったに出ない、彼女の乱れの兆し。

しかし、すぐにまた離された。

柳澈涵はうなずく。

「それなら道は一つしかありません。」

「門を、もっと強くすること。

刀を、もっと深く隠すこと。

そして、まだ生きていていい人間を、先に守ることです。」

近侍は柳澈涵を見据える。

「先生は、守ってくださるのですか。」

柳澈涵の声は静かだ。

「わたしが守るのは、京の中で理不尽に斬り捨てられるべきではないものです。

もしあなたの主が、自らをその一部に含めるなら――そのときは、守ります。」

近侍は深々と頭を下げた。

「今の言葉、そのままお伝えします。」

外へ出ようとしたとき、風に紛れてほのかな焦げ臭さが鼻をかすめる。

炭でも、松明でもない。

火縄の灰の匂いだった。

弥助はその匂いに気づき、背筋を冷やす。

八重美は、気づかないふりをしているようだった。

ただ、近侍の影が戸口から消えるのと同時に、柳澈涵にそっと囁く。

「先生。京の中で、“名分”を火種に使う連中が、動き始めました。」

柳澈涵は顔を上げ、彼女を見る。

その目には、助けを求める色はない。

あるのは、限りなく澄んだ状況判断だけだ。

柳澈涵は初めて思う。

――この女は、美しさで生きているのではない。

――分寸で生きているのだ、と。

そして、その分寸こそが、刃の上でいちばん習得の難しい技なのだと。

外の雨は止んでいた。

けれど、京の夏は、ここからが本当に熱くなる。
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