142 / 268
第一百四十四話 桑名の湊・海路に火を含む
しおりを挟む
京都から尾張へ戻るのに、いちばん早い道は官道ではない。記録に残らない水面だ。
桑名の潮の匂いには、生臭さがあった。その生臭さには、油と塩と魚鱗と、帳場の墨の匂いが混ざっている。
港の杭は黒い歯の列のように並び、船が横付けされるたび、綱が締まる音が荒い息遣いのように響く。
ここでは刀はあまり要らない。必要なのは目と秤だ。
柳澈涵は「澄原先生」の名で、船頭の手首を診た。長年、綱を握ってきたその手首は、関節に石を詰め込まれたかのように腫れ上がり、夜になると痛みに眠れないという。
「そこに座りなさい。」
柳澈涵は船頭を腰掛に座らせると、まず手首の要穴に一本、浅く針を入れる。捻りはきつめだ。
次に外側の経絡の要所へ透すように一刺しし、最後に親指で手首の背側の筋の節目を、結び目を解いていくように、少しずつ押し広げていく。
船頭は試しに拳を握り、顔色を変えた。
「……まるで、誰かにこの手を返してもらったみたいだ。」
「手は元からお前のものだ。ただ、お前が酷使に貸し出しすぎただけだ。」柳澈涵は淡々と言う。「次に綱を張るときは、死に物狂いで握り締めるな。握るほど、寿命は縮む。」
船頭は笑いを引っ込め、声を潜める。
「この港は、最近どうにも落ち着かねえ。塩も米も油紙も、全部“誰かの手”を通らなきゃ動かねえ。南蛮の小物や砂糖やガラス細工もそうだ。全部“どこかの帳簿”を通していく。はっきりしねえやり方で通せねえ荷は、そもそも海に出られねえ。」
柳澈涵は「誰の手か」は問わない。
代わりに「どう通すのか」を訊いた。
船頭の説明は率直だった。
塩はどの水路を通るか、米はどの蔵からどの蔵へ、布はどの行が値を決め、油紙はどの印形をもらうか。海から来た砂糖、ガラス細工、火縄の油を沁み込ませた布切れ──それらはすべて大きな荷の腹の中に、魚が針を飲み込むように紛れ込ませる。
鉄砲に関わる“硬い品”については、一度だけ触れるに留めた。
「それから……鉄の細工を少し。あれを狙ってる目がいちばん多い。」
柳澈涵は、その「目が多い」という一言を心にしまい込み、それ以上は深くえぐらない。
無理やり引き出した言葉は、たいてい澱で濁っていて、道まで汚してしまう。
午後、八重美のもとへ「雅な席に」「茶でも」と招きが来た。
港の風に浮かれた旦那衆が、「曲でも聞いて気を晴らしてはどうか」と、彼女の“驚き”を鎮めてやろうというのだ。言葉づかいは整っているが、視線はそうではない。
潮風の中で、八重美はごく薄い笑みを浮かべた。礼儀だけを相手に見せるような笑いだ。
「ご厚意はありがたく頂きますけれど、私は夫と一緒の道しか歩きません。“雅な席”には参りませんわ。」
彼女は一拍置き、声をほんの少し硬くする。戸に閂をかける時の音のように。
「お礼を言うなら、私ではなく夫に。『驚きを鎮める』なら、京で見て記してきたものの方がよほどひどいですもの。この港の“驚き”程度では、私の心は揺れません。」
男は顔を引きつらせながら、なお笑みを崩さない。
「さすが京からお越しの方は……。」
八重美は同じ薄さで笑い返した。だが、その笑いには礼の中に刃が仕込まれている。
「京から来たからこそ、筋を知っているのよ。筋があるからこそ、“入っていい門”と“入ってはいけない門”がある。あなたが“招く”ことを知っているなら、“引き下がる”ことも、ご存じのはずでしょう?」
言葉は角を立てない。だが、相手の差し出した手は、そのまま袖の中へ押し戻された。
その夜、彼らは港に近い小さな家に泊まった。潮気は重く、床板はわずかに鳴る。
柳澈涵は昼間に聞き集めた“通し方”を書き付けていた。行は短い。短いが、一本一本の線が縄をぎゅっと締め上げるような力を持っている。
弥助には意味がわからない。ただ、その数行だけで、港中の綱が締め付けられているように感じた。
戸口で、八重美がふいに口を開く。
「夫君。港の人たちが、私のことを“京から来た女”みたいだって言ってたわ。……あなたのことも、そう言われたら怒る?」
柳澈涵は顔を上げる。
「似ているかどうかは、口が決めることじゃない。」
「じゃあ、何が決めるの?」
「歩くとき、かかとをどこへ落とすか。手を上げたとき、掌を誰の方へ向けるか。誰かを押し返したとき、自分が一歩も下がらないでいられるか。」
八重美はぱちりと瞬きをし、いたずらっぽさをまた一枚、奥へしまい込んだ。
「夫君の口は冷たいのに、心は本当に細かいのね。だからこそ、人は命まで預けたくなる。」
柳澈涵は答えず、窓の外の潮の満ち引きを見た。
潮は何も言わないが、港じゅうの帳面を、一日何度もひっくり返してみせる力を持っている。
桑名の潮の匂いには、生臭さがあった。その生臭さには、油と塩と魚鱗と、帳場の墨の匂いが混ざっている。
港の杭は黒い歯の列のように並び、船が横付けされるたび、綱が締まる音が荒い息遣いのように響く。
ここでは刀はあまり要らない。必要なのは目と秤だ。
柳澈涵は「澄原先生」の名で、船頭の手首を診た。長年、綱を握ってきたその手首は、関節に石を詰め込まれたかのように腫れ上がり、夜になると痛みに眠れないという。
「そこに座りなさい。」
柳澈涵は船頭を腰掛に座らせると、まず手首の要穴に一本、浅く針を入れる。捻りはきつめだ。
次に外側の経絡の要所へ透すように一刺しし、最後に親指で手首の背側の筋の節目を、結び目を解いていくように、少しずつ押し広げていく。
船頭は試しに拳を握り、顔色を変えた。
「……まるで、誰かにこの手を返してもらったみたいだ。」
「手は元からお前のものだ。ただ、お前が酷使に貸し出しすぎただけだ。」柳澈涵は淡々と言う。「次に綱を張るときは、死に物狂いで握り締めるな。握るほど、寿命は縮む。」
船頭は笑いを引っ込め、声を潜める。
「この港は、最近どうにも落ち着かねえ。塩も米も油紙も、全部“誰かの手”を通らなきゃ動かねえ。南蛮の小物や砂糖やガラス細工もそうだ。全部“どこかの帳簿”を通していく。はっきりしねえやり方で通せねえ荷は、そもそも海に出られねえ。」
柳澈涵は「誰の手か」は問わない。
代わりに「どう通すのか」を訊いた。
船頭の説明は率直だった。
塩はどの水路を通るか、米はどの蔵からどの蔵へ、布はどの行が値を決め、油紙はどの印形をもらうか。海から来た砂糖、ガラス細工、火縄の油を沁み込ませた布切れ──それらはすべて大きな荷の腹の中に、魚が針を飲み込むように紛れ込ませる。
鉄砲に関わる“硬い品”については、一度だけ触れるに留めた。
「それから……鉄の細工を少し。あれを狙ってる目がいちばん多い。」
柳澈涵は、その「目が多い」という一言を心にしまい込み、それ以上は深くえぐらない。
無理やり引き出した言葉は、たいてい澱で濁っていて、道まで汚してしまう。
午後、八重美のもとへ「雅な席に」「茶でも」と招きが来た。
港の風に浮かれた旦那衆が、「曲でも聞いて気を晴らしてはどうか」と、彼女の“驚き”を鎮めてやろうというのだ。言葉づかいは整っているが、視線はそうではない。
潮風の中で、八重美はごく薄い笑みを浮かべた。礼儀だけを相手に見せるような笑いだ。
「ご厚意はありがたく頂きますけれど、私は夫と一緒の道しか歩きません。“雅な席”には参りませんわ。」
彼女は一拍置き、声をほんの少し硬くする。戸に閂をかける時の音のように。
「お礼を言うなら、私ではなく夫に。『驚きを鎮める』なら、京で見て記してきたものの方がよほどひどいですもの。この港の“驚き”程度では、私の心は揺れません。」
男は顔を引きつらせながら、なお笑みを崩さない。
「さすが京からお越しの方は……。」
八重美は同じ薄さで笑い返した。だが、その笑いには礼の中に刃が仕込まれている。
「京から来たからこそ、筋を知っているのよ。筋があるからこそ、“入っていい門”と“入ってはいけない門”がある。あなたが“招く”ことを知っているなら、“引き下がる”ことも、ご存じのはずでしょう?」
言葉は角を立てない。だが、相手の差し出した手は、そのまま袖の中へ押し戻された。
その夜、彼らは港に近い小さな家に泊まった。潮気は重く、床板はわずかに鳴る。
柳澈涵は昼間に聞き集めた“通し方”を書き付けていた。行は短い。短いが、一本一本の線が縄をぎゅっと締め上げるような力を持っている。
弥助には意味がわからない。ただ、その数行だけで、港中の綱が締め付けられているように感じた。
戸口で、八重美がふいに口を開く。
「夫君。港の人たちが、私のことを“京から来た女”みたいだって言ってたわ。……あなたのことも、そう言われたら怒る?」
柳澈涵は顔を上げる。
「似ているかどうかは、口が決めることじゃない。」
「じゃあ、何が決めるの?」
「歩くとき、かかとをどこへ落とすか。手を上げたとき、掌を誰の方へ向けるか。誰かを押し返したとき、自分が一歩も下がらないでいられるか。」
八重美はぱちりと瞬きをし、いたずらっぽさをまた一枚、奥へしまい込んだ。
「夫君の口は冷たいのに、心は本当に細かいのね。だからこそ、人は命まで預けたくなる。」
柳澈涵は答えず、窓の外の潮の満ち引きを見た。
潮は何も言わないが、港じゅうの帳面を、一日何度もひっくり返してみせる力を持っている。
0
あなたにおすすめの小説
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
強いられる賭け~脇坂安治軍記~
恩地玖
歴史・時代
浅井家の配下である脇坂家は、永禄11年に勃発した観音寺合戦に、織田・浅井連合軍の一隊として参戦する。この戦を何とか生き延びた安治は、浅井家を見限り、織田方につくことを決めた。そんな折、羽柴秀吉が人を集めているという話を聞きつけ、早速、秀吉の元に向かい、秀吉から温かく迎えられる。
こうして、秀吉の家臣となった安治は、幾多の困難を乗り越えて、ついには淡路三万石の大名にまで出世する。
しかし、秀吉亡き後、石田三成と徳川家康の対立が決定的となった。秀吉からの恩に報い、石田方につくか、秀吉子飼いの武将が従った徳川方につくか、安治は決断を迫られることになる。
不屈の葵
ヌマサン
歴史・時代
戦国乱世、不屈の魂が未来を掴む!
これは三河の弱小国主から天下人へ、不屈の精神で戦国を駆け抜けた男の壮大な物語。
幾多の戦乱を生き抜き、不屈の精神で三河の弱小国衆から天下統一を成し遂げた男、徳川家康。
本作は家康の幼少期から晩年までを壮大なスケールで描き、戦国時代の激動と一人の男の成長物語を鮮やかに描く。
家康の苦悩、決断、そして成功と失敗。様々な人間ドラマを通して、人生とは何かを問いかける。
今川義元、織田信長、羽柴秀吉、武田信玄――家康の波乱万丈な人生を彩る個性豊かな名将たちも続々と登場。
家康との関わりを通して、彼らの生き様も鮮やかに描かれる。
笑いあり、涙ありの壮大なスケールで描く、単なる英雄譚ではなく、一人の人間として苦悩し、成長していく家康の姿を描いた壮大な歴史小説。
戦国時代の風雲児たちの活躍、人間ドラマ、そして家康の不屈の精神が、読者を戦国時代に誘う。
愛、友情、そして裏切り…戦国時代に渦巻く人間ドラマにも要注目!
歴史ファン必読の感動と興奮が止まらない歴史小説『不屈の葵』
ぜひ、手に取って、戦国時代の熱き息吹を感じてください!
世界はあるべき姿へ戻される 第二次世界大戦if戦記
颯野秋乃
歴史・時代
1929年に起きた、世界を巻き込んだ大恐慌。世界の大国たちはそれからの脱却を目指し、躍起になっていた。第一次世界大戦の敗戦国となったドイツ第三帝国は多額の賠償金に加えて襲いかかる恐慌に国の存続の危機に陥っていた。援助の約束をしたアメリカは恐慌を理由に賠償金の支援を破棄。フランスは、自らを救うために支払いの延期は認めない姿勢を貫く。
ドイツ第三帝国は自らの存続のために、世界に隠しながら軍備の拡張に奔走することになる。
また、極東の国大日本帝国。関係の悪化の一途を辿る日米関係によって受ける経済的打撃に苦しんでいた。
その解決法として提案された大東亜共栄圏。東南アジア諸国及び中国を含めた大経済圏、生存圏の構築に力を注ごうとしていた。
この小説は、ドイツ第三帝国と大日本帝国の2視点で進んでいく。現代では有り得なかった様々なイフが含まれる。それを楽しんで貰えたらと思う。
またこの小説はいかなる思想を賛美、賞賛するものでは無い。
この小説は現代とは似て非なるもの。登場人物は史実には沿わないので悪しからず…
大日本帝国視点は都合上休止中です。気分により再開するらもしれません。
【重要】
不定期更新。超絶不定期更新です。
マルチバース豊臣家の人々
かまぼこのもと
歴史・時代
1600年9月
後に天下人となる予定だった徳川家康は焦っていた。
ーーこんなはずちゃうやろ?
それもそのはず、ある人物が生きていたことで時代は大きく変わるのであった。
果たして、この世界でも家康の天下となるのか!?
そして、豊臣家は生き残ることができるのか!?
猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~
橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。
記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。
これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語
※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる