戦国澄心伝

RyuChoukan

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第一百四十四話 桑名の湊・海路に火を含む

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            京都から尾張へ戻るのに、いちばん早い道は官道ではない。記録に残らない水面だ。

  桑名の潮の匂いには、生臭さがあった。その生臭さには、油と塩と魚鱗と、帳場の墨の匂いが混ざっている。

  港の杭は黒い歯の列のように並び、船が横付けされるたび、綱が締まる音が荒い息遣いのように響く。

  ここでは刀はあまり要らない。必要なのは目と秤だ。

  柳澈涵は「澄原先生」の名で、船頭の手首を診た。長年、綱を握ってきたその手首は、関節に石を詰め込まれたかのように腫れ上がり、夜になると痛みに眠れないという。

「そこに座りなさい。」

  柳澈涵は船頭を腰掛に座らせると、まず手首の要穴に一本、浅く針を入れる。捻りはきつめだ。

  次に外側の経絡の要所へ透すように一刺しし、最後に親指で手首の背側の筋の節目を、結び目を解いていくように、少しずつ押し広げていく。

  船頭は試しに拳を握り、顔色を変えた。

「……まるで、誰かにこの手を返してもらったみたいだ。」

「手は元からお前のものだ。ただ、お前が酷使に貸し出しすぎただけだ。」柳澈涵は淡々と言う。「次に綱を張るときは、死に物狂いで握り締めるな。握るほど、寿命は縮む。」

  船頭は笑いを引っ込め、声を潜める。

「この港は、最近どうにも落ち着かねえ。塩も米も油紙も、全部“誰かの手”を通らなきゃ動かねえ。南蛮の小物や砂糖やガラス細工もそうだ。全部“どこかの帳簿”を通していく。はっきりしねえやり方で通せねえ荷は、そもそも海に出られねえ。」

  柳澈涵は「誰の手か」は問わない。

  代わりに「どう通すのか」を訊いた。

  船頭の説明は率直だった。

  塩はどの水路を通るか、米はどの蔵からどの蔵へ、布はどの行が値を決め、油紙はどの印形をもらうか。海から来た砂糖、ガラス細工、火縄の油を沁み込ませた布切れ──それらはすべて大きな荷の腹の中に、魚が針を飲み込むように紛れ込ませる。

  鉄砲に関わる“硬い品”については、一度だけ触れるに留めた。

「それから……鉄の細工を少し。あれを狙ってる目がいちばん多い。」

  柳澈涵は、その「目が多い」という一言を心にしまい込み、それ以上は深くえぐらない。

  無理やり引き出した言葉は、たいてい澱で濁っていて、道まで汚してしまう。

  午後、八重美のもとへ「雅な席に」「茶でも」と招きが来た。

  港の風に浮かれた旦那衆が、「曲でも聞いて気を晴らしてはどうか」と、彼女の“驚き”を鎮めてやろうというのだ。言葉づかいは整っているが、視線はそうではない。

  潮風の中で、八重美はごく薄い笑みを浮かべた。礼儀だけを相手に見せるような笑いだ。

「ご厚意はありがたく頂きますけれど、私は夫と一緒の道しか歩きません。“雅な席”には参りませんわ。」

  彼女は一拍置き、声をほんの少し硬くする。戸に閂をかける時の音のように。

「お礼を言うなら、私ではなく夫に。『驚きを鎮める』なら、京で見て記してきたものの方がよほどひどいですもの。この港の“驚き”程度では、私の心は揺れません。」

  男は顔を引きつらせながら、なお笑みを崩さない。

「さすが京からお越しの方は……。」

  八重美は同じ薄さで笑い返した。だが、その笑いには礼の中に刃が仕込まれている。

「京から来たからこそ、筋を知っているのよ。筋があるからこそ、“入っていい門”と“入ってはいけない門”がある。あなたが“招く”ことを知っているなら、“引き下がる”ことも、ご存じのはずでしょう?」

  言葉は角を立てない。だが、相手の差し出した手は、そのまま袖の中へ押し戻された。

  その夜、彼らは港に近い小さな家に泊まった。潮気は重く、床板はわずかに鳴る。

  柳澈涵は昼間に聞き集めた“通し方”を書き付けていた。行は短い。短いが、一本一本の線が縄をぎゅっと締め上げるような力を持っている。

  弥助には意味がわからない。ただ、その数行だけで、港中の綱が締め付けられているように感じた。

  戸口で、八重美がふいに口を開く。

「夫君。港の人たちが、私のことを“京から来た女”みたいだって言ってたわ。……あなたのことも、そう言われたら怒る?」

  柳澈涵は顔を上げる。

「似ているかどうかは、口が決めることじゃない。」

「じゃあ、何が決めるの?」

「歩くとき、かかとをどこへ落とすか。手を上げたとき、掌を誰の方へ向けるか。誰かを押し返したとき、自分が一歩も下がらないでいられるか。」

  八重美はぱちりと瞬きをし、いたずらっぽさをまた一枚、奥へしまい込んだ。

「夫君の口は冷たいのに、心は本当に細かいのね。だからこそ、人は命まで預けたくなる。」

  柳澈涵は答えず、窓の外の潮の満ち引きを見た。

  潮は何も言わないが、港じゅうの帳面を、一日何度もひっくり返してみせる力を持っている。
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