戦国澄心伝

RyuChoukan

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第一百四十七話 澄斎帰門・白髪還真

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    清洲城でいちばん先に「人が戻った」と気づくのは、口ではない。足音だ。

暮色が落ちかけ、内郭の廊下にはもう灯がともっていた。澄斎のあるこの一帯はふだん静かで、聞こえるのは、風が簷の鈴をかすめる音と、侍女が歩く木履のかすかな響きくらいのもの。だがここのところは違っていた――阿新と阿久はいつも廊の角で立ち止まり、どこか遠くの気配に耳を澄ませる。佐吉も、座って刀を研いでいるふりをしながら、視線は何度も廊の突き当たりへと走る。

誰も「待っている」とは言わない。けれど、その仕草のすべてが告げていた――待っている、と。

ふいに、廊の外で巡番の声があがった。声は高くない。だがそこには、聞き間違えようのない「知っている」という確かさが宿っていた。

「柳殿、お戻りにござる——!」

その一声が澄斎の中へ飛び込んだ途端、押し込めていた息が一気に抜けたようになった。阿久が真っ先に笑う。笑いながら、今にも泣きそうな顔になる。阿新はあわてて手にしていた手拭を袖の中に押し込み、初めから落ち着いていたふりをする。佐吉がいちばん先に立ち上がり、誰よりも早く踏み出しながら、口だけは相変わらず強い。

「まったく……行くとなればふっと消え、戻るとなればふっと現れる男だ。」

廊の突き当たりに、灯の下で三つの影が近づいてくる。

先頭を歩くのは柳澈涵。

京から清洲までの道中を経てなお、衣には旅の土がついているものの、刀は変わらず衣の裾の内に収まり、歩みに急きも乱れもない。旅の疲れをまとった帰参者というより、ただ場を移しただけの人間のようだった。弥助がその後ろに薬箱を背負って続き、目は灯芯のように明るく燃えている。八重美は柳澈涵の袖口に半寸だけ手を添え、彼よりほんの少しゆっくり歩きながらも、決して遅れはしない――その「付き従う」姿は、何かにすがりついているというより、ずっと前から自分の位置を彼の命の中に置いている者のものだった。

阿新が声を発したとき、その声は震えていた。それでも礼だけはきちんと守る。

「御主人様……」

柳澈涵は短く「うむ」とだけ答え、手をあげて阿新の肩にそっと触れる――そのひと押しで、この日々の不安が胸の奥へ押し戻されるようだった。阿久は横で目をこすりながら、「戻ってくださればいい……戻ってくだされば、それで……」と同じ言葉を何度も繰り返す。

佐吉はようやく柳澈涵の前に立ち、目の縁を熱くしながらも、顔だけは崩さない。

「信長公は、数日前から『必ず戻る』と申しておられたぞ。お前さんのほうがひどい。帰る日ひとつ、ろくに書きおかん。」

柳澈涵は一瞥して、淡々と言う。

「日を定めれば、道が変わる。」

佐吉は一瞬詰まり、それから歯を見せて笑った――それこそ彼の知る男だった。多くは語らない。だが、ひと言ごとが芯を射抜く。

そのとき、八重美が明るい声で呼びかけた。

「夫君。」

大きな声ではない。けれど、その一語が澄斎の梁に釘を打ち込んだかのように、「外の名」を京のほうへ固定してしまった。阿新と阿久はそろって目を丸くし、その瞳はみるみるうちに輝きを増す。連れて戻ったのは「道連れの女」ではない。「夫人」そのものだと悟ったからだ。

弥助はそのふたつの視線に照りつけられて頭をかき、「口実のことだ」と言いかける。だが柳澈涵のひと目で、その言葉は喉の奥で止まった――否定することはなかった。

八重美は、この家の者たちの喜びの色を目で受け取り、さらに柔らかく笑った。だが、彼女特有の小悪魔じみた調子は変わらない。

「澄斎の者たちは、京の城壁よりよほど固く、ものを守りますね。」

柳澈涵は淡々と返す。

「守っているのは、壁ではなく、門だ。」

そのとき、彼は手を伸ばして髪を束ねていた紐を解いた。

道中、黒く染めていた髪が指先のひと撫ででほどけ、灯りに照らされると、黒の内側から白が立ちのぼる。夜の幕を刃で裂いたように、眩しくはないが、一瞥で「真」が露わになる。

廊下は一瞬、静まり返った。

阿久は思わず「本来の御主人様のお姿だ」と叫びそうになり、阿新はその驚きをのみ込みながら、胸の内でより強く確信する。清洲に戻った今、柳澈涵はもう隠れる必要がないのだ、と。

八重美は首をかしげて彼を見つめ、その目には驚きではなく、「やっと」というような欣びだけが浮かぶ。

「夫君が清洲に戻られたからには、真の御姿で門をくぐるべきでしょう。」

柳澈涵は短く「うむ」と答えた。その声は淡々としていながら、その言葉を誓いのように胸に収める響きを持っていた。

澄斎の中は一気に忙しくなる。炭を足し、湯を沸かし、水を温め、寝所を整える――人の声は騒がしくはないが、あたたかい。弥助が手伝おうと後を追いかけかけたとき、柳澈涵が呼び止めた。

「お前は斎に残れ。」

弥助は目を瞬かせる。

「御主人、城中の軍には入らないのですか?」

柳澈涵は彼を見やり、言う。

「まず木刀を握りきれ。城には刀は余るほどある。足りないのは、乱れぬ者だ。」

弥助の胸の奥で、熱いものがふくらむ。

「はい!」

夜がさらに濃くなるころ、澄斎の灯は一斉にともった。柳澈涵は廊下に立ち、この熱を全身で聞きながら、京の冷たい風から清洲の土へ戻ってきたのだと、身体の底で受け止める。

そのとき、内郭のほうから、聞き慣れた足音が近づいてきた――巡番でも、ふつうの家臣でもない。「信長が来る」ときの歩みだ。

柳澈涵は顔をあげる。灯の下で白髪が雪のように浮かびあがる。

そしてただひと言。

「来た。」
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