戦国澄心伝

RyuChoukan

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第一百四十八話 信長先臨・一語にして名を釘づく

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     信長は、いつものように早い。会いたいと思えばすぐに来る。誰にも「顔つきを用意する時間」を与えない男だ。

内郭の廊下で、近侍たちが一歩退き、織田信長が灯の中を進んでくる。視線は澄斎の門、庭、梁を一巡し、最後に柳澈涵の白髪に止まる。そして小さく笑った。

「お前はいつも、真の顔をいちばん最後まで取っておく。」

柳澈涵は礼を取る。

「信長公。」

信長は深い礼を許さない。その視線はすぐに彼の肩越しへ抜け、廊の向こう側へ向かう。

八重美が、ちょうど内から姿を現した。清めた衣をまとい、髪はきちんと結い上げられている。だが身の置きどころは決して後ろではない。普通の女のように影に隠れようとはしない。信長を見ると、まずは礼を尽くし、その礼は十分でありながら、卑下には落ちない。

信長はその出自も、来歴も、姓すらも尋ねない。

彼が問うのは、もっと鋭い。喉元に刀の切っ先を当てるような問いだ。

「そやつは、何だ。」

廊下には灯芯の音すら聞こえそうな静けさが落ちた。近侍たちは息を詰め、「ひと言」が落ちるのを待つ。

柳澈涵は八重美の方へ身を向けない。「こう答えろ」という目配せすらしない。半歩前へ出て、彼女を自分の影の内側に収める一方で、その名を自分の名の下に釘づけにする。

「夫人でございます。」

信長の目が細くなる。

「言い切ったな。」

柳澈涵の声は平らだ。

「申します。わたしが連れ帰った夫人にございます。」

八重美は、その背後から静かに呼びかける。

「夫君。」

その一声は、卓上に茶碗がぴたりと置かれたような、揺れぬ重さを持って落ちる。「名分」というものを、熱いままに固めてしまう響きだった。信長はそれを聞いて、笑みをわずかに深める。温情に動かされたのではない。「この二人は、並び立っていられる」と見て取ったからだ。

信長は何気ないふうを装い、ふと訊く。

「京のあの風の中、お前は何と呼ばれておった?」

柳澈涵は余計な飾りもなく答える。

「外では澄原と呼ぶ者もおりました。清洲に戻れば、柳澈涵ひとつにございます。」

信長は頷く。

「よい。名を違えさせれば、刀の向きも違える。」

彼は八重美に目を向け、いきなり問う。

「怖くはないか。」

八重美は少し考え、それから軽く、しかし曖昧ではない笑みを浮かべる。

「怖くとも、ついて参ります。夫君の行くところが、わたしの行くところです。」

信長は鼻を鳴らす。賞賛とも嘲りともつかない小さな音だったが、視線はすでに柳澈涵へ戻っている。

「厄介なものを清洲へ持ち込んだな。」

柳澈涵は真正面から受け止める。

「収めてみせます。」

信長はしばし彼を見つめ、それから空中に指先をひとつ打った。見えない帳簿に、ある事柄を記入するような仕草。

「記しておけ。」

近侍がごく小さな声で応じる。

「は。」

それが許しだった。華やかな婚儀の言葉でも、堂前の儀式でもない。ただの一言「記せ」。しかし、そのひと言はどんな誓いより重い――この瞬間から、誰かがこの名分を汚そうとすれば、それは信長自身の刻んだ勘定を乱すことと同じになる。

立ち去る前に、信長はあたかも何気なく、しかし柳澈涵にひとつの鍵を渡すように告げた。

「明日は諸将が来る。猿も、利家も来る。お前のことを、他人の口から先に聞かせるな。」

柳澈涵は受ける。

「承知。」

信長の足音が遠ざかると、澄斎の中の張りつめた空気がようやく地に降りた。阿久は口元を押さえて笑い、阿新の目は今にも飛び出しそうなほど輝いている。佐吉は咳払いをひとつして、平静を装いながらも、低くつぶやかずにはいられない。

「主上がお認めになった……これで本物の『夫人』だ。」

八重美は首をかしげ、猫のような笑みで柳澈涵を見上げる。

「夫君、清洲の城も、なかなか面白そうですね。」

柳澈涵は淡々と答える。

「面白いのは、刀だ。」
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