戦国澄心伝

RyuChoukan

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第一百六十八話 第三柱落つ・氏家卜全の帰旗

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     永禄十年の仲春。川の水はゆっくりと引き、地面の泥は硬くなっていた。よく締まった泥ほど足跡は残りやすい。老臣にとって一番怖いのは、その足跡を捕まれ、罪状に書き立てられることだ。

氏家卜全は、そういう類いの老臣だった。

動かないのではない。動きが遅いのだ。残酷でないのではない。牙を見せないだけだ。

稲葉一鉄の哨戒の拍子が変わったことも、安藤守就が命門を外へ移したことも、彼は見ていた。その瞬間、悟る。――この城は攻め落とされるのではない。中身を抜かれていくのだ、と。



会合の場は城門でも渡し場でもない。官道からそう遠くはないが、余計な耳目を避けられる野寺の脇だった。

藤吉郎が先に着き、そののちに半兵衛が現れる。柳澈涵は清洲に留まり、姿を見せない。それでも、この会合の一挙手一投足が、あの男の掌の上にあることは、誰の目にも明らかだった。

氏家卜全は腰を下ろすと、挨拶もそこそこに、三つの問いを刃のように放つ。

「旗を翻したとして、尾張は我が家をどう安堵する」

「旗を翻さぬなら、美濃は我が名をどう守る」

「翻した後で、信長はわしを裏切らぬと、どう証立てる」

皮を剥いで骨を観るような質問だった。

藤吉郎が答えようとしたところで、半兵衛が手で制した。

半兵衛は、美辞麗句を用いない。ただ、一つの事実だけを告げる。

「信長公は、口先の仁義ではあなたを留めない。軍令と紙で留める」

氏家卜全は睨む。

「紙切れを信じろと?」

半兵衛は答える。

「紙が信用ならぬと言うなら、あとは城主を信じるしかない。……彼を、信じ切れますか」

氏家卜全は、一瞬だけ沈黙し、それから低く言った。

「信じられん」

半兵衛は頷く。

「ならば、紙を信じる方がましです」

藤吉郎が差し出したのは、さらに冷ややかな文書だった。そこには「忠義」という字は一文字もない。代わりに並んでいるのは引き継ぎ項目――どの要衝をどう引き渡し、どの門をどう交代させ、どの撤退路で氏家の一族をどう守り、どの要所の守りを決定的な瞬間に「半拍、緩める」か。

氏家卜全はそれを読み進めるうちに、むしろ不信が薄れていくのを感じた。これは人を酔わせる詩ではない。地に足のついた勘定書だ。

彼は顔を上げる。

「これは柳澈涵の筆か」

藤吉郎は笑う。

「清洲の眼は、人の命を帳簿に付けるのが一番巧い」

氏家卜全は紙の上に指を置く。蛇の頭を押さえ込むような力だった。

「あの男は姿を見せぬが、信用されぬのを恐れてか」

半兵衛は淡々と言う。

「姿を見せぬのは、あなたへの礼です。あなたが旗を翻すのは信長公に対してであって、柳殿に対してではない。その筋を違えぬように、という配慮でしょう」

耳に痛い言葉だが、老臣の骨を的確に突いていた。

氏家卜全は、ふっと笑いを漏らす。その笑いはごく小さかった。

「なるほど。老臣の扱いは心得ているようだ」

彼は紙を折りたたみ、袖にしまい込む。救命の綱を胸に差し入れるような仕草だった。

「栄耀は要らぬ」

氏家卜全は言う。

「求めるのは、我が家が無駄死にせぬことと、我が名が穢れとして書かれぬことだけだ」

半兵衛は静かに応じる。

「ならば、龍興殿に筆を握らせる前に、こちらで行を決めるべきです」

氏家卜全は卓を軽く指で叩いた。

「……承知した」

その一音は軽い。しかし、頭を地に擦りつける礼よりも重かった。第三の柱が落ちたという印だったからだ。

別れ際、氏家卜全はもう一つだけ尋ねた。

「信長公は、何を望んでいる」

半兵衛は、野寺の外を吹き抜ける風に目を向ける。

「速さです」

藤吉郎が、笑みを刃に変えて言葉を足す。

「美濃が、自分で気づく前に、すでに倒れ始めている――そういう速さを」

氏家卜全は頷き、背を向けた。

歩みは決して速くない。だが、その一歩一歩が、稲葉山城の基礎を一寸ずつ削り取っていくようだった。

同じ夜、稲葉山城では、龍興が取り調べ、罷免、連座を命じていた。証拠によらず、ただ疑心に任せて。

彼は人違いを捕まえ、誤った場所を罰し、間違った部署を入れ替えた。

漏れを塞いでいるつもりで、柱を一本ずつ蹴り抜いているようなものだった。

城壁を撫でる風が、耳元でささやく。

――門の閂は、もう緩んでいる、と。
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