戦国澄心伝

RyuChoukan

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第二百二十七話 姉川破り・先陣の死

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 六月二十八日、朝。姉川の浅瀬。

 最初の足軽が川へ飛び込んだ時、水が高く跳ねた。功を焦る者が速すぎた。足を滑らせ、後ろの者に押し潰されて倒れる。起き上がる前に、対岸の槍衾が落ちた。水面から突き出た槍が胸を貫き、血が熱い墨のように散る。

 最初の死体が倒れた時、川はまだ赤くならない。ただ濁りが増す。汁椀を指で一度掻き回した程度に。だが軍勢の呼吸が変わった。ここからは“戦”ではない。互いに互いを送る場だ。

 織田軍の渡河の形が震え始める。水の中では速く動けない。槍も上がらない。退こうとすれば、後ろが押す。前へ出れば、向こうが刺す。隊列は二つの力に引き裂かれ、裂け目を晒す。

 その刹那――柳澈涵が動いた。先頭へ走らない。最後尾へ隠れない。澄心軍団六十を率い、側面から縫い込む。叫ばない。突っ込まない。槍を水平にし、槍先を外へ向け、隊形を極限まで締める。棘の塊を差し込んで、乱れた部分に骨を通す。

 押し出した足軽が川縁へ追いやられ、溺れかける。柳澈涵が腕を伸ばし、力任せに引き戻す。足軽は泣きながら膝を折ろうとする。柳澈涵は一言だけ落とした。

「立て」
「お前が立てば、後ろが立てる」

 慰めではない。命令だ。だが、その命令が命を拾う。

 対岸の浅井の槍列がさらに重くなる。武士が刃を翻し、水を白波のように裂きながら飛び込む。柳澈涵の目前へ迫り、足元で水が弾けた。眼には血走った赤と、押し込めた何かが同居している。口を開いた第一声は罵りではなかった。

「澄原先生……お退きください!」

 柳澈涵の刃はまだ鞘の中。しかし指が鯉口で止まる。過去に一息だけ、場所を与える停滞。その停滞の隙に、澄心の衛士が刃を走らせた。紙を裂くように、乾いた切断。

 武士の身体がこわばり、水の中へ膝を落とす。すぐには倒れない。口が動く。もう一度“先生”と言おうとしたのだろう。柳澈涵は苦しませない。澄心村正が落ち、終わりは速かった。

 弥助は震えた。斬ることが怖いのではない。先生の眼が、明るい灯のようでありながら、底に尽きない哀しみを抱えているのが怖かった。

 柳澈涵は振り返らない。刀についた水を払うように一振りし、裂け目を押し戻して進む。戦場で最も残酷なのは殺すことではない。殺さずに済まないことだ。

 川が赤くなり始める。一面ではない。糸のような赤が、泥の底から染み出してくる。浅瀬に死体が浮き、折れた槍柄が絡む。旗は血を吸って重く垂れ、濡れた布のように沈む。

 遠く、信長が乱れの最奥を見ていた。駆け込まない。助けに入らない。扇を閉じ、声だけを投げる。背筋が凍るほど冷静な声だ。

「そこを――切らすな」
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