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第五話 サーバールームに棲む「幽霊」
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時間:同日 14:00。
場所:本社ビル32F・特命準備室。
「すみません……ここって、“落ちこぼれ”の引き取りもしてくれるんですか?」
地の底から絞り出したような、かすれて弱々しい声がドアのところから聞こえた。
本革のチェアに腰かけて書類を整理していた佐久間が顔を上げ、危うく椅子から滑り落ちそうになる。
ドア口に立っていたのは、しわだらけのグレーのパーカーを着た男だった。
脂で固まった髪が額に張りつき、背中には黒ずんだ寝袋。そこからは、何日も風呂に入っていない身体の酸っぱい臭いが立ちのぼり、この高級会議室に漂うシトラス系のアロマと激しく化学反応を起こした。
吉岡俊介。三十二歳。システム本部の課長クラスのエンジニアにして、社内で「ゴミ」とまで言われている男。
「えっと、人事の辞令で、ここに異動って……」
吉岡は、高そうなニュージーランド産ウールのカーペットを踏むこともできず、入口の大理石の床におそるおそる立ちすくんでいる。肩をすくめ、この明るすぎる部屋そのものに焼かれそうな顔つきだった。
佐久間は反射的に鼻を押さえ、すぐにそれが無礼だと気づいてあわてて立ち上がる。
「え、あ、吉岡さんですよね……どうぞ、お入りください……」
「いえ……結構です」
吉岡はうつむいたまま言った。
「俺、汚れてますから。ここで待ってます。……どうせ専務は、『ここで反省してろ』って言ってましたし」
そのときだった。
主座に座って本を読んでいた澄原龍立が、ぱたんと本を閉じた。
彼は立ち上がると、そのまままっすぐ入口へ歩いていく。
吉岡は条件反射で身をすくめた。
あの、見慣れた軽蔑の目と、怒鳴り声を待ちながら。
だが、龍立は鼻を押さえることもなく、吉岡の、真っ赤に血走って今にも閉じてしまいそうな目をじっと見つめた。
「最後に家へ帰ったのは、いつだ?」
龍立が問う。
吉岡はぽかんと口を開け、その鈍くなった頭を必死に回転させる。
「たぶん……先月です。中核トレーディングシステムがずっと不安定で、烏丸本部長に、『直るまで帰るな』って言われて。だからサーバールームの床で寝てて……」
「一ヶ月、帰ってない。サーバールームの床で?」
「はい。どうせ俺なんか、コード書くことしかできないし……会社の足引っ張るだけだって……」
吉岡は卑屈に笑った。
「みんな俺を『サーバールームの幽霊』って呼んでます。声出さなきゃ、それでいいって」
龍立の目が、すっと冷たくなる。
――その瞬間だった。
ビーッ、ビーッ、ビーッ――!
ビル全体に、いきなり警報が鳴り響いた。
佐久間のデスクのモニターが一斉にブラックアウトし、次の瞬間、目を刺すような赤い警告画面が跳ね上がる。
【SYSTEM ERROR/CRITICAL FAILURE】
廊下のスピーカーから、ほとんど叫び声に近いアナウンスが飛び込んできた。
『全員に通達! グループ中枢取引システムが重大な悪意ある攻撃を受けています! 現在、全面的にダウン! 一分あたりの損失は一億円を突破!』
『調査の結果、攻撃元IPは32階・特命準備室! 犯人は吉岡! あの狂ったやつがウイルスを仕込んだ!』
吉岡の顔から、さっと血の気が引く。膝から力が抜け、その場に崩れ落ちた。
「ち、違います……俺じゃ……。ここに来て、さっきWi-Fiにつないだだけで……」
五分も経たないうちに、エレベーターの扉が開いた。
システム本部長・烏丸慎一郎が、屈強なガードマンを引き連れてなだれ込んでくる。
金縁の眼鏡をかけ、普段は物腰柔らかな“技術系エグゼクティブ”。その顔が今は鬼のように歪み、床にひざまずいた吉岡を指さして怒鳴りつけた。
「このクズが! 人事異動が気に入らないからって会社に報復か!? 自分が何をやったか、わかってるのか!? こいつを捕まえろ! 警察に突き出せ! 塀の中で骨になるまで出してやるな!」
吉岡は全身を震わせ、頭を抱えて丸くなる。
「すみません……すみません……。ぼ、僕が悪いんです……」
まただ。
システムに不具合が出るたび、悪いのはいつも自分。
自分がやったかどうかなんて関係ない。最後には、自分が土下座する役目を押し付けられる。
すでに七十二時間ぶっ通しで、ボロボロのシステムの穴を塞いできたというのに。
二人のガードマンが乱暴に吉岡の腕をつかみ、死んだ犬でも引きずるみたいに外へ連れ出そうとした、そのとき。
「待て」
一つの手が、ガードマンの肩を押さえた。
龍立が、吉岡の前に立ちはだかっていた。
「三坊っちゃん、罪人をかばうおつもりですか?」
烏丸は目を細め、陰険な笑みを浮かべる。
「バックエンドのログにははっきり残ってますよ。奴のアカウントからの命令です。これはテロ行為だ!」
「ログ、だと?」
龍立は、ふっと鼻で笑った。
「烏丸本部長。俺が技術に疎いからといって、あんたの嘘まで見抜けないとでも?」
龍立は向き直り、床にひざまずいている吉岡の腕をぐっと引き上げた。
「吉岡、俺を見ろ」
吉岡は震えながら顔を上げる。涙と脂で濁ったレンズ越しに、ぼやけた視界の中で龍立の目がまっすぐに自分を射抜いていた。
「君はここでいちばん腕のいいエンジニアだ。違うか?」
「ぼ、僕は……」
「違うかって聞いてる!」
龍立が突然、怒鳴る。
その声に、吉岡の全身がびくりと跳ねた。
「……そ、そうです! あのコードは、全部僕が書きました!」
「じゃあ、このマシンを使って、みんなの前で本当のログを出してみろ」
龍立は、会議テーブルの上に置かれた、数百万円はするハイエンドワークステーションを指さした。
「卑屈に頭を下げるな。調べろ。『ウイルス』なのか、それとも誰かがリベート欲しさに粗悪なハードを買ったのかをな」
烏丸の顔色が、目に見えて変わる。額にじわりと汗が滲んだ。
「な、何を勝手なことを……! ここは最高機密だぞ! 奴の権限はすでに停止されて――」
「特命準備室には、最高レベルの監査権限がある」
龍立はその言葉を鋭く遮った。
「吉岡、やれ。何かあっても、責任は俺が取る」
龍立の、真正面からぶつけられた信頼の視線。
入社して十年。
誰かが自分の前に立って、飛んでくる唾や泥を全部受け止めてくれる――そんなことは、一度もなかった。
吉岡は、ぎゅっと歯を食いしばる。胸の奥で、押し込めてきた怒りの火が音を立てて燃え上がる。
彼はキーボードに飛びついた。
十本の指が、鍵盤を叩くピアニストのように踊る。
画面上のコードが、滝のように流れていく。
その瞬間、あの感覚が戻ってきた。
コードの世界にいるときだけ、自分は幽霊なんかじゃない。――神だ。
「見つけた……」
吉岡の声は震えていた。だがその震えは、次第に大きく、はっきりとした芯を持ち始める。
「ウイルス攻撃なんかじゃありません!」
「中枢サーバー群の冷却コンポーネントがオーバーヒートして起きた、物理的な遮断の連鎖故障です!」
彼はエンターキーを強く叩き込んだ。
天井の大型ホログラムディスプレイに、システムの最下層に隠されていた調達明細と温度ログが投影される。
「ログによれば、三ヶ月前。正規メーカー製のハイエンド液冷ユニットが――」
「――聞いたこともない安物の空冷ユニットに替えられてます」
「冷却不足でサーバーはずっと九十度近い高温で動かされていて、今日ついに焼き切れた」
「そして、この『コスト削減』を決裁した電子署名は――」
画面が一枚の赤い電子サインで止まる。
承認者:システム本部長 烏丸慎一郎。
場内は、しん、と静まり返った。
ガードマンたちは動けず、呆然と自分たちの上司を見つめる。
龍立はプリンターから吐き出されたばかりの証拠を抜き取り、真っ青になって脚を震わせている烏丸の前へ歩み寄った。
「正規の冷却ユニットが三千万。それを、五百万の得体の知れない廉価品に差し替えた」
「その差額二千五百万のキックバックのために、グループに一分一億の損失を出させたわけだ」
「技術を金儲けの道具にして、この一ヶ月、家にも帰らずバグを塞いできたエンジニアに、全部の罪をなすりつけるつもりだったか?」
バシンッ!
厚い書類束が、烏丸の顔面に叩きつけられた。紙が舞う。
「汚い金を抱えて、監査室で説明してこい。――もしかしたら、刑務所の空調のほうが、あんたにはお似合いかもしれないな」
「連れて行け」
今度は龍立が、ガードマンたちに命じた。
反論する者は一人もいない。
ガードマンたちはすぐに吉岡を放し、代わりに完全に力の抜けた烏丸を抱え、会議室から引きずり出していく。
部屋には、再び静寂が戻った。
ただ、サーバーのファンが回る低い唸りだけが聞こえている。
吉岡は、高価なエルゴノミクスチェアにぐったりともたれ込み、涙で油まみれの眼鏡をぐしゃぐしゃに曇らせた。
涙が顔の埃と混じり、黒い筋を作って頬を伝う。
「もう大丈夫だ」
龍立は彼のところへ歩み寄り、一枚のカードキーを差し出した。
「これは隣の澄原ホテル・五つ星のエグゼクティブスイートのカードだ。シャワーを浴びて、寝ろ。目が覚めるまで」
「明日、そのパーカーは捨ててこい。ちゃんとしたスーツを着て出社しろ。新しく買うなら、高いのでいい。俺が経費で落とす」
龍立は、目の前のぼろぼろの天才を見つめ、ふっと笑った。
「覚えておけ。特命準備室では、技術は『敵を斬るため』のものであって、『罪をかぶるため』のものじゃない」
吉岡はカードキーをぎゅっと握りしめ、子どものように声をあげて泣いた。
十年分の鬱屈が、その瞬間、一気に噴き出した。
佐久間はこっそり目頭を拭い、タブレット端末のメンバーリストに、慎重に一行を打ち込んだ。
特命準備室、メンバー:3人。
仲間を獲得:【最高技術責任者(CTO)】吉岡俊介。
場所:本社ビル32F・特命準備室。
「すみません……ここって、“落ちこぼれ”の引き取りもしてくれるんですか?」
地の底から絞り出したような、かすれて弱々しい声がドアのところから聞こえた。
本革のチェアに腰かけて書類を整理していた佐久間が顔を上げ、危うく椅子から滑り落ちそうになる。
ドア口に立っていたのは、しわだらけのグレーのパーカーを着た男だった。
脂で固まった髪が額に張りつき、背中には黒ずんだ寝袋。そこからは、何日も風呂に入っていない身体の酸っぱい臭いが立ちのぼり、この高級会議室に漂うシトラス系のアロマと激しく化学反応を起こした。
吉岡俊介。三十二歳。システム本部の課長クラスのエンジニアにして、社内で「ゴミ」とまで言われている男。
「えっと、人事の辞令で、ここに異動って……」
吉岡は、高そうなニュージーランド産ウールのカーペットを踏むこともできず、入口の大理石の床におそるおそる立ちすくんでいる。肩をすくめ、この明るすぎる部屋そのものに焼かれそうな顔つきだった。
佐久間は反射的に鼻を押さえ、すぐにそれが無礼だと気づいてあわてて立ち上がる。
「え、あ、吉岡さんですよね……どうぞ、お入りください……」
「いえ……結構です」
吉岡はうつむいたまま言った。
「俺、汚れてますから。ここで待ってます。……どうせ専務は、『ここで反省してろ』って言ってましたし」
そのときだった。
主座に座って本を読んでいた澄原龍立が、ぱたんと本を閉じた。
彼は立ち上がると、そのまままっすぐ入口へ歩いていく。
吉岡は条件反射で身をすくめた。
あの、見慣れた軽蔑の目と、怒鳴り声を待ちながら。
だが、龍立は鼻を押さえることもなく、吉岡の、真っ赤に血走って今にも閉じてしまいそうな目をじっと見つめた。
「最後に家へ帰ったのは、いつだ?」
龍立が問う。
吉岡はぽかんと口を開け、その鈍くなった頭を必死に回転させる。
「たぶん……先月です。中核トレーディングシステムがずっと不安定で、烏丸本部長に、『直るまで帰るな』って言われて。だからサーバールームの床で寝てて……」
「一ヶ月、帰ってない。サーバールームの床で?」
「はい。どうせ俺なんか、コード書くことしかできないし……会社の足引っ張るだけだって……」
吉岡は卑屈に笑った。
「みんな俺を『サーバールームの幽霊』って呼んでます。声出さなきゃ、それでいいって」
龍立の目が、すっと冷たくなる。
――その瞬間だった。
ビーッ、ビーッ、ビーッ――!
ビル全体に、いきなり警報が鳴り響いた。
佐久間のデスクのモニターが一斉にブラックアウトし、次の瞬間、目を刺すような赤い警告画面が跳ね上がる。
【SYSTEM ERROR/CRITICAL FAILURE】
廊下のスピーカーから、ほとんど叫び声に近いアナウンスが飛び込んできた。
『全員に通達! グループ中枢取引システムが重大な悪意ある攻撃を受けています! 現在、全面的にダウン! 一分あたりの損失は一億円を突破!』
『調査の結果、攻撃元IPは32階・特命準備室! 犯人は吉岡! あの狂ったやつがウイルスを仕込んだ!』
吉岡の顔から、さっと血の気が引く。膝から力が抜け、その場に崩れ落ちた。
「ち、違います……俺じゃ……。ここに来て、さっきWi-Fiにつないだだけで……」
五分も経たないうちに、エレベーターの扉が開いた。
システム本部長・烏丸慎一郎が、屈強なガードマンを引き連れてなだれ込んでくる。
金縁の眼鏡をかけ、普段は物腰柔らかな“技術系エグゼクティブ”。その顔が今は鬼のように歪み、床にひざまずいた吉岡を指さして怒鳴りつけた。
「このクズが! 人事異動が気に入らないからって会社に報復か!? 自分が何をやったか、わかってるのか!? こいつを捕まえろ! 警察に突き出せ! 塀の中で骨になるまで出してやるな!」
吉岡は全身を震わせ、頭を抱えて丸くなる。
「すみません……すみません……。ぼ、僕が悪いんです……」
まただ。
システムに不具合が出るたび、悪いのはいつも自分。
自分がやったかどうかなんて関係ない。最後には、自分が土下座する役目を押し付けられる。
すでに七十二時間ぶっ通しで、ボロボロのシステムの穴を塞いできたというのに。
二人のガードマンが乱暴に吉岡の腕をつかみ、死んだ犬でも引きずるみたいに外へ連れ出そうとした、そのとき。
「待て」
一つの手が、ガードマンの肩を押さえた。
龍立が、吉岡の前に立ちはだかっていた。
「三坊っちゃん、罪人をかばうおつもりですか?」
烏丸は目を細め、陰険な笑みを浮かべる。
「バックエンドのログにははっきり残ってますよ。奴のアカウントからの命令です。これはテロ行為だ!」
「ログ、だと?」
龍立は、ふっと鼻で笑った。
「烏丸本部長。俺が技術に疎いからといって、あんたの嘘まで見抜けないとでも?」
龍立は向き直り、床にひざまずいている吉岡の腕をぐっと引き上げた。
「吉岡、俺を見ろ」
吉岡は震えながら顔を上げる。涙と脂で濁ったレンズ越しに、ぼやけた視界の中で龍立の目がまっすぐに自分を射抜いていた。
「君はここでいちばん腕のいいエンジニアだ。違うか?」
「ぼ、僕は……」
「違うかって聞いてる!」
龍立が突然、怒鳴る。
その声に、吉岡の全身がびくりと跳ねた。
「……そ、そうです! あのコードは、全部僕が書きました!」
「じゃあ、このマシンを使って、みんなの前で本当のログを出してみろ」
龍立は、会議テーブルの上に置かれた、数百万円はするハイエンドワークステーションを指さした。
「卑屈に頭を下げるな。調べろ。『ウイルス』なのか、それとも誰かがリベート欲しさに粗悪なハードを買ったのかをな」
烏丸の顔色が、目に見えて変わる。額にじわりと汗が滲んだ。
「な、何を勝手なことを……! ここは最高機密だぞ! 奴の権限はすでに停止されて――」
「特命準備室には、最高レベルの監査権限がある」
龍立はその言葉を鋭く遮った。
「吉岡、やれ。何かあっても、責任は俺が取る」
龍立の、真正面からぶつけられた信頼の視線。
入社して十年。
誰かが自分の前に立って、飛んでくる唾や泥を全部受け止めてくれる――そんなことは、一度もなかった。
吉岡は、ぎゅっと歯を食いしばる。胸の奥で、押し込めてきた怒りの火が音を立てて燃え上がる。
彼はキーボードに飛びついた。
十本の指が、鍵盤を叩くピアニストのように踊る。
画面上のコードが、滝のように流れていく。
その瞬間、あの感覚が戻ってきた。
コードの世界にいるときだけ、自分は幽霊なんかじゃない。――神だ。
「見つけた……」
吉岡の声は震えていた。だがその震えは、次第に大きく、はっきりとした芯を持ち始める。
「ウイルス攻撃なんかじゃありません!」
「中枢サーバー群の冷却コンポーネントがオーバーヒートして起きた、物理的な遮断の連鎖故障です!」
彼はエンターキーを強く叩き込んだ。
天井の大型ホログラムディスプレイに、システムの最下層に隠されていた調達明細と温度ログが投影される。
「ログによれば、三ヶ月前。正規メーカー製のハイエンド液冷ユニットが――」
「――聞いたこともない安物の空冷ユニットに替えられてます」
「冷却不足でサーバーはずっと九十度近い高温で動かされていて、今日ついに焼き切れた」
「そして、この『コスト削減』を決裁した電子署名は――」
画面が一枚の赤い電子サインで止まる。
承認者:システム本部長 烏丸慎一郎。
場内は、しん、と静まり返った。
ガードマンたちは動けず、呆然と自分たちの上司を見つめる。
龍立はプリンターから吐き出されたばかりの証拠を抜き取り、真っ青になって脚を震わせている烏丸の前へ歩み寄った。
「正規の冷却ユニットが三千万。それを、五百万の得体の知れない廉価品に差し替えた」
「その差額二千五百万のキックバックのために、グループに一分一億の損失を出させたわけだ」
「技術を金儲けの道具にして、この一ヶ月、家にも帰らずバグを塞いできたエンジニアに、全部の罪をなすりつけるつもりだったか?」
バシンッ!
厚い書類束が、烏丸の顔面に叩きつけられた。紙が舞う。
「汚い金を抱えて、監査室で説明してこい。――もしかしたら、刑務所の空調のほうが、あんたにはお似合いかもしれないな」
「連れて行け」
今度は龍立が、ガードマンたちに命じた。
反論する者は一人もいない。
ガードマンたちはすぐに吉岡を放し、代わりに完全に力の抜けた烏丸を抱え、会議室から引きずり出していく。
部屋には、再び静寂が戻った。
ただ、サーバーのファンが回る低い唸りだけが聞こえている。
吉岡は、高価なエルゴノミクスチェアにぐったりともたれ込み、涙で油まみれの眼鏡をぐしゃぐしゃに曇らせた。
涙が顔の埃と混じり、黒い筋を作って頬を伝う。
「もう大丈夫だ」
龍立は彼のところへ歩み寄り、一枚のカードキーを差し出した。
「これは隣の澄原ホテル・五つ星のエグゼクティブスイートのカードだ。シャワーを浴びて、寝ろ。目が覚めるまで」
「明日、そのパーカーは捨ててこい。ちゃんとしたスーツを着て出社しろ。新しく買うなら、高いのでいい。俺が経費で落とす」
龍立は、目の前のぼろぼろの天才を見つめ、ふっと笑った。
「覚えておけ。特命準備室では、技術は『敵を斬るため』のものであって、『罪をかぶるため』のものじゃない」
吉岡はカードキーをぎゅっと握りしめ、子どものように声をあげて泣いた。
十年分の鬱屈が、その瞬間、一気に噴き出した。
佐久間はこっそり目頭を拭い、タブレット端末のメンバーリストに、慎重に一行を打ち込んだ。
特命準備室、メンバー:3人。
仲間を獲得:【最高技術責任者(CTO)】吉岡俊介。
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