37 / 161
第三十七話 替え玉と影
しおりを挟む
時間:22:00
場所:東京・新宿歌舞伎町・地下ライヴハウス「アビス(深淵)」
空気そのものが濁っているような、地下の安いバーだった。壁はヤニで黄ばんでいて、床はいつもねっとりと靴に張りつく。
黄ばんだ壁に掛かった古いテレビでは、国民的ガールズグループ「Honey Girls」の東京ドーム公演が生中継されている。画面のセンターで笑っている少女は、星のような笑顔のまま、難易度の高い表題曲『星の翼(スター・ウィング)』を完璧なハイトーンで歌い上げ、ドーム中の歓声を一気に爆発させた。
「すっげえな…… これがトップアイドルってやつかよ」
カウンターでへべれけになった酔っぱらいが、テレビを見上げて感嘆のため息をつく。だが、この店の片隅にいる一人だけは、その「完璧」が全部嘘だと知っていた。
小鳥遊 凛(たかなし・りん)、二十歳。かつて「天才少女アイドル」と呼ばれたその彼女は、今は安っぽいスパンコール付きのステージ衣装を着せられ、カビ臭い小さなステージに立っている。マイクを握る指の関節が、真っ白になるほど強く力がこもっていた。
テレビの中でセンターに立つあの華やかな少女は――実は五線譜もまともに読めない音痴だ。あの完璧な歌声は、先週、星光(スターライト)プロダクションの薄暗いレコーディングブースで、凛が無理やり歌わされたもの。
光を浴びているのは別の誰か。本物の歌声を与えているのは、ここにいる「影」のほうだ。
凛は静かに目を閉じ、自分の出番の曲を歌い始める――何十年も前の、古いバラード。こんな騒がしい空間の中でも、彼女の歌声はにごりなく澄み切っていて、どこか胸を締めつけるような哀しみを帯びていた。
「……いいぞ!」
客席の一番奥で、油まみれの作業着を着た四十代そこそこの男が、精一杯の拍手を送った。彼のテーブルには、一番安い水割りが一杯あるだけ。だがテーブルの下では、彼の手に一本の水色のペンライトが握りしめられている。
三年前、凛がデビューしたときの、彼女のイメージカラー――水色のペンライト。それを掲げることはない。凛に迷惑がかかるのが怖くて、彼はただ暗がりの中で、小さなその光をそっと灯しているだけだった。
「おいコラ! なんだよその葬式みたいな歌は!」
唐突に怒鳴り声が飛ぶ。何本もボトルを空けて出来上がった連中が、酒瓶をステージに向かって投げつけた。
「パリンッ!」
割れたガラス片が、凛の細い脚を裂く。
「こっちは金払ってんだよ! 暗い歌なんかいらねえんだよ!」
「おじさんはな、脚を見に来てんだよ脚を! 泣き歌じゃねえ! 一枚脱げよ、ほら!」
下卑た笑い声と共に、酔っぱらいたちはステージに上がり込み、凛の髪を掴もうと手を伸ばした。
「やめろ!!」
あの作業着姿の男が、我を忘れて飛び出す。細い身体で凛をかばおうとするが、酔っぱらいの一人に蹴り飛ばされ、床に転がった。
「ジジイが何のつもりだ、ああ?」
ウイスキーの重いボトルが振りかぶられ、凛の頭めがけて振り下ろされる――
凛は目を閉じた。来るはずの痛みは、いつまで経っても来なかった。
一筋の影が、彼女の前にすっと割り込む。しなやかで、しかし鋼のように強い右手が、落ちてくるボトルを空中でぴたりと受け止めていた。凛は目を見開く。
ステージの前に立っていたのは、黒いコートを羽織った男だった。新宿地下の濁った空気よりもなお冷たい眼差しが、その場の空気を一瞬で凍らせる。
「お前の声は――」
男はボトルをひねり取ると、そのまま手首だけの動きで酔っぱらいを床に叩きつけた。
「こんな連中に聞かせていい代物じゃない」
彼はコートを脱ぎ、震える凛の肩にそっとかけ、床に倒れた作業着の男を抱き起こす。
「行こう」
凛の、光を失った瞳を真正面から見つめ、男――澄原龍立は静かに言った。
「お前のスポットライトを、取り戻しに」
場所:東京・新宿歌舞伎町・地下ライヴハウス「アビス(深淵)」
空気そのものが濁っているような、地下の安いバーだった。壁はヤニで黄ばんでいて、床はいつもねっとりと靴に張りつく。
黄ばんだ壁に掛かった古いテレビでは、国民的ガールズグループ「Honey Girls」の東京ドーム公演が生中継されている。画面のセンターで笑っている少女は、星のような笑顔のまま、難易度の高い表題曲『星の翼(スター・ウィング)』を完璧なハイトーンで歌い上げ、ドーム中の歓声を一気に爆発させた。
「すっげえな…… これがトップアイドルってやつかよ」
カウンターでへべれけになった酔っぱらいが、テレビを見上げて感嘆のため息をつく。だが、この店の片隅にいる一人だけは、その「完璧」が全部嘘だと知っていた。
小鳥遊 凛(たかなし・りん)、二十歳。かつて「天才少女アイドル」と呼ばれたその彼女は、今は安っぽいスパンコール付きのステージ衣装を着せられ、カビ臭い小さなステージに立っている。マイクを握る指の関節が、真っ白になるほど強く力がこもっていた。
テレビの中でセンターに立つあの華やかな少女は――実は五線譜もまともに読めない音痴だ。あの完璧な歌声は、先週、星光(スターライト)プロダクションの薄暗いレコーディングブースで、凛が無理やり歌わされたもの。
光を浴びているのは別の誰か。本物の歌声を与えているのは、ここにいる「影」のほうだ。
凛は静かに目を閉じ、自分の出番の曲を歌い始める――何十年も前の、古いバラード。こんな騒がしい空間の中でも、彼女の歌声はにごりなく澄み切っていて、どこか胸を締めつけるような哀しみを帯びていた。
「……いいぞ!」
客席の一番奥で、油まみれの作業着を着た四十代そこそこの男が、精一杯の拍手を送った。彼のテーブルには、一番安い水割りが一杯あるだけ。だがテーブルの下では、彼の手に一本の水色のペンライトが握りしめられている。
三年前、凛がデビューしたときの、彼女のイメージカラー――水色のペンライト。それを掲げることはない。凛に迷惑がかかるのが怖くて、彼はただ暗がりの中で、小さなその光をそっと灯しているだけだった。
「おいコラ! なんだよその葬式みたいな歌は!」
唐突に怒鳴り声が飛ぶ。何本もボトルを空けて出来上がった連中が、酒瓶をステージに向かって投げつけた。
「パリンッ!」
割れたガラス片が、凛の細い脚を裂く。
「こっちは金払ってんだよ! 暗い歌なんかいらねえんだよ!」
「おじさんはな、脚を見に来てんだよ脚を! 泣き歌じゃねえ! 一枚脱げよ、ほら!」
下卑た笑い声と共に、酔っぱらいたちはステージに上がり込み、凛の髪を掴もうと手を伸ばした。
「やめろ!!」
あの作業着姿の男が、我を忘れて飛び出す。細い身体で凛をかばおうとするが、酔っぱらいの一人に蹴り飛ばされ、床に転がった。
「ジジイが何のつもりだ、ああ?」
ウイスキーの重いボトルが振りかぶられ、凛の頭めがけて振り下ろされる――
凛は目を閉じた。来るはずの痛みは、いつまで経っても来なかった。
一筋の影が、彼女の前にすっと割り込む。しなやかで、しかし鋼のように強い右手が、落ちてくるボトルを空中でぴたりと受け止めていた。凛は目を見開く。
ステージの前に立っていたのは、黒いコートを羽織った男だった。新宿地下の濁った空気よりもなお冷たい眼差しが、その場の空気を一瞬で凍らせる。
「お前の声は――」
男はボトルをひねり取ると、そのまま手首だけの動きで酔っぱらいを床に叩きつけた。
「こんな連中に聞かせていい代物じゃない」
彼はコートを脱ぎ、震える凛の肩にそっとかけ、床に倒れた作業着の男を抱き起こす。
「行こう」
凛の、光を失った瞳を真正面から見つめ、男――澄原龍立は静かに言った。
「お前のスポットライトを、取り戻しに」
1
あなたにおすすめの小説
番を拒み続けるΩと、執着を隠しきれないαが同じ学園で再会したら逃げ場がなくなった話 ――優等生αの過保護な束縛は恋か支配か
雪兎
BL
第二性が存在する世界。
Ωであることを隠し、平穏な学園生活を送ろうと決めていた転校生・湊。
しかし入学初日、彼の前に現れたのは――
幼い頃に「番になろう」と言ってきた幼馴染のα・蓮だった。
成績優秀、容姿端麗、生徒から絶大な信頼を集める完璧なα。
だが湊だけが知っている。
彼が異常なほど執着深いことを。
「大丈夫、全部管理してあげる」
「君が困らないようにしてるだけだよ」
座席、時間割、交友関係、体調管理。
いつの間にか整えられていく環境。
逃げ場のない距離。
番を拒みたいΩと、手放す気のないα。
これは保護か、それとも束縛か。
閉じた学園の中で、二人の関係は静かに歪み始める――。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
静かに過ごしたい冬馬君が学園のマドンナに好かれてしまった件について
おとら@ 書籍発売中
青春
この物語は、とある理由から目立ちたくないぼっちの少年の成長物語である
そんなある日、少年は不良に絡まれている女子を助けてしまったが……。
なんと、彼女は学園のマドンナだった……!
こうして平穏に過ごしたい少年の生活は一変することになる。
彼女を避けていたが、度々遭遇してしまう。
そんな中、少年は次第に彼女に惹かれていく……。
そして助けられた少女もまた……。
二人の青春、そして成長物語をご覧ください。
※中盤から甘々にご注意を。
※性描写ありは保険です。
他サイトにも掲載しております。
【完結】元ゼネコンなおっさん大賢者の、スローなもふもふ秘密基地ライフ(神獣付き)~異世界の大賢者になったのになぜか土方ばかりしてるんだがぁ?
嘉神かろ
ファンタジー
【Hotランキング3位】
ゼネコンで働くアラフォーのおっさん、多田野雄三は、ある日気がつくと、異世界にいた。
見覚えのあるその世界は、雄三が大学時代にやり込んだVR型MMOアクションRPGの世界で、当時のキャラの能力をそのまま使えるらしい。
大賢者という最高位職にある彼のやりたいことは、ただ一つ。スローライフ!
神獣たちや気がついたらできていた弟子たちと共に、おっさんは異世界で好き勝手に暮らす。
「なんだか妙に忙しい気もするねぇ。まあ、楽しいからいいんだけど」
天才天然天使様こと『三天美女』の汐崎真凜に勝手に婚姻届を出され、いつの間にか天使の旦那になったのだが...。【動画投稿】
田中又雄
恋愛
18の誕生日を迎えたその翌日のこと。
俺は分籍届を出すべく役所に来ていた...のだが。
「えっと...結論から申し上げますと...こちらの手続きは不要ですね」「...え?どういうことですか?」「昨日、婚姻届を出されているので親御様とは別の戸籍が作られていますので...」「...はい?」
そうやら俺は知らないうちに結婚していたようだった。
「あの...相手の人の名前は?」
「...汐崎真凛様...という方ですね」
その名前には心当たりがあった。
天才的な頭脳、マイペースで天然な性格、天使のような見た目から『三天美女』なんて呼ばれているうちの高校のアイドル的存在。
こうして俺は天使との-1日婚がスタートしたのだった。
俺を振ったはずの腐れ縁幼馴染が、俺に告白してきました。
true177
恋愛
一年前、伊藤 健介(いとう けんすけ)は幼馴染の多田 悠奈(ただ ゆうな)に振られた。それも、心無い手紙を下駄箱に入れられて。
それ以来悠奈を避けるようになっていた健介だが、二年生に進級した春になって悠奈がいきなり告白を仕掛けてきた。
これはハニートラップか、一年前の出来事を忘れてしまっているのか……。ともかく、健介は断った。
日常が一変したのは、それからである。やたらと悠奈が絡んでくるようになったのだ。
彼女の狙いは、いったい何なのだろうか……。
※小説家になろう、ハーメルンにも同一作品を投稿しています。
※内部進行完結済みです。毎日連載です。
追放されたS級清掃員、配信切り忘れで伝説になる「ただのゴミ掃除」と言って神話級ドラゴンを消し飛ばしていたら世界中がパニックになってますが?
あとりえむ
ファンタジー
【5話ごとのサクッと読める構成です!】全60話 完結しました。読者の皆様ありがとうございます!
世界を救ったのは、聖剣ではなく「洗剤」でした。
「君のやり方は古いんだよ」 不当な理由でS級クランを追放された、ベテラン清掃員・灰坂ソウジ(38歳)。 職を失った彼だったが、実は彼にはとんでもない秘密があった。 呪いのゴーグルのせいで、あらゆる怪物が「汚れ」にしか見えないのだ。
・神話級ドラゴン
⇒ 換気扇の頑固な油汚れ(洗剤で瞬殺)
・深淵の邪神
⇒ トイレの配管詰まり(スッポンで解決)
・次元の裂け目
⇒ 天井の雨漏りシミ(洗濯機で丸洗い)
「あー、ここ汚れてるな。チャチャッと落としておくか」
本人はただ業務として掃除をしているだけなのに、その姿は世界中で配信され、人類最強の英雄として崇められていく! 可愛い元ダンジョン・コアや、潔癖症の聖女も入社し、会社は今日も大忙し。 一方、彼を追放した元クランは、汚れ(モンスター)に埋もれて破滅寸前で……?
「地球が汚れてる? じゃあ、一回丸洗いしますか」 最強の清掃員が、モップ片手に世界をピカピカにする、痛快・勘違い無双ファンタジー!
【免責事項】
この物語はフィクションです。実在の人物・団体とは関係ありません。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる