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第五十三話 白い川
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時:初夏 正午12:00
所:群馬県・嬬恋村(関東高原野菜の中枢)
空気に土の匂いはない。
代わりに鼻を刺す、発酵した酸腐の悪臭が漂っていた。
龍立は風化した石橋の上に立ち、眉を寄せる。
足元の川は、澄んでいない。
不気味に濃い——乳白色。
牛乳だった。
トン単位の、搾りたての牛乳。
上流では、日に焼け、手にまめを刻んだ酪農家たちが、重いミルク缶を機械のように運ぶ。
顔には麻痺した涙が張りつき、まだ体温の残る牛乳を、次々と冷たい川へ注ぎ込んでいく。
「ざばぁ——」
白い液体が川で渦巻く。
まるで大地が泣いているようだった。
河岸の畑では、さらに残酷な光景。
「JA」の文字を塗った重機トラクターが轟き、巨大なタイヤが、山のように積まれた白菜と大根を容赦なく踏み潰す。
乾いた破裂音が、野に響き渡った。
「……これが、日本が誇る農業か。」
龍立の声は氷のように冷たい。
隣に立つのは小林。特命室時代からの老臣で、いまは澄心物流・関東責任者。
拳を握りしめ、爪が掌に食い込んでいた。
「社長。これは全農連(JA-Union)の鉄則です。」
小林は歯ぎしりした。
「市場価格を維持するため、“過剰”や“規格外”は現地で廃棄。これを『生産調整』と言います。」
「貧しい人に配ればいいだろう。」
「できません。それは『価格体系を乱す』と言って潰される。」
「福祉施設や貧困層に安く流した農家は農協から外されます。外されれば、肥料も買えず、銀行も金を貸さない。日本の農村でそれは——死刑宣告です。」
「……反吐が出る。」
龍立の目に火が点いた。
彼は畦道を下りていく。
古びたビニールハウスの前で、背中の曲がった老人が、燃える松明を震える手で掲げていた。
田中健次(たなか けんじ)、70歳。
自分が育てたトマト畑を、焼こうとしている。
火が、絶望の顔を照らしていた。
「おじさん、やめろ。」
龍立は駆け寄り、その手首を掴む。
「止めるな……」
田中は嗚咽し、声は擦れていた。
「監査がさっき帰った……トマトが小さい、色が揃ってない、全部“二級品”だって……」
「その場で焼かなきゃ、次の種子ローンは降りない……」
「……こいつらは俺の子どもなんだ……音楽を聞かせて、いい水をやって……なんで丸くないだけで死ななきゃならん……」
龍立は松明を奪い、土に叩き落として踏み消した。
ハウスへ入り、形の歪んだトマトを一つ摘む。
泥が付いている。だが彼は気にしない。
高級オーダースーツの袖で拭い、そのまま齧った。
「——ぐしゃ。」
果汁が溢れる。
口いっぱいに、濃い酸味と甘みが弾けた。
スーパーの、輸送のために固く育てられた“赤い球”じゃない。
太陽と雨と土の、原初の味だった。
「……うまい。」
龍立の目が光る。
「これが、トマトの味だ。」
その時、「JA監査」の腕章をつけた男たちが近づいてきた。
先頭の男はガムを噛み、苛立った顔で吐き捨てる。
「おい、スーツの野郎。誰が“廃品”を食えって言った? JAS規格に合わねえんだ。廃棄がルールだ。邪魔すんな。」
龍立はゆっくり振り返る。
「ルール?」
監査員を見て、背後の泣く農民を指す。
「耕す者を泣かせ、食う者を飢えさせる。そんなルールを——誰が決めた?」
「は?お前、何様だ。全農連が決めたんだ。揉めたくなきゃ消えろ。」
監査員が龍立を押した。
龍立は微動だにしない。
逆に手首を掴み、ほんの少し力を入れただけで、男は痛みに膝をついた。
「よく聞け。」
龍立はスマホを取り出し、電話をかける。
「小林。車隊を回せ。澄原物流の冷凍冷蔵トラック、全部持ってこい。」
「50台でも100台でもいい。ここを塞げ。」
そして、野に響く声で言い切った。
その言葉は、農民たちの耳に、骨の髄まで届いた。
「この牛乳、このトマト、そして潰された大根——全部買う。」
「価格は農協買取の120%。——現金払いだ。」
その日、嬬恋村の農民は泣くのをやめた。
銀色の冷鏈トラックが畑へ列をなし、救いの“銀の龍”が来たのだと、人々は息を呑んだ。
所:群馬県・嬬恋村(関東高原野菜の中枢)
空気に土の匂いはない。
代わりに鼻を刺す、発酵した酸腐の悪臭が漂っていた。
龍立は風化した石橋の上に立ち、眉を寄せる。
足元の川は、澄んでいない。
不気味に濃い——乳白色。
牛乳だった。
トン単位の、搾りたての牛乳。
上流では、日に焼け、手にまめを刻んだ酪農家たちが、重いミルク缶を機械のように運ぶ。
顔には麻痺した涙が張りつき、まだ体温の残る牛乳を、次々と冷たい川へ注ぎ込んでいく。
「ざばぁ——」
白い液体が川で渦巻く。
まるで大地が泣いているようだった。
河岸の畑では、さらに残酷な光景。
「JA」の文字を塗った重機トラクターが轟き、巨大なタイヤが、山のように積まれた白菜と大根を容赦なく踏み潰す。
乾いた破裂音が、野に響き渡った。
「……これが、日本が誇る農業か。」
龍立の声は氷のように冷たい。
隣に立つのは小林。特命室時代からの老臣で、いまは澄心物流・関東責任者。
拳を握りしめ、爪が掌に食い込んでいた。
「社長。これは全農連(JA-Union)の鉄則です。」
小林は歯ぎしりした。
「市場価格を維持するため、“過剰”や“規格外”は現地で廃棄。これを『生産調整』と言います。」
「貧しい人に配ればいいだろう。」
「できません。それは『価格体系を乱す』と言って潰される。」
「福祉施設や貧困層に安く流した農家は農協から外されます。外されれば、肥料も買えず、銀行も金を貸さない。日本の農村でそれは——死刑宣告です。」
「……反吐が出る。」
龍立の目に火が点いた。
彼は畦道を下りていく。
古びたビニールハウスの前で、背中の曲がった老人が、燃える松明を震える手で掲げていた。
田中健次(たなか けんじ)、70歳。
自分が育てたトマト畑を、焼こうとしている。
火が、絶望の顔を照らしていた。
「おじさん、やめろ。」
龍立は駆け寄り、その手首を掴む。
「止めるな……」
田中は嗚咽し、声は擦れていた。
「監査がさっき帰った……トマトが小さい、色が揃ってない、全部“二級品”だって……」
「その場で焼かなきゃ、次の種子ローンは降りない……」
「……こいつらは俺の子どもなんだ……音楽を聞かせて、いい水をやって……なんで丸くないだけで死ななきゃならん……」
龍立は松明を奪い、土に叩き落として踏み消した。
ハウスへ入り、形の歪んだトマトを一つ摘む。
泥が付いている。だが彼は気にしない。
高級オーダースーツの袖で拭い、そのまま齧った。
「——ぐしゃ。」
果汁が溢れる。
口いっぱいに、濃い酸味と甘みが弾けた。
スーパーの、輸送のために固く育てられた“赤い球”じゃない。
太陽と雨と土の、原初の味だった。
「……うまい。」
龍立の目が光る。
「これが、トマトの味だ。」
その時、「JA監査」の腕章をつけた男たちが近づいてきた。
先頭の男はガムを噛み、苛立った顔で吐き捨てる。
「おい、スーツの野郎。誰が“廃品”を食えって言った? JAS規格に合わねえんだ。廃棄がルールだ。邪魔すんな。」
龍立はゆっくり振り返る。
「ルール?」
監査員を見て、背後の泣く農民を指す。
「耕す者を泣かせ、食う者を飢えさせる。そんなルールを——誰が決めた?」
「は?お前、何様だ。全農連が決めたんだ。揉めたくなきゃ消えろ。」
監査員が龍立を押した。
龍立は微動だにしない。
逆に手首を掴み、ほんの少し力を入れただけで、男は痛みに膝をついた。
「よく聞け。」
龍立はスマホを取り出し、電話をかける。
「小林。車隊を回せ。澄原物流の冷凍冷蔵トラック、全部持ってこい。」
「50台でも100台でもいい。ここを塞げ。」
そして、野に響く声で言い切った。
その言葉は、農民たちの耳に、骨の髄まで届いた。
「この牛乳、このトマト、そして潰された大根——全部買う。」
「価格は農協買取の120%。——現金払いだ。」
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