71 / 140
第七十一話 奪われた60%
しおりを挟む
時刻:深夜 23:45
場所:澄心ホールディングス本社ビル・清掃用具室
深夜のオフィスビルは、なお眩しく灯っている。だがそれは、選ばれた者たちの輝きだ。
清掃用具室の隅で、四十五歳の大島由美(Oshima Yumi)は晩飯をかき込んでいた。コンビニで買った、賞味期限ぎりぎりの値引き冷やしおにぎり。
彼女はシングルマザーだ。昼はコンビニで働き、夜はここで清掃に入る。高校生の息子に参考書を買ってやりたくて、肉を口にしていない月がもう三つ。澄心が用意した広い寮(福利厚生)に住めても、金は残らない。賃金が、あまりにも低いからだ。
「……ゴホ、ゴホ……」
由美は激しく咳き込み、口元を押さえたハンカチに、赤がにじんだ。それでも止まれない。決められた時間内にこの階のガラス拭きを終えなければ、派遣会社が容赦なく減給する。
そのとき、扉が開いた。会議を終え、帰宅の途中だった澄原龍立(すみはら りゅうりつ)が、咳の音に足を止めた。
由美は反射的に、おにぎりを背中に隠した。「サボりを見つかった」――それだけで罰せられる、身体に染みついた恐怖。
「す、すみません! 理事長! すぐ仕事します! どうか苦情だけは……!」
由美は蒼白になり、雑巾を掴んで壁へ向かおうとした。だが低血糖で視界が揺れ、ふっと力が抜けた。身体が糸の切れた人形みたいに崩れ落ちる。
龍立が、間一髪で支えた。触れた瞬間、胸が冷える。――痩せすぎている。皮で骨を包んだだけの、軽さ。
「動くな。吉岡、医者を呼べ。」
龍立は由美を椅子に座らせる。そのとき、由美のポケットから、くしゃくしゃの給与明細が落ちた。龍立が拾い上げる。数字を見た瞬間、眉が寄った。
・勤務先:澄心ホールディングス本社
・職種:上級清掃スタッフ(派遣)
・派遣元:帝国人材
・時給:1,100円(東京都の最低賃金を少し上回る程度)
・控除:制服レンタル料、管理費、入社手数料、技能研修費……
・手取り:月12万円
「……おかしい。」
龍立は駆けつけた佐久間を振り向く。「うちは外注清掃の基準単価をいくらで出している?」
佐久間が契約書を確認し、顔色を失った。「社長……こちらの発注単価は時給3,000円です。夜勤はさらに手当が上乗せされます。」
3,000円 対 1,100円。六割以上が――途中で消えている。
「帝国人材……」
龍立は、まだ震えている由美を見た。罰金を恐れ、倒れかけても「働かなきゃ」と目が言っている。彼女は命を削って働き、汗と健康を差し出しているのに、息子の参考書一冊さえ買えない。一方で、何もしていない中間業者は、冷房の効いた部屋で座ったまま、彼女の血汗を吸い上げている。
龍立はしゃがみ込み、由美と視線の高さを揃えた。「大島さん。あなたは――毎月これだけ抜かれているのを、知っていましたか。」
由美は苦く笑い、皺の溝に涙が流れ込んだ。「知ってます……でも、どうしようもないんです。『帝国人材』を通さなきゃ、私みたいな年の、学歴のない人間を大企業は雇ってくれない。彼らが仕事の入口を全部握ってるんです。」
そして、絞り出すように言う。「……これが運命なんでしょうね。私たちは“派遣”で、“正社員”じゃない。二等市民なんです。」
龍立の指が、給与明細を握り潰した。紙が粉になる。
「違う。それは運命じゃない。」龍立の声が低く落ちる。「――略奪だ。」
彼は立ち上がり、自分のカシミヤのコートを由美の肩に掛けた。「佐久間、法務に連絡。明日、俺はこの『帝国人材』に会いに行く。」
目が冷たく光る。「動かずに、どうして貧しい人間の飯碗の半分以上を食えるのか――聞いてやる。」
場所:澄心ホールディングス本社ビル・清掃用具室
深夜のオフィスビルは、なお眩しく灯っている。だがそれは、選ばれた者たちの輝きだ。
清掃用具室の隅で、四十五歳の大島由美(Oshima Yumi)は晩飯をかき込んでいた。コンビニで買った、賞味期限ぎりぎりの値引き冷やしおにぎり。
彼女はシングルマザーだ。昼はコンビニで働き、夜はここで清掃に入る。高校生の息子に参考書を買ってやりたくて、肉を口にしていない月がもう三つ。澄心が用意した広い寮(福利厚生)に住めても、金は残らない。賃金が、あまりにも低いからだ。
「……ゴホ、ゴホ……」
由美は激しく咳き込み、口元を押さえたハンカチに、赤がにじんだ。それでも止まれない。決められた時間内にこの階のガラス拭きを終えなければ、派遣会社が容赦なく減給する。
そのとき、扉が開いた。会議を終え、帰宅の途中だった澄原龍立(すみはら りゅうりつ)が、咳の音に足を止めた。
由美は反射的に、おにぎりを背中に隠した。「サボりを見つかった」――それだけで罰せられる、身体に染みついた恐怖。
「す、すみません! 理事長! すぐ仕事します! どうか苦情だけは……!」
由美は蒼白になり、雑巾を掴んで壁へ向かおうとした。だが低血糖で視界が揺れ、ふっと力が抜けた。身体が糸の切れた人形みたいに崩れ落ちる。
龍立が、間一髪で支えた。触れた瞬間、胸が冷える。――痩せすぎている。皮で骨を包んだだけの、軽さ。
「動くな。吉岡、医者を呼べ。」
龍立は由美を椅子に座らせる。そのとき、由美のポケットから、くしゃくしゃの給与明細が落ちた。龍立が拾い上げる。数字を見た瞬間、眉が寄った。
・勤務先:澄心ホールディングス本社
・職種:上級清掃スタッフ(派遣)
・派遣元:帝国人材
・時給:1,100円(東京都の最低賃金を少し上回る程度)
・控除:制服レンタル料、管理費、入社手数料、技能研修費……
・手取り:月12万円
「……おかしい。」
龍立は駆けつけた佐久間を振り向く。「うちは外注清掃の基準単価をいくらで出している?」
佐久間が契約書を確認し、顔色を失った。「社長……こちらの発注単価は時給3,000円です。夜勤はさらに手当が上乗せされます。」
3,000円 対 1,100円。六割以上が――途中で消えている。
「帝国人材……」
龍立は、まだ震えている由美を見た。罰金を恐れ、倒れかけても「働かなきゃ」と目が言っている。彼女は命を削って働き、汗と健康を差し出しているのに、息子の参考書一冊さえ買えない。一方で、何もしていない中間業者は、冷房の効いた部屋で座ったまま、彼女の血汗を吸い上げている。
龍立はしゃがみ込み、由美と視線の高さを揃えた。「大島さん。あなたは――毎月これだけ抜かれているのを、知っていましたか。」
由美は苦く笑い、皺の溝に涙が流れ込んだ。「知ってます……でも、どうしようもないんです。『帝国人材』を通さなきゃ、私みたいな年の、学歴のない人間を大企業は雇ってくれない。彼らが仕事の入口を全部握ってるんです。」
そして、絞り出すように言う。「……これが運命なんでしょうね。私たちは“派遣”で、“正社員”じゃない。二等市民なんです。」
龍立の指が、給与明細を握り潰した。紙が粉になる。
「違う。それは運命じゃない。」龍立の声が低く落ちる。「――略奪だ。」
彼は立ち上がり、自分のカシミヤのコートを由美の肩に掛けた。「佐久間、法務に連絡。明日、俺はこの『帝国人材』に会いに行く。」
目が冷たく光る。「動かずに、どうして貧しい人間の飯碗の半分以上を食えるのか――聞いてやる。」
1
あなたにおすすめの小説
『白い結婚だったので、勝手に離婚しました。何か問題あります?』
夢窓(ゆめまど)
恋愛
「――離婚届、受理されました。お疲れさまでした」
教会の事務官がそう言ったとき、私は心の底からこう思った。
ああ、これでようやく三年分の無視に終止符を打てるわ。
王命による“形式結婚”。
夫の顔も知らず、手紙もなし、戦地から帰ってきたという噂すらない。
だから、はい、離婚。勝手に。
白い結婚だったので、勝手に離婚しました。
何か問題あります?
夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い
青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。
神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。
もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。
生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。
過去世と同じ轍を踏みたくない……
見捨ててくれてありがとうございます。あとはご勝手に。
有賀冬馬
恋愛
「君のような女は俺の格を下げる」――そう言って、侯爵家嫡男の婚約者は、わたしを社交界で公然と捨てた。
選んだのは、華やかで高慢な伯爵令嬢。
涙に暮れるわたしを慰めてくれたのは、王国最強の騎士団副団長だった。
彼に守られ、真実の愛を知ったとき、地味で陰気だったわたしは、もういなかった。
やがて、彼は新妻の悪行によって失脚。復縁を求めて縋りつく元婚約者に、わたしは冷たく告げる。
私に告白してきたはずの先輩が、私の友人とキスをしてました。黙って退散して食事をしていたら、ハイスペックなイケメン彼氏ができちゃったのですが。
石河 翠
恋愛
飲み会の最中に席を立った主人公。化粧室に向かった彼女は、自分に告白してきた先輩と自分の友人がキスをしている現場を目撃する。
自分への告白は、何だったのか。あまりの出来事に衝撃を受けた彼女は、そのまま行きつけの喫茶店に退散する。
そこでやけ食いをする予定が、美味しいものに満足してご機嫌に。ちょっとしてネタとして先ほどのできごとを話したところ、ずっと片想いをしていた相手に押し倒されて……。
好きなひとは高嶺の花だからと諦めつつそばにいたい主人公と、アピールし過ぎているせいで冗談だと思われている愛が重たいヒーローの恋物語。
この作品は、小説家になろう及びエブリスタでも投稿しております。
扉絵は、写真ACよりチョコラテさまの作品をお借りしております。
【完結】お父様の再婚相手は美人様
すみ 小桜(sumitan)
恋愛
シャルルの父親が子連れと再婚した!
二人は美人親子で、当主であるシャルルをあざ笑う。
でもこの国では、美人だけではどうにもなりませんよ。
各務課長が「君の時間を十分ください」と言った結果
汐埼ゆたか
恋愛
実花子はカフェで恋人と待ち合わせしているが、彼はなかなか来ない。
あと十分でカフェを出ようとしたところで偶然上司の各務と会う。
各務から出し抜けに「君の時間を十分ください」と言われ、反射的に「はい」と返事をしたら、なぜか恋人役をすることになり――。
*☼*――――――――――*☼*
佐伯 実花子(さえき みかこ) 27歳
文具メーカー『株式会社MAO』企画部勤務
仕事人間で料理は苦手
×
各務 尊(かがみ たける) 30歳
実花子の上司で新人研修時代の指導担当
海外勤務から本社の最年少課長になったエリート
*☼*――――――――――*☼*
『十分』が実花子の運命を思わぬ方向へ変えていく。
――――――――――
※他サイトからの転載
※※この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。
※無断転載禁止。
辺境伯夫人は領地を紡ぐ
やまだごんた
恋愛
王命によりヴァルデン辺境伯に嫁ぐことになった、前ベルンシュタイン公爵令嬢のマルグリット。
しかし、彼女を待っていたのは60年にも及ぶ戦争で荒廃し、冬を越す薪すら足りない現実だった。
物資も人手も足りない中、マルグリットは領地の立て直しに乗り出す。
戦しか知らなかったと自省する夫と向き合いながら、少しずつ築かれていく夫婦の距離。
これは、1人の女性が領地を紡ぎ、夫と共に未来を作る「内政×溺愛」の物語です。
全50話の予定です
※表紙はイメージです
※アルファポリス先行公開(なろうにも転載予定です)
私のドレスを奪った異母妹に、もう大事なものは奪わせない
文野多咲
恋愛
優月(ゆづき)が自宅屋敷に帰ると、異母妹が優月のウェディングドレスを試着していた。その日縫い上がったばかりで、優月もまだ袖を通していなかった。
使用人たちが「まるで、異母妹のためにあつらえたドレスのよう」と褒め称えており、優月の婚約者まで「異母妹の方が似合う」と褒めている。
優月が異母妹に「どうして勝手に着たの?」と訊けば「ちょっと着てみただけよ」と言う。
婚約者は「異母妹なんだから、ちょっとくらいいじゃないか」と言う。
「ちょっとじゃないわ。私はドレスを盗られたも同じよ!」と言えば、父の後妻は「悪気があったわけじゃないのに、心が狭い」と優月の頬をぶった。
優月は父親に婚約解消を願い出た。婚約者は父親が決めた相手で、優月にはもう彼を信頼できない。
父親に事情を説明すると、「大げさだなあ」と取り合わず、「優月は異母妹に嫉妬しているだけだ、婚約者には異母妹を褒めないように言っておく」と言われる。
嫉妬じゃないのに、どうしてわかってくれないの?
優月は父親をも信頼できなくなる。
婚約者は優月を手に入れるために、優月を襲おうとした。絶体絶命の優月の前に現れたのは、叔父だった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる