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第九十三話 「48時間目の崩壊」
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時刻:清水逮捕から48時間後、深夜03:00
場所:東京拘置所・第3取調室
ここは、世界でいちばん孤独な場所だ。
四方の壁には吸音材が貼られ、頭上には惨白い蛍光灯がひとつ。神経を削るような「ジジッ」という雑音を吐き続けている。空気には古い煙の匂いと、恐怖が発酵した酸臭さが混じっていた。
清水(Shimizu、20歳)は、冷たい鉄椅子に手錠で固定されている。
あの豪雨の夜、バイクでチップを運び切った強靭な少年は、いまや面影すらない。唇は乾いて裂け、血が滲み、眼窩は落ち込み、長時間の後ろ手拘束で両手は紫色に腫れ上がっていた。
この48時間、彼は一分たりとも眠っていない。まぶたが落ちかけるたび、見張りの警官が鉄机を叩くか、分厚い書類束を耳元に叩きつけ、無理やり意識を引き戻した。
対面に座るのは、東京地検特捜部の切り札――鬼頭 厳(Kito Gen)。
寸分の乱れもない三つ揃えの濃灰スーツ。髪は一本も跳ねていない。視線はメスの刃のように冷え、清水の心の継ぎ目を正確に切り開いていく。
「清水、もうやめろ。意味がない」
鬼頭は氷水を一口飲む。喉仏の上下が、静寂の室内で異様なほど大きく響いた。
「配達先を知っていたのは、お前だけだ。監視カメラは、犯行時刻にお前が近辺にいたことを示している。被害者は独居の資産家、そしてお前は借金を抱えた孤児――これが“動機”だ」
「……ち、違います……」
清水の喉は潰れ、声は風前の灯。ひとこと吐くたび、刃で削られるように痛む。
「ぼくは……配達に……行っただけで……ドアが開いてて……声をかけて……お年寄りが倒れてて……怖くて……逃げただけで……本当に、殺してない……」
「嘘だ!」
鬼頭が机を叩いた瞬間、空気が歪むほどの威圧が走り、清水の身体が本能的に縮こまる。
「逃げたのは後ろめたいからだ! やっていないなら、なぜ逃げた?!」
泣けない。涙はもう枯れていた。清水は天井を見上げ、世界が崩れ落ちていく感覚に飲まれる。
鬼頭は立ち上がり、机を回り込む。清水の背後に立つと、身を屈め、唇を耳元に寄せた。声は急に柔らかくなる。親しい兄のような温度で、しかし言葉は悪魔そのものだった。
「清水。お前、孝行者だそうだな。身内は祖母だけ……だったか?」
清水の瞳が震える。
「世田谷の古い老人向けアパート。重い心臓病で、毎日薬が必要だ。この二日、お前がいない。薬を届ける人も、飯を作る人もいない」
鬼頭は囁くように続ける。
「さっき病院から連絡があった。お前のことが心配で、自宅で倒れたそうだ。いま、救急で処置中だ」
清水の瞳孔が収縮し、身体が激しく暴れた。手錠が椅子にぶつかり、金属音が耳を裂く。
「ばあちゃん……! お願い……電話……ばあちゃんに電話させて……!」
鬼頭は肩を押さえ、椅子へねじ伏める。
「サインすれば電話できる。サインすれば家へ帰れる。サインしなければ、“長期勾留”だ。最低でも三か月は出られない」
鬼頭の声が、最後の一撃になる。
「その頃、お前の祖母は生きていると思うか? 冷たい病院で、ひとりで死なせたいのか?」
その言葉が、清水の最後の支えを撃ち抜いた。真実も、尊厳も、耐え抜いた48時間も、身内の生死の前で粉々に砕け散る。
「……ぼく……サイン……します……」
獣の断末魔のような声。腫れた指を震わせ、すでに出来上がっていた嘘だらけの供述調書に、清水は赤い指印を押した。
その瞬間、正義は死んだ。
拘置所・面会室
時刻:朝08:00
三上弁護士と龍立は、ようやく接見を許された。
分厚い防弾ガラス越しに見えた清水は、魂を抜かれた人形のようだった。虚ろな目。龍立を見た途端、機械仕掛けのように涙だけが流れ出す。
「社長……すみません……」
清水は龍立の目を見られない。声は枯れ、砂のように崩れる。
「殺してない……でも……ばあちゃんを死なせたくなくて……サインしちゃった……」
龍立は掌をガラスに当てる。冷えた透明の壁の向こう、若者の絶望だけが伝わってくる気がした。
龍立は背後の三上へ視線を投げる。三上は歯を食いしばり、唇を切り、拳を握り潰すほど力を込めていた。
「三上」
龍立の声は、恐ろしいほど静かだった。嵐の前の海面みたいに。
「見えたか。これがこの国の司法だ。奴らは犯人を捕まえない。犯人を“製造する”。その指印を――奴らの頬を打つ平手に変えろ。何があっても。……すべてを賭けてだ」
場所:東京拘置所・第3取調室
ここは、世界でいちばん孤独な場所だ。
四方の壁には吸音材が貼られ、頭上には惨白い蛍光灯がひとつ。神経を削るような「ジジッ」という雑音を吐き続けている。空気には古い煙の匂いと、恐怖が発酵した酸臭さが混じっていた。
清水(Shimizu、20歳)は、冷たい鉄椅子に手錠で固定されている。
あの豪雨の夜、バイクでチップを運び切った強靭な少年は、いまや面影すらない。唇は乾いて裂け、血が滲み、眼窩は落ち込み、長時間の後ろ手拘束で両手は紫色に腫れ上がっていた。
この48時間、彼は一分たりとも眠っていない。まぶたが落ちかけるたび、見張りの警官が鉄机を叩くか、分厚い書類束を耳元に叩きつけ、無理やり意識を引き戻した。
対面に座るのは、東京地検特捜部の切り札――鬼頭 厳(Kito Gen)。
寸分の乱れもない三つ揃えの濃灰スーツ。髪は一本も跳ねていない。視線はメスの刃のように冷え、清水の心の継ぎ目を正確に切り開いていく。
「清水、もうやめろ。意味がない」
鬼頭は氷水を一口飲む。喉仏の上下が、静寂の室内で異様なほど大きく響いた。
「配達先を知っていたのは、お前だけだ。監視カメラは、犯行時刻にお前が近辺にいたことを示している。被害者は独居の資産家、そしてお前は借金を抱えた孤児――これが“動機”だ」
「……ち、違います……」
清水の喉は潰れ、声は風前の灯。ひとこと吐くたび、刃で削られるように痛む。
「ぼくは……配達に……行っただけで……ドアが開いてて……声をかけて……お年寄りが倒れてて……怖くて……逃げただけで……本当に、殺してない……」
「嘘だ!」
鬼頭が机を叩いた瞬間、空気が歪むほどの威圧が走り、清水の身体が本能的に縮こまる。
「逃げたのは後ろめたいからだ! やっていないなら、なぜ逃げた?!」
泣けない。涙はもう枯れていた。清水は天井を見上げ、世界が崩れ落ちていく感覚に飲まれる。
鬼頭は立ち上がり、机を回り込む。清水の背後に立つと、身を屈め、唇を耳元に寄せた。声は急に柔らかくなる。親しい兄のような温度で、しかし言葉は悪魔そのものだった。
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清水の瞳が震える。
「世田谷の古い老人向けアパート。重い心臓病で、毎日薬が必要だ。この二日、お前がいない。薬を届ける人も、飯を作る人もいない」
鬼頭は囁くように続ける。
「さっき病院から連絡があった。お前のことが心配で、自宅で倒れたそうだ。いま、救急で処置中だ」
清水の瞳孔が収縮し、身体が激しく暴れた。手錠が椅子にぶつかり、金属音が耳を裂く。
「ばあちゃん……! お願い……電話……ばあちゃんに電話させて……!」
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鬼頭の声が、最後の一撃になる。
「その頃、お前の祖母は生きていると思うか? 冷たい病院で、ひとりで死なせたいのか?」
その言葉が、清水の最後の支えを撃ち抜いた。真実も、尊厳も、耐え抜いた48時間も、身内の生死の前で粉々に砕け散る。
「……ぼく……サイン……します……」
獣の断末魔のような声。腫れた指を震わせ、すでに出来上がっていた嘘だらけの供述調書に、清水は赤い指印を押した。
その瞬間、正義は死んだ。
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「殺してない……でも……ばあちゃんを死なせたくなくて……サインしちゃった……」
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