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第九十九話 豪邸の“飼育箱”
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場所:東京・世田谷区・田村邸
時刻:午前09:30
典型的な“バブル期の豪邸”だった。庭の羅漢松は値が付かないほど高価――しかし半分は枯れ落ちている。工藤孝太は、重厚な赤檀の門の前で足を止めた。マスク越しでも、甘ったるく発酵した悪臭が、見えない触手のように喉を締め上げてくる。
「破門!」
特警の破城槌が轟き、長く封じられていた扉が開いた。
「……ゔぉえッ!」
先頭の若い刑事が玄関で膝をつき、マスクを引き剥がして嘔吐した。空気に漂うのは、死体の腐敗臭(プトレシン/カダベリン)と高級アロマの混成――単なる死臭よりも、はるかに“気持ち悪い”。
工藤は高価なペルシャ絨毯を踏み、リビングへ入った。カーテンは閉じ切られ、昼なのに夜のように暗い。部屋の中央、真皮のソファに――干からびて黒ずんだ遺体が座っていた。
田村の七十五歳の父。元・大蔵省の高級官僚。体裁だけは整った絹の寝間着。片手がソファの縁から垂れ、床には爪で抉ったような擦過痕――心筋梗塞で倒れ、もがいた最後の痕跡がくっきり残っている。
法医学者は一目で言い切った。「死亡推定、少なくとも三週間。遺体は……ソファに“溶けて”います」
だが工藤の頭皮を這い上がらせ、全身を震えさせたのは、遺体そのものではない。“道”だった。
玄関から廊下の奥まで、高級デリバリーの空き容器が積み上がっている。特上うな重、懐石弁当、松阪牛の折詰。それは散らかしたゴミではない。蹴り退けられ、曲がりくねった“通路”として形作られていた。
その道は、父の腐乱した遺体を跨ぎ、床に流れた腐敗液を避け、まっすぐ廊下の突き当たり――固く閉ざされた一枚の扉へ伸びている。扉の隙間には、派手な布がぎっしり詰め込まれていた。
近づいた工藤の瞳孔が収縮する。エルメスとシャネルのスカーフ――数十万円。それが今は、雑巾のように隙間塞ぎに使われている。目的は一つ。父の腐臭が部屋に入り、息子のゲーム体験を汚さないため。
「中の人間! 出てこい!」
特警が銃を構え怒鳴る。応答はない。かすかに、昂った電子合成音だけが漏れてくる。
――爆破。
扉が吹き飛び、冷気が噴き出した。室内には最高級の空気清浄機が二台。空気は不自然なほど“綺麗”で、ラベンダーの香りまでしている。
四十五歳の田村(Tamura)は、最上位のノイズキャンセリングヘッドホンを装着し、背を向けたまま――三台の巨大4Kモニターに向かって、狂ったようにマウスを連打していた。発光キーボードの上で指が舞う。残像しか見えない速さ。
冷たい銃口が後頭部に触れて、ようやく振り向く。陽に当たらない顔。真っ白で、むくみ、深海のアンコウみたいに生気がない。彼は武装した警官を見て、扉の外――三週間“跨ぎ続けた”父の遺体を見た。
泣かない。ただ、画面が灰色になった瞬間、顔が歪み、怒りが爆発した。指差し、赤ん坊のような甲高い泣き喚き。
「クソが! 回線落としただろ! ギルド戦、負けた! 俺の順位どうしてくれる!? 殺してやる!!」
工藤は扉口に立ち尽くし、四十五歳の巨大な赤子を見下ろし――骨の髄から冷えた。
父の書斎で、工藤は分厚い『未来計画書』を見つけた。父が生前最後に書いたものだ。死後も信託基金が自動送金し、息子が八十まで外出せず、人に会わず、生きていけるよう――緻密に計算されている。
「これが日本のエリート階層か……」工藤は紙束を拾い上げ、手が震えた。「数億円と溺愛で、人間性のいらない“完璧な飼育箱”を作った。死ぬ瞬間まで、この人喰いの怪物が飢えないかを心配していたんだ」
――同時刻、澄心本部。
龍立は田村事件の報告書を読み、嫌悪を見せない。むしろ、薄い冷笑を浮かべた。
「田村は日本に百万人いる」
「トップクラスの集中力を持ちながら、部屋に閉じ込められた“脳”が百万人だ」
「工藤は悲劇を見てる。だが俺は――鉱脈を見ている」
時刻:午前09:30
典型的な“バブル期の豪邸”だった。庭の羅漢松は値が付かないほど高価――しかし半分は枯れ落ちている。工藤孝太は、重厚な赤檀の門の前で足を止めた。マスク越しでも、甘ったるく発酵した悪臭が、見えない触手のように喉を締め上げてくる。
「破門!」
特警の破城槌が轟き、長く封じられていた扉が開いた。
「……ゔぉえッ!」
先頭の若い刑事が玄関で膝をつき、マスクを引き剥がして嘔吐した。空気に漂うのは、死体の腐敗臭(プトレシン/カダベリン)と高級アロマの混成――単なる死臭よりも、はるかに“気持ち悪い”。
工藤は高価なペルシャ絨毯を踏み、リビングへ入った。カーテンは閉じ切られ、昼なのに夜のように暗い。部屋の中央、真皮のソファに――干からびて黒ずんだ遺体が座っていた。
田村の七十五歳の父。元・大蔵省の高級官僚。体裁だけは整った絹の寝間着。片手がソファの縁から垂れ、床には爪で抉ったような擦過痕――心筋梗塞で倒れ、もがいた最後の痕跡がくっきり残っている。
法医学者は一目で言い切った。「死亡推定、少なくとも三週間。遺体は……ソファに“溶けて”います」
だが工藤の頭皮を這い上がらせ、全身を震えさせたのは、遺体そのものではない。“道”だった。
玄関から廊下の奥まで、高級デリバリーの空き容器が積み上がっている。特上うな重、懐石弁当、松阪牛の折詰。それは散らかしたゴミではない。蹴り退けられ、曲がりくねった“通路”として形作られていた。
その道は、父の腐乱した遺体を跨ぎ、床に流れた腐敗液を避け、まっすぐ廊下の突き当たり――固く閉ざされた一枚の扉へ伸びている。扉の隙間には、派手な布がぎっしり詰め込まれていた。
近づいた工藤の瞳孔が収縮する。エルメスとシャネルのスカーフ――数十万円。それが今は、雑巾のように隙間塞ぎに使われている。目的は一つ。父の腐臭が部屋に入り、息子のゲーム体験を汚さないため。
「中の人間! 出てこい!」
特警が銃を構え怒鳴る。応答はない。かすかに、昂った電子合成音だけが漏れてくる。
――爆破。
扉が吹き飛び、冷気が噴き出した。室内には最高級の空気清浄機が二台。空気は不自然なほど“綺麗”で、ラベンダーの香りまでしている。
四十五歳の田村(Tamura)は、最上位のノイズキャンセリングヘッドホンを装着し、背を向けたまま――三台の巨大4Kモニターに向かって、狂ったようにマウスを連打していた。発光キーボードの上で指が舞う。残像しか見えない速さ。
冷たい銃口が後頭部に触れて、ようやく振り向く。陽に当たらない顔。真っ白で、むくみ、深海のアンコウみたいに生気がない。彼は武装した警官を見て、扉の外――三週間“跨ぎ続けた”父の遺体を見た。
泣かない。ただ、画面が灰色になった瞬間、顔が歪み、怒りが爆発した。指差し、赤ん坊のような甲高い泣き喚き。
「クソが! 回線落としただろ! ギルド戦、負けた! 俺の順位どうしてくれる!? 殺してやる!!」
工藤は扉口に立ち尽くし、四十五歳の巨大な赤子を見下ろし――骨の髄から冷えた。
父の書斎で、工藤は分厚い『未来計画書』を見つけた。父が生前最後に書いたものだ。死後も信託基金が自動送金し、息子が八十まで外出せず、人に会わず、生きていけるよう――緻密に計算されている。
「これが日本のエリート階層か……」工藤は紙束を拾い上げ、手が震えた。「数億円と溺愛で、人間性のいらない“完璧な飼育箱”を作った。死ぬ瞬間まで、この人喰いの怪物が飢えないかを心配していたんだ」
――同時刻、澄心本部。
龍立は田村事件の報告書を読み、嫌悪を見せない。むしろ、薄い冷笑を浮かべた。
「田村は日本に百万人いる」
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