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第一百一十八話 最後の守墓人
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時間:晩秋(11月中旬)午前10時
場所:深山・神去村(Kamisari Village)
黒いマイバッハが、落ち葉に埋もれた山道を静かに踏みしめる。幅広のタイヤが赤い紅葉を巻き上げ、さらさらと鳴る音が山谷に反響した。それはまるで、凄絶で美しい葬列の行進のようだった。
龍立(りゅうりつ)はハンドルを握りながら、珍しく車内で仕事をしなかった。彼の視線はフロントガラスの向こうへ張りつき、懐かしくも老いさらばえた景色を貪るように追っていた。
「源田、あそこを見ろ。鳥居だ」龍立は遠く、山腹にぼんやりと浮かぶ苔むした石造りの鳥居を指差す。声は低く、どこか郷愁を含んでいた。
「ここはただの辺鄙な田舎じゃない。三百年前、俺の外祖父の家系…織田一族は、この山から出ていって、今の“天下”を打ち立てた」
「その後、東京に根を下ろして財閥を握る名門になったが…ここは今も“聖地”だ。歴代先祖の遺灰が眠っている」
一拍置き、龍立の瞳にわずかな柔らかさが差す。
「母、織田光子は…金の匙をくわえて生まれたお嬢様だった。それでも東京の、偽善と礼儀で固めた檻が大嫌いだった。毎年夏になると、俺を連れてここへ逃げた。ここでは母は豪門の奥様じゃない。俺も財閥の跡取りじゃない。ただの“民”だった。…俺の記憶で、胸いっぱいに息が吸えたのは、ここだけだ」
助手席の源田鉄男(62)は、窓の外を眺めて小さく息を吐いた。「ですが社長…その聖地も、もう崩れかけています」
村は、そこにあった。死んだように静かだった。炊煙も、犬の声も、虫の音さえしない。かつては美しく並んでいた木造家屋の九割が崩れ落ち、梁は折れ、板は腐って黒ずみ、枯れた口のように開いている。庭は腰まで伸びた雑草に覆われ、割れた窓からは、埃をかぶった昭和のカレンダーが見えた。
この場所では、時間が二十年前に止まったようだった。典型的な「限界集落」。村に残るのは三十人。平均年齢は八十を超える。織田家の傍流や家臣の末裔が多く、彼らは生きているというより、祖先の墓を守り、自らも墓になる日を待っていた。
車は山腹の神社前で止まる。赤白の巫女装束を着た若い影が、終わりのない落ち葉を必死に掃いていた。
小林早苗(さなえ、26)。村で唯一の若者。年老いた祖母のため、そして家の根を守るため、東京でのデザイナー職を捨て、未来のないこの地へ戻った。
龍立が降りた瞬間、早苗の手から竹箒が落ちた。ぱしん、と乾いた音。そして涙が決壊する。声にならず、ただ全身を震わせながら、山下の村役場を指差した。
「…若様……やっと……お帰りに……。お願いです、早く…皆を…助けてください……もう……署名してしまう……」
神去村・村役場。粗末な会議室の空気は、安い煙草と老人特有の終末の匂いで濁り、息が詰まりそうだった。村に残る三十人の老人たちは、背中を曲げ、死刑宣告を待つ囚人のように、剥げた長机を囲んでいる。樹皮のように荒れた手。顔には絶望と麻痺だけが刻まれていた。
その主座にふんぞり返っているのは、スーツ姿で金の腕時計、脂ぎった頬の男。鬼頭万蔵(きとう まんぞう)。大和グリーンエナジー社長。彼は椅子に足を投げ出し、神去村そのものを踏みにじるような態度を取った。
「で、老人たち。腹は決まったか?」鬼頭は濃い煙を吐き、分厚い契約書の束を犬に投げるように机へ放り投げた。
「最後通牒だ。裏山“神去山”を俺に売って太陽光にする。一人五百万だ。売らない? なら大雪で道が塞がれて、一人ずつ凍え死ぬだけだ。去年なんか、雪で二人埋まったって聞いたぞ?」
村長の田中(82)は、かつて織田家の老執事の息子で、龍立の幼少期には猪を担いで山を下りていた豪傑だった。今は、震える手で印鑑すらまともに持てない。
「鬼頭社長…この山は売れません…織田家の祖地です…売れば…死んでから家主様に顔向けが…」
「家主?」鬼頭は鼻で笑い、突然立ち上がると、村長の襟首を掴んで引きずり上げた。
「寝言は墓場で言え、老いぼれ。まだ“主家”が、お前ら守墓人の面倒を見ると思ってんのか? お前らは忘れ去られたゴミだ」
その一言が、老人たちの心の柱を叩き折った。村長は崩れ落ち、濁った涙が契約書に落ちる。
「…売ります…売ります…」震える手で印鑑を上げ、声は悲鳴のようにかすれた。
「私たちは主家を裏切ったんじゃない…。ただ…この金で…街で…合葬の墓地を…買いたいだけだ…。村には若い者がいない…。俺たちが死んだら…誰が埋めてくれる…? 家で腐って臭うのは嫌だ…それが一番、織田家に恥をかかせる…!」
土地を売る理由が、生きるためではなく、死に様のため。その絶望は、あまりにも重かった。
入口に立つ源田の拳が、ぎりぎりと鳴った。爪が皮膚に食い込み、赤くにじむ。「…畜生が。弱い者を踏みつけて何が楽しい」
その瞬間。ぱん、と乾いた音がした。印鑑が落ちる直前、手入れの行き届いた長い指が、村長の手首を強く押さえたのだ。
龍立が机の前に立っていた。眼は冷たく、刃のように鋭い。
「田中爺。棺桶代なら、裏山を売る必要はない」龍立はゆっくり顔を上げ、鬼頭を射抜く。「鬼頭。お前の汚い手は…伸びすぎた」
場所:深山・神去村(Kamisari Village)
黒いマイバッハが、落ち葉に埋もれた山道を静かに踏みしめる。幅広のタイヤが赤い紅葉を巻き上げ、さらさらと鳴る音が山谷に反響した。それはまるで、凄絶で美しい葬列の行進のようだった。
龍立(りゅうりつ)はハンドルを握りながら、珍しく車内で仕事をしなかった。彼の視線はフロントガラスの向こうへ張りつき、懐かしくも老いさらばえた景色を貪るように追っていた。
「源田、あそこを見ろ。鳥居だ」龍立は遠く、山腹にぼんやりと浮かぶ苔むした石造りの鳥居を指差す。声は低く、どこか郷愁を含んでいた。
「ここはただの辺鄙な田舎じゃない。三百年前、俺の外祖父の家系…織田一族は、この山から出ていって、今の“天下”を打ち立てた」
「その後、東京に根を下ろして財閥を握る名門になったが…ここは今も“聖地”だ。歴代先祖の遺灰が眠っている」
一拍置き、龍立の瞳にわずかな柔らかさが差す。
「母、織田光子は…金の匙をくわえて生まれたお嬢様だった。それでも東京の、偽善と礼儀で固めた檻が大嫌いだった。毎年夏になると、俺を連れてここへ逃げた。ここでは母は豪門の奥様じゃない。俺も財閥の跡取りじゃない。ただの“民”だった。…俺の記憶で、胸いっぱいに息が吸えたのは、ここだけだ」
助手席の源田鉄男(62)は、窓の外を眺めて小さく息を吐いた。「ですが社長…その聖地も、もう崩れかけています」
村は、そこにあった。死んだように静かだった。炊煙も、犬の声も、虫の音さえしない。かつては美しく並んでいた木造家屋の九割が崩れ落ち、梁は折れ、板は腐って黒ずみ、枯れた口のように開いている。庭は腰まで伸びた雑草に覆われ、割れた窓からは、埃をかぶった昭和のカレンダーが見えた。
この場所では、時間が二十年前に止まったようだった。典型的な「限界集落」。村に残るのは三十人。平均年齢は八十を超える。織田家の傍流や家臣の末裔が多く、彼らは生きているというより、祖先の墓を守り、自らも墓になる日を待っていた。
車は山腹の神社前で止まる。赤白の巫女装束を着た若い影が、終わりのない落ち葉を必死に掃いていた。
小林早苗(さなえ、26)。村で唯一の若者。年老いた祖母のため、そして家の根を守るため、東京でのデザイナー職を捨て、未来のないこの地へ戻った。
龍立が降りた瞬間、早苗の手から竹箒が落ちた。ぱしん、と乾いた音。そして涙が決壊する。声にならず、ただ全身を震わせながら、山下の村役場を指差した。
「…若様……やっと……お帰りに……。お願いです、早く…皆を…助けてください……もう……署名してしまう……」
神去村・村役場。粗末な会議室の空気は、安い煙草と老人特有の終末の匂いで濁り、息が詰まりそうだった。村に残る三十人の老人たちは、背中を曲げ、死刑宣告を待つ囚人のように、剥げた長机を囲んでいる。樹皮のように荒れた手。顔には絶望と麻痺だけが刻まれていた。
その主座にふんぞり返っているのは、スーツ姿で金の腕時計、脂ぎった頬の男。鬼頭万蔵(きとう まんぞう)。大和グリーンエナジー社長。彼は椅子に足を投げ出し、神去村そのものを踏みにじるような態度を取った。
「で、老人たち。腹は決まったか?」鬼頭は濃い煙を吐き、分厚い契約書の束を犬に投げるように机へ放り投げた。
「最後通牒だ。裏山“神去山”を俺に売って太陽光にする。一人五百万だ。売らない? なら大雪で道が塞がれて、一人ずつ凍え死ぬだけだ。去年なんか、雪で二人埋まったって聞いたぞ?」
村長の田中(82)は、かつて織田家の老執事の息子で、龍立の幼少期には猪を担いで山を下りていた豪傑だった。今は、震える手で印鑑すらまともに持てない。
「鬼頭社長…この山は売れません…織田家の祖地です…売れば…死んでから家主様に顔向けが…」
「家主?」鬼頭は鼻で笑い、突然立ち上がると、村長の襟首を掴んで引きずり上げた。
「寝言は墓場で言え、老いぼれ。まだ“主家”が、お前ら守墓人の面倒を見ると思ってんのか? お前らは忘れ去られたゴミだ」
その一言が、老人たちの心の柱を叩き折った。村長は崩れ落ち、濁った涙が契約書に落ちる。
「…売ります…売ります…」震える手で印鑑を上げ、声は悲鳴のようにかすれた。
「私たちは主家を裏切ったんじゃない…。ただ…この金で…街で…合葬の墓地を…買いたいだけだ…。村には若い者がいない…。俺たちが死んだら…誰が埋めてくれる…? 家で腐って臭うのは嫌だ…それが一番、織田家に恥をかかせる…!」
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