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第一百二十四話 ゴミ捨て場の天使
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時間:深夜 02:00
場所:東京・新宿区・澄心総合病院(旧・東都病院)ICU集中治療室
静寂。ここは生と死の境界線だ。心電図モニターだけが、単調で冷たい「ピ――、ピ――」という音を刻み続ける。まるで生命に、最後のカウントダウンを与えているかのように。
特別個室の空気は徹底的に浄化されているはずなのに、それでも消しきれない――患者の身体の奥底から滲み出る、淡い腐臭があった。
ベッドの上に横たわるのは、小さく、痩せ細り、ほとんど“人の形”を失った生き物。枕元のカードに「陽菜(Hina) 15歳」と書かれていなければ、誰も信じないだろう。この枯れ木のような身体が、花の盛りの少女のものだなんて。
全身に生命維持の管が差し込まれている。ふくらむべき頬は深く落ち込み、頬骨は浮き、眼窩は灰黒い。シーツの端から覗いた細い腕には、青紫色の注射痕がびっしり。古い痕が治りきらないうちに新しい傷が重なり、化膿した点が静脈に沿って這う。醜いムカデの群れみたいに。
さらに目を背けたくなるのは、太腿の内側に並ぶ円形の火傷痕だった。煙草の火を皮膚に押しつけて消した跡。かさぶたになったものもあれば、黄ばんだ液が滲むものもある。
南方仁(みなかた じん)医師がベッドの傍らに立っていた。何度も死神から患者を奪い返し、“神の手”と呼ばれた外科医。その彼のカルテを持つ手が、今は激しく震えていた。眼鏡を外し、赤くなった目を拭う。声は必死に抑え込んでいるのに、怒りと痛みが滲む。どこか、喉が詰まったように。
「重度の栄養失調。体重は28キロ……」
「高純度の覚醒剤(メタンフェタミン)を長期注射した神経障害で、脳皮質に萎縮の兆候……」
「加えて、梅毒と淋病の重度感染……」
南方は深く息を吸い、X線写真の骨盤部を指さした。指に力が入り、関節が白くなる。
「……最悪なのは、これです。子宮内膜が紙みたいに薄い。陳旧性の穿孔、それに重い骨盤内炎症……。つまり――医療環境ではない場所で、暴力的に繰り返された“強制中絶”の痕です」
南方の声が低く沈んだ。怒りが、涙に変わりかけている。「この子は“人として”育てられたんじゃない。性欲と金のための家畜として搾り尽くされ、最後の一滴まで吸い取られて……そして、ゴミみたいに裏路地に捨てられた」
――その瞬間。「ガンッ――!」
ICUの重い抗菌ドアが、凄まじい力で叩き割られた。壁にひびが走るほどの衝撃。
劉立(Liu Li)が駆け込んできた。神去村から戻ったばかりで、泥と枯草が付いた戦術コートを脱ぐ暇もない。登山靴の泥が、無菌の床に跡を残す。いつもなら軽口を叩き、ゲームの冗談で笑う男だ。だが今、顔には何の表情もない。あるのは、息が詰まるほどの“死の静けさ”。
彼は一歩ずつ、病床へ近づく。少女を見た瞬間、脚が鉛になったように止まった。
記憶が、逆流する。一年前。澄心精工の古参社員の葬儀で。陽菜は少し大きめの黒い制服を着て、泣きながらも、劉立を見つけると、精いっぱい恥ずかしそうに笑って、飴を差し出した。
「劉立お兄ちゃん……。おじいちゃんが言ってた。お兄ちゃんはゲームの天才だって。私もいつか……ゲームの中のお姫様、描けるかな?」
あの頃の陽菜には、赤ちゃんみたいな頬があった。目に、光があった。未来への憧れが、確かにあった。
――それが今は。呼吸器の管に繋がれ、壊れて、使い潰され、捨てられた人形のように横たわっている。
「……陽菜……」劉立は手を伸ばしかける。だが指先は空中で止まったまま、長く震え、結局、触れなかった。壊れてしまいそうだった。触れた瞬間、砕ける気がした。
「……ごめん……。お兄ちゃんが……遅かった……」一滴の涙が、劉立の頬を滑り落ちる。床に落ちて、小さく弾けた。
窓際の影に、龍立(りゅうりつ)が立っていた。彼の指には、陽菜が強く握り締めて硬直した掌から、無理に取り出した“何か”がある。汗で湿り、ぐしゃぐしゃに揉まれ、端が擦り切れた――ピンク色の名刺。
月明かりに照らされたそこに、子ども向けの丸い文字が、逆に悪魔の笑顔みたいに見えた。
【天使の家(Angel House)NPO法人】
【無料宿泊|日払い高収入|あたたかい家|迷える少女を救う】
【住所:新宿・歌舞伎町一番街 裏路地】
【責任者:兵頭 極(Hyodo Kiwami)】
「……天使?」龍立はその言葉を、羽毛のように軽く繰り返す。だが声は、氷室の風のように冷たい。指が、名刺を握り潰す。「ぷつ」紙片が粉になり、風に散った。
「子どもを騙し、薬を打ち込み、売らせ、鬼に変える。それで“天使”だと?」龍立が振り返り、劉立を見る。「劉立。トロントで留学していた頃、地下格闘場で俺たちは何を言った?」
劉立は静かに立ち上がった。戦術コートを脱ぎ捨てると、黒いコンプレッションの格闘タンクが現れる。怒りで筋肉が豹のように締まり、皮膚の下で血管が脈打つ。普段のオタク気質は消えていた。骨髄から滲む“殺意”だけが、男を支配している。
「……覚えてる」劉立は腰の後ろから黒いカーボン指ナックルを抜いた。長く封じていた武器。装着すると小さく「カチ」と鳴った。
「俺は言った。法律が役に立たないなら、俺が閻魔になるって」彼の声は低く、鋭い。「龍立。今夜、俺はゲームを作らない。……人を殺したい」
龍立はネクタイを整え、袖口のカフスを一つずつ留める。動作は優雅で、まるで晩餐会へ向かう貴族のようだった。だが眼だけは、手術刀より冷たい。審判者の目。
「行くぞ。新宿へ。天使でも悪魔でもいい。今夜、俺たちの足元に倒れる」
場所:東京・新宿区・澄心総合病院(旧・東都病院)ICU集中治療室
静寂。ここは生と死の境界線だ。心電図モニターだけが、単調で冷たい「ピ――、ピ――」という音を刻み続ける。まるで生命に、最後のカウントダウンを与えているかのように。
特別個室の空気は徹底的に浄化されているはずなのに、それでも消しきれない――患者の身体の奥底から滲み出る、淡い腐臭があった。
ベッドの上に横たわるのは、小さく、痩せ細り、ほとんど“人の形”を失った生き物。枕元のカードに「陽菜(Hina) 15歳」と書かれていなければ、誰も信じないだろう。この枯れ木のような身体が、花の盛りの少女のものだなんて。
全身に生命維持の管が差し込まれている。ふくらむべき頬は深く落ち込み、頬骨は浮き、眼窩は灰黒い。シーツの端から覗いた細い腕には、青紫色の注射痕がびっしり。古い痕が治りきらないうちに新しい傷が重なり、化膿した点が静脈に沿って這う。醜いムカデの群れみたいに。
さらに目を背けたくなるのは、太腿の内側に並ぶ円形の火傷痕だった。煙草の火を皮膚に押しつけて消した跡。かさぶたになったものもあれば、黄ばんだ液が滲むものもある。
南方仁(みなかた じん)医師がベッドの傍らに立っていた。何度も死神から患者を奪い返し、“神の手”と呼ばれた外科医。その彼のカルテを持つ手が、今は激しく震えていた。眼鏡を外し、赤くなった目を拭う。声は必死に抑え込んでいるのに、怒りと痛みが滲む。どこか、喉が詰まったように。
「重度の栄養失調。体重は28キロ……」
「高純度の覚醒剤(メタンフェタミン)を長期注射した神経障害で、脳皮質に萎縮の兆候……」
「加えて、梅毒と淋病の重度感染……」
南方は深く息を吸い、X線写真の骨盤部を指さした。指に力が入り、関節が白くなる。
「……最悪なのは、これです。子宮内膜が紙みたいに薄い。陳旧性の穿孔、それに重い骨盤内炎症……。つまり――医療環境ではない場所で、暴力的に繰り返された“強制中絶”の痕です」
南方の声が低く沈んだ。怒りが、涙に変わりかけている。「この子は“人として”育てられたんじゃない。性欲と金のための家畜として搾り尽くされ、最後の一滴まで吸い取られて……そして、ゴミみたいに裏路地に捨てられた」
――その瞬間。「ガンッ――!」
ICUの重い抗菌ドアが、凄まじい力で叩き割られた。壁にひびが走るほどの衝撃。
劉立(Liu Li)が駆け込んできた。神去村から戻ったばかりで、泥と枯草が付いた戦術コートを脱ぐ暇もない。登山靴の泥が、無菌の床に跡を残す。いつもなら軽口を叩き、ゲームの冗談で笑う男だ。だが今、顔には何の表情もない。あるのは、息が詰まるほどの“死の静けさ”。
彼は一歩ずつ、病床へ近づく。少女を見た瞬間、脚が鉛になったように止まった。
記憶が、逆流する。一年前。澄心精工の古参社員の葬儀で。陽菜は少し大きめの黒い制服を着て、泣きながらも、劉立を見つけると、精いっぱい恥ずかしそうに笑って、飴を差し出した。
「劉立お兄ちゃん……。おじいちゃんが言ってた。お兄ちゃんはゲームの天才だって。私もいつか……ゲームの中のお姫様、描けるかな?」
あの頃の陽菜には、赤ちゃんみたいな頬があった。目に、光があった。未来への憧れが、確かにあった。
――それが今は。呼吸器の管に繋がれ、壊れて、使い潰され、捨てられた人形のように横たわっている。
「……陽菜……」劉立は手を伸ばしかける。だが指先は空中で止まったまま、長く震え、結局、触れなかった。壊れてしまいそうだった。触れた瞬間、砕ける気がした。
「……ごめん……。お兄ちゃんが……遅かった……」一滴の涙が、劉立の頬を滑り落ちる。床に落ちて、小さく弾けた。
窓際の影に、龍立(りゅうりつ)が立っていた。彼の指には、陽菜が強く握り締めて硬直した掌から、無理に取り出した“何か”がある。汗で湿り、ぐしゃぐしゃに揉まれ、端が擦り切れた――ピンク色の名刺。
月明かりに照らされたそこに、子ども向けの丸い文字が、逆に悪魔の笑顔みたいに見えた。
【天使の家(Angel House)NPO法人】
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【住所:新宿・歌舞伎町一番街 裏路地】
【責任者:兵頭 極(Hyodo Kiwami)】
「……天使?」龍立はその言葉を、羽毛のように軽く繰り返す。だが声は、氷室の風のように冷たい。指が、名刺を握り潰す。「ぷつ」紙片が粉になり、風に散った。
「子どもを騙し、薬を打ち込み、売らせ、鬼に変える。それで“天使”だと?」龍立が振り返り、劉立を見る。「劉立。トロントで留学していた頃、地下格闘場で俺たちは何を言った?」
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「……覚えてる」劉立は腰の後ろから黒いカーボン指ナックルを抜いた。長く封じていた武器。装着すると小さく「カチ」と鳴った。
「俺は言った。法律が役に立たないなら、俺が閻魔になるって」彼の声は低く、鋭い。「龍立。今夜、俺はゲームを作らない。……人を殺したい」
龍立はネクタイを整え、袖口のカフスを一つずつ留める。動作は優雅で、まるで晩餐会へ向かう貴族のようだった。だが眼だけは、手術刀より冷たい。審判者の目。
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