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第十二話・哲学の道・引用される人生の声(四)
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影が、地面から立ち上がった。
質感はあくまで「影」だ。輪郭は人の形をしているが、具体的な五官はない。
かろうじて顔のような輪郭があり、その口が動くたび、声ではなく白い泡だけが、ふわり、ふわりとこぼれ出る。
泡の中身は、文字だった。
影は腕を上げ、少し離れた場所にいる画板の青年を指さした。
一つの泡が、静かに青年の肩に落ちる。
青年は、ただ一息つこうとして足を止めていただけだ。
だが泡が耳元で弾けた瞬間、彼は踵を返し、来た道とは逆へ歩き出す。
口から漏れたのは、別の言葉だった。
「やっぱり、まずは安定した仕事だよな。絵は趣味で描けばいい」
影は次に、あのカップルへと指を向ける。
二つの小さな泡が飛んでいき、二人の頭上で静かに弾けた。
女の子の胸の奥には、本来「もう、あなたを愛していない」という言葉が育っていた。
しかし口から出たのは、別の音だ。
「ごめんね、最近ちょっと調子悪くて……もう少し、ゆっくりでいいかな」
男のほうの「もう、俺も疲れた」という本音も、違う形になってこぼれる。
「俺も、もっと頑張るよ」
彼らは、自分の言葉がすり替えられたことに気づかない。
ただ、「こう言ったほうが正しい気がする」と思うだけだ。
残形も、逆流を感じ取っていた。
その身体を覆う文字の行は乱れ始めた。
みっちりと並んでいた「人生の正論」が渦に巻き込まれ、ばらばらな断片になる。
影は自分の腕を見下ろし、そこに刻まれた文の乱れに一層焦り、口から吐き出す泡を増やしていく。
今度の泡には、棘がある。
彼の周りに張りつくたび、一本の拘束に変わる。
手首を縛ろうとする「冷静な分析」。
喉元に食い込む「客観的判断」。
足首に絡みつく「分をわきまえろ」。
「お前だって、特別なわけじゃない」
ひとつの泡が耳元で弾け、冷静で平坦な声が響く。
「お前もまた、自分の言葉で人を形づくろうとしているだけだ」
彼は、それを否定しなかった。
ただ、笑みをひとつ浮かべる。
「だからこそ、決して一行のセリフで、誰かの一生を語り終えたりはしない」
そう言いながら、左手はすでに袖の中から符紙の束を引き出していた。
それはよくある朱砂の符ではない。余白の多い紙の中央に、ただ一文字だけが書かれている。
「静」
「――澄語三式・封喧」
指先が弾くと、数枚の符紙が同時に宙に舞い上がり、雨の中でくるりと回転し、文字を上にして広がった。
「静」の字は雨で少しにじみ、その輪郭を外側へぼかし、次の瞬間にはぎゅっと締まる。
周囲の声が、そこで一気に絞られた。
雨音も、水音も、まだ確かに存在している。
ただ、それらは遠くの殻に押し込められ、耳元には薄い残響だけが届く。
「誰かが言った言葉」は、一時的にすべて封じられた。
これから響くとすれば、その人自身の層から上がってきた声だけだ。
残形は、不意を突かれたように固まる。
口を開けても、「誰かの言葉」が出てこない。
彼の口からあふれ出たのは、切り刻まれて役に立たなくなった引用文の灰色の霧だけだった。
その瞬間、初めて「意味を持たない声」が漏れた。
それはどんな言語にも属さない、しかしたしかに感情だけを纏った低い唸りだ――
長年、引用の底に押し込められていた「私」が、強引に引きずり出され、角をひとつあらわにした声だった。
質感はあくまで「影」だ。輪郭は人の形をしているが、具体的な五官はない。
かろうじて顔のような輪郭があり、その口が動くたび、声ではなく白い泡だけが、ふわり、ふわりとこぼれ出る。
泡の中身は、文字だった。
影は腕を上げ、少し離れた場所にいる画板の青年を指さした。
一つの泡が、静かに青年の肩に落ちる。
青年は、ただ一息つこうとして足を止めていただけだ。
だが泡が耳元で弾けた瞬間、彼は踵を返し、来た道とは逆へ歩き出す。
口から漏れたのは、別の言葉だった。
「やっぱり、まずは安定した仕事だよな。絵は趣味で描けばいい」
影は次に、あのカップルへと指を向ける。
二つの小さな泡が飛んでいき、二人の頭上で静かに弾けた。
女の子の胸の奥には、本来「もう、あなたを愛していない」という言葉が育っていた。
しかし口から出たのは、別の音だ。
「ごめんね、最近ちょっと調子悪くて……もう少し、ゆっくりでいいかな」
男のほうの「もう、俺も疲れた」という本音も、違う形になってこぼれる。
「俺も、もっと頑張るよ」
彼らは、自分の言葉がすり替えられたことに気づかない。
ただ、「こう言ったほうが正しい気がする」と思うだけだ。
残形も、逆流を感じ取っていた。
その身体を覆う文字の行は乱れ始めた。
みっちりと並んでいた「人生の正論」が渦に巻き込まれ、ばらばらな断片になる。
影は自分の腕を見下ろし、そこに刻まれた文の乱れに一層焦り、口から吐き出す泡を増やしていく。
今度の泡には、棘がある。
彼の周りに張りつくたび、一本の拘束に変わる。
手首を縛ろうとする「冷静な分析」。
喉元に食い込む「客観的判断」。
足首に絡みつく「分をわきまえろ」。
「お前だって、特別なわけじゃない」
ひとつの泡が耳元で弾け、冷静で平坦な声が響く。
「お前もまた、自分の言葉で人を形づくろうとしているだけだ」
彼は、それを否定しなかった。
ただ、笑みをひとつ浮かべる。
「だからこそ、決して一行のセリフで、誰かの一生を語り終えたりはしない」
そう言いながら、左手はすでに袖の中から符紙の束を引き出していた。
それはよくある朱砂の符ではない。余白の多い紙の中央に、ただ一文字だけが書かれている。
「静」
「――澄語三式・封喧」
指先が弾くと、数枚の符紙が同時に宙に舞い上がり、雨の中でくるりと回転し、文字を上にして広がった。
「静」の字は雨で少しにじみ、その輪郭を外側へぼかし、次の瞬間にはぎゅっと締まる。
周囲の声が、そこで一気に絞られた。
雨音も、水音も、まだ確かに存在している。
ただ、それらは遠くの殻に押し込められ、耳元には薄い残響だけが届く。
「誰かが言った言葉」は、一時的にすべて封じられた。
これから響くとすれば、その人自身の層から上がってきた声だけだ。
残形は、不意を突かれたように固まる。
口を開けても、「誰かの言葉」が出てこない。
彼の口からあふれ出たのは、切り刻まれて役に立たなくなった引用文の灰色の霧だけだった。
その瞬間、初めて「意味を持たない声」が漏れた。
それはどんな言語にも属さない、しかしたしかに感情だけを纏った低い唸りだ――
長年、引用の底に押し込められていた「私」が、強引に引きずり出され、角をひとつあらわにした声だった。
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