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第2部 嫁ぎ先を決めろと言われました
62.かつての想い(張燕視点)
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こんな、夢を見た。
* *
しがない農民の娘、のはずだった。
農民、と言うのもおこがましいぐらい食べていくのがやっとだった。狭い農地を耕してやっとできた作物の大半は税として持って行かれ、山の奥にもこっそり畑を作っていなければ餓死してしまうだろうと思うほどに苦しい暮らしだった。
「我が花嫁よ。……待っていたぞ」
なのに気がついたら見たこともないような美丈夫に荒れ放題の手を握られて、あたしは卒倒寸前になった。
白銀の長髪に金の瞳をした美しい人は白虎と名乗った。確かに虎を彷彿とさせる容姿と眼光にあたしは身震いした。
虎はあたしたちにとって地頭の次に恐ろしい存在だった。山に入らなければ遭遇することはまれだが、生きていく為には山に足を踏み入れなければならなかった。何年かに一度は誰かが山で行方不明になった。その度に虎に食われたのだろうとまことしやかに言われたものだった。
だからその人が虎ではなくて人であったことに内心あたしは感謝した。
「そなたは我の物ぞ」と宣言され、初夜を迎えたその時までは。
「きゃあああああああっっっ!!!?」
なんということだろう。
夫となるはずのその人は、本物の虎であったのだ。
抱き寄せられ、口づけを受けたまではよかった。なんと夫はあたしの夜着を脱がすと、「……少し驚くことがあるかもしれぬが大丈夫だ」と宥めるように言ったかと思うと、その場で大きな虎に変身したのだった。
いきなり目の前に恐怖の対象が現れて、あたしは恐慌状態になった。
虎にべろりと舐められて、あらんかぎりの悲鳴を上げる。
「張燕! 我だ! そなたの夫だ! 張燕!」
唸るような声に少しでも逃げようと床の上で後ずさる。
「いやっ、いやあああああっっ!! こないでっ、こないでええええええっっっ!!! 助けてっ! 誰かあああっっ!! 助けてえええっっ!!」
首を振りながら泣き叫ぶあたしに、迫ってこようとしていた虎は茫然としたようだった。
そして、しばらくもしないうちに虎は夫の姿に戻ったのだった。
夫が虎になったところを目の当たりにしたあたしは、どうしてもその腕の中に戻ることはできなかった。困り果てたような夫によって呼ばれた眷属という者に世話をしてもらいながら、あたしはやっと自分の置かれた状況を説明してもらえた。
曰く、あたしの夫となった方は四神と呼ばれる神様の一方で白虎ということ。
あたしは四神の花嫁であること。
現時点では白虎があたしを離さない為、白虎に嫁ぐしかないということ。
そしてここはあたしの暮らしていた場所ではなく似通った遠い世界なので、家に帰ることは決してできないこと……。
「あの……白虎様に嫁がなかったらどうなるんですか……?」
相手が神様とはいえ虎に嫁ぐなどぞっとしない話だ。さすがに一度は嫁ぐのだと思った方を断って他の三神の嫁になるというのはあたし自身が許せないので、せめて下働きとしてでも使ってもらえないかと聞いてみる。
そしてすぐに後悔した。
白虎に似通った容姿を持つ眷属は、ひどく冷ややかな眼差しをあたしに向けた。
ここにあたしの味方はいない。
そう思い知らされた瞬間だった。
それでもあたしが夫を怖がっていては意味がないと思ったのか、眷属や四神の一方である青龍の仲介によって白虎様とどうにか一緒にいることができるようになった。
あたしたちは会話が足りなかった。
お互いを全く理解していなかった。
白虎様は神様だったから、全く下々の者たちの暮らしとかには興味がないようだった。存在そのものが違ったから、人のつらさとか、思いとかも全然わからないようだった。
それでも白虎様はあたしを諦めようとはしなかった。
「張燕、そなたが教えてくれ」
歩み寄りはたいへんだった。行為の際、どうしても白虎様は虎の姿になってしまう。
何度も泣き叫んで逃げようとした。体の震えがなかなか止まらなかった。
どうしてあたしでなければならないのかと嘆き、他の人にしてよと怒った。
そんな情けない、どうしようもなくみっともないあたしをそれでも白虎様は離さなかった。
根負け、というのとは違うと思う。
こんなにひどい姿をさらしても愛しくてならないというように見つめてくれるのは白虎様だけだと、ある日気付いた。
あのままずっと家にいたらあたしはどうなっていただろう。
親の決めた人と結婚できるならまだいい。けれど下手したら税の形に連れ去られる可能性だってあった。
しかも思い出の中の母は決して幸せそうではなかった。
あたしは正直白虎様が怖くてしかたがない。
だけどあんなにもあたしだけを求めてくれる姿に心動かされないはずはなかった。
「あたし、白虎様のことが怖いです。でも、嫌いではないんです。うまく言えないけど……あたしの夫が白虎様でよかったとも思うんです……」
支離滅裂なことを言っているあたしを、それでも白虎様は熱い眼差しで捉えていた。
何度も何度もくり返し、やり直して。
やがてあたしは本当の意味で白虎様の花嫁になった。
子どもも生まれた。
生まれてきたのは虎の子で本当にびっくりしたけど、乳を必死で吸う姿に愛しさを覚えた。
このままずっと一緒にいられると思っていた。
夫である白虎様と、子どもたちと眷属たちと、そうやって幸せを満喫して終わるのだと思っていた。
なのに。
「次代様がお生まれになった」
「めでたいことだ」
「おめでとうございます」
最後に生まれた子はどうしてか夫が飲み込んだ。
「我がなくなる時、これは取って代わるのだ」
飲み込んだ我が子がいるであろう腹の辺りを指して白虎様が言う。わけがわからなかった。
そして。
「あと五十年ほどは共にいられようが、そなたを他の三神に預けねばならぬのがつらい」
どういうことかと問い詰めた。
あたしは夫と共に身罷るのだとずっと思っていたのに、そうではないと知らされた。
「そなたは四神の花嫁、我がなくなれば他の四神に嫁ぐことになる」
あんなに愛し合ったのに。あんなにあたしだけを見ていたのに。あんなに、あんなに、あんなに。
どうして貴方はあたしを置いていくの。
どうして貴方はあたしを連れて行ってはくれないの。
どうして、どうして、どうして。
「いやっ! いやっ! あたしも連れてってっ!! 共に逝かせてえっっっ!!!」
何度も何度も頼んだ。泣いてわめいて暴れまくった。それでも白虎様は「ならぬ」としか言ってくれなかった。
「……ひどい、方……」
「燕子、愛している。そなただけだ。……そなただけが我を満たした」
「言葉なんて欲しくない……一緒に、連れてってよぅ……」
あたしを抱きしめたまま、夫は空気に溶けて消えてしまった。
あたしの腕の中に虎の子を残して。
それからしばらくはその虎の子と暮らした。
けれど毎日のように青龍様が訪ねてくるようになり、やがてあたしは青龍様の花嫁になった。
青龍様は白虎様と違って寛容だった。他の四神が訪ねてくることを厭わなかった。
玄武様は特にあたしのことを口説かなかった。ただ愛しくてならないというように見つめ、少し会話をするぐらいだった。
朱雀様は色を含んだ眼差しであたしを捕らえた。失礼かもしれないけれどあたしはもうどうでもよかった。
白虎様でなければどの方でも変わらないと思った。
だけど。
「次代様がお生まれになった」
生まれた大きな卵を青龍様が飲み込んだ。
またか、と思った。
またあたしは置いていかれるのか。
白虎様の子も、青龍様の子も、朱雀様の子も生んだ。
もういいじゃないか。
青龍様と一緒に行ってもいいじゃないか。
「もう、置いて行かれるのはいやああぁっっっ!!!」
泣きわめき半狂乱になったあたしを宥めたのは玄武様で。
「人の身であるそなたに酷な人生を与えてしまった我々を、どうか許しておくれ……」
ひどく切ない想いを感じ取ったけれど、あたしはもう限界だった。
(ごめんなさい)
玄武様に甘える形で、あたしはやっと青龍様と一緒に―
* *
涙があとからあとから溢れてきて止まらない。
花嫁にとって、この世界は決して優しくない。
(運命だなんて、認めない……)
意識が浮上する直前、そんな言葉が一瞬脳裏に浮かんだ。
* *
しがない農民の娘、のはずだった。
農民、と言うのもおこがましいぐらい食べていくのがやっとだった。狭い農地を耕してやっとできた作物の大半は税として持って行かれ、山の奥にもこっそり畑を作っていなければ餓死してしまうだろうと思うほどに苦しい暮らしだった。
「我が花嫁よ。……待っていたぞ」
なのに気がついたら見たこともないような美丈夫に荒れ放題の手を握られて、あたしは卒倒寸前になった。
白銀の長髪に金の瞳をした美しい人は白虎と名乗った。確かに虎を彷彿とさせる容姿と眼光にあたしは身震いした。
虎はあたしたちにとって地頭の次に恐ろしい存在だった。山に入らなければ遭遇することはまれだが、生きていく為には山に足を踏み入れなければならなかった。何年かに一度は誰かが山で行方不明になった。その度に虎に食われたのだろうとまことしやかに言われたものだった。
だからその人が虎ではなくて人であったことに内心あたしは感謝した。
「そなたは我の物ぞ」と宣言され、初夜を迎えたその時までは。
「きゃあああああああっっっ!!!?」
なんということだろう。
夫となるはずのその人は、本物の虎であったのだ。
抱き寄せられ、口づけを受けたまではよかった。なんと夫はあたしの夜着を脱がすと、「……少し驚くことがあるかもしれぬが大丈夫だ」と宥めるように言ったかと思うと、その場で大きな虎に変身したのだった。
いきなり目の前に恐怖の対象が現れて、あたしは恐慌状態になった。
虎にべろりと舐められて、あらんかぎりの悲鳴を上げる。
「張燕! 我だ! そなたの夫だ! 張燕!」
唸るような声に少しでも逃げようと床の上で後ずさる。
「いやっ、いやあああああっっ!! こないでっ、こないでええええええっっっ!!! 助けてっ! 誰かあああっっ!! 助けてえええっっ!!」
首を振りながら泣き叫ぶあたしに、迫ってこようとしていた虎は茫然としたようだった。
そして、しばらくもしないうちに虎は夫の姿に戻ったのだった。
夫が虎になったところを目の当たりにしたあたしは、どうしてもその腕の中に戻ることはできなかった。困り果てたような夫によって呼ばれた眷属という者に世話をしてもらいながら、あたしはやっと自分の置かれた状況を説明してもらえた。
曰く、あたしの夫となった方は四神と呼ばれる神様の一方で白虎ということ。
あたしは四神の花嫁であること。
現時点では白虎があたしを離さない為、白虎に嫁ぐしかないということ。
そしてここはあたしの暮らしていた場所ではなく似通った遠い世界なので、家に帰ることは決してできないこと……。
「あの……白虎様に嫁がなかったらどうなるんですか……?」
相手が神様とはいえ虎に嫁ぐなどぞっとしない話だ。さすがに一度は嫁ぐのだと思った方を断って他の三神の嫁になるというのはあたし自身が許せないので、せめて下働きとしてでも使ってもらえないかと聞いてみる。
そしてすぐに後悔した。
白虎に似通った容姿を持つ眷属は、ひどく冷ややかな眼差しをあたしに向けた。
ここにあたしの味方はいない。
そう思い知らされた瞬間だった。
それでもあたしが夫を怖がっていては意味がないと思ったのか、眷属や四神の一方である青龍の仲介によって白虎様とどうにか一緒にいることができるようになった。
あたしたちは会話が足りなかった。
お互いを全く理解していなかった。
白虎様は神様だったから、全く下々の者たちの暮らしとかには興味がないようだった。存在そのものが違ったから、人のつらさとか、思いとかも全然わからないようだった。
それでも白虎様はあたしを諦めようとはしなかった。
「張燕、そなたが教えてくれ」
歩み寄りはたいへんだった。行為の際、どうしても白虎様は虎の姿になってしまう。
何度も泣き叫んで逃げようとした。体の震えがなかなか止まらなかった。
どうしてあたしでなければならないのかと嘆き、他の人にしてよと怒った。
そんな情けない、どうしようもなくみっともないあたしをそれでも白虎様は離さなかった。
根負け、というのとは違うと思う。
こんなにひどい姿をさらしても愛しくてならないというように見つめてくれるのは白虎様だけだと、ある日気付いた。
あのままずっと家にいたらあたしはどうなっていただろう。
親の決めた人と結婚できるならまだいい。けれど下手したら税の形に連れ去られる可能性だってあった。
しかも思い出の中の母は決して幸せそうではなかった。
あたしは正直白虎様が怖くてしかたがない。
だけどあんなにもあたしだけを求めてくれる姿に心動かされないはずはなかった。
「あたし、白虎様のことが怖いです。でも、嫌いではないんです。うまく言えないけど……あたしの夫が白虎様でよかったとも思うんです……」
支離滅裂なことを言っているあたしを、それでも白虎様は熱い眼差しで捉えていた。
何度も何度もくり返し、やり直して。
やがてあたしは本当の意味で白虎様の花嫁になった。
子どもも生まれた。
生まれてきたのは虎の子で本当にびっくりしたけど、乳を必死で吸う姿に愛しさを覚えた。
このままずっと一緒にいられると思っていた。
夫である白虎様と、子どもたちと眷属たちと、そうやって幸せを満喫して終わるのだと思っていた。
なのに。
「次代様がお生まれになった」
「めでたいことだ」
「おめでとうございます」
最後に生まれた子はどうしてか夫が飲み込んだ。
「我がなくなる時、これは取って代わるのだ」
飲み込んだ我が子がいるであろう腹の辺りを指して白虎様が言う。わけがわからなかった。
そして。
「あと五十年ほどは共にいられようが、そなたを他の三神に預けねばならぬのがつらい」
どういうことかと問い詰めた。
あたしは夫と共に身罷るのだとずっと思っていたのに、そうではないと知らされた。
「そなたは四神の花嫁、我がなくなれば他の四神に嫁ぐことになる」
あんなに愛し合ったのに。あんなにあたしだけを見ていたのに。あんなに、あんなに、あんなに。
どうして貴方はあたしを置いていくの。
どうして貴方はあたしを連れて行ってはくれないの。
どうして、どうして、どうして。
「いやっ! いやっ! あたしも連れてってっ!! 共に逝かせてえっっっ!!!」
何度も何度も頼んだ。泣いてわめいて暴れまくった。それでも白虎様は「ならぬ」としか言ってくれなかった。
「……ひどい、方……」
「燕子、愛している。そなただけだ。……そなただけが我を満たした」
「言葉なんて欲しくない……一緒に、連れてってよぅ……」
あたしを抱きしめたまま、夫は空気に溶けて消えてしまった。
あたしの腕の中に虎の子を残して。
それからしばらくはその虎の子と暮らした。
けれど毎日のように青龍様が訪ねてくるようになり、やがてあたしは青龍様の花嫁になった。
青龍様は白虎様と違って寛容だった。他の四神が訪ねてくることを厭わなかった。
玄武様は特にあたしのことを口説かなかった。ただ愛しくてならないというように見つめ、少し会話をするぐらいだった。
朱雀様は色を含んだ眼差しであたしを捕らえた。失礼かもしれないけれどあたしはもうどうでもよかった。
白虎様でなければどの方でも変わらないと思った。
だけど。
「次代様がお生まれになった」
生まれた大きな卵を青龍様が飲み込んだ。
またか、と思った。
またあたしは置いていかれるのか。
白虎様の子も、青龍様の子も、朱雀様の子も生んだ。
もういいじゃないか。
青龍様と一緒に行ってもいいじゃないか。
「もう、置いて行かれるのはいやああぁっっっ!!!」
泣きわめき半狂乱になったあたしを宥めたのは玄武様で。
「人の身であるそなたに酷な人生を与えてしまった我々を、どうか許しておくれ……」
ひどく切ない想いを感じ取ったけれど、あたしはもう限界だった。
(ごめんなさい)
玄武様に甘える形で、あたしはやっと青龍様と一緒に―
* *
涙があとからあとから溢れてきて止まらない。
花嫁にとって、この世界は決して優しくない。
(運命だなんて、認めない……)
意識が浮上する直前、そんな言葉が一瞬脳裏に浮かんだ。
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