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本編
110.心裏
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椅子に腰かけると今までの疲れがどっと出たようで、紅児はそのまましばらくぼーっとしていた。
目端にお茶の道具が映った。沙銚子(土瓶)の横に熱石が置かれている。そしてその横に長い箸がある。
最初の頃は箸の使い方がわからなくて困った。養母に何度も持ち方を教わり、ぎこちなくも食べ物を取れるようになって嬉しかったことを思い出す。今ではそれほど苦労なく使えるが、帰国したらきっと忘れてしまうのだろうか。
(三年……)
肌にいいと言われて軟膏を塗っている手は今は滑らかだ。村にいた頃の紅児の手はあかぎれだらけで見るに堪えなかった。言葉もわからず、とてもつらかった。けれどいろんなことも学んだ。
(私は……本当に……)
帰国していいの?
あんなにお世話になった養父母を、優しくしてくれた四神宮のみんなを、そして気にかけてくれた花嫁を置いて。
体の反応の問題もある。
船に乗ることはできるの?
紅児は身体を丸め、両手で自分の腕をぎゅっと握りしめた。
船に乗ることを想像しただけで体ががたがたと震えだす。
紅夏の顔を思い浮かべた。
『大丈夫、大丈夫……紅夏様がいらっしゃる……』
自分に言い聞かせるように呟く。
呼吸が浅い。背筋を嫌な汗が伝って降りていく。
(なんで? なんで? どうしてなの? どうしたらいいの?)
明日の夕方には船に乗らなければいけないのに。
紅児は恐慌状態に陥った。
「エリーザ」
頭の上から優しいテナーが降ってきて、抱きしめられた。いつのまにか紅夏が戻ってきてくれていたらしい。
痛いぐらいの抱擁に紅児は縋りついた。出会ってまだそれほど経っていないのにもうこの腕がなければいられなくなっている。そんな弱い自分が嫌だった。けれど今はこの腕でなければ駄目なのだ。
目の奥が熱くなる。泣いてはいけないと思うのに涙がぼろぼろこぼれた。
『~~~~~~っっ!!』
紅夏は紅児の様子に気づいているようだったが、ただ抱きしめてくれているだけだった。
何が切ないのかも、もう紅児にはわからなかった。たまらなくつらくて、どうしたらいいのか。
説明のできないもどかしさの中、紅夏が何も言わないことに安堵する。もしかしたらこの荒れ狂う心の内を感じ取ってくれたのかもしれなかった。
村から日帰りしたということもあり、そのまま紅児は力尽きるように眠りについた。
紅夏は当たり前のように、ずっと新妻を抱きしめていた。
* *
花嫁からの伝言は的を射ていた。
紅夏は紅炎と黒月に伝えなければいけないことがあった為、花嫁の部屋の前に戻った。
紅炎は紅夏と同じ第一世代で、朱雀が先代の花嫁との間に成した眷属である。紅炎の朱雀と他の四神に対する忠誠心は疑うべくもないが、花嫁への対応の仕方を引き継ぐ必要があった。黒月も現在は花嫁に忠誠を誓っているが、その言動を目に余ると紅炎が考える可能性もある。黒月を窘める前に白雲や青藍に確認はするだろうが、先に現状を知らせておくにこしたことはない。
そして紅児が世話になっていた養父母の件。村の貧しさなども伝えておく。それを聞いた黒月は一瞬傷ついたような表情をした。そこまで過酷な生活を送っていたとは思っていなかったのだろう。
あらかた確認を終え、踵を返そうとした時「花嫁様から伝言がございます」と黒月に呼び止められた。
曰く、
「おそらく紅児は明日船に乗るのをとても不安に思っているはず。もし落ち着かない様子であれば何も聞かず抱きしめてあげてほしい。本当は私が寄り添ってあげたいがそれはできないので、今夜は余計なことを考える前に寝せてやってほしい。朝になれば話を聞くからよろしく頼む」
当然のことながらそれを聞いた紅夏は内心複雑だった。
誰が紅児の夫であり、保護する者なのだ。
だが己が人の心の機微に疎いということは自覚していたので、「わかった」とだけ応えた。
相手は四神の花嫁だというのに、己の”つがい”に関わっているだけに平静ではいられなくなる。
もう少し冷静にならなくては、と己を戒めた。
泣き疲れて眠る紅児を見ながら、何故己の妻が花嫁を慕うのか多少は理解できた。
ただやはり、心の中は複雑なままだった。
心裏 心の内
目端にお茶の道具が映った。沙銚子(土瓶)の横に熱石が置かれている。そしてその横に長い箸がある。
最初の頃は箸の使い方がわからなくて困った。養母に何度も持ち方を教わり、ぎこちなくも食べ物を取れるようになって嬉しかったことを思い出す。今ではそれほど苦労なく使えるが、帰国したらきっと忘れてしまうのだろうか。
(三年……)
肌にいいと言われて軟膏を塗っている手は今は滑らかだ。村にいた頃の紅児の手はあかぎれだらけで見るに堪えなかった。言葉もわからず、とてもつらかった。けれどいろんなことも学んだ。
(私は……本当に……)
帰国していいの?
あんなにお世話になった養父母を、優しくしてくれた四神宮のみんなを、そして気にかけてくれた花嫁を置いて。
体の反応の問題もある。
船に乗ることはできるの?
紅児は身体を丸め、両手で自分の腕をぎゅっと握りしめた。
船に乗ることを想像しただけで体ががたがたと震えだす。
紅夏の顔を思い浮かべた。
『大丈夫、大丈夫……紅夏様がいらっしゃる……』
自分に言い聞かせるように呟く。
呼吸が浅い。背筋を嫌な汗が伝って降りていく。
(なんで? なんで? どうしてなの? どうしたらいいの?)
明日の夕方には船に乗らなければいけないのに。
紅児は恐慌状態に陥った。
「エリーザ」
頭の上から優しいテナーが降ってきて、抱きしめられた。いつのまにか紅夏が戻ってきてくれていたらしい。
痛いぐらいの抱擁に紅児は縋りついた。出会ってまだそれほど経っていないのにもうこの腕がなければいられなくなっている。そんな弱い自分が嫌だった。けれど今はこの腕でなければ駄目なのだ。
目の奥が熱くなる。泣いてはいけないと思うのに涙がぼろぼろこぼれた。
『~~~~~~っっ!!』
紅夏は紅児の様子に気づいているようだったが、ただ抱きしめてくれているだけだった。
何が切ないのかも、もう紅児にはわからなかった。たまらなくつらくて、どうしたらいいのか。
説明のできないもどかしさの中、紅夏が何も言わないことに安堵する。もしかしたらこの荒れ狂う心の内を感じ取ってくれたのかもしれなかった。
村から日帰りしたということもあり、そのまま紅児は力尽きるように眠りについた。
紅夏は当たり前のように、ずっと新妻を抱きしめていた。
* *
花嫁からの伝言は的を射ていた。
紅夏は紅炎と黒月に伝えなければいけないことがあった為、花嫁の部屋の前に戻った。
紅炎は紅夏と同じ第一世代で、朱雀が先代の花嫁との間に成した眷属である。紅炎の朱雀と他の四神に対する忠誠心は疑うべくもないが、花嫁への対応の仕方を引き継ぐ必要があった。黒月も現在は花嫁に忠誠を誓っているが、その言動を目に余ると紅炎が考える可能性もある。黒月を窘める前に白雲や青藍に確認はするだろうが、先に現状を知らせておくにこしたことはない。
そして紅児が世話になっていた養父母の件。村の貧しさなども伝えておく。それを聞いた黒月は一瞬傷ついたような表情をした。そこまで過酷な生活を送っていたとは思っていなかったのだろう。
あらかた確認を終え、踵を返そうとした時「花嫁様から伝言がございます」と黒月に呼び止められた。
曰く、
「おそらく紅児は明日船に乗るのをとても不安に思っているはず。もし落ち着かない様子であれば何も聞かず抱きしめてあげてほしい。本当は私が寄り添ってあげたいがそれはできないので、今夜は余計なことを考える前に寝せてやってほしい。朝になれば話を聞くからよろしく頼む」
当然のことながらそれを聞いた紅夏は内心複雑だった。
誰が紅児の夫であり、保護する者なのだ。
だが己が人の心の機微に疎いということは自覚していたので、「わかった」とだけ応えた。
相手は四神の花嫁だというのに、己の”つがい”に関わっているだけに平静ではいられなくなる。
もう少し冷静にならなくては、と己を戒めた。
泣き疲れて眠る紅児を見ながら、何故己の妻が花嫁を慕うのか多少は理解できた。
ただやはり、心の中は複雑なままだった。
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