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本編
53.余音(余韻)
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結局まともに湖の周りを散策することはできなかった。
夕方には紅夏に抱かれて別の門から表に出た。もっと見たかった、と紅児が名残惜しそうにしているのが感じられたのか、次の休みもここに来るかと尋ねられた。紅児は嬉しくなって紅夏に抱きついた。
もう2人の関係を阻むものは何もないように思えた。
馬車の中でも紅夏は彼女を放そうとはしなかった。一路王城に向かって走る馬車を紅児はほんの少しだけ憎らしく思った。王城に戻ったら周りの目が気になってしまう。ただでさえお互い赤い髪をしていて目立つのだ。花嫁と約束した手前紅夏の部屋に行くこともできない。
(花嫁様の気づかいさえもわずらわしく思ってしまうなんて……)
紅児は申し訳ない気持ちになった。それでも紅夏と一緒にいたいという思いは変わらなかった。
抱き寄せられているだけで胸が疼く。それは苦しいのと同時にひどく甘い。
喉元まで迫上がってきた甘さが瞳を潤ませる。
これが、恋なの?
こんなに息が上がって苦しくて、だけど体のいろんなところが甘く疼いてしまう。
〈紅夏様……〉
思わず心の中で名を呼んでしまう。
〈どうした〉
心話なのに頭に響く声も甘くて、紅児はふるりと身を震わせる。
〈……あの……もう帰るのですよね……〉
名残惜しくてつい聞くと、〈いや、馬の店に寄る〉と言う。紅児は首を傾げた。
血縁はないが馬遼は一応紅児の親戚にあたる。もしかしたら養父母の関係で用があるのかもしれない。けれどそれが紅児ではなく紅夏というところはおかしいのだが、彼女の中ではもう彼が自分の身内のような気になってしまっていた。散々しぶっていたのが嘘のようである。
けれどそれも詮無いこと。
紅児を溺愛していると言ってもいい紅夏のエスコートぶりに恋愛初心者の彼女がかなうわけはない。
馬車は王城の近くの繁華街を入れるところまで入ると2人を下ろした。繁華街の中は馬車を止めておく場所がない。その為近くの待機所に置きに行く必要があるのだった。御者は従者も兼ねているので馬車を置きに行ってからまた戻ってくるのが普通である。だが紅夏は大体このぐらいの時刻に迎えにくるように言っただけで馬車を行かせてしまった。
紅児も特に従者を必要とはしていないからなんとも思わなかった。
時刻としては夜にさしかかる頃だというのにまだ表は明るかった。
王都の夏は日が長い。この頃は亥の刻(夜9時頃)にようやく暗くなる。おかげで酉の三刻(夜6時半頃)ぐらいではまだ太陽が比較的高い位置にあった。
屋台の並ぶ通りを腰を抱かれて歩く。
2人を見て目を丸くする者や凝視する者は多かったが紅児はあまり気にならなかった。
(花嫁様と朱雀様のようにまるきり同じ色だったらよかったのに……)
紅夏と紅児の髪の色は赤いが、色合いが違うことは前述した。
(そういえば花嫁様の元の髪色は黒だと聞いているけど、一体どうやってあんなに鮮やかな色に染めていらっしゃるのかしら?)
どう考えても染めている以外ないのだが、塗りムラもないし頭のてっぺんに黒が出ているのも見たことがない。
(毎日塗っていらっしゃるのかしら)
髪をいじっているのは紅児ではない為よくわからないが、毎日のように染めていたりしたら髪が傷んでしまうのではないかと心配した。
「紅児」
耳元で名を呼ばれてふるり、と身を震わせた。テナーの声に頬が熱くなる。
いつのまにか馬の屋台に着いていたようだった。
せっかく一緒にいるのに他のことを考えていた己が嫌になる。でも敬愛している花嫁のことだからいいかとも思い直した。
「こんばんは」
ちょうど馬がいたので声を掛けると、彼は破顔した。
「おう、嬢ちゃん! 今日は紅夏様とデートかい? まぁ座ってくれ!」
「デ、デートって……」
紅児がうろたえているのもかまわず、紅夏は促されるままに凳子に腰掛けた。その涼しい顔を少しだけ憎らしく思いながら紅児も隣に腰掛けた。屋台の脇から奥に入れるようになっており、店舗毎に簡単な桌椅(テーブルと椅子のこと)が置かれている。屋台で買ってそのまま食べ歩きもできるし、少し座って食べることもできるというシステムを紅児は気に入っていた。
すぐに茶杯と茶壺(急須)がどんと置かれ、紅児がお茶を入れている間にいろいろな食べ物が卓子に置かれた。それほど大きくはない卓子がいっぱいになるとやっと何も置かれなくなった。
紅児は呆気にとられた。
作り置きしている物がそれなりにあるとはいえ、これはいただきすぎではないだろうか。
それを当然のように紅児の口元に持ってくる紅夏もどうかと思う。条件反射で口を開いて食べる。やっぱりこっちの味の方がほっとする己はどこまで庶民なのだろうか。
それほどおなかがすいているとは思わなかったが、食べ慣れた味に安心してまたいっぱい食べてしまった。残った物を紅夏が食べたがどれも少しずつ残した。それでこの料理の山が馬のおごりだということがわかる。これらを食べ切ってしまうと更に料理の皿が出てくるのだ。
「腹いっぺえ食ったみたいだな。まだなんか食うかい?」
「いえ! おなかいっぱいです、ごちそうさまでした!」
馬の言葉に紅児は慌てて返した。馬がククッと笑う。
「うまかった。送る物はあるか?」
紅夏の科白に紅児はきょとんとした。馬もまた鳩が豆鉄砲をくらったような表情をしたが、すぐにどのことか気付いたようだった。
「あー……用意はしてあんだけど、ここには持ってきてねぇんです」
「なれば後で取りに参ろう」
「助かります」
紅児は紅夏と馬の顔をそれぞれ見たが、一体何のことかはわからなかった。
その後、養父がここにいた時の話を馬が客をさばく合間に聞いたりして過ごした。
とても有意義な一日だったと紅児は紅夏に感謝した。
夕方には紅夏に抱かれて別の門から表に出た。もっと見たかった、と紅児が名残惜しそうにしているのが感じられたのか、次の休みもここに来るかと尋ねられた。紅児は嬉しくなって紅夏に抱きついた。
もう2人の関係を阻むものは何もないように思えた。
馬車の中でも紅夏は彼女を放そうとはしなかった。一路王城に向かって走る馬車を紅児はほんの少しだけ憎らしく思った。王城に戻ったら周りの目が気になってしまう。ただでさえお互い赤い髪をしていて目立つのだ。花嫁と約束した手前紅夏の部屋に行くこともできない。
(花嫁様の気づかいさえもわずらわしく思ってしまうなんて……)
紅児は申し訳ない気持ちになった。それでも紅夏と一緒にいたいという思いは変わらなかった。
抱き寄せられているだけで胸が疼く。それは苦しいのと同時にひどく甘い。
喉元まで迫上がってきた甘さが瞳を潤ませる。
これが、恋なの?
こんなに息が上がって苦しくて、だけど体のいろんなところが甘く疼いてしまう。
〈紅夏様……〉
思わず心の中で名を呼んでしまう。
〈どうした〉
心話なのに頭に響く声も甘くて、紅児はふるりと身を震わせる。
〈……あの……もう帰るのですよね……〉
名残惜しくてつい聞くと、〈いや、馬の店に寄る〉と言う。紅児は首を傾げた。
血縁はないが馬遼は一応紅児の親戚にあたる。もしかしたら養父母の関係で用があるのかもしれない。けれどそれが紅児ではなく紅夏というところはおかしいのだが、彼女の中ではもう彼が自分の身内のような気になってしまっていた。散々しぶっていたのが嘘のようである。
けれどそれも詮無いこと。
紅児を溺愛していると言ってもいい紅夏のエスコートぶりに恋愛初心者の彼女がかなうわけはない。
馬車は王城の近くの繁華街を入れるところまで入ると2人を下ろした。繁華街の中は馬車を止めておく場所がない。その為近くの待機所に置きに行く必要があるのだった。御者は従者も兼ねているので馬車を置きに行ってからまた戻ってくるのが普通である。だが紅夏は大体このぐらいの時刻に迎えにくるように言っただけで馬車を行かせてしまった。
紅児も特に従者を必要とはしていないからなんとも思わなかった。
時刻としては夜にさしかかる頃だというのにまだ表は明るかった。
王都の夏は日が長い。この頃は亥の刻(夜9時頃)にようやく暗くなる。おかげで酉の三刻(夜6時半頃)ぐらいではまだ太陽が比較的高い位置にあった。
屋台の並ぶ通りを腰を抱かれて歩く。
2人を見て目を丸くする者や凝視する者は多かったが紅児はあまり気にならなかった。
(花嫁様と朱雀様のようにまるきり同じ色だったらよかったのに……)
紅夏と紅児の髪の色は赤いが、色合いが違うことは前述した。
(そういえば花嫁様の元の髪色は黒だと聞いているけど、一体どうやってあんなに鮮やかな色に染めていらっしゃるのかしら?)
どう考えても染めている以外ないのだが、塗りムラもないし頭のてっぺんに黒が出ているのも見たことがない。
(毎日塗っていらっしゃるのかしら)
髪をいじっているのは紅児ではない為よくわからないが、毎日のように染めていたりしたら髪が傷んでしまうのではないかと心配した。
「紅児」
耳元で名を呼ばれてふるり、と身を震わせた。テナーの声に頬が熱くなる。
いつのまにか馬の屋台に着いていたようだった。
せっかく一緒にいるのに他のことを考えていた己が嫌になる。でも敬愛している花嫁のことだからいいかとも思い直した。
「こんばんは」
ちょうど馬がいたので声を掛けると、彼は破顔した。
「おう、嬢ちゃん! 今日は紅夏様とデートかい? まぁ座ってくれ!」
「デ、デートって……」
紅児がうろたえているのもかまわず、紅夏は促されるままに凳子に腰掛けた。その涼しい顔を少しだけ憎らしく思いながら紅児も隣に腰掛けた。屋台の脇から奥に入れるようになっており、店舗毎に簡単な桌椅(テーブルと椅子のこと)が置かれている。屋台で買ってそのまま食べ歩きもできるし、少し座って食べることもできるというシステムを紅児は気に入っていた。
すぐに茶杯と茶壺(急須)がどんと置かれ、紅児がお茶を入れている間にいろいろな食べ物が卓子に置かれた。それほど大きくはない卓子がいっぱいになるとやっと何も置かれなくなった。
紅児は呆気にとられた。
作り置きしている物がそれなりにあるとはいえ、これはいただきすぎではないだろうか。
それを当然のように紅児の口元に持ってくる紅夏もどうかと思う。条件反射で口を開いて食べる。やっぱりこっちの味の方がほっとする己はどこまで庶民なのだろうか。
それほどおなかがすいているとは思わなかったが、食べ慣れた味に安心してまたいっぱい食べてしまった。残った物を紅夏が食べたがどれも少しずつ残した。それでこの料理の山が馬のおごりだということがわかる。これらを食べ切ってしまうと更に料理の皿が出てくるのだ。
「腹いっぺえ食ったみたいだな。まだなんか食うかい?」
「いえ! おなかいっぱいです、ごちそうさまでした!」
馬の言葉に紅児は慌てて返した。馬がククッと笑う。
「うまかった。送る物はあるか?」
紅夏の科白に紅児はきょとんとした。馬もまた鳩が豆鉄砲をくらったような表情をしたが、すぐにどのことか気付いたようだった。
「あー……用意はしてあんだけど、ここには持ってきてねぇんです」
「なれば後で取りに参ろう」
「助かります」
紅児は紅夏と馬の顔をそれぞれ見たが、一体何のことかはわからなかった。
その後、養父がここにいた時の話を馬が客をさばく合間に聞いたりして過ごした。
とても有意義な一日だったと紅児は紅夏に感謝した。
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