貴方色に染まる

浅葱

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本編

60.発現(気づく)

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 王都の夏は長い。
 きちんと四季があるとも言われているが、春は実質2週間ぐらいしかない。それも黄砂が吹き荒れて終りである。
 その後は初夏になり、端午節(春の大祭)を過ぎれば真夏が訪れる。
 残暑と呼ばれる頃に紅児ホンアールは3回目の休みをもらった。
 残暑とは言うぐらいだからまだまだ暑い。それでも夏の終りに差し掛かってきたのか、日は少しずつ短くなってきているようだった。
 その日の朝も前回と同じように四神宮の食堂で朝食をとってから清漪園チンイーユエンに向かった。前回行けなかったところを回る予定である。
 はからずしもお互いに涼しげな藍色の衣装で、まるであつらえたようだと紅児は頬を染めていた。
 1月前に比べ紅児の紅夏ホンシャーに向かう気持ちも変化している。デートなのね~と冷やかされても照れるぐらいには心に余裕が出てきたとも言えよう。


 あの夜から紅児は何度か紅夏の室で夜を過ごした。それを心配した花嫁に尋ねられたこともあったが、紅児は頬を染めながらも否定した。自国で性教育をしっかり受けていれば違ったのかもしれないが、紅児は幸か不幸かそれを習う前にこの国に来てしまった。つまり彼女は本当の意味でまっさらであり男の事情など知らない。

「……意外と忍耐強いのね」

 だから花嫁が苦笑混じりに呟いた科白の意味もさっぱりわからなかった。そしてそれに微かに頷いている延の様子も。ただ黒月だけが少しだけ眉をしかめていたのが印象的ではあった。基本的に眷族たちはあまり表情が動かないものである。
 そう考えると紅夏の表情は紅児の前ではよく動いていると言っていい。

(きっと……白雲様や青藍様も陳さんや延さんの前では優しい顔をしているのかも)

 紅児はなんだか嬉しかった。


 その日も案内役の男性に二、三何事か確認した後は不要と追い払い、今回はまず蘇州街へ足を進めた。直接外から蘇州街につながる門もあるらしいのだが紅夏は形式を順守した。蘇州街へ行く途中にある長廊を紅児がもう少し見たがったというのもある。長廊の梁には文学作品や自然に関連する絵が描かれており、前回来た時もっとじっくり見たいと紅児は思っていたのだった。
 紅児はこの国の文学等は知らない。けれどそれらの絵を眺めるだけでどんな物語なのだろうとわくわくした。やはり文字は読めた方がいいと気持ちを新たにした。
 前回の休みの後読み書きができるようになりたいと思い、紅夏に話をした。すると花嫁がわざわざ教育係を頼んでくれ、4日に1度ぐらいの割合で教えてもらえることになったのである。
 花嫁を煩わせたくなかったから紅夏に頼んだのにと彼をなじったら、

「そなたは花嫁様の客人だ。何をするにしてもまず花嫁様を通す必要がある」

 と当り前のように言われてしまった。
 そして花嫁からは、

「勉強っていうのはね、教師に習うのが一番なのよ。彼らは必ずしも専門家ではないけど、教え方はうまいわ。読み書きができるからって教師になれるわけではないの」

 と諭された。花嫁にとってもこの国の文字を読むのはたいへんらしいと聞き紅児が驚いたのは記憶に新しい。
 紅児にとってこの国の文字は複雑な絵のように見える。あまり絵心のない己にもうまく書けるだろうかと不安に思っていると、老師ラオシー(先生)は元々この国の文字は絵から生まれた物なのだと教えてくれた。だから字を見れば大体意味がわかる。万人に書けるように変化をくり返してきたものだから安心しなさいと微笑まれた。
 ゆっくりと長廊を見てから道をそれで蘇州街へ向かう。
 ここは水の都と呼ばれる蘇州の商店街を模した場所で、何代目かの皇帝がここで買物をしたりして楽しんだらしい。
 足を踏み入れると門の前にいた人から蘇州街専用の紙幣を渡され、それで自由に買物を楽しんでくださいと言われた。もちろんこの紙幣は蘇州街以外では使えない。残ったら記念に持ち帰ってもいいらしいと聞いて紅児はにっこりした。
 蘇州街の真ん中は川のようになっており、その周りに商店が並んでいる。食堂、茶楼、質屋、漢方薬屋、染物屋、そして土産物屋と思われる店等いろいろあり見て回るだけでも飽きない。ただ紅児には道幅がとても狭く感じられ、残念ながらそれほど居心地がいいとはいえなかった。どうしても川に落ちたら……と考えてしまったのだ。そんなわけで四神宮の人々に土産を買うと彼らは早々に蘇州街を辞した。
 その後昼食の支度は船に乗っていった先にある南湖島に用意されていると知らされた。

「島の中央にございます、涵虚堂ハンシータンにご用意させていただきました」

 神出鬼没の案内役である沈に言われ、是非にと船を勧められる。確かに昆明湖は広く、ここで船に乗らないのはもったいない。だがいざ船に乗ると考えただけで、紅児はまた前回と同じような発作に見舞われた。
 背を冷汗がだらだらと伝い、動悸は激しくなり、体がカタカタと震えだす。

(どうして、どうして、どうして……?)

 やっと紅児もここで己の反応の異常性に気付いた。しかもこんな反応をするのは……。

「船には乗らぬ。走った方が早いのでな」

 さらりと紅夏が答えた。沈は深く頭を下げる。

「大丈夫だ」

 優しく声をかけられ、紅児は紅夏に縋りついた。
 どうにか体の反応が落ち着いてくるのを感じながら、紅児はやっぱりと思った。

 おそらく前回紅児の体が同じ反応をした時、紅夏はすでに原因がわかっていたのだ。

〈……紅夏様……私、船には乗れないの、でしょうか……?〉

 心の中でぼんやり尋ねると、抱き寄せられた。

〈わからぬ。人間というのは複雑なものだ。全く駄目だと思っていてもある時ふと大丈夫になったりすることもあるとは聞く〉

 紅児はクスリとした。紅夏は優しく誠実だ。
 いつのまにか体の震えは治まっていた。

〈もう大丈夫みたいです〉
〈ゆくぞ〉

 腕を取られ、元来た道を戻る。先程までのんびりと進んでいた道をありえないような速さで駆け抜ける。まるで己も風になってしまったようだと紅児は思った。

 船に乗れないなら、もし迎えが来ても帰国はできない。

 嵐で船が転覆したことが、発作を起こすほど紅児にはショックだったのだ。
 もしまた船に乗った時転覆しないという保証はない。片道2カ月も船に乗るのだ。あの時、乗組員の一部は遺体となって流れ着いたとあとから聞いた。そして父の消息は未だ知れない。助かったのは奇跡だったのではないかと紅児自身も思う。

(船に乗れない……)

 そのこともショックだが、どこかでホッとしている己もいるのが不思議だった。

(きっと……)

 父を失ってしまったと認めるのがこわいのだ。ここにいれば、この国にいれば父はどこかで生きていると希望を持ち続けることができる。もちろん帰国したって父の生存を信じ続けることはできるだろう。だがその思いは希薄になるはずだ。そのまま父が見つからなかったら、文字通り忘れてしまうような気がして紅児はぞっとした。
 大好きな父を忘れたくない。
 でも帰りたい。

(私は一体、どうしたいの?)

 何度目かの問いが脳裏にこだました。
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