辺境の漁村育ちですが、命の恩人が隣国の王子様でした 〜溺愛は波のように押し寄せる〜

紅葉山参

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追っ手と隠された紋章

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 街道沿いに停まっていた馬車と男たちの存在は、リーリアの心臓を鷲掴みにしたまま離さなかった。

 彼らは単なる商人や旅人ではない。その身のこなし、腰に下げた剣、そして何よりもシリウスが着ていたものと酷似した上質な制服が、彼らがシリウスと同じ世界から来た者たち、つまり「追っ手」であることを強く示唆していた。

 リーリアは獲った魚を浜辺に投げ出すように放置し、呼吸を乱しながら小屋へと急いだ。心臓がうるさいほど鼓動を打ち、頭の中では警鐘が鳴り響いていた。

「アン!大変!」

 小屋に駆け込むと、シリウスはちょうどリーリアのためにと、慣れない手つきで木製の器を削っていた。彼の姿は穏やかで、外の世界の危険とは無縁のようだった。

「どうした、リーリア。そんなに顔色を変えて」

 シリウスは優しい瞳でリーリアを見つめた。その平穏な姿に、リーリアは一瞬、自分が過剰に反応しているだけかと錯覚したが、すぐに現実が戻ってきた。

 リーリアは息を切らせながら、隣国語と自国語を混ぜて必死に説明した。

「馬車が、街道に。豪華な、見たこともない馬車と、兵士のような男たち。あなたの服と、似ていたわ」

 シリウスの表情から、一瞬で笑顔が消えた。彼の青い瞳に、警戒と、微かな恐怖の色がよぎった。記憶を失って穏やかに過ごしていた彼の中にも、過去の危機感が本能的に残っているのだろう。

「兵士……。私のことを、捜しているのだろうか」

 シリウスは考え込むように黙り込んだ。彼が何者であるにせよ、これ以上ここに留まるのは危険だ。村人に知られれば、リーリアまで危険に晒してしまう。

 リーリアは彼の腕を掴み、小屋の隅へと引っ張った。

「ここにいてはだめ。どこか、誰も見つけられない場所に隠れないと。この辺りは知っているわ」

「待て、リーリア。私を捜しているのなら、逃げても意味がない。だが、もし彼らが私を見つけたら、君にも迷惑がかかる」

「迷惑なんかじゃない!私の判断であなたを助けたの。だから、責任を持つわ」

 リーリアの目には、強い決意の光が宿っていた。この命だけは、絶対に守り抜くという、漁師の娘としての強い意志だった。

 シリウスはリーリアの頑なな決意に折れた。彼は自分の身を案じるよりも、リーリアが自分を守ろうとしてくれるその心に、深い感動を覚えていた。

「わかった。君の言う通りにしよう。だが、無理はしないでくれ。君が傷つくのは耐えられない」

 リーリアはシリウスを、小屋の裏にある、岩陰の奥にある小さな洞窟へと案内した。その洞窟は、彼女の父がかつて密漁師の監視を避けるために利用していた秘密の場所だった。人一人が隠れるには十分な広さがある。

 シリウスが洞窟に隠れている間、リーリアは小屋に戻り、証拠を隠滅した。シリウスが使っていた粗末な食器を海に沈め、毛布を片付け、彼の匂いを消すために薬草を焚いた。

 その時、ふと、リーリアは小屋の床に落ちていた、黒い布の切れ端に気づいた。

 それは、シリウスが流れ着いた時に着ていた服の一部だった。傷口の処置をする際に、リーリアが切り取って捨てたはずの、襟元の破片だ。

 リーリアはそれを拾い上げ、何気なく裏地を見た。黒い絹の裏地に、潮と血でかろうじて判別できる、小さな刺繍が施されているのを見つけた。

 それは、一対の剣と、その上に戴かれた王冠、そしてその下に流れる水の波を組み合わせた、複雑で威厳のある紋章だった。王家の紋章に間違いない。

 リーリアの息は止まった。

(王冠……!やはり、アンサンブルの、ただの貴族ではない。王族の紋章だわ)

 リーリアの手は震えた。自分が助け、そして愛し始めている青年が、敵対する隣国の「王族」だということを、彼女は決定的に理解してしまった。

 漁師の娘と、異国の王族。その身分の差は、海と空ほども遠い。

 リーリアは急いでその布を握りしめ、自分の服の懐に隠した。この事実をシリウスに伝えるべきか、否か。もし伝えれば、彼は記憶を取り戻すきっかけになるかもしれない。しかし、同時に、彼と自分との間に、決して越えられない壁が存在することも突きつけられる。

 リーリアは逡巡した。もし彼が記憶を取り戻し、自分が王族だと知れば、きっとすぐにこの漁村から去ってしまうだろう。永遠に会えなくなるかもしれない。

(でも、この紋章は隠してはいけない。彼が何者なのか、真実を知る権利がある)

 勇気を振り絞り、リーリアは洞窟へ戻った。

「アン。これを見て」

 リーリアは隠し持っていた紋章の布切れを、シリウスに見せた。

 シリウスの顔が、さらに青ざめる。彼はその布を奪い取るように掴み、紋章の模様を凝視した。

「これは……!この紋章は、アンサンブル王家の、第一王位継承者のみが使用を許される……」

 その言葉を口にした瞬間、シリウスの頭の中に、激しい痛みが走った。彼は頭を抱え、唸り声を上げた。

 リーリアは慌てて彼の背中を摩った。

「アン!大丈夫!?無理しないで!」

 シリウスは苦痛に顔を歪めながらも、瞳には確かな光が戻り始めていた。それは、数日間彼の瞳から失われていた、理知的な、王族の持つべき威厳の光だった。

「リーリア……私は……」

 シリウスは、全てを思い出したかのように、リーリアの顔を見上げた。その瞳は、もう「アン」ではない。隣国アンサンブルの、王子の顔をしていた。
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