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第3章 サトル、謡う

3-2-6 清めと赦しの唄

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 深き森の豊かなマナが目覚めて、歓喜に震えながら人の耳には聞こえない声を上げた。
 木々がさざめいて、空気が変わる。
 その音は、まるで夜のとばりの中に妖精が迷い込んだんじゃないかって美しい響きで、必死にうつむいていたはずの俺の視線まで勝手に上げた。
 もう一小節。
 ピルピルさんの小さな身体が淡い水色の光を帯びて、水のマナがふわふわと漂い始め、ピルピルさんの頬が光った。涙の形の、青い宝石のようなあの飾りだ。
 その光に誘われるようにマリーベルのクリスタルワンドに灯った優しい炎が揺れて、火のマナが踊り出る。
 またもう一小節続いて、ふらっと俺の足が動いた。
 人前で歌うなんて、怖い……。
 笑われたら。馬鹿にされたら。
 だけど、もうどうしようもなく、俺の中から溢れそうなものがあった。
 ヴィントがエスコートするように俺の腰を抱いて、ノウマンの前に連れ出す。
 俺を見てはっと自分を取り戻したノウマンは、首に長剣の刃を当てられたまま、忌々しそうに俺を睨んで憎悪が迸るように吠えた。

「忌々しい小僧が…私はおまえを許さんぞ…! なにが吟遊詩人バルドラーだ! 清めと赦しなんてクソみたいなもの、私は望まない! 覚えていろよ、たとえ夜の眷属レヴァナントに堕ちても必ずおまえの首をもぎ取ってやる!!」
「うるさい口だ。顎から落とすか」
「ルーさん、だめだよ」

 ヴィントに叱られて引き下がるルーファスネイトは、まるで母親に叱られて拗ねたみたいな顔になる。
 ちょっと笑ったら、怯えてすっかり慌ただしくなっていた鼓動がふっと落ち着いた。
 ピルピルさんがおどけた仕草で、小人族リルビスのイメージ通りの無邪気な子どもそのものの笑顔になって、また楽しいメロディを奏でて踊る。
 ……うん。あなたが俺の吟遊詩人バルドラーのお師匠様だ。
 鞄に手を入れて、買いたての竪琴を出す。
 けっこう重いし、まだ肩も痛い。
 今は体力がないからちゃんと弾けるか心配だったけど、大丈夫そうだな。
 ソロモン・コアを奪われたときとはまた違う。
 でも同じように俺の中からこみ上げた、あのマナが全身を巡る熱さが痛みを忘れさせてくれた。

「サトル君、ちょっと待ってね。…いいよ」

 ヴィントが俺に着せたままのだぶだぶの上着の袖をしっかりめくって、残っていたエーデルポーションを指にかけてくれて、指の痛みと痺れが引く。
 指先からぱっと光のマナが躍り出た。

「覚えてるな?」

 ピルピルさんの問いかけに、こくりと頷く。
 竪琴を携えた俺の周りに、いろんなマナが蝶の形をとって舞い始めた。
 四大元素エレメンタルと、光闇カオス……。きっと、女神たちもあの二つの月から俺たちを見てる。

「やめろ、歌うな!」

 ノウマンの悲鳴のような声を無視して、ピルピルさんが笛を咥えた。
 「清め」と「赦し」……この世界のすべての命に、ただ平等に与えられた女神の慈悲。その最初の一音。続けて俺の指が、もう百年もこの曲を奏でていたように弦を弾いた。
 息を吸って、細く吐く。
 蝶の形をしたマナが俺たちを中心に漂って、清めと赦しの呪歌バルドが俺の中からこぼれ出た。


 罪を犯した者よ
 あなたを赦す者、赦さない者、裁く者がいる
 それらはあなたを見ている

 罪を犯した者よ
 あなたが刃を向けた者、幸福を奪った者、絶望に染めた者があなたを見ている

 わたしはあなたの歩いてきた旅路を照らすもの
 わたしはあなたの歩いてきた靴跡に咲くもの
 わたしはあなたの歩いてきた果てを示すもの

 その魂を染めた闇よ
 その魂を照らす光よ
 あなたはすべてを得て
 あなたはすべてを失った

 その魂を染めた闇よ
 その魂を照らす光よ
 あなたはそれを知らなくてはならない
 なぜならあなたは―――


 ……罪のない人はいない。
 ただ生まれて、生きて、死ぬ。
 それだけでも罪が生まれる。
 その人が死を迎えることで悲しむ人がいれば、それも罪だ。
 その人が死を迎えることを悲しまれなくても、やはり罪だ。
 この世界の女神は、死に対して一片の隙もなくただ平等だった。
 女神がこの世界の命に対して贈った呪歌バルドは、罪人の魂をこじ開ける呪文だ。
 己のしてきたことを鮮明に映し出す。
 己が愛されてきた記憶も。
 己が憎まれてきた記憶も。
 ……もし、愛された記憶がない人だったら。
 これは効果がないんじゃないか……。俺はそう思うんだけどね。
 たっぷり五分近くかな。謡い終わって思った。
 うん、やっぱりこれ、賛美歌だな!
 なんかわからないけど、使ってもないはずのマイクの存在を感じた…! 魔力が乗ってるからかな? そういう響き方だった!
 だいぶ図々しいことを言わせてもらうと、大聖堂でソロを務める外国の聖歌隊の男の子になった気分というか、音楽付きってやばい。気持ちよかった!!
 ……って、あれ? 静かだな。
 ふと見たら、ピルピルさんは「やり遂げたー!」って感じのどや顔でまた笛を指でくるくるしながら俺を見てうんうん頷いてるし、ヴィントとルーファスネイトは初めて見るほど完璧なぽかん顔で俺を見てるし、マリーベルは…いや、マリーベルとノウマンは、ただただ滂沱の涙を流していた。
 マリーベルは呆然と俺を、ノウマンは虚空を見て震えてる。
 え、なんで? 怖ッ!
 俺、音痴治ってたよな?
 かなり気持ちよく謡えたんだけど、もしかしてダメだった? 二人とも大丈夫なのか!?

「サト…ッ」

 俺になにか言いかけたマリーベルの口がヴィントに塞がれて、「しぃ」ってされる。
 うお、なにそれさっきまでぽかん顔だったくせに、もうしっかりかっこいいとかイケメンずるい…! 

「サトルといったか」

 今度はルーファスネイトに呼ばれた。
 美しい目が揺れながら俺を見る。その不思議な瞳にチラチラと見える星の光が、やけに切なく見えた。

「こちらにおいで」

 穏やかな、深みのある声で呼ばれて、「ほら」とピルピルさんに手をつながれて、ルーファスネイトのそばに行く。
 なにかと思ったら、ノウマン…?
 縛られていたはずの腕が自由になっていたけど、もう俺を捕まえようとはしなかった。
 ただ俺を見てぎこちなく籠手を外し、引きつれた傷の残る手を組んで、まるで自分自身を洗うかのように涙を流しながら、なくなった足に苦労して跪く。

「今さら、己の罪を悔いることはしない」
「うん…」
「私が罪を悔いたら、贖罪などしたら…私に殺された者は、誰も浮かばれまい」

 それは、俺にはわからない。
 でもマリーベルを襲うって言われたときは、確かに憎しみに駆られて、この人を八つ裂きにしたかった。
 今でもその気持ちは胸に残っていて、今はただ苦い。

「だが、こんな気持ちは初めてだ」
「………」
「私はずっと、長い間、暗い道を…憎しみに駆られたまま走り続けて……夜の中にいたのだな」

 この人の人生にどんなことがあって、どうして悪事に手を染めることになったのかはわからないし、わかろうとも思わない。
 でも、今までみたいに作ったものじゃない、本当に穏やかで落ち着いた声音が、俺の心にさざめきをもたらした。
 目を閉じたノウマンの頬をするりと最後の涙が滑り落ちて、次に開いたときには、深い森のすき間から、まるで女神の慈悲のように二つの月が彼を照らしていた。

「夜明けが、見たかった。今はそれだけが未練だ」

 あなたが明日を奪った人たちだって、その夜明けを見たかったはずだ。
 わざわざ言わなくても、伝わっているような気がする。
 その顔は長い旅を終えた老人のような穏やかさで、つかの間俺は、この人から受けた仕打ちを忘れてしまった。

「ノウマン・クレーベ。おまえは犯してはならぬ罪を数多犯した。冒険者ギルド、ナーオット支部の制裁依頼を受け、月光旅団、ルーファスネイトが断罪者としておまえを裁く」

 ルーファスネイトがよく通る声で裁きを告げ、銀の光が閃く。
 その瞬間俺の目をなにかが塞いで、ぐいっとこの場から動かされ、どさって音が聞こえた。
 あれ、なんで真っ暗!?

「ヴィントは甘いなー」
「甘くない。子どもが見るものじゃないよ。ほら、ベルちゃんも」

 ヴィントが大きな片手で俺の目を塞いだらしい。
 黒い革手袋の感触が離れたら、目の前に同じ扱いをされたマリーベルがいた。
 背が高いからそこまでマッチョだと思わなかったけど、俺とマリーベルをまとめて腕の中に収められるあたり、ヴィントはかなり体格がよくてうらやましいよ。

「同じ冒険者なのに、子ども扱いしないで欲しいわ」
「わかる」

 二人で頷きあいながらヴィントの腕を抜け出して、でも死体を見るのはやっぱり抵抗があるから恐る恐るルーファスネイトの方を見る。
 ルーファスネイトは慣れた様子で、優雅な所作で血振りした剣を鞘に納めていた。
 これで終わった…のかな?
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